ボルティモア・ブレッツ
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ボルティモア・ブレッツ (Baltimore Bullets) はアメリカのバスケットボールチーム。
- 1 ボルティモア・ブレッツとは
- 2 ボルティモア・ブレッツの概要
ボルティモア・ブレッツ
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「ガス・ジョンソン」の記事における「ボルティモア・ブレッツ」の解説
ジョンソンが入団したブレッツは創部3年目を迎えた新興チームであり(この年シカゴからボルティモアに本拠地を移し、シカゴ・ゼファーズからボルティモア・ブレッツに改名した)、戦力は十分に整ってはいなかったが、ジョンソンが加入したことにより、エースセンターのウォルト・ベラミー、パワーフォワードのガス・ジョンソン、スモールフォワードのテリー・ディッシンガーと、平均年齢24歳の強力なフロントラインが形勢され、ブレッツは将来を嘱望されるチームとなった。2巡目指名とドラフト時の評価は決して高くなかったジョンソンだがその評価を覆す働きを見せ、ルーキーイヤーから17.3得点13.6リバウンドの好成績を記録し、オールルーキー1stチームに選出された。 翌1964-65シーズンにはトレードでディッシンガーに換わってベイリー・ハウエルが加入してフロントラインがますます強化され、さらにガードのドン・オール、ケヴィン・ローリーも加わったブレッツは37勝をあげてチーム初のプレーオフ進出を果たした。ジョンソンも18.6得点13.0リバウンドを記録してオールスターに初出場を果たし、オールNBA2ndチームにも初選出された。 ジョンソンが入団して3年目の1965-66シーズンにブレッツはチームの大黒柱だったベラミーを放出。ジョンソンにはベラミーを失ったブレッツのインサイドの核になることが望まれたが、ジョンソンはこのシーズン手首の怪我でシーズンの半分近くを欠場した。成績もNBA入り以来最低の数字に終わったが、オールNBA2ndチームには2年連続で選出された。ジョンソンはシーズン終盤には復帰したものの、プレーオフでは僅か8分しかプレイできず、チームも1回戦敗退に終わり、この結果にファンは落胆し、またマスコミはジョンソンの必要以上に派手で、また不安定なプレイを非難するようになった。ブレッツは1966-67シーズンにベイリー・ハウルを放出し、換わりにレイ・スコットを獲得する。このスコットとジョンソンはかつて試合中に諍いを起こしたことがあり、反りが合わなかった。またチームの稼ぎ頭だったドン・オールが陪審員招集のため23試合を欠場した。戦力不足の中でジョンソンはキャリアハイとなる20.7得点11.7リバウンドと奮闘するが、チームは20勝61敗と大きく負け越し、プレーオフも逃した。 失意のシーズンの後、ブレッツは1967年のNBAドラフトでアール・モンローを、さらに翌1968年のNBAドラフトでウェス・アンセルドを獲得。二人の若い選手の加入によりブレッツは息を吹き返し、1968-69シーズンには57勝をあげる大躍進を遂げた。モンローやアンセルド、ジャック・マリンら若手選手の台頭でブレッツは世代交代の時を迎え、30代となったジョンソンは能力に任せた派手なスラムダンカーから脱皮し、より多方面でチームの勝利に貢献でいる選手となっていた。1969-70シーズンには17.3得点13.9リバウンド、アシストアベレージはキャリア平均を大きく上回る3.4アシストを記録した。またオフェンスだけでなくディフェンスにも力を入れるようになり、この年にはオールNBA2ndチームに復帰すると共に、オールディフェンシブ1stチームにも初選出された。翌1970-71シーズンには18.2得点17.2リバウンドを記録し、2年連続でオールNBA2ndチームとオールディフェンシブ1stチームに選ばれた。このシーズンのブレッツは42勝40敗とレギュラーシーズンは振るわなかったが、プレーオフでは苦戦しながらもフィラデルフィア・76ersを破って1回戦を突破。カンファレンス決勝で待っていたのは過去に2年連続でプレーオフで敗れているニューヨーク・ニックスだった。この大一番に、しかしジョンソンは膝に抱えていた爆弾が爆発してしまい、最初の6試合を逃してしまった。ブレッツはジョンソン不在の中でも粘りを見せ、シリーズは3勝3敗で最終第7戦に突入。ジョンソンは故障を抱えながらもこの第7戦に強行出場し、93-91のブレッツリードで迎えた試合終盤にはニックスのビル・ブラッドリーのミスショットをリバウンドし、ブレッツのNBAファイナル進出を決定付けた。ファイナルではミルウォーキー・バックスと対戦。カリーム・アブドゥル=ジャバーを擁し、このシーズン無類の強さを誇ったバックスにブレッツは成す術なく敗退し、優勝の夢は叶わなかった。 翌1971-72シーズンは膝の回復が思わしくなく43試合を欠場し、成績も大きく後退した。ブレッツはジョンソンの衰えとモンローの放出により38勝44敗の成績に終わった。再建に着手したいブレッツはジョンソンの放出を決意。ジョンソンは1972-73シーズンに9シーズン過ごしてきたブレッツから、フェニックス・サンズにトレードされることになった。トレード内容は将来のドラフト2巡目指名権という、ブレッツを支え続けたスター選手の対価としては寂しいものであり、またブレッツでの引退を希望していたジョンソンにとってはこのトレードはショックなものだった。
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