キングウィリアム島
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キングウィリアム島(King William Island)は、カナダのヌナブト準州内、キティクメオト地域に属する島。面積は13,111km2。人口は1,349人(2021年)。
東にはジェイムズロス海峡とレイ海峡を挟んでブーシア半島があり、西にはヴィクトリア海峡の向こうにヴィクトリア島がある。南には幅3km程度のシンプソン海峡を挟んでアデレード半島がある。南西にはクイーン・モード湾がある。
1830年、スコットランド人の北極探検家、ジョン・ロスは当時のイギリス国王ウィリアム4世の名前をこの島に付けた。
1847年6月にイギリスの北極探検家ジョン・フランクリンがキングウィリアム島の付近で死亡した。彼が率いた探検隊(フランクリン遠征隊)は1845年5月に北西航路探検航海に2隻のイギリス海軍の艦船で出発し、同年7月にバフィン湾で目撃されたのを最後に行方不明になっていた。1859年になって捜索隊がキングウィリアム島でフランクリン隊が残した文書を発見し、フランクリン隊の船がキングウィリアム島で二冬の間氷に閉じ込められフランクリンらが死亡したこと、残りの隊員は船を捨てたがキングウィリアム島からカナダ本土への行軍中に全滅したことが確認された。一行が用いた2隻の船は、2014年および2016年に島の沖合の海底から発見されている[1][2]。
1903年にノルウェーの極地探検家ロアール・アムンセン(後に初めて南極点に到達)は、ヨア号(Gjoa)で北西航路探検航海を行っていたが海氷で先に進めなくなり、島の南東海岸に22ヶ月の間滞在してイヌイットの極北での生きる術を学んだ。この場所には現在は島唯一の集落であるGjoa Haven(グジョア・ヘイヴン)がある。
出典
- ^ “19世紀の北極探検船を発見 カナダ、170年ぶり”. 産経新聞社. (2014年9月10日) 2014年9月10日閲覧。
- ^ “19世紀に消えた北極探検船テラー号ついに発見”. 日本経済新聞社. (2016年9月16日) 2016年9月16日閲覧。
キングウィリアム島(1994年–1995年)
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「フランクリン遠征」の記事における「キングウィリアム島(1994年–1995年)」の解説
1994年、ウッドマンはリチャード・コリンソン入り江からビクトリーポイントまでの陸地を調査するチームを組織し率いて行った。これは当時のイヌイット猟師スプンガーの証言で「地下貯蔵所」の存在が伝えられていたからだった。10人のチームが10日間を費やし、王立カナダ地理学会が後援し、CBC(カナダ放送協会)の「フォーカス・ノース」が撮影した。地下貯蔵所の跡はみつからなかった。 1995年、ウッドマン、ジョージ・ホブソン、およびアメリカの冒険家スティーブン・トラフトンが合同で遠征チームを作り、各隊が別々の調査を計画していた。トラフトンの隊はクラレンス島に行って、イヌイットの「白人のケアン」の話を調査したが、何も見つからなかった。ホブソン博士の隊には考古学者のマーガレット・バーチュリも同行し、ケープ・フェリックスの南数マイルで見つかった「サマーキャンプ」を調査し、フランクリン隊の小さな遺物が幾らか見つかった。ウッドマンは2人の仲間を連れて、ウォールベイから南にビクトリーポイントに進みこの海岸沿いで宿営地になった可能性のある場所を全て探した。このときケープ・マリアルイザ近くの未発見だった宿営地で、錆びた缶を僅かに発見した。
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