ポーランド国王
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ポーランド国王は、ポーランドの支配者によって用いられた称号である。最初の国王は1025年に戴冠したボレスワフ1世・勇敢王である(992年以来、称号は公であった)。
- 1 ポーランド国王とは
- 2 ポーランド国王の概要
- 3 関連項目
ポーランド国王
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「ヴワディスワフ2世 (ポーランド王)」の記事における「ポーランド国王」の解説
1399年6月22日にヤドヴィガは女児を出産した直後に没し、エルジュビエタ(en)の洗礼名を授けられた女児も生後数日で没する。唯一のポーランドの統治者となったヴワディスワ2世は、後継者も王国を統治する確たる正当性も有していなかった。ヤドヴィガの死はヴワディスワ2世の王権を損なわせ、その結果、かつてのマゾポルスカの貴族間との争いでは概してヴワディスワフ2世に共感的であり、ヴェルコポルスカの上流層との争いが表面化し始めた。1402年にヴワディスワフ2世は、カジミェシュ3世の孫娘であるアンナ・ツィレイスカとの政略結婚を行って支配の正当性の強化に努め、貴族の不平に答えた。 1401年のヴィリニュス・ラドム合同はヴワディスワフ2世による大君主のもとでの大公としての地位を認めたが、その一方で大公の称号はヴィータウタスの後継者よりもヴワディスワフ2世の後継者の方をむしろ確かな物とした。即ち、仮にヴワディスワフ2世が後継者を残さずに没したとしたら、リトアニアのボヤールは新たな君主を選ぶことになっていた。仮に両者とも未だに後継者を儲けることがなかったとしたならば、及ぼされる影響は予測できないものの、ポーランド・リトアニア両貴族の結び付き並びに両国の永遠の守備同盟、新たなる対ドイツ騎士団戦(ポーランドは公式には参加していなかった)に対するリトアニアの影響力の強化を着実なものにした。文書は言及されていないポーランド貴族の権利をそのままにする一方でリトアニア貴族の権限強化を認めた。後者の大公はそれからずっと干渉を受けないでポーランドの王権には一定の従属姿勢を取るというやり方で調整を取っていた。ヴィリニュス・ラドム合同はそれ故にヴィータウタスがリトアニアで一定の支持を得ることとなった。 1401年の後半におけるドイツ騎士団に対する新たな戦争は、東方地区における反乱の後に2つの戦線に自らの戦いを見出したリトアニア人の力を過度に広げることになった。ヴワディスワフ2世の別の兄弟で不満分子のシュヴィトリガイラはこの機を選んで裏で反乱を先導して自身が大公であることを宣言した。 1402年1月31日にシュヴィトリガイラ自身がマリーエンブルクに赴き、ヴワディスワフ2世とヴィータウタスが大公国において初期の指導者に甘んじていた時期に行ったのと同じ譲歩をすることでドイツ騎士団の支援を得た。
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ポーランド国王
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「スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ」の記事における「ポーランド国王」の解説
1762年、ロシア宮廷でのクーデター(ロシア語版)によってエカチェリーナ2世が即位し、その直後にポーランドでアウグスト3世が没すると、女帝は元愛人のスタニスワフを王位につけてポーランドへの影響力を強めようとした。派遣されたロシア軍を後ろ盾にしたチャルトリスキ家の「ファミリア」がクーデタによって政権与党となり、1764年9月7日に32歳のスタニスワフがワルシャワ郊外のヴォーラでポーランド・リトアニア共和国の国王に選出された。スタニスワフは先代の2人の国王の名前を採って「スタニスワフ・アウグスト」と名乗った。また一部の人々からは、ポニャトフスキ家の紋章に由来する「雄牛」(Ciołek)というあだ名で呼ばれていた。 スタニスワフの戴冠式は1764年11月25日にワルシャワで執り行われた。国王の伯父たちは、アウグスト・アレクサンデルの息子アダム・カジミェシュ・チャルトリスキを国王にしたいと考えていたが、アダム・カジミェシュ本人が辞退してしまっていた。チャルトリスキ家はスタニスワフが自分たちをないがしろにして国政を運営していくことをよく思わなかった。スタニスワフは「ファミリア」の改革構想を基本にした経済改革に着手したものの、1766年に伯父たちと決裂した後は改革は進まなかった。 1768年、ポーランド・リトアニア共和国は法的にロシア帝国の保護国になった。保護国化に反対する貴族たちはバール連盟を結成し、フランスやオスマン帝国の支援を得てロシア軍との戦いを始めた。バール連盟は1770年10月に親ロシア派のスタニスワフを国王と認めないと宣言したため、スタニスワフはロシア軍に対する支持を貫いた。翌1771年、スタニスワフは連盟の参加者たちによってワルシャワ郊外で一時的に誘拐され、軟禁状態におかれている。 1772年、スタニスワフの抗議もむなしく第一次ポーランド分割が行われ、共和国の領土・人口のおよそ3分の1が失われた。国王はマグナートたちの容赦のない非協力的な態度に直面して、何の対策も講じられなかった。こうした状況にあって、スタニスワフは領土分割の黒幕であるロシア大使オットー・マグヌス・フォン・シュタッケルベルク伯爵(Otto Magnus von Stackelberg)に依存せざるを得なくなっていった。 一方で、スタニスワフは文化や教育に関する政策では共和国に大きく貢献していた。国王は1765年に騎士学校(School of Chivalry)を創設した。同校は共和国に奉仕するエリートの育成を目指すもので、タデウシュ・コシチュシュコらを輩出した。また1773年、スタニスワフは世界で最初の国家教育省である国民教育委員会(Commission of National Education)を設立している。スタニスワフはすでに1765年から、ポーランドにおける啓蒙主義を牽引する週刊新聞『モニトル』(Monitor)紙を発行していた。国王主催の木曜晩餐会(Thursday dinners)は、首都における最も重要なサロンの一つだったし、またワルシャワ国立劇場(National Theater, Warsaw)を設立したのも彼であった。 1783年ないし1784年、スタニスワフは愛人エルジュビェタ・グラボフスカ(Elżbieta Grabowska)と秘密結婚した。エルジュビェタは元はヤン・イェジ・グラボフスキという貴族の妻であったが、秘密結婚の前にスタニスワフとの間に何人かの子供をもうけていた。 1788年から1792年まで開催された4年議会では、スタニスワフはそれまで対立していた愛国派の人々と手を組むようになり、両者は協力して1791年、「5月3日憲法」の制定にこぎ着けた。憲法の制定過程で、共和国の世襲王制への移行が決まると、スタニスワフは自分の一族をポーランドの世襲王家にしようと考えたが実現せず、先代の国王アウグスト3世の孫であるザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグストが王位継承者に選ばれた。 まもなく、憲法の廃棄を求めるタルゴヴィツァ連盟が結成された。連盟はエカチェリーナ2世に協力を要請し、1792年5月にロシア軍はポーランド・リトアニア共和国内に進軍し、ポーランド・ロシア戦争が開始された。スタニスワフがフーゴ・コウォンタイ(Hugo Kołłątaj)らの助言を受け入れてタルゴヴィツァ連盟に参加すると、ポーランド国王軍の士気は衰え、それまで国王軍を指揮してきたタデウシュ・コシチュシュコや国王の甥ユゼフ・アントニ・ポニャトフスキ公爵による奮戦も無駄に終わってしまった。戦争はポーランド側の敗北に終わり、新憲法は廃止され、翌1793年にはロシアとプロイセンによる第二次ポーランド分割が敢行された。 1795年10月24日、第三次ポーランド分割が行われると同時に、ポーランド・リトアニア共和国は消滅した。1ヶ月後の11月25日、スタニスワフは強制的に退位させられた。スタニスワフはサンクトペテルブルクへと居を移し、半ば監視状態に置かれながら、ロシア政府から多額の年金を支給されて余生を送った。
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