サムター要塞の北軍による包囲
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「サムター要塞」の記事における「サムター要塞の北軍による包囲」の解説
詳細は「第2次サムター要塞の戦い」を参照 チャールストン港を取り戻す北軍の努力は、1863年4月7日、サミュエル・フランシス・デュポン海軍少将(合衆国による海上封鎖の司令官)が港の防衛に対して、装甲フリゲート《ニューアイアンサイズ》号、装甲艦《キーオカック》号、モニター艦《ウィーホーケン》号、《パセイーク》号、《モントーク》号、《パタプスコ》号、《ナンタケット》号、《キャッツキル》号及び《ナハント》号を率いて始められた。しかし攻撃は不成功に終わった。新造の装甲艦による攻撃は効果がなく、154発の砲弾を発射する間に、南軍から 2209発の攻撃を受けた (Wise 1994, p. 30)。翌日には、攻撃で受けた損傷により《キーオカック》号がモリスアイランド南方沖1400ヤード(1300メートル)に沈没した。その翌月、北軍の注意を惹かないよう、南軍は夜間に作業を行って、《キーオカック》号から11インチ・ダールグレン砲2門のをひそかに回収した (Ripley 1984, pp. 93–6)。そのうち1門はサムター要塞に置かれた。 南軍は、徐々にサムター要塞を強化していた。南軍工兵隊の監督下で500名の兵隊が必死に作業を行い、砲郭を砂で満たし、城壁を土嚢で防護し、新しい砲塁 (traverse)や土留め(blindage)、対砲撃壕(bombproofs)を構築した。サムター要塞の砲の一部は撤去されたが、それでも40門が設置されていた。サムター要塞の重砲は要塞最上層の露天砲台に設置されていたため、広い射角があり、接近する艦船を攻撃することができた。しかし露天砲台は、要塞下部2層の砲郭よりも敵の砲撃をこうむり易かった。 ギルモア勲章として知られる特別な勲章は、クインシー・アダムス・ギルモア少将の指揮下で、サムター要塞で任務を果たした全ての北軍兵士に後に授与された。 1863年8月17日時点のサムター要塞軍備配置兵器左側面露天砲台 10インチ(250mm)コロンビヤード砲2門 左正面露天砲台 10インチコロンビヤード砲2門、8インチ(200mm)コロンビヤード砲2門、42ポンド砲4門 左正面、第1階層砲郭 8インチ平射砲2門 右正面露天砲台 10インチコロンビヤード砲2門、鹵獲砲と42ポンド砲5門 右正面、第1階層 32ポンド砲2門 右側面露天砲台 11インチダールグレン砲1門、10インチコロンビヤード砲4門、8インチコロンビヤード砲1門、鹵獲42ポンド砲1門、8インチブルック砲1門 ゴルジュ砲台 鹵獲砲及び43ポンド砲5門24ポンド砲1門 突出部第2階層砲郭 鹵獲砲及び42ポンド砲3門 パレード 沿岸迫撃砲2門 圧倒的な砲撃の後、クインシー・A・ギルモア将軍と、北軍による海上封鎖を指揮するジョン・A・ダールグレン提督は、1863年9月8日から9日の夜間にサムター要塞への小舟艇による攻撃を開始すると決心していた。しかし陸軍と海軍の協力体制は貧弱なもので、ダールグレン提督は陸軍士官の指揮下に彼の水兵と海兵隊員を置くことを拒否し、夜の間に2つの攻撃隊を送り込んでいた。陸軍の船団は、干潮のためモリス島沖で手間取っていた。彼らが進むことが出来るようになった頃には、海軍の攻撃が既に撃退されており、陸軍の船団は海岸に戻った。 海軍の攻撃に、25隻の船で400名の水兵と海兵隊員が関与した。活動は終始大失敗と言わざるを得ず、不十分な偵察、計画と連絡体制が作戦の特徴を表す全てであった。トーマス・H・スティーブンズ中佐はモニター艦《パタプスコ》号の指揮をとり、攻撃に臨んだ。スティーブンズ中佐が「攻撃の組織について何も知らない」し、「この根拠などについて抗議をした」とき、ダールグレンはこう応えた。「要塞には伍長の護衛が約6-10名しかおらず、行って占領するしかない (Stevens 1902, p. 633)」。このダールグレンの南軍勢力に対する過小評価は、なぜ彼が海軍の勝利独占を願って共同作戦に反対したかの説明になるかもしれない。上陸できた船は半分以下であった。上陸できた船のほとんどは、進入可能な破孔のあるゴルジュではなく、要塞の右翼または右側ゴルジュの隅に上陸した。上陸した北軍水兵と海兵隊員は壁を登ることが出来なかった。南軍兵は上陸部隊に銃撃を浴びせ、手榴弾と石を投げつけた。上陸しなかった船の水兵はやみくもにマスケット銃とリボルバーを乱射したが、南軍の要塞守備隊よりもむしろ上陸部隊を危険にさらした。上陸部隊は、要塞壁に開いた着弾孔に退避した。守備隊の打ち上げる信号弾に応じて、ジョンソン要塞と南軍砲艦《チコラ》は北軍の船と上陸部隊に発砲した。撤退可能な船は撤退し、上陸部隊は降伏した。北軍の犠牲者は、死亡8名、負傷者19名と捕虜105名(15名の負傷者を含む)。一方南軍の死傷者はなかった。 船舶による攻撃が失敗に終わった後、砲撃は再開され、強度は様々であったが継続されて戦争の終結までの間に、サムター要塞にさらなる損害を与えた。要塞守備隊は、犠牲者を出し続けた。南軍兵は、大砲と他の資材を廃墟から回収し続けて、モリスアイランドの北軍砲台と砲手たちを執拗に攻撃し続けた。南軍兵は10インチのコロンビヤード砲4門を増やした。ある8インチコロンビヤード砲は鹵獲したものである。そして左側面最下層の42ポンド砲2門も鹵獲品である。南軍はサムター要塞を決して放棄しなかったが、サウスカロライナ州からのウィリアム・T・シャーマン将軍の進撃により、1865年2月17日、南軍はチャールストンからの撤退とサムター要塞の放棄をついに強いられた。1865年2月22日、合衆国政府は星条旗掲揚の儀典を行い、正式にサムター要塞を手中に収めた。 サムター要塞内部の様子。南部連合のカメラマンによって1864年に撮影される。 サムター要塞の外観(1865年) サムター要塞の砂州からの眺め(1865年) サムター要塞の眺め(1865年)。
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