ナラム・シン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/24 15:46 UTC 版)
ナラム・シン | |
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アッカド王 | |
ルルビ族に対する勝利を記念したナラム・シンの戦勝記念碑 角をつけた冠が神格化されていることを示す | |
在位 | 紀元前2254頃 - 紀元前2218年頃 |
子女 | シャル・カリ・シャッリ |
父親 | マニシュトゥシュ |
ナラム・シン(Naram Sin、在位:紀元前2254頃 - 紀元前2218年頃)は、アッカド王朝の大王。大規模な遠征を繰り返しアッカド帝国の最大版図を築いたが、王朝が傾く原因をも作ったと後世みなされた。祖父のサルゴンと並んで、アッカド帝国史上最も有名な王であり、後代に数多くの伝説が作られた[1]。またメソポタミア史上初めて自らを神とした王でもある。
在位年の問題
紀元前2254年 - 紀元前2218年という在位年は中年代説による。ナラム・シンはアッカドの王の中では史料に恵まれた王であるが、正確な在位年数を含めて定説はない状態であり、学者によって数十年から百年もの時期のずれがある(中年代説については年代学を参照)。
来歴
マニシュトゥシュの息子として生まれた。王位に即くまでの経緯は明らかではないが、サルゴン以上に盛んに遠征を行ったことが史料から明らかになっている。祖父サルゴンが征服した領土は、ナラム・シンの即位直後にはその多くが失われていたという説もある。しかし、彼はその治世の間にエラム地方や、アナトリア半島南東部、地中海地方(エブラ)に遠征を行ってアムル人を討ち、サルゴンを上回るアッカド史上最大の領土を築き上げた。彼が行った遠征は考古学史料が比較的残っており、サルゴンの遠征に比較して実証性が高い。こうした遠征を行うために国内各地に要塞を建築し、連絡網を築いた。
しかし、大幅に拡大した領土では反乱が相次いだ。記録によれば、領土各地で反乱が発生したために1年間に9回の戦闘を行ったという。この「1年間に9回の戦闘を行った」反乱は、恐らくシュメールなど帝国の中核地帯で発生した反乱と思われる。ナラム・シンは、この反乱の鎮圧成功を高らかに謳い上げ、以後碑文などに記す自分の名前に神を意味する発音しない限定符「ディンギル」を付けるようになる。
彼の死後、息子のシャル・カリ・シャッリが王位を継いだ。
四方領域の王
ナラム・シンはサルゴン以来用いてきた「世界の王」(シュメール語:Lugal kiš ki)に替えて、四方領域の王(シュメール語:Lugal kibratim arbaim)を名乗った。これは支配地が大幅に広がったことに対応して新たに作られた称号であると考えられる。またその後には自らを他の神々に依頼されてアッカドの神となったとし、文書類の自分の名前に神を意味する限定符を付けさせた。
この王の神格化は、彼以後のメソポタミアの王たちに引き継がれることになる。
ナラム・シン伝説
祖父サルゴンと並んで彼に関する伝説がオリエントに長く残された。アガデ(アッカド)の王ナラム・シンがニップルのエンリル神殿を破壊したために、神々は怒り神罰として山の大蛇グティ人をアガデの地に送り込んだ。このためにアッカド王国は滅亡することになった、という説話が残される。他に、神託を無視したためにグティ人が送り込まれて兵士36万人が殺されたという説話もある。
総じてグティ人の侵入によるアッカド朝末期の混乱をナラム・シンと関連づけて、彼を王朝の破壊者として記述するものが多い。
脚注
- ^ “ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説”. コトバンク. 2018年2月9日閲覧。
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ナラム・シン
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「ナラム・シン」も参照 マニシュトゥシュの息子であり後継者のナラム・シン(前2254〜2218年)は広大な軍事遠征により、世界全体を意味する「四方領域の王(英語版):ナラム・シン(Lugal Naram-Sîn, Šar kibrat 'arbaim)」の称号と帝位を得た。王は人々の代表であるに過ぎないというそれまでの宗教的信念に反して、彼はシュメール文化において初めて「アッカドの神(シュメール語=DINGIR、アッカド語=ilu)」とも呼ばれた。治世の開始に際して彼もまた反乱に直面したが、すぐに鎮圧された。 ナラム・シンはアルマニ王国(英語版)とその王と同様、エブラの征服者としても記録されている。アルマニ王国の位置は議論が続いており、エブラの石版にArmi(英語版)として言及されているシリアの王国と同一視されることがある。Armiの位置もまた論争中であり、歴史家のAdelheid Ottoがバジの砦=エブラとテル・ブラクの間にあるユーフラテス川のTal Banat(英語版)だと特定する一方、Wayne Horowitz(英語版)のようにアレッポだと主張する研究者もいる。さらに、多くの学者がアルマニ王国をシリア内とした場合、Michael C. Astourは北イラクにあるハムリン山脈(英語版)の北に王国があっただろうとしている。 ナラム・シンはシリア周辺の治安を改善させるため、ハブール川の中心交差点かつジャズィーラの盆地であるテル・ブラクに王宮を建てた。 彼は主要な道路を防衛するために駐屯兵を置いてありながら反乱の起きたマガンへ遠征し、その支配者であったMandannuを自らの手で捕らえた。しかし、ルルビ人(英語版)やグティ人といった主な脅威は北のザグロス山脈から来たようである。ルルビ人との戦闘はナラム・シンの勝利碑(英語版)を彫るという結果になり、現在はルーヴル美術館に所蔵されている。ヒッタイトの記録では、ナラム・シンはアナトリアにも侵攻したようであり、ヒッタイトやフルリ人の王、ハッティ人のパンバ(英語版)、キュルテペのZipaniなどその他15の民族と交戦した。 この新たに獲得した富は、穏やかな気候条件や膨大な余剰農産物、他民族の財産押収などにより支えられていたとみられる。 経済は高度に計画されており穀物も清潔に保たれていた。穀物や油の配給は職人によって規格化された船で分配された。租税は城壁や神殿、灌漑用水路などの建築労働や余剰農産物の生産による作物により支払われた。 アッシリアやバビロニア後期の文書では、シュメール語のLUGAL(英語版) KI-EN-GI KI-URI、あるいはアッカド語でŠar māt Šumeri u Akkadi(訳:シュメールとアッカドの王)として、アッカドの名前はシュメールと共に王位の一部として登場する。この王位は南メソポタミアの知識人や宗教の中心地ニップルを支配下に置いた者により継承された。 帝国時代の間に、アッカド語は中東地域におけるリングワ・フランカとなり、文語や口語としてのシュメール語は残っていたが、行政面ではアッカド語が公式に使われていた。アッカド語圏はシリアからエラムへと拡大し、 エラム語でさえ一時的に楔形文字で書かれた。後世で発見されたアッカド語の文書の場所は、遠く離れたアマルナ時代のエジプトやアナトリア半島、ペルシア(ベヒストゥン碑文)にまで至る。
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