カルタゴの興亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 22:24 UTC 版)
詳細は「カルタゴ」を参照 先史時代以降、内陸部にはベルベル人が居住するようになっていたが、沿岸部には地中海交易で活躍していたフェニキア人が、交易拠点としてこの地に移住し、紀元前814年頃にカルタゴ市(ティルスの植民市)が建設された。カルタゴ帝国は商業を拡大する中で地中海やアフリカ沿岸に探検や入植市建設を行い北アフリカやシチリア島、サルデーニャ島、コルシカ島、バレアレス諸島、イベリア半島東部に植民市を築き、勢力下に置いた。「アフリカ」は古代においては現在のチュニジアに当たる地域のみを指す言葉だったが、後にアフリカ大陸全体を指す言葉となった。 紀元前6世紀からシチリア島を巡って在地のギリシャ人植民市と対立し、三次に渡るシケリア戦争が繰り広げられた。紀元前264年からイタリア半島で勢力を伸ばしたローマ共和国との三次に渡るポエニ戦争を繰り広げた。第一次ポエニ戦争では敗戦によってコルシカとサルデーニャを失った。第二次ポエニ戦争ではハンニバル・バルカに率いられたカルタゴ軍がアルプス山脈を越えてイタリア半島に侵入し、ローマを存亡の危機に脅かしたが、ローマが態勢を立て直すとスキピオ・アフリカヌスの率いるローマ軍がアフリカに上陸し、ザマの戦いでハンニバルを破ってカルタゴは敗北した。敗北したカルタゴはアフリカ以外の全ての領土を喪失し、多額の賠償金を課せられたが、カルタゴは驚異的な速度で復興し、賠償金を完済した。カルタゴの復活を恐れたローマは第三次ポエニ戦争でカルタゴを征服し、紀元前146年にカルタゴは滅亡した。
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