バビロンの再征服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 14:11 UTC 版)
サルゴン2世の最大の勝利は、前710年-前709年にライバルであったバビロンの王メロダク・バルアダン2世を打ち破ったことである。南部(=バビロニア)におけるアッシリアの支配を回復しようとした最初の試みが失敗して以来、バビロニアはサルゴン2世に反目し続けていた。サルゴン2世は状況打開のためには過去に用いた単純な解決法とは異なる戦略を用いなければならないことを理解していた。前710年にサルゴンが南へ向けて進発した時、アッシリア帝国の行政とドゥル・シャルキンの建設事業の監督は彼の息子で王太子のセンナケリブ(シン・アヘ・エリバ)の手に委ねられた。サルゴンはすぐにバビロンへは向かわず、代わりにティグリス川の東岸に沿って、アッシリア人がスラップ(Surappu)と言う名前で呼んだ川のそばにあったドゥル・アタラ(英語版)市まで進んだ。ドゥル・アタラはメロダク・バルアダン2世によって要塞化されていたが、サルゴン2世の軍隊は速やかにこれを占領し、新たな属州ガンブル(Gambulu)の設置と共にドゥル・ナブー(Dur-Nabu)と改称された。これはこの都市周辺の土地を領土とすると宣言するものであった。サルゴンはドゥル・ナブーでいくらか時を費やし、住民を服属させるため軍隊を東方と南方へ送った。ウクヌ(Uknu)と呼ばれる川の周辺の地で、サルゴン2世の軍隊はアラム人とエラム人の戦士たちを破った。これは、彼らがメロダク・バルアダン2世と結ぶのを防ぐための処置であった。その後、サルゴン2世はバビロンへの攻撃に取り掛かり、南東方向からバビロンに向けて軍を進めた。サルゴンがティグリス川とユーフラテス川の支流の一つを渡ってバビロンに近いドゥル・ラディンニ(英語版)市に到着すると、メロダク・バルアダン2世は恐怖に駆られた。これは恐らくバビロンの神官たちと市民からの真の意味での支持を受けていなかったか、彼が軍の大部分をドゥル・アタラでの敗北で失っていたためであろう。メロダク・バルアダン2世はアッシリア軍との戦闘を望まなかったため、側近たちに持てるだけの財宝と王宮の調度品と共に夜に紛れて(玉座と共に)バビロンを去った。メロダク・バルアダン2世はこれらの財宝をエラムの庇護を得るために使用し、入国許可を得るためにエラム王シュトゥルク・ナフンテ2世(英語版)に献上した。シュトゥルク・ナフンテ2世は財宝を受け取ったが、アッシリアの報復を恐れメロダク・バルアダン2世の入国は許可しなかった。 やむなくメロダク・バルアダン2世はイクビ・ベール(英語版)市に居を構えたが、サルゴン2世はすぐに彼を追撃し、戦闘の必要もなくこの町を降伏させた。メロダク・バルアダン2世はさらに逃亡し、ペルシア湾の海岸に程近い故郷の都市ドゥル・ヤキン(英語版)へと逃れた。この都市は要塞化されて巨大な堀が市壁を囲んで掘られており、周辺地帯はユーフラテス川から掘られた運河によって浸水していた。水浸しの地形を利用してメロダク・バルアダン2世は市壁の外側の地点に軍営を設置したが、サルゴン2世の軍隊は湿地帯で行軍を妨げられることはなく、メロダク・バルアダン2世はすぐに打ち破られた。アッシリア軍が戦利品を戦死者から集め始めるとメロダク・バルアダン2世は都市内に逃げ込んだ。この戦闘の後、サルゴン2世はドゥル・ヤキンを包囲したが、占領には至らなかった。包囲が長引くと交渉が始まり、前709年、サルゴン2世がメロダク・バルアダン2世の命を保障するのと引き換えに、街を明け渡して外側の城壁を取り壊すことが合意された。
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