ベーリング海峡
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ベーリング海峡(ベーリングかいきょう、英語: Bering Strait、ロシア語: Бе́рингов проли́в)は、アラスカのスワード半島と、東シベリアのチュクチ半島との間にある海峡。ユーラシア大陸とアメリカ大陸を分かつ海峡でもある。
- ^ "Lifting the Ice Curtain", Peter A. Iseman, New York Times, October 23, 1988
- ^ Smith, Martin. January 31, 1988. "The transcendent power of the solo athlete." Orange County Register, p.J1.
- ^ “最長海底トンネル実現へ 露が始動、日本企業も参加打診”. Fujisankei Business i. (2007年4月21日). 2007年4月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年5月1日閲覧。
- ^ 宮本武之輔、1941、『大陸建設の課題』、岩波書店 doi:10.11501/1884490 p. 261
- ^ 日下実男『もしもの世界』ジュニアチャンピオンコース、学習研究社、1973年、全国書誌番号:45001358、pp98-101
- 1 ベーリング海峡とは
- 2 ベーリング海峡の概要
- 3 脚注
ベーリング海峡
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「リチャード・コリンソン」の記事における「ベーリング海峡」の解説
1848年には、サー・ジョン・フランクリンの捜索を目指した3件の遠征が送られたが、いずれも目的を果たすことはできなかった。1850年、コリンソンは、ベーリング海峡側から航行して捜索することを指示されたが、これはホレイシオ・オースティン(英語版)らがパリー海峡を通る通常のルートで捜索を行うのに合わせたものであった。コリンソンには、エンタープライズ (HMS Enterprise) が与えられ、ロバート・マクルアー中佐のインベスティゲーター (HMS Investigator) が同行した。2隻は1850年1月にプリマスを発ち、チリ沖で別れてそれぞれ単独行動となった。マクルアーは先にベーリング海峡に達したが、バンクス島で氷に閉じ込められた。その後、救出されてイングランドに帰還し、北西航路を通過した最初の人物となった。コリンソンは遅れてベーリング海峡に到達し、マクルアーが先行していることを知って引き返し、ひと冬を香港で過ごした。1851年7月半ば、彼はベーリング海峡に入り、沿岸を東へ航行した。8月29日にバンクス島に達し、北東方向に向かう海峡を発見した。プリンスオブウェールズ海峡 (Prince of Wales Strait) である。コリンソンはこの海峡に入り、これで北西航路を発見したかもしれないと考えたが、程なくして丘の上に旗が翻っているのを発見した。旗竿の下には、前年にマクルアーがここで越冬したことを告げるメッセージが残されていた。コリンソンはそのまま進み、マクルアーが進んだ位置を少しだけ越えたところで、氷に行く手を阻まれた。南への帰路、コリンソンはまた別のメッセージを発見し、マクルアーがその僅か18日前に、その地点を通過していたことを知ったが、そのメッセージは、マクルアーがバンクス島の周航を試みていたことを記されていなかった。コリンソンは少し南東に進み、ミント湾(英語版)を越冬地に決めた。ここでまた、マクルアー一行の橇隊のひとりが残したメッセージを発見した。1852年春、コリンソンは橇隊を北方のメルヴィル島へ向かわせたが、彼らはそこで、未知の旅行者たちの足跡を見つけた(これらはマクルアーの配下の者たちによるものだったが、彼らはそこから少し西で凍死していた)。8月5日、コリンソンの艦は氷を脱し、ビクトリア島の南岸に沿ってコロネーション湾に入り、ベーリング海峡側から入った船としては、最も東の位置に到達した。次の冬には、ビクトリア島南岸のケンブリッジ湾(英語版)で越冬した。 1853年春、コリンソンは自ら橇隊を率いて、島の東端(ペリー岬:Point Pelly)に達した。その後しばらくして、地元のあるイヌイットが、この地域から東側の地図を、コリンソンたちのために描いた。その地図には、船が描きこまれていた。もし、この時、コリンソンがこれを見落としていなければ、あるいは、適切な通訳がいたら、彼は橇隊を東へ向かわせてフランクリン隊の一部を、もし彼らがまだ生存していたらの話ではあるが、発見することもできていたかもしれない。しかしコリンソンは、ベーリング海峡を通って引き返し、喜望峰を経由して帰路についた。1855年1月、ケープ植民地で、コリンソンはジョン・レイの報告を知り、フランクリン隊の消息が途絶えた場所が、自分たちが引き返した場所からわずかに東側に位置していたことを知った。コリンソンの評判は、おそらくは本来あるべきものよりも劣ったものに留まっていた。問題は、コリンソンが行き着いた場所には、常にマクルアーが先に達していたというところにあり、コリンソンは常々この件で配下の士官たちや、運の悪さについての愚痴をこぼしていた。ロアール・アムンセンは、自身の小型船でも操船が困難であったこの海域を、コリンソンが大型船で航行して回ったことを賞賛した。コリンソンによるこの航海の記録は、その死の6年後に、弟の トマス・バーナード・コリンソン(英語版)陸軍少将によって出版された。
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「ベーリング海峡」の例文・使い方・用例・文例
- アメリカ先住民の祖先は、ベーリング海峡を経由してアジアから大陸へ渡った。
- アメリカンインディアンの祖先は、ベーリング海峡を経由してアジアから米大陸へ渡った。
- ベーリング海峡.
- 当時はベーリング海峡はまだ陸続きになっていた.
- 北西部アラスカからベーリング海峡をまたいだ北東部シベリアの半島
- ベーリング海峡のちょうど北の北極海の一部
- デンマーク人の探検家で、ロシア人のために北太平洋を探検し、ベーリング海峡を発見した(1681年−1741年)
- ベーリング海峡という海峡
- ベーリング海峡あたりの海が引いて,アジアの人々は陸橋を歩いて北米へ渡ったと言われています。
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