ナーヤカの終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 15:59 UTC 版)
ナーヤカ朝はねに相互に争い、ときには滅ぼしあったり、ときに外敵に滅ぼされるなど、その数を減らしながらも、18世紀に入っても細々と存在していた。 また、18世紀にムガル帝国が衰退していくと、南インドで独立した王国や地方政権のもとでも、そのザミーンダールとして活躍した。 だが、18世紀後半から末期にかけて、マイソール王国が南インドの派遣を握り、その王ハイダル・アリーとその息子ティプー・スルタンは、王国内のザミーンダールを廃して直接徴税をとるようにした。 これにより、かつてナーヤカだったザミーンダールは、その大半が、王国に土地を没収されることになった。 その後、1799年にマイソール王国がマイソール戦争で敗北したのち、イギリスが南インドのマドラス管区で、農民からの直接徴税、つまりライーヤトワーリー制をとることができたのもこのおかげだった。 また、英領インド軍では、ナーヤカの変化形である「ナーイク(Naik)」が、伍長として扱われた。
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