コンヴェンツアル聖フランシスコ修道会入会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 14:33 UTC 版)
「マキシミリアノ・コルベ」の記事における「コンヴェンツアル聖フランシスコ修道会入会」の解説
両親は兄のフランシスコを神学校へ進学させるため、ライムンドは家業を継ぐこととなり進学が出来なくなった。ところが助産婦をしていた母の使いで薬局に行った際、薬品のラテン語名をすらすらと言えるライムンドの賢さに薬剤師のコフフスキーは驚き、その後は個人的に勉強を教え、兄と共に中等教育が受けられるよう援助した。 1907年に、ライムンドは兄のフランシスコと共にコンベンツァル聖フランシスコ修道会への入会を決め、ロシアとオーストリア・ハンガリー帝国の国境を越えてルヴォフ(現在はウクライナ領のリヴィヴ)にあるコンベンツァル聖フランシスコ修道会の小神学校に入学した。 彼は数学の才能に恵まれ、数学の授業を担当した教師が「こんな才能をもっているのに司祭になるのは惜しい」と嘆く程であった。この頃に彼はロケットで月に行けると考え、ロケットの図面を描いたという。 1910年、彼は修練院に入ることを許され、翌年の1911年に初誓願をたて、マキシミリアンの名前を与えられた。後の1914年にローマで聖母マリアの崇敬を示すために、さらにマリアの名前を取って、マキシミリアノ・マリアとした。1912年、彼はクラクフに送られ、そしてローマへの留学生に選ばれたが、最初は長上に健康がすぐれないなどの理由で辞退したが、長上の決定に従わなかったことで悩み、結局はローマ行きを決めている。
※この「コンヴェンツアル聖フランシスコ修道会入会」の解説は、「マキシミリアノ・コルベ」の解説の一部です。
「コンヴェンツアル聖フランシスコ修道会入会」を含む「マキシミリアノ・コルベ」の記事については、「マキシミリアノ・コルベ」の概要を参照ください。
- コンヴェンツアル聖フランシスコ修道会入会のページへのリンク