ギリシャ・ローマ
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「キリスト教における富」の記事における「ギリシャ・ローマ」の解説
プラトンは私有の富に対して嫌悪感を持っていた。プラトンの考えでは、魂が肉体の上にあり、金銭はその両方の下にある。この見方はキリスト教における道徳的価値観(キリスト教共産主義も参照。)と合致する部分があるとされる。。しかし後世のギリシャの哲学者たちはプラトンの私有財産を拒絶する考え、(彼の民主主義に絶望し共産国家を作り上げようとした思想)極端な立場を採用しなかったとされる。アリストテレスはギリシャの思想家として代表的な人物で最終的に後の思想家に大きく影響を与えた。アリストテレスはプラトンの考え方を否定し、彼の著作「政治学」において、本当に必要な要求のための取財(自然的取材)と、財それ自身のための取財(反自然的取財術)を別物とみなした。古代ギリシャでは政治参加が美徳であり、労働は時間を浪費する行為とみなされていたともされている。。 ローマの哲学者たちはこのギリシャの考え方を採用した。例としてキケロとセネカがあがる。キケロは職人などを低俗なものとして非難した。またキケロは、農業は最も素晴らしく実りある生活で、そして自由人の中で最も価値がある、と評価したとされる。。ギリシャ・ローマでは寛大さ、すなわち与えることも賞賛されてきた。キケロは「富の最大の利点は寛大でいられることである。」と述べているが、「寛大さによって貧困になることはあってはならない」とも言う。
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ギリシャ・ローマ
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古代ギリシャのポリス・アテナイでは、早い時期に王政が打倒され、貴族による支配が続いていたが、重装歩兵として兵役義務を果たす自由市民たちの発言力の高まりや、交易・貨幣経済によって生じた市民間の貧富格差に対する不満などを背景として、紀元前594年の「ソロンの改革」を皮切りに、「クレイステネスの改革」における「デモス」(区)、「オストラシズム」(陶片追放)、「五百人評議会」の確立などを経ながら、徐々に貴族政治から、民主政治へと移行していくことになった。紀元前5世紀になると、ペルシア戦争における一大決戦であった紀元前480年のサラミスの海戦で、三段櫂船の漕手として活躍した下層市民の発言力も高まり、紀元前462年にはエピアルテス(英語版)やペリクレス等によって、アレオパゴス会議(元老院・貴族院)の権限の多くが、「民会」や「民衆裁判所」に委譲されるなど、アテナイの民主政は極致に達した。 古代ローマにおいても、紀元前509年の王政打倒による共和政への移行後も、貴族(パトリキ)が仕切る元老院による支配が続いていたが、重装歩兵を担う平民(プレブス)の発言力の高まりを受け、 紀元前494年 - 平民(プレブス)の権利保護のための「護民官」の設置 紀元前444年、紀元前444年-紀元前394年、紀元前391年-紀元前367年 - 平民(プレブス)が就任可能な高位である「トリブヌス・ミリトゥム・コンスラリ・ポテスタテ」を、執政官の代替として設置 紀元前367年 - リキニウス・セクスティウス法により、平民(プレブス)枠を設けた上で、「執政官」を復活 紀元前287年 - ホルテンシウス法により、身分平等な「トリブス民会」を最高立法機関として認定 といった具合に、民主化が進展して行くことになった。 また後には、領土の拡大に伴い、属領の外国人の往来、彼らとの交流・混淆が増え、万民法も誕生・発達した。
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