グリーンハウス (映画館)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/07 22:47 UTC 版)
種類 | 事業場 |
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本店所在地 | 日本 山形県酒田市中町2丁目5番33号 |
設立 | 1949年5月17日 |
業種 | サービス業 |
事業内容 | 映画の興行 |
関係する人物 | 佐藤久一(初代館主) |
特記事項:1976年10月29日焼失。 |
グリーンハウス(Green House)は、山形県酒田市中町二丁目にあった映画館。大沼酒田中町店[注 1]に隣接した場所にあったとされている[1]。
1949年5月17日に開館、洋画専門館として約27年半にわたって酒田地区における文化の中心的な存在であったが、1976年10月29日の酒田大火の火元となり、そのまま閉館する。
2018年には、グリーンハウスについての証言などを取材したドキュメンタリー映画『世界一と言われた映画館』(監督:佐藤広一、ナレーション:大杉漣)が公開された[2]。
略歴・概要
初代館主の佐藤久一は、酒田市に本社を置く酒造会社、東北銘醸株式会社の創業者・佐藤久吉の長男として1930年(昭和5年)に生まれた。この時、祖父となった佐藤三五郎はこれを記念し、清酒「初孫」を発売。現在も同社の看板商品として親しまれている[3]。
1948年(昭和23年)5月29日にダンスホールがオープン。これを久吉が1949年(昭和24年)5月17日に、500席の映画館「グリーンハウス」に改修。1950年(昭和25年)に久一は大学を中退し、同館の館主となる[3]。当時の酒田市内には、酒田港座、酒田劇場、中央座が太平洋戦争前から存在しており、1955年(昭和30年)7月23日には洋画と新東宝系の作品を扱うシバタ映画劇場が開業。また、日活封切館だった日活酒田劇場も存在していた[4]。
1960年(昭和35年)6月11日には、アラン・ドロン主演の映画『太陽がいっぱい』が東京の日比谷スカラ座(現:TOHOシネマズスカラ座)と同日封切し、話題となる[3]。大スクリーンのほかに、1962年には小劇場「シネサロン」や少人数の貸切用「家族室」を設置するなど、先進的な取り組みを行った映画館として知られている。高級ホテルのようなロビー、バーテンダーがいる喫茶スペース、ビロード張りの客席と内装は豪華で、映画評論家淀川長治も雑誌『週刊朝日』の1963年刊行の号で「おそらく世界一の映画館」と絶賛した[5]。グリーンハウスの軌跡を追った前述の映画タイトルは、このフレーズに由来する。また、二階席には飲食をしながらスクリーンを観ることができる和風の個室と洋風の個室があり、さらには喫煙室もあった[6]。
1964年(昭和39年)、久一はグリーンハウスを退職し、1967年(昭和42年)にレストランのオーナーに転職。久一の退社後も同館は洋画ロードショー館として営業を続けた。1975年(昭和50年)にはスティーヴン・スピルバーグ監督の『ジョーズ』が大ヒットした[3]。
ところが1976年(昭和51年)10月29日、同館のボイラー室から出火[注 2]。死者1名[注 3]、被災者3300名を出す惨事の影響もあってか、同館は再開することなく廃業となった[1]。
脚注
注釈
出典
- ^ a b “【戦後70年 東北の記憶】酒田大火(上)圧倒された消防力、教訓に”. 『産経新聞』 (産業経済新聞社). (2015年7月16日) 2017年5月21日閲覧。
- ^ 「世界一の映画館」上映 山形の「グリーン・ハウス」『毎日新聞』夕刊2018年12月28日(社会面)2019年1月8日閲覧。
- ^ a b c d “佐藤久一さんのこと(前編)”. 庄内系イタリア人のあるもん探しの旅 (2008年3月16日). 2013年9月3日閲覧。
- ^ “昭和32年の山形県の映画館”. 中原行夫の部屋(原資料『キネマ旬報』). 2013年9月3日閲覧。
- ^ 語ろう グリーンハウス「世界一と言われた映画館」ナレーションに故大杉漣『朝日新聞』夕刊2018年12月28日(7面/映画大好き!)2019年1月8日閲覧。
- ^ 『もぎりよ今夜もありがとう』幻冬舎、2014年8月5日、107頁。ISBN 978-4-344-42230-8。
関連書籍
- 岡田芳郎『世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか』講談社 ISBN 978-4062143608
外部リンク
- “【荒井幸博のシネマつれづれ】グリーンハウス、佐藤久一さん…”. やまがたコミュニティ新聞 (山形コミュニティ新聞社). (2008年3月28日) 2017年5月21日閲覧。
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