サルゴン2世
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サルゴン2世(アッカド語: Šarru-kīn、英語: Sargon II、在位:前722年-前705年)は、古代メソポタミア地方の新アッシリア帝国の王である。前王シャルマネセル5世の直系ではなく、王位簒奪者の可能性が高い。旧約聖書に登場する北イスラエル王国を滅ぼしたことで有名。ウラルトゥ遠征やバビロニア遠征など、積極的に活動した。新首都「ドゥル・シャルキン」を建設したが、完成前にアナトリアで戦死した。サルゴンのアッカド語での「Šarru-kīn」であり、恐らく「真の王[1] 」または「正統なる王[2]」を意味する。
- 1 サルゴン2世とは
- 2 サルゴン2世の概要
サルゴン2世(紀元前721年~紀元前705年)
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「新アッシリア帝国」の記事における「サルゴン2世(紀元前721年~紀元前705年)」の解説
詳細は「サルゴン2世」を参照 紀元前722年、サマリアを包囲している最中にシャルマネセル5世が突然亡くなり(詳細は不明)、タルタヌ(アッシリア軍の総司令官。ユダヤの資料ではタルタンとして記されている)であったサルゴン2世が王になった。王になるとサルゴンは速やかにサマリアを占領し、27000人の人々を捕囚として連れ去った。ここで事実上、北イスラエル王国は終焉する。 翌年(紀元前721年)、サルゴン2世はエラムの王フンバン・ニカシュ1世とその同盟者であるバビロンの王マルドゥク・アプラ・イディナ2世(聖書ではメロダク・バルアダンとしている)に対して戦争を行った。マルドゥク・アプラ・イディナ2世はアッシリアの支配を逃れて独立していたが、この時の戦いではサルゴン2世は彼を取り除くことができなかった。サルゴンは反乱を抑えることはできたが、バビロンを取り戻すことはできなかったのである。バビロンの攻略に失敗すると、彼は関心をウラルトゥとアラムに向けた。紀元前717年にカルケミシュを占領し、メディア、ペルシア、マンナエを再征服すると、イラン高原へと侵入してビクニ山まで到達し、いくつかの砦を建設した。ウラルトゥを壊滅的に敗北させて首都を略奪すると、ウラルトゥの王ルサは恥を忍んで自決した。次いでサルゴンはシリア北部の新ヒッタイトの属州や、キリキア、コンマゲネも征服した。 紀元前721年の攻撃以降、アッシリアはバビロニアと講話することなく敵対し続けていたが、紀元前710年、サルゴンは11年ぶりにバビロニアを攻め、マルドゥク・アプラ・イディナを打ち負かし、彼は保護を求めてエラムへと逃れた。この勝利の結果、キプロス島のギリシア人の支配者たちはアッシリアに忠誠を誓うようになり、フリュギアのミダス王はアッシリアの国力を恐れて同盟を求めた。また、サルゴンは新たな首都ドゥル・シャルキン(サルゴンの街)をニネヴェの近くに建設し、様々な国から集まったあらゆる貢ぎ物をここへ蓄積した。
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