ゴットハルト・ハンドリック
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/15 03:08 UTC 版)
| |||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
選手情報 | |||||||||
フルネーム | Karl Hermann Gotthard Handrick | ||||||||
国籍 | ナチス・ドイツ | ||||||||
競技 | 近代五種競技 | ||||||||
生年月日 | 1908年10月25日 | ||||||||
出身地 | ドイツ帝国 ザクセン王国 ツィッタウ | ||||||||
没年月日 | 1978年5月30日(69歳没) | ||||||||
死没地 | 西ドイツ アーレンスブルク | ||||||||
オリンピック | 1936年ベルリン | ||||||||
| |||||||||
編集 |
ゴットハルト・ハンドリック Gotthard Handrick | |
---|---|
所属組織 | ドイツ空軍 |
軍歴 | 1929年 - 1945年 |
最終階級 | 大佐 |
カール・ヘルマン・ゴットハルト・ハンドリック(Karl Hermann Gotthard Handrick、1908年10月25日 - 1978年5月30日)は、ドイツの近代五種競技選手、軍人。スペイン内戦で5機、第二次世界大戦で10機を撃墜したドイツ空軍のエース・パイロットである。
経歴
1908年10月25日、ザクセン王国のツィッタウで生まれる。1929年、アビトゥーア合格後、ヴァイマル共和国軍に入隊。高い運動能力を有していたハンドリックはベルリン近郊のヴュンスドルフのスポーツ学校に入学するように命じられた。1936年8月、ベルリンオリンピックに出場し、近代五種競技で金メダルを獲得した[1][2]。これ以降、レナ・シェーネボルンが2008年の北京オリンピックで金メダルを獲得するまで、ドイツ人選手は近代五種競技でメダルを獲得できなかった。
スペイン内戦
1937年7月18日、コンドル軍団の第88戦闘飛行隊の飛行隊長に任命された[3]。ハンドリックはスペイン内戦中、プロペラにオリンピックマークが描かれたメッサーシュミット Bf109 Dに搭乗した。ハンドリックは5機(1937年9月9日のI-15、1938年5月18日のI-16を含む)を撃墜してエース・パイロットとなり、この戦功から剣付スペイン十字章金章を授与された。
第二次世界大戦
1938年に本国に帰還し、1939年5月1日に第26戦闘航空団第I飛行隊(I./JG 26)の飛行隊長、1940年6月24日にはJG 26の戦闘航空団司令となった[3][4]。8月26日、メルゼブルク予備戦闘飛行隊の飛行隊長となり、アドルフ・ガーランド中佐が後任となった。10月7日、ブカレストのピペラに移転した第52戦闘航空団第III飛行隊(III./JG 52)の飛行隊長となり、クレタ島周辺で戦闘を支援した。10月14日、III./JG 52は第28戦闘航空団(JG 28)に改編され、ハンドリックは同航空団の戦闘航空団司令となった。1941年1月4日、JG 28はIII./JG 52に再編された。6月23日、ベルンハルト・ヴォルデンガ少佐に代わり、第77戦闘航空団(JG 77)の戦闘航空団司令となった。ハンドリックは東部戦線で、9月29日にMiG-3を、10月22日にPe-2を撃墜した。1942年5月、新たに設立された第5戦闘航空団(JG 5)の戦闘航空団司令に任命され、ゴードン・ゴロプ少佐が後任となった。1943年6月15日、オストマルク戦闘航空兵指導官となり、10月17日にドイツ十字章金章を受章した[5]。1944年6月15日、オストマルク戦闘航空兵指導官は第8戦闘機師団に再編され、ハンドリックは戦争が終結するまで同師団の師団長を務めた。1945年初頭のボーデンプラッテ作戦には作戦参謀の一人として参加した。
戦後
ヴィッテンで実業家として働いた後、ハンブルクでダイムラー・ベンツの代理人として働いた[6]。退職後、アーレンスブルクで暮らし、1978年5月30日にその地で亡くなった。
受勲
参照
脚注
- ^ “Olympics Statistics: Gotthard Handrick”. databaseolympics.com. 2012年11月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年7月1日閲覧。
- ^ “Gotthard Handrick Olympic Results”. sports-reference.com. 2012年11月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年7月1日閲覧。
- ^ a b Caldwell 1991. p. 4.
- ^ Caldwell 1991. p. 8.
- ^ a b Patzwall & Scherzer 2001, p. 163.
- ^ Mandell 1987, online Preface xiii
参考文献
- Caldwell, Donald L. (1991). JG 26 Top Guns of the Luftwaffe. Ivy Books. ISBN 0-8041-1050-6.
- Mandell, Richard D. (1987). The Nazi Olympics. University of Illinois Press. ISBN 0-252-01325-5.
- Patzwall, Klaus D.; Scherzer, Veit (2001) (German). Das Deutsche Kreuz 1941 – 1945 Geschichte und Inhaber Band II [The German Cross 1941 – 1945 History and Recipients Volume 2]. Norderstedt, Germany: Verlag Klaus D. Patzwall. ISBN 978-3-931533-45-8
- Toliver, Raymond F. and Constable, Trevor J. (1998). Das waren die Deutschen Jagdflieger-Asse 1939-1945 (in German). Motorbuch Verlag. ISBN 3-87943-193-0.
外部リンク
- ゴットハルト・ハンドリック - Olympedia
- ゴットハルト・ハンドリック - Sports-Reference.com (Olympics) のアーカイブ
- ゴットハルト・ハンドリック - Munzinger Sports Archives
軍職 | ||
---|---|---|
先代 フーベルタス・メアハルト・フォン・ベルネック大尉 | 第88戦闘飛行隊の飛行隊長 1937年7月18日 - 1938年9月10日 | 次代 ヴァルター・グラープマン大尉 |
先代 無し | 第26戦闘航空団「シュラゲーター」第I飛行隊の飛行隊長 1939年5月1日 - 1940年6月24日 | 次代 クルト・フィッシャー大尉 |
先代 ハンス= ヒューゴ・ヴィット少佐 | 第26戦闘航空団「シュラゲーター」戦闘航空団司令 1940年6月24日 - 1940年8月21日 | 次代 アドルフ・ガーランド中佐 |
先代 リヒャルト・クラウト中佐 | メルゼブルク予備戦闘飛行隊の飛行隊長 1940年8月26日 – 1940年10月6日 | 次代 アルベルト・ブルーメンザーント少佐 |
先代 アレクサンダー・フォン・ヴィンテルフェルト少佐 | 第52戦闘航空団第III飛行隊の飛行隊長 1940年10月7日 - 1941年6月22日 | 次代 アルベルト・ブルーメンザーント少佐 |
先代 ベルンハルト・ヴォルデンガ少佐 | 第77戦闘航空団「ヘルツ・アス」戦闘航空団司令 1941年6月23日 – 1942年5月 | 次代 ゴードン・ゴロプ少佐 |
先代 無し | 第5戦闘航空団「アイスメール」戦闘航空団司令 1942年5月 – 1943年6月 | 次代 ギュンター・ショルツ中佐 |
先代 無し | オストマルク戦闘航空兵指導官 1943年6月15日 – 1944年6月15日 | 次代 第8戦闘機師団 |
先代 オストマルク戦闘航空兵指導官 | 第8戦闘機師団師団長 1944年6月15日 – 1945年5月8日 | 次代 無し |
- ゴットハルト・ハンドリックのページへのリンク