サムター要塞の北軍による包囲とは? わかりやすく解説

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サムター要塞の北軍による包囲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/24 02:50 UTC 版)

サムター要塞」の記事における「サムター要塞の北軍による包囲」の解説

詳細は「第2次サムター要塞の戦い」を参照 チャールストン港を取り戻す北軍努力は、1863年4月7日、サミュエル・フランシス・デュポン海軍少将合衆国による海上封鎖司令官)が港の防衛に対して装甲フリゲート《ニューアイアンサイズ》号、装甲艦《キーオカック》号、モニター艦ウィーホーケン》号、《パセイーク》号、《モントーク》号、《パタプスコ》号、《ナンタケット》号、《キャッツキル》号及び《ナハント》号を率いて始められた。しかし攻撃不成功終わった新造装甲艦による攻撃効果がなく、154発の砲弾発射する間に、南軍から 2209発の攻撃受けた (Wise 1994, p. 30)。翌日には、攻撃受けた損傷により《キーオカック》号がモリスアイランド南方1400ヤード1300メートル)に沈没した。その翌月北軍注意を惹かないよう南軍夜間作業行って、《キーオカック》号から11インチ・ダールグレン砲2門のをひそかに回収した (Ripley 1984, pp. 93–6)。そのうち1門はサムター要塞置かれた。 南軍は、徐々にサムター要塞強化していた。南軍工兵隊監督下で500名の兵隊必死に作業行い砲郭を砂で満たし城壁土嚢防護し新し砲塁traverse)や土留めblindage)、対砲撃壕(bombproofs)を構築したサムター要塞の砲の一部撤去されたが、それでも40門が設置されていた。サムター要塞重砲要塞最上層の露天砲台設置されていたため、広い射角があり、接近する艦船攻撃することができた。しかし露天砲台は、要塞下部2層砲郭よりも敵の砲撃こうむり易かった。 ギルモア勲章として知られる特別な勲章は、クインシー・アダムス・ギルモア少将指揮下で、サムター要塞任務果たした全ての北軍兵士に後に授与された。 1863年8月17日時点サムター要塞軍備配置兵器左側露天砲台 10インチ(250mm)コロンビヤード砲2門 左正面露天砲台 10インチコロンビヤード砲2門、8インチ(200mm)コロンビヤード砲2門、42ポンド砲4門 左正面第1階層砲郭 8インチ平射砲2門 右正面露天砲台 10インチコロンビヤード砲2門、鹵獲砲と42ポンド砲5門 右正面第1階層 32ポンド砲2門 右側露天砲台 11インチダールグレン砲1門、10インチコロンビヤード砲4門、8インチコロンビヤード砲1門、鹵獲42ポンド砲1門、8インチブルック砲1門 ゴルジュ砲台 鹵獲砲及び43ポンド砲5門24ポンド砲1門 突出第2階層砲郭 鹵獲砲及び42ポンド砲3門 パレード 沿岸迫撃砲2門 圧倒的な砲撃の後、クインシー・A・ギルモア将軍と、北軍による海上封鎖指揮するジョン・A・ダールグレン提督は、1863年9月8日から9日夜間サムター要塞への小舟艇による攻撃開始する決心していた。しかし陸軍海軍協力体制貧弱なもので、ダールグレン提督陸軍士官指揮下に彼の水兵海兵隊員を置くことを拒否し、夜の間に2つ攻撃隊を送り込んでいた。陸軍船団は、干潮のためモリス島沖で手間取っていた。彼らが進むことが出来ようになった頃には、海軍攻撃が既に撃退されており、陸軍船団海岸戻った海軍攻撃に、25隻の船で400名の水兵海兵隊員関与した活動終始大失敗言わざる得ず不十分な偵察計画連絡体制作戦特徴を表す全てであったトーマス・H・スティーブンズ中佐モニター艦《パタプスコ》号の指揮をとり、攻撃臨んだスティーブンズ中佐が「攻撃組織について何も知らない」し、「この根拠などについて抗議をした」とき、ダールグレンはこう応えた。「要塞には伍長護衛が約6-10名しかおらず、行って占領するしかない (Stevens 1902, p. 633)」。このダールグレン南軍勢力対す過小評価は、なぜ彼が海軍勝利独占願って共同作戦反対したかの説明になるかもしれない上陸できた船は半分以下であった上陸できた船のほとんどは、進入可能な破孔のあるゴルジュではなく要塞右翼または右側ゴルジュの隅に上陸した上陸した北軍水兵海兵隊員は壁を登ることが出来なかった。南軍兵は上陸部隊銃撃浴びせ手榴弾と石を投げつけた。上陸しなかった船の水兵やみくもにマスケット銃リボルバー乱射したが、南軍要塞守備隊よりもむしろ上陸部隊危険にさらした上陸部隊は、要塞壁に開いた着弾孔に退避した守備隊打ち上げる信号弾に応じてジョンソン要塞南軍砲艦《チコラ》は北軍の船と上陸部隊発砲した撤退可能な船は撤退し上陸部隊降伏した北軍犠牲者は、死亡8名、負傷者19名と捕虜105名(15名の負傷者を含む)。一方南軍死傷者はなかった。 船舶による攻撃失敗終わった後、砲撃再開され強度は様々であった継続され戦争の終結までの間に、サムター要塞さらなる損害与えた要塞守備隊は、犠牲者出し続けた南軍兵は、大砲と他の資材廃墟から回収し続けて、モリスアイランドの北軍砲台砲手たちを執拗に攻撃し続けた南軍兵は10インチコロンビヤード砲4門を増やした。ある8インチコロンビヤード砲は鹵獲したものである。そして左側最下層42ポンド砲2門も鹵獲品である。南軍サムター要塞決し放棄しなかったが、サウスカロライナ州からのウィリアム・T・シャーマン将軍進撃により、1865年2月17日南軍チャールストンからの撤退サムター要塞放棄をついに強いられた1865年2月22日合衆国政府星条旗掲揚儀典行い正式にサムター要塞手中に収めた。 サムター要塞内部様子南部連合カメラマンによって1864年撮影されるサムター要塞外観1865年サムター要塞砂州からの眺め1865年サムター要塞眺め1865年)。

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