サックビル通りとブレイクニー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/24 04:48 UTC 版)
「ネルソンの柱」の記事における「サックビル通りとブレイクニー」の解説
ダブリンのリフィー川北側の再開発は、18世紀初頭に始まったが、これは主に不動産投機家ルーク・ガーディナーの事業によるものだった。1740年代には、ドロヘダ通りと呼ばれる細い道を取り壊し、大規模で堂々とした町家が立ち並ぶ広い大通りに変更した。1731年から1737年、1751年から1755年までアイルランド総督を務めたドーセット公爵ライオネル・サックビルに敬意を表し、サックビル通りと名づけた。1755年にガーディナーが死去した後も、ダブリンの発展は続き、多くの公共建築物や壮大な広場があり、1年のうち6ヶ月間はアイルランド議会が開かれたことで、ダブリンの地位はさらに高まった。1800年の合同法は、アイルランド島とグレートブリテン島をウェストミンスターの単一政治の下に統合したもので、アイルランド議会は廃止され、ダブリンは衰退の時期を迎えた。歴史家のトリストラム・ハントは「首都のダイナミズムは消滅し、不在者が戻り、大規模な家はパトロンを失った」と述べた。 サックビル通りの最初の記念碑は、1759年にネルソン柱が建つ場所に建てられた。この記念碑に描かれているのは、リムリック出身の陸軍将校で、60年以上のキャリアを持ち、1756年のセント・フィリップ砦包囲戦の後にフランスに降伏したウィリアム・ブレイクニー1世男爵である。1759年3月17日の聖パトリックの日には、若き日のジョン・ファン・ノストが彫刻した真鍮製の像が除幕された。ドナル・ファロンは、柱の歴史の中で、ブレイクニー像はほとんどの場合、当初から破壊行為の対象となっていたと述べている。この像がどうなったかは定かではない。ファロンの記録によると、大砲を作るために溶かされたかもしれないとあるが、1805年までには確実に撤去されていた。
※この「サックビル通りとブレイクニー」の解説は、「ネルソンの柱」の解説の一部です。
「サックビル通りとブレイクニー」を含む「ネルソンの柱」の記事については、「ネルソンの柱」の概要を参照ください。
- サックビル通りとブレイクニーのページへのリンク