サンボアンガ上陸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/22 04:41 UTC 版)
「ミンダナオ島の戦い」の記事における「サンボアンガ上陸」の解説
1945年3月、アメリカ軍司令部に、フィリピン人ゲリラから、ミンダナオ島北西岸のディポログで仮設飛行場を確保しているとの報告が入った。直ちにアメリカ陸軍第24歩兵師団の第21歩兵連隊から2個増強中隊が空輸されて防衛にあたり、海兵隊の航空部隊が展開した。 3月7日、アメリカ艦隊がサンボアンガに対して艦砲射撃を開始した。3日間に渡る砲撃で、市街地は完全に焼失した。10日、航空支援も受けつつ、アメリカ陸軍第41師団所属の第162・第163歩兵連隊がサンボアンガ付近に上陸した。日本軍が水際配備を避けたため抵抗は散発的で、翌11日夜までに市街地と飛行場を含む平野部はアメリカ軍の占領下となった。 しかし、アメリカ軍が平野部背後の丘陵に入ると、独混第54旅団主力と海軍第33警備隊などの日本軍が激しい抵抗を開始した。日本軍は14日には砲弾が尽きてしまうなど物資不足の状況であったにも関わらず、2週間近くアメリカ軍の前進を停滞させた。複雑な地形の影響で戦車が使用できずアメリカ軍は苦戦したが、23日に防衛線中央を突破し、その後3日間の戦闘で日本軍に大打撃を与えた。パラワン島の攻略を終えた第186歩兵連隊も到着し、第163歩兵連隊に換わって攻撃に加わった。4月1日に日本軍は北方へと退却し、サンボアンガ周辺の戦闘が終結した。この戦闘で独混第54旅団は638人が戦死し、他の部隊も多数が死傷した。アメリカ軍の戦死者は220人だった。 アメリカ軍は工兵隊をサンボアンガに上陸させ、ただちに複数の飛行場を整備した。この飛行場が、以後のミンダナオ戦で航空支援に活躍することになった。 独混第54旅団は敗走中の5月末に有力なアメリカ軍部隊に捕捉され、旅団長の北条少将は部隊の解散を命じて自決した。独混第54旅団の生存者は、10月の投降時点で総兵力5200人中1200人であった。 なお、ミンダナオ島に付属するスールー諸島も、第41師団の一部により占領された。(詳細はスールー諸島の戦い参照)
※この「サンボアンガ上陸」の解説は、「ミンダナオ島の戦い」の解説の一部です。
「サンボアンガ上陸」を含む「ミンダナオ島の戦い」の記事については、「ミンダナオ島の戦い」の概要を参照ください。
- サンボアンガ上陸のページへのリンク