バダホス=エルヴァス会議
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「サラゴサ条約」の記事における「バダホス=エルヴァス会議」の解説
1524年、スペインとポルトガルはフンタ・デ・バダホス=エルヴァス(Junta de Badajoz-Elvas)を開催、紛争を解決しようとした。両国はそれぞれ天文学者、地図学者、航海家、数学者を3名ずつ任命し、トルデシリャス条約の子午線の逆側にある子午線の精確な位置を計算し、世界を2つの半球に分けようとした。 ポルトガル王ジョアン3世は全権大使アントニオ・デ・アゼヴェード・コウチーニョ(António de Azevedo Coutinho)、ディオゴ・ロペス・デ・セケイラ、地図学者と宇宙誌の学者ロポ・オメン(英語版)、シモン・フェルナンデス(英語版)を会議に派遣した。スペインはメルクリオ・ガティヌ伯爵(Mercurio Gâtine)、オスマ司教フアン・ガルシア・デ・ロアイサ・イ・メンドーサ(英語版)、カラトラバ騎士団団長ガルシア・デ・パディーヤ(García de Padilla)を派遣した。ポルトガルの地図学者ディオゴ・リベイロ(英語版)はスペイン代表として会議に出席した。 会議はバダホスとエルヴァスで何度か開かれたが、合意には至らなかった。というのも、当時の地理の知識は極めて限られたものであり、経度を精確に計算することが難しく、両国の代表はそれぞれ諸島を自国領とした地図で計算を行った。一例としてはカール5世の助言者であったジャン2世・カロンデレ(英語版)はフランキスクス・モナクス(英語版)が制作した地球儀を所持しており、その地球儀では諸島がスペイン領となっている。ジョアン3世とカール5世はモルッカ諸島の位置が確定するまで、両国とも諸島に遠征隊を派遣しないことに同意した。 1525年から1528年まで、ポルトガルはモルッカ諸島の周辺に遠征隊を派遣した。テルナテ島の総督ジョルジェ・デ・メネゼス(英語版)はゴメス・デ・セケイラ(英語版)とディオゴ・ダ・ロシャ(英語版)をシモン・デ・アブレウが1523年に一度訪れたセレベス島に派遣した。このときの遠征隊はカロリン諸島に訪れた初のヨーロッパ人であり、このときは諸島を「セケイラ諸島」と名付けた。上陸こそしなかったが、マルティン・アフォンソ・デ・メロ(Martim Afonso de Melo)の1522年から1524年までの遠征、ゴメス・デ・セケイラの1526年から1527年までの遠征ではアルー諸島とタニンバル諸島を発見した。また1526年にはジョルジェ・デ・メネゼスがパプアニューギニア北西部に着き、スハウテン諸島のビアク島に上陸した。彼はそこからドベライ半島にあるワイゲオ島へ向かった。 カスティーリャは1525年から1526年までのロアイサの遠征隊のほか、1528年にはアルバロ・デ・サーベドラ・セロン(英語版)率いる(メキシコにいるエルナン・コルテスが準備した)遠征隊を派遣、ポルトガルと競争した。アルバロ・デ・サーベドラ・セロンはマーシャル諸島に着いた。しかし、この遠征隊はポルトガルに囚われ、西回りの航路でヨーロッパへ送還された。遠征隊はモルッカ諸島から東周りで太平洋を通って帰ることを2度試み、いずれも失敗したが、途中でニューギニア島の西部と北部の一部を探検、スハウテン諸島に到着、ヤーペン島、アドミラルティ諸島、カロリン諸島を発見した(上陸はしなかった)。 1525年2月10日、ジョアン3世はカール5世の妹カタリナと結婚した。翌年3月11日に今度はカール5世がジョアン3世の妹イサベルと結婚した。この二重結婚により両国は緊密な関係となり、モルッカ諸島に関する協議を促進した。カール5世も紛争を避けてヨーロッパでの政策の実施に専念したい上、スペインはモルッカ諸島からの香辛料を東回りでヨーロッパに持ち帰る航路を知らなかったことも条約締結の一因となった。東回り航路は1565年にアンドレス・デ・ウルダネータ(Andrés de Urdaneta)がマニラ=アカプルコ航路を確立するまでついぞ見つからなかった。
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