プロボクサーとして
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2003年7月11日、プロデビュー(初回KO勝ち)。 2004年8月7日、プロ5戦目。2度の世界挑戦経験を有する現役世界ランカー本田秀伸(グリーンツダ)と対戦。この試合は本田にとって3度目の世界挑戦に向けての前哨戦で、名城はいわゆる「噛ませ犬」とされたが、試合はその「噛ませ犬」名城が序盤から右ストレートを中心に手数を惜しまず攻め込み、ボディブローも決めて本田を圧倒。一方の本田も8回に意地の猛攻を見せるが、これを凌ぎ切る。試合は名城の10回判定勝ち。この勝利で名城は本田に代わって世界ランク入りし、無名のボクサーから一転、「近い将来の世界王者候補」として一躍脚光を浴びた。 2005年4月3日、6戦目で日本王座初挑戦。同じ大阪市内のジム所属で合同練習もたびたび行っていた日本スーパーフライ級王者田中聖二(金沢)に挑み、最終・10回TKO勝ち。王座獲得に成功する。しかし、田中は試合後の控え室で意識不明の重体となり会場近くの病院へ搬送されたが、12日後の4月15日に急性硬膜下血腫のため意識を取り戻すことなく死亡。名城自身も大きなショックを受け、1か月間自宅に引きこもる(後に、田中のジムメイトだったWBC世界スーパーフライ級王者徳山昌守の防衛戦の会場で田中の父親と対面。この席で「(死亡した)息子のことは気にせず、これからも頑張って」と励まされた。また、下記防衛後鳥取市にある田中の墓前に赴き、勝利を報告するなどしている)。前王者の死からようやく立ち直った11月22日、初防衛戦。WBA世界スーパーフライ級2位(当時)プロスパー松浦(国際)と対戦し、10回判定勝ち。この勝利でWBA世界ランキング1位となり、指名挑戦権を獲得。 2006年7月22日、8戦目にして世界初挑戦。指名挑戦者としてWBA世界スーパーフライ級王者マーティン・カスティーリョ(メキシコ)に挑む。迎えた10回、1分を回ったところで王者の左目尻から出血がありレフェリーストップ。この瞬間、辰吉丈一郎(元WBC世界バンタム級王者)と並ぶ当時の国内最短タイとなる8戦目での世界王座奪取を果たした(現在は田中恒成の5戦目が最短記録となっている)で更新。なお、JBC非公認であるが、新垣諭も8戦目でIBF世界バンタム級王座を獲得している)。12月2日にはエデュアルド・ガルシア(メキシコ)を12回判定に降し、初防衛に成功。 2007年5月3日、カスティーリョの前王者でもあるアレクサンデル・ムニョス(ベネズエラ)と対戦。前半は元王者を相手に互角以上の戦いを演じるが、徐々に押されはじめ、後半はダウン寸前のピンチに陥る。12ラウンドをフルに戦うも判定で完敗し、2度目の防衛に失敗し世界王座から陥落。10戦目にしてプロ初黒星を喫した。 その後、6月に交通事故に遭い、頸椎を負傷(愛車も大破し、廃車となった)したが、11月26日に再起戦を行い、3回TKO勝ち。 2008年9月15日、世界王座返り咲きを懸け、WBA世界スーパーフライ級王座決定戦に出場(ムニョスが5月17日にWBC王者クリスチャン・ミハレス(メキシコ)とWBA・WBC王座統一戦を行い、0-3の判定負けで王座から陥落。王座統一を果たしたミハレスがWBA世界同級スーパー王者となった為、正規王座が空位となった)。河野公平(ワタナベ)との日本人対決を12回判定(2-1の僅差)で制し、1年4か月ぶりの世界王座返り咲きを果たした。 2009年4月11日の初防衛戦では河野のジムメイトでもある冨山浩之介と対戦。初回と6回にダウンを奪われる苦戦を強いられたが、8回逆転TKO勝ちを収め、防衛成功。セミでは孫抄弄 vs 多田悦子のWBA女子世界ミニマム級タイトルマッチが行われ、国内初の男女ダブル世界戦となった。 9月30日の2度目の防衛戦ではランキング1位ウーゴ・カサレス(メキシコ)と指名試合を行い、ここでも苦戦を強いられたが、フルラウンドの死闘の末、三者三様の引き分けで辛くも防衛に成功。 2010年5月8日、大阪府立体育会館で3度目の防衛戦。前回防衛戦で対戦したカサレスと再戦。前回同様フルラウンドを戦い抜いたが、12回0-3(2者が111-117、113-115)の判定負けを喫し2度目の世界王座陥落となった。 2010年10月11日、大阪市住吉区民センターでイワン・キー(インドネシア)とノンタイトル10回戦を行い、2回に2度のダウンを奪った末の3回KO勝ち。鮮やかな形で再起を果たした。 2011年2月5日、大阪府立体育会館でWBC世界スーパーフライ級王者トマス・ロハス(メキシコ)に挑戦。インファイトを挑む名城に対し、王者はアウトボクシングで対抗。8回には偶然のバッティングで王者が負傷し、規定により名城から1点減点。それでもフルラウンドを戦い抜いたが、最終的には12回0-3(111-116、113-116、113-114)の判定で敗れ、世界王座返り咲きはならなかった。 2011年7月30日、大阪・住吉区民センターでWBO世界フライ級9位でフィリピンGABスーパーフライ級王者のレイ・ペレスを相手にノンタイトル10回戦を行い、3-0の判定勝ちを収めた。 2011年11月4日、タイ・バンコクにて、ロハスを破って王座を獲得したWBC世界スーパーフライ級王者スリヤン・ソー・ルンヴィサイ(タイ)に挑戦。22歳の王者相手に懸命にパンチを繰り出すも、12回0-3(113-116、113-115、109-119)の判定で敗れて王座獲得は成らなかった。 2012年9月1日、大阪市住吉区の住吉スポーツセンターにおいて3度目の王座獲得を目指し、WBA世界スーパーフライ級王者テーパリット・ゴーキャットジム(タイ)に挑戦。終盤は王者を押し込む部分もあったが、12回0-2(114-114、114-115、113-115)の僅差判定負けを喫して王座返り咲きに失敗した。試合後に現役引退を表明していたが、2012年11月19日に引退を撤回し現役続行を表明した。 2013年4月7日、大阪・住吉区民センターにてWBC世界バンタム級12位のヨーッチャンチャイ・ナコンルアンプロモーション(タイ)とバンタム級10回戦を行い、6回3分9秒KO勝ちし再起戦を飾った。 2013年9月3日、当初は同年8月23日にバンコクにあるサイアム・パーク・シティで予定されていたが元WBA世界フライ級王者デンカオセーン・カオウィチット(タイ)の体調不良を理由に延期となっていたWBA世界スーパーフライ級暫定王座決定戦をナコーンラーチャシーマー県にあるスラナリー工科大学で行い、12回1-2(115.5-113、113.5-116、114-116.5)の判定負けを喫し暫定ながらも3年4ヵ月ぶりの王座返り咲きに失敗した。
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プロボクサーとして
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1979年3月27日、プロデビュー。 1980年2月21日、後のWBC世界フライ級王者・小林光二をフライ級・全日本新人王決定戦で1RKO。 1981年4月27日、世界初挑戦。敵地でWBCスーパーフライ級王者金喆鎬(韓国)に挑むが、15回判定負け。 1982年4月8日、2度目の世界挑戦。WBA世界スーパーフライ級王者ラファエル・ペドロサ(パナマ)に挑戦し、15回判定勝ちで世界王座獲得。同王座は、グスタボ・バリャス、大熊正二、ルイス・イバネス、仙台ラミレス、権順天、セルソ・チャベス相手に6度の防衛に成功した。 1984年7月5日、WBC同階級王者のパヤオ・プーンタラット(タイ)との統一戦に臨む予定であったが、WBAは統一戦の開催を認めず王座を剥奪。この幻の統一戦に12回判定勝ちし、WBC世界スーパーフライ級王座を獲得した。なお、この世界戦に関しては、WBC王者のパヤオに渡辺が挑戦するという変則的な形で行われ、もしパヤオが勝利していた場合、パヤオは統一王者ではなくWBC王座のみの防衛となっていた(※当時WBAは15ラウンド制でWBCが12ラウンド制の世界戦のルールの違いが一番のネックで、そうなったとされる)。WBAと帝拳との交渉でリングに上がった瞬間に即剥奪はされず、試合終了後に剥奪という処分がなされているためほんのわずかではあるが、WBA・WBCの統一王座という記録は残ることになる。この試合、判定は2対1で渡辺となり後半に反撃した逆転勝ちで微妙な試合だった。パヤオ側は判定に不満として提訴。渡辺も「ボクシングとしては相手が一枚上だった」と回顧している。 1984年11月29日、防衛戦でパヤオと再戦してTKO勝ち、因縁ある両者の対決に決着をつけるかたちとなった。 前記防衛戦を含め、WBC王者として4度の防衛に成功する。この間に達成した世界タイトルマッチ12連勝は、日本では具志堅用高の14連勝に次ぐ数字である。 1985年12月13日、韓国で開催された4度目の防衛戦で、地元の尹石煥を相手に6度のダウンを奪い5回KO勝ち。日本人世界王者として初の日本国外での世界王座防衛を果たした。 1986年3月30日、伊丹市スポーツセンターでの5度目の防衛戦でヒルベルト・ローマン(メキシコ)に12回判定負けを喫し、世界王座陥落。その後ボクシング・マガジンでボクサー志望者向けの連載を開始(後述)。 1991年11月8日、引退を発表。生涯戦績は28戦26勝(18KO)2敗(世界戦14戦12勝(8KO)2敗)。 1992年9月、大阪城ホールでのジムの後輩辰吉丈一郎の世界王座初防衛戦の前座で引退セレモニー。 1994年11月、後楽園ホールでカオサイ・ギャラクシー(タイ)とエキシビションマッチを行った。
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プロボクサーとして
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「ハウバート・ダン」の記事における「プロボクサーとして」の解説
2021年9月9日、後楽園ホールにて伊藤和磨とのスーパーミドル級4回戦でプロボクサーデビューし、3-0(40-36×3)の判定で勝利。
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プロボクサーとして
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「山本博 (お笑い芸人)」の記事における「プロボクサーとして」の解説
クイズプレゼンバラエティー Qさま!!の企画でプロボクサーのライセンスを取得している。2014年11月26日、後楽園ホールにてイマオカボクシングジム所属、リングネーム「ロバート山本」としてプロボクシングデビュー、高橋陸(現:ジロリアン陸)相手に4回TKO勝利。ライセンス失効まで1年を切った、36歳での挑戦だった。 2015年、ボクシングのトレーナーライセンスを取得。
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プロボクサーとして
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「マニー・パッキャオ」の記事における「プロボクサーとして」の解説
1995年1月22日、16歳1か月でライトフライ級にてプロデビュー戦、パッキャオは体重がミニマム級の上限体重105ポンドにすら届かない98ポンドしか無かったためポケットに鉄の重りを忍ばせ106ポンドで計量をパスした。デビュー戦のファイトマネーはわずか2ドル(100ペソ)だった。 1996年2月9日、12戦目となるルスティコ・トーレカンポ戦でパッキャオは3回KO負けで初敗北を喫する。パッキャオは計量を体重オーバーで失格し、体重超過の罰則で重いグローブを着用し試合に挑んでいた。この試合まではライトフライ級からバンタム級の間を行き来して試合を行っていたが、この敗戦以降はフライ級で試合を行った。
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