ピャスト朝
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ピャスト朝(ポーランド語: Dynastia Piastów)は、ポーランドの王朝。960年頃から1370年まで続いた。王朝としてあるが、初期においてはポーランド的な王家ではなく、グニェズノを主体とする地方侯家であった。1000年にボレスワフ1世がローマ皇帝オットー3世から戴冠および大司教座設置を許可され、その後1025年にローマ教皇ヨハネス19世の許可が下ったことをもってポーランド国家の始まりと見なされる。ここに名前を載せている者で、公には即位したが王位に就かなかった者もいる。
- 1 ピャスト朝とは
- 2 ピャスト朝の概要
ピャスト朝(1003年-1004年)
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「チェコの歴史」の記事における「ピャスト朝(1003年-1004年)」の解説
1003年、ポーランド公家であるピャスト家のボレスワフ1世(後のポーランド王国初代国王ボレスワフ1世勇敢王)がチェコ全土を武力で制圧し、ポーランド公ボレスワフ1世兼ボヘミア公ボレスラフ4世となった。 プシェミスル家のヤロミールは神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世と結託して臣従を誓い、ボヘミアを神聖ローマ帝国の領邦としてドイツ人を引き入れることを約束したことで、翌年ボレスワフ1世からボヘミア公の座を取り戻したが、この結果ボヘミアはオーストリア帝国に引き渡されるまで神聖ローマ帝国の領邦となり、歴代君主は実質的にはドイツ人の傀儡となって、20世紀にチェコスロバキアが独立するまで900年以上もの間、政治的にも社会的にも実質上はドイツ人の強い影響下に置かれることとなった。
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ピャスト朝
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詳細は「ポーランドの歴史 (966年–1385年)(英語版)」を参照 この時期の初め、ポーランド民族は一連の強力な統治者に統率された。この統治者たちはポーランドをキリスト教に改宗させ、中央ヨーロッパの強国にのし上げ、そしてヨーロッパ文化圏の仲間入りをさせた。13世紀、恐ろしい外敵の侵略と内部分裂によって、この初期国家の構造的安定は崩壊したが、1300年代の地域統合は強力なポーランド王国の基盤を築くことになった。 ポラン族(ポラン族とゴプラン族の連合部族、別称はレフ族)たちは、10世紀にアラビアのユダヤ商人イブラヒム・イブン・ヤクブの年代記の中で、歴史上初めて言及されている。966年、神聖ローマ皇帝オットー1世は、ポラン族の首長ミェシュコ1世に公の称号を与えた。ミェシュコはその数年前、スラヴ人に対する遠征を行っていた辺境伯ゲロ1世を打ち破った際、皇帝との同盟締結を約束されていた。ミェシュコ1世(930年頃生まれ)と、その息子ボレスワフ1世は、同盟締結によって皇帝から自分たちポラン族の土地の一部を保証された。 ポラン族の西隣にソルブ族(ラウジッツ人)やポラブ族やオボトリート族といったスラヴ部族が居たが、神聖ローマ帝国とその諸公国は彼らの土地を辺境統治地域として支配していた。北隣のポメラニアにはポモージェ族(ポメラン族、「ポモージェ」とはスラヴ語で「海の手前」の意味)やリューグ族(リューゲン族)というスラヴ部族が暮らしていた。ポーランド人の公(君主)たちは、帝国の敵対者、臣下、同盟者と抜け目なく立場を変えながら、ドイツ人やデーン人と同様、これらの部族が住む地域に支配地を拡張していた。ミェシュコの時代に支配下にあった地域は正確には分からないが、ヴィエルコポルスカ、マウォポルスカ、マゾフシェ、シロンスクそしてポモジェ(ポメラニア)の一部を包含していたと思われる。ミェシュコはおよそ25万km2の土地を支配下におさめ、そこには少なくとも100万人が住んでいた。 ミェシュコはチェコ公ボレスラフ1世の娘ドブラヴァと結婚し、966年にローマ教会の主導でキリスト教に改宗した。君主の改宗はミェシュコの公国における大規模なキリスト教改宗を引き起こし、このことは政治的に重要な事件となった。これによってポーランドはキリスト教西方世界の一員となったからである。またチェコとの同盟によって、ミェシュコはドイツ人の拡張に共同して戦うことになった。彼は慎重にドイツ人の政治的影響を避け、ローマと直接つながっていたチェコ人の聖職者から洗礼を受けている。 967年、ミェシュコ1世はヴィヒマン2世伯とその同盟者を倒した。972年にはツェディニャの戦いで、皇帝の辺境伯としてポモジェを支配していた辺境伯オード1世に勝利した。ミェシュコが992年に死ぬと、息子のボレスワフ1世が強大に成長した公国を受けついだ。 ボレスワフは父の偉業を引きついだ。彼は継母オデと彼女が生んだ異母弟たちを追放して国家の統一を維持した。西暦1000年のグニェズノ会議の決定により、ボレスワフと神聖ローマ皇帝オットー3世は、ポーランド最初の大司教区(グニェズノ大司教区)を創設した。 オットー3世が1002年に死ぬと、次の皇帝になったハインリヒ2世と敵対したボレスワフは、マイセン辺境伯領とラウジッツ(ルサティア)を占領した。このことは1033年まで続く帝国との紛争を引き起こした。ボレスワフは1003年にボヘミアを占領したが、翌年にはこれを喪失した。また彼は東隣のルーシを攻撃し、1018年にはキエフにまで攻めのぼった。 その後、ボレスワフは皇帝ハインリヒ2世と同盟することを余儀なくされ、領地を帝国の封土として保証された。1024年、ハインリヒ2世は崩御した。翌1025年、死を目前にしたボレスワフは王として戴冠した。彼の戴冠はポーランド国家の政治的、領土的な独立の画期となった。
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