プロボクサーとしてとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > プロボクサーとしての意味・解説 

プロボクサーとして

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/04 19:58 UTC 版)

名城信男」の記事における「プロボクサーとして」の解説

2003年7月11日プロデビュー初回KO勝ち)。 2004年8月7日プロ5戦目。2度世界挑戦経験有する現役世界ランカー本田秀伸グリーンツダ)と対戦。この試合本田にとって3度目世界挑戦に向けて前哨戦で、名城いわゆる噛ませ犬」とされたが、試合はその「噛ませ犬名城序盤から右ストレート中心に手数惜しまず攻め込みボディブロー決めて本田圧倒一方本田も8回に意地猛攻見せるが、これを凌ぎ切る。試合名城10判定勝ち。この勝利名城本田に代わって世界ランク入りし、無名ボクサーから一転、「近い将来世界王者候補」として一躍脚光を浴びた2005年4月3日、6戦目で日本王座初挑戦。同じ大阪市内ジム所属合同練習もたびたび行っていた日本スーパーフライ級王者田中聖二金沢)に挑み最終10TKO勝ち。王座獲得成功する。しかし、田中試合後の控え室意識不明重体となり会場近く病院搬送されたが、12日後の4月15日急性硬膜下血腫のため意識取り戻すことなく死亡名城自身大きなショックを受け、1か月自宅引きこもる(後に、田中のジムメイトだったWBC世界スーパーフライ級王者徳山昌守防衛戦会場田中の父親対面。この席で「(死亡した息子のことは気にせずこれから頑張って」と励まされた。また、下記防衛鳥取市にある田中墓前に赴き、勝利を報告するなどしている)。前王者の死からようやく立ち直った11月22日初防衛戦WBA世界スーパーフライ級2位当時プロスパー松浦国際)と対戦し10判定勝ち。この勝利WBA世界ランキング1位となり、指名挑戦権獲得2006年7月22日、8戦目にして世界初挑戦指名挑戦者としてWBA世界スーパーフライ級王者マーティン・カスティーリョメキシコ)に挑む迎えた10回、1分を回ったところで王者の左目尻から出血がありレフェリーストップ。この瞬間辰吉丈一郎(元WBC世界バンタム級王者)と並ぶ当時国内最短タイとなる8戦目での世界王座奪取果たした(現在は田中恒成の5戦目が最短記録となっている)で更新。なお、JBC非公認であるが、新垣諭も8戦目でIBF世界バンタム級王座獲得している)。12月2日にはエデュアルド・ガルシア(メキシコ)を12判定降し初防衛成功2007年5月3日カスティーリョ前王者でもあるアレクサンデル・ムニョスベネズエラ)と対戦前半元王者を相手互角上の戦い演じるが、徐々に押されはじめ、後半ダウン寸前ピンチ陥る12ラウンドフルに戦うも判定完敗し2度目の防衛失敗し世界王座から陥落10戦目にしてプロ黒星喫したその後6月交通事故遭い頸椎負傷愛車大破し廃車となった)したが、11月26日再起戦行い3回TKO勝ち。 2008年9月15日世界王座返り咲き懸けWBA世界スーパーフライ級王座決定戦出場ムニョス5月17日WBC王者クリスチャン・ミハレスメキシコ)とWBAWBC王座統一戦を行い0-3判定負け王座から陥落王座統一果たしたミハレスがWBA世界同級スーパー王者となった為、正規王座空位となった)。河野公平ワタナベ)との日本人対決12判定2-1僅差)で制し1年4か月ぶりの世界王座返り咲き果たした2009年4月11日初防衛戦では河野のジムメイトでもある冨山浩之介対戦初回と6回にダウン奪われる苦戦強いられたが、8回逆転TKO勝ちを収め防衛成功セミでは孫抄弄 vs 多田悦子WBA女子世界ミニマム級タイトルマッチが行われ、国内初の男女ダブル世界戦となった9月30日2度目の防衛戦ではランキング1位ウーゴ・カサレスメキシコ)と指名試合行い、ここでも苦戦強いられたが、フルラウンドの死闘の末、三者三様引き分け辛くも防衛成功2010年5月8日大阪府立体育会館3度目の防衛戦前回防衛戦対戦したカサレスと再戦前回同様フルラウンドを戦い抜いたが、120-3(2者が111-117、113-115)の判定負け喫し2度目世界王座陥落となった2010年10月11日大阪市住吉区センターでイワン・キー(インドネシア)とノンタイトル10回戦行い、2回に2度ダウン奪った末の3回KO勝ち。鮮やかな形で再起果たした2011年2月5日大阪府立体育会館WBC世界スーパーフライ級王者トマス・ロハスメキシコ)に挑戦インファイト挑む名城対し王者アウトボクシング対抗。8回には偶然のバッティング王者負傷し規定により名城から1点減点。それでもフルラウンドを戦い抜いたが、最終的に120-3(111-116、113-116、113-114)の判定敗れ世界王座返り咲きはならなかった。 2011年7月30日大阪住吉区センターWBO世界フライ級9位でフィリピンGABスーパーフライ級王者のレイ・ペレスを相手ノンタイトル10回戦行い3-0判定勝ちを収めた2011年11月4日、タイ・バンコクにて、ロハス破って王座獲得したWBC世界スーパーフライ級王者スリヤン・ソー・ルンヴィサイタイ)に挑戦22歳王者相手懸命にパンチ繰り出すも、120-3(113-116、113-115、109-119)の判定敗れて王座獲得は成らなかった。 2012年9月1日大阪市住吉区住吉スポーツセンターにおいて3度目王座獲得目指しWBA世界スーパーフライ級王者テーパリット・ゴーキャットジムタイ)に挑戦終盤王者押し込む部分もあったが、120-2(114-114、114-115113-115)の僅差判定負け喫して王座返り咲き失敗した試合後に現役引退表明していたが、2012年11月19日引退撤回し現役続行表明した2013年4月7日大阪住吉区センターにてWBC世界バンタム級12位のヨーッチャンチャイ・ナコンルアンプロモーション(タイ)とバンタム級10回戦行い、6回3分9秒KO勝ちし再起戦飾った2013年9月3日当初同年8月23日バンコクにあるサイアム・パーク・シティで予定されていたが元WBA世界フライ級王者デンカオセーン・カオウィチットタイ)の体調不良理由延期となっていたWBA世界スーパーフライ級暫定王座決定戦ナコーンラーチャシーマー県にあるスラナリー工科大学行い121-2(115.5-113、113.5-116、114-116.5)の判定負け喫し暫定ながらも3年4ヵ月ぶりの王座返り咲き失敗した

※この「プロボクサーとして」の解説は、「名城信男」の解説の一部です。
「プロボクサーとして」を含む「名城信男」の記事については、「名城信男」の概要を参照ください。


プロボクサーとして

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/22 23:25 UTC 版)

渡辺二郎」の記事における「プロボクサーとして」の解説

1979年3月27日プロデビュー1980年2月21日、後のWBC世界フライ級王者小林光二フライ級全日本新人王決定戦で1RKO。 1981年4月27日世界初挑戦敵地WBCスーパーフライ級王者金喆鎬韓国)に挑むが、15判定負け1982年4月8日2度目世界挑戦WBA世界スーパーフライ級王者ラファエル・ペドロサパナマ)に挑戦し15判定勝ちで世界王座獲得。同王座は、グスタボ・バリャス大熊正二、ルイス・イバネス、仙台ラミレス権順天、セルソ・チャベス相手6度防衛成功した1984年7月5日WBC階級王者パヤオ・プーンタラットタイ)との統一戦に臨む予定であったが、WBA統一戦の開催認めず王座剥奪。この幻の統一戦に12判定勝ちし、WBC世界スーパーフライ級王座獲得した。なお、この世界に関しては、WBC王者パヤオ渡辺挑戦するという変則的な形で行われ、もしパヤオ勝利していた場合パヤオ統一王者ではなくWBC王座のみの防衛となっていた(※当時WBA15ラウンド制でWBC12ラウンド制の世界戦ルールの違いが一番のネックで、そうなったとされる)。WBAと帝拳との交渉リング上がった瞬間に即剥奪はされず、試合終了後剥奪という処分なされているためほんのわずかではあるが、WBAWBC統一王座という記録は残ることになる。この試合判定は2対1で渡辺となり後半反撃した逆転勝ち微妙な試合だった。パヤオ側は判定に不満として提訴渡辺も「ボクシングとしては相手一枚上だった」と回顧している。 1984年11月29日防衛戦パヤオ再戦してTKO勝ち、因縁ある両者対決決着をつけるかたちとなった前記防衛戦含めWBC王者として4度防衛成功するこの間達成した世界タイトルマッチ12連勝は、日本では具志堅用高14連勝に次ぐ数字である。 1985年12月13日韓国開催され4度目の防衛戦で、地元の尹石煥を相手6度ダウン奪い5回KO勝ち。日本人世界王者として初の日本国外での世界王座防衛果たした1986年3月30日伊丹市スポーツセンターでの5度目の防衛戦ヒルベルト・ローマンメキシコ)に12判定負け喫し世界王座陥落その後ボクシング・マガジンボクサー志望者向けの連載を開始後述)。 1991年11月8日引退発表生涯戦績2826勝(18KO)2敗(世界戦1412勝(8KO)2敗)。 1992年9月大阪城ホールでのジム後輩辰吉丈一郎世界王座初防衛戦前座引退セレモニー1994年11月後楽園ホールカオサイ・ギャラクシータイ)とエキシビションマッチ行った

※この「プロボクサーとして」の解説は、「渡辺二郎」の解説の一部です。
「プロボクサーとして」を含む「渡辺二郎」の記事については、「渡辺二郎」の概要を参照ください。


プロボクサーとして

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/18 03:50 UTC 版)

ハウバート・ダン」の記事における「プロボクサーとして」の解説

2021年9月9日後楽園ホールにて伊藤和磨とのスーパーミドル級4回戦プロボクサーデビューし、3-0(40-36×3)の判定勝利

※この「プロボクサーとして」の解説は、「ハウバート・ダン」の解説の一部です。
「プロボクサーとして」を含む「ハウバート・ダン」の記事については、「ハウバート・ダン」の概要を参照ください。


プロボクサーとして

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 11:53 UTC 版)

山本博 (お笑い芸人)」の記事における「プロボクサーとして」の解説

クイズプレゼンバラエティー Qさま!!企画プロボクサーライセンス取得している。2014年11月26日後楽園ホールにてイマオカボクシングジム所属リングネームロバート山本」としてプロボクシングデビュー高橋陸(現:ジロリアン陸)相手に4回TKO勝利ライセンス失効まで1年切った36歳での挑戦だった。 2015年ボクシングのトレーナーライセンスを取得

※この「プロボクサーとして」の解説は、「山本博 (お笑い芸人)」の解説の一部です。
「プロボクサーとして」を含む「山本博 (お笑い芸人)」の記事については、「山本博 (お笑い芸人)」の概要を参照ください。


プロボクサーとして

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 08:21 UTC 版)

マニー・パッキャオ」の記事における「プロボクサーとして」の解説

1995年1月22日16歳1か月ライトフライ級にてプロデビュー戦、パッキャオ体重ミニマム級の上体重105ポンドにすら届かない98ポンドしか無かったためポケット鉄の重り忍ばせ106ポンド計量パスしたデビュー戦ファイトマネーはわずか2ドル(100ペソ)だった。 1996年2月9日12戦目となるルスティコ・トーレカンポ戦でパッキャオ3回KO負けで初敗北喫するパッキャオ計量体重オーバー失格し体重超過罰則で重いグローブ着用し試合挑んでいた。この試合まではライトフライ級からバンタム級の間を行き来して試合行っていたが、この敗戦以降フライ級試合行った

※この「プロボクサーとして」の解説は、「マニー・パッキャオ」の解説の一部です。
「プロボクサーとして」を含む「マニー・パッキャオ」の記事については、「マニー・パッキャオ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「プロボクサーとして」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「プロボクサーとして」の関連用語

プロボクサーとしてのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



プロボクサーとしてのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの名城信男 (改訂履歴)、渡辺二郎 (改訂履歴)、ハウバート・ダン (改訂履歴)、山本博 (お笑い芸人) (改訂履歴)、マニー・パッキャオ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS