トヨタ7 のドライバーに抜擢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/20 01:17 UTC 版)
「高橋晴邦」の記事における「トヨタ7 のドライバーに抜擢」の解説
1969年(昭和44年)10月、1969年の日本グランプリメインレースに向けて、トヨタは、新型二座席レーシングカーの5リットルトヨタ・7(セブン)の開発と選手層強化を実施し、自販ワークスに入りたての当時22歳の高橋が他数名とともに抜擢される。それまでの170馬力前後の改造市販車から、一挙に500馬力以上の本格レーシングカーに乗り換えたにもかかわらず、高橋は好タイムを記録し、総勢5台のトヨタ・7で臨む決勝レース(富士スピードウェイ・右回り30度バンクを含むフルコース×120周)で鮒子田寛とコンビを組んだ。しかしレース序盤で鮒子田寛が30度バンク下でスピンし脱落、高橋の出番はなかった。なお決勝レースにおけるトヨタ勢最上位は3位の川合稔。 1年後の1970年10月、日本グランプリはニッサンvsトヨタの戦いが予想されたが、1970年に入ってすぐに排気ガス公害が社会問題となったことを受けて、同年6月、まずニッサンが、続いてトヨタが日本グランプリ欠場を表明し、これを受けて主催者JAFは1970年の日本グランプリ開催中止を決定した。トヨタは開発中だった新型7ターボ(800馬力以上)を北米 Can-Am シリーズ参戦に切り替えようとするが、その8月下旬の記者発表寸前に、鈴鹿でテスト中だった川合稔が事故死する事態となり、トヨタの7プロジェクトはこれを以って全て中止となる。トヨタは、契約ドライバーの福沢幸雄(1969年2月、ヤマハの袋井テストコースで事故死)と川合稔を立て続けに失って社会批判を浴び、1971年(昭和46年)、新たにTMSC-Rというレース活動専門の別会社を設立し、この会社を介して選手と契約を交わす形を採った。また、トヨタ社内のレーシングカー開発部門も大幅に縮小され、以後しばらくセリカ、カローラ、スターレットといった市販車をベースにチューニングを施してのレース活動が中心になる。
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