モンゴルのジャワ侵攻とは? わかりやすく解説

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モンゴルのジャワ侵攻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/13 04:08 UTC 版)

モンゴルのジャワ侵攻(モンゴルのジャワしんこう)では、1293年ジャワ島に侵攻したモンゴル軍が引き起こした諸戦闘について解説する。


  1. ^ 『国朝文類』巻41征伐爪哇,「[至元二十九年]十一月、福建・江西・湖廣三省軍會泉州。十二月十四日、自後渚啓行……[至元三十年四月]二十四日、軍還。得哈只葛當妻子官屬百餘人、及地圖戶籍、所上金字表」
  2. ^ 杉山2014B,140-141頁
  3. ^ 丹羽1953,56頁
  4. ^ 『元史』巻10世祖本紀7,「[至元十五年八月]辛巳……詔行中書省唆都・蒲寿庚等曰『諸蕃国列居東南島嶼者、皆有慕義之心、可因蕃舶諸人宣布朕意。誠能来朝、朕将寵礼之。其往来互市、各従所欲』。詔諭軍前及行省以下官吏、撫治百姓、務農楽業、軍民官毋得占拠民産、抑良為奴。以中書左丞董文炳僉書枢密院事、参知政事唆都・蒲寿庚並為中書左丞」
  5. ^ 丹羽1953,34頁
  6. ^ 『元史』巻10世祖本紀7,「[至元十六年六月]甲辰……占城・馬八児諸国遣使以珍物及象犀各一来献」
  7. ^ 『元史』巻10世祖本紀7,「[至元十六年十二月]丁酉……詔諭海内海外諸番国主」
  8. ^ 丹羽1953,35頁
  9. ^ 『元史』巻14世祖本紀11,「[至元二十三年九月]乙丑朔、馬八児・須門那・僧急里・南無力・馬蘭丹・那旺・丁呵児・来来・急闌亦帯・蘇木都剌十国、各遣子弟上表来観、仍貢方物」
  10. ^ 丹羽1953,37頁
  11. ^ 丹羽1953,76-77頁
  12. ^ 丹羽1953,78頁
  13. ^ 青山2001,205頁
  14. ^ a b c 青山2001,206頁
  15. ^ 『元史』巻11世祖本紀8,「[至元十七年冬十月]丙申……遣使諭爪哇国及交趾国」
  16. ^ 『元史』巻11世祖本紀8,「[至元十七年]十一月己亥朔……降詔招諭爪哇国」
  17. ^ 『元史』巻11世祖本紀8,「[至元十八年十一月]壬午、詔諭爪哇国主、使親来観」
  18. ^ 『元史』巻12世祖本紀9,「[至元十九年秋七月癸酉]宣慰孟慶元・万戸孫勝夫使爪哇回、為忙古帯所囚、詔釈之」
  19. ^ 丹羽1953,115-116頁
  20. ^ 杉山2014B,140頁
  21. ^ ジャワ島に派遣され、入れ墨をされて送還された人物の名前について、『元史』巻210ジャワ伝は「孟右丞」、同巻162高興伝は「孟琪」とそれぞれ記し、一定しない。一方、世祖本紀には南宋攻略に活躍した「孟祺」なる人物の記録が散見し、この人物と「孟右丞」を同一人物とする説もある(『新元史』など)。しかし、丹羽友三郎は(1)「孟祺」は巻伝において「至元18年に病死した」と明記されること、(2)至元18年から19年にかけてジャワに使者として派遣された「孟慶元」という人物がいることを指摘し、「孟右丞」の名前は「孟祺」ではなく「孟慶元」とするのが正しいだろう、と論じている(丹羽1972)
  22. ^ 丹羽1953,117-118頁
  23. ^ 松岡1924,96頁
  24. ^ 『元史』巻162列伝49史弼伝,「[至元]二十六年……冬、入朝、時世祖欲征爪哇、謂弼曰『諸臣為吾腹心者少、欲以爪哇事付汝』。対曰『陛下命臣、臣何敢自愛』」
  25. ^ 丹羽1953,118頁
  26. ^ 丹羽1953,124-125頁
  27. ^ 『元史』巻210列伝97爪哇伝,「爪哇在海外、視占城益遠。自泉南登舟海行者、先至占城而後至其国。其風俗土産不可考、大率海外諸蕃国多出奇宝、取貴於中国、而其人則醜怪、情性語言与中国不能相通。世祖撫有四夷、其出師海外諸蕃者、惟爪哇之役為大」
  28. ^ 丹羽1953,80頁
  29. ^ モンゴル史研究者の杉山正明は、「もともと二線級・三線級の将官が割り当てられていた江南進駐軍の中でもさらに下級の者が起用された」とする。また、「クビライ中央政府が本気で軍事侵攻を考えるならば、もっと別の顔ぶれで、もっと本格の編成となったことだろう」とも述べている(杉山2014B,140頁)
  30. ^ 『元史』巻210列伝97爪哇伝,「至元二十九年二月、詔福建行省除史弼・亦黒迷失・高興平章政事、征爪哇。会福建・江西・湖広三行省兵凡二万、設左右軍都元帥府二・征行上万戸四、発舟千艘、給糧一年・鈔四万錠、降虎符十・金符四十・銀符百・金衣段百端、用備功賞」
  31. ^ a b c 丹羽1953,98頁
  32. ^ 丹羽1953,81-82頁
  33. ^ 丹羽1953,111頁
  34. ^ 丹羽1953,85-86頁
  35. ^ 丹羽1953,89-90頁
  36. ^ 『元史』巻17世祖本紀14,「[至元二十九年二月]戊寅、立征行左・右軍都元帥府、都元帥四、副都元帥二。上万戸府達魯花赤四・万戸皆四・副万戸八・鎮撫四、各佩虎符」
  37. ^ 「御批通鑑輯覧」巻92はジャワ遠征軍の規模「兵三万」とすることから兵数は3万だったと論じる説もあるが、丹羽友三郎は「御批通鑑輯覧」よりも『元史』の方が史料価値は高く信用できるとして三万説を否定している
  38. ^ 丹羽1974,4-8頁
  39. ^ 丹羽1974,10-11
  40. ^ 丹羽1974,12-14
  41. ^ 『元史』巻17世祖本紀14,「[至元二十九年春正月]庚子……禁商賈私以金銀航海」
  42. ^ 『元史』巻17世祖本紀14,「[至元二十九年六月]癸未、以征爪哇、暫禁両浙・広東・福建商賈航海者、俟舟師已発後、従其便」
  43. ^ 丹羽1953,127-128頁
  44. ^ 設置日を『元史』は12日、『経世大典』は8日として食い違うが、これは8日に命令が出され、12日に実施に移されたものと解釈される(丹羽1953,80頁)
  45. ^ 『元史』巻162列伝49史弼伝,「二十九年、拝栄禄大夫・福建等処行中書省平章政事、往征爪哇、以亦黒迷失・高興副之、付金符百五十・幣帛各二百、以待有功」
  46. ^ 『元史』巻162列伝49高興伝,「二十九年、復立福建行省、拜右丞。爪哇黥使者孟琪、詔興為平章政事、与史弼・亦黒迷失、帥師征之、賜玉帯・錦衣・甲冑・弓矢・大都良田千畝」
  47. ^ 『元史』巻17世祖本紀14,「[至元二十九年]七月庚申朔、詔以史弼代也黒迷失・高興、将万人征爪哇、仍召三人者至闕」
  48. ^ なお、イグミシュ伝の記述はこのクビライとの謁見を指すとみられる(丹羽1953,128頁)
  49. ^ 丹羽1953,127頁
  50. ^ 『元史』巻210列伝97爪哇伝,「亦黒迷失等陛辞。帝曰『卿等至爪哇、明告其国軍民、朝廷初与爪哇通使往来交好、後刺詔使孟右丞之面、以此進討』。九月、軍会慶元。弼・亦黒迷失領省事、赴泉州。興率輜重自慶元登舟渉海。十一月、福建・江西・湖広三省軍会泉州。十二月、自後渚啓行」
  51. ^ 丹羽1953,130-131頁
  52. ^ 丹羽 1953,132頁
  53. ^ 丹羽 1953,133-134頁
  54. ^ 『元史』巻131列伝18亦黒迷失伝,「二十九年、召入朝、尽献其所有珍異之物。時方議征爪哇、立福建行省、亦黒迷失与史弼・高興並為平章。詔軍事付弼、海道事付亦黒迷失、仍諭之曰『汝等至爪哇、当遣使来報。汝等留彼、其餘小国即当自服、可遣招来之。彼若納款、皆汝等之力也』。軍次占城、先遣郝成・劉淵諭降・速木都剌・不魯不都・八剌剌諸小国」
  55. ^ 丹羽1953,134-135頁
  56. ^ 丹羽1953,134-136頁
  57. ^ なお、『島夷志略』は「ゲラム島に到着したモンゴル軍は強風によってほとんどの舟を失ったために、この地で新たに舟を建造し病人などは置き去りにしてしまった」とする。しかし現地で建造した小舟のみで遠征軍全体をジャワ島まで運ぶことは不可能であり、島夷志略の記述は事実を誇張したものと見ざるを得ない。あるいは、ゲラム島に駐留した遠征軍の中の一分遣隊のみが強風被害を受け新たに小舟の建造を行ったのではないかと考えられる(丹羽1953,136-137頁)
  58. ^ 『国朝文類』巻41征伐爪哇,「三十年正月十八日、至拘欄山、議方略」
  59. ^ 『元史』巻210列伝97爪哇伝,「二月、亦黒迷失・孫参政先領本省幕官並招諭爪哇等処宣慰司官曲出海牙・楊梓・全忠祖、万戸張塔剌赤等五百餘人、船十艘、先往招諭之。大軍継進於吉利門」
  60. ^ 丹羽1953,137-138頁
  61. ^ 『国朝文類』巻41征伐爪哇,「二月六日亦黒迷失・孫参政先領本省幕官並招諭爪哇等処宣慰司官曲出海牙・楊梓・全忠祖・万戸張塔剌赤等五百餘人、船十艘、往招諭。議定後七日、大軍継進於吉利門相候」
  62. ^ 『国朝文類』巻41征伐爪哇,「十三日、弼興進至爪哇之杜並足、与亦黒迷失等議、分軍下岸水陸並進」
  63. ^ 『元史』巻210列伝97爪哇伝,「三十年正月、至構欄山議方略。二月、亦黒迷失・孫参政先領本省幕官並招諭爪哇等処宣慰司官曲出海牙・楊梓・全忠祖、万戸張塔剌赤等五百餘人、船十艘、先往招諭之。大軍継進於吉利門。弼・興進至爪哇之杜並足、与亦黒迷失等議、分軍下岸、水陸並進」
  64. ^ 松岡1924,106頁
  65. ^ a b 丹羽1953,145頁
  66. ^ 鑽は錐などを揉むことを意味し、先鋒船あるいは切り込み船を意味する単語とみられる(丹羽1953,146頁)
  67. ^ 『元史』巻210列伝97爪哇伝,「弼与孫参政帥都元帥那海・万戸甯居仁等水軍、自杜並足由戎牙路港口至八節澗。興与亦黒迷失帥都元帥鄭鎮国・万戸脱歓等馬歩軍、自杜並足陸行。以万戸申元為前鋒。遣副元帥土虎登哥、万戸褚懐遠・李忠等乗鑽鋒船、由戎牙路、於麻喏巴歇浮梁前進、赴八節澗期会」
  68. ^ 丹羽1953,144-145頁
  69. ^ 丹羽1953,148頁
  70. ^ a b c 丹羽1953,144頁
  71. ^ ジャワ側の史料には索敵に来た「ジャヤカトワンの第一大臣」が夜に乗じて逃れ、残された数百隻の船をモンゴル軍が接収したとの記述があり、「謀臣の希寧官」とはまさに「ジャヤカトワンの第一大臣」を指すとみられる(丹羽1953,148頁)
  72. ^ 『元史』巻210列伝97爪哇伝,「招諭爪哇宣撫司官言爪哇主壻土罕必闍耶挙国納降、土罕必闍耶不能離軍、先令楊梓・甘州不花・全忠祖引其宰相昔剌難答吒耶等五十餘人来迎。三月一日、会軍八節澗。澗上接杜馬班王府、下通莆奔大海、乃爪哇咽喉必争之地。又其謀臣希寧官沿河泊舟、観望成敗、再三招諭不降。行省於澗辺設偃月営、留万戸王天祥守河津、土虎登哥・李忠等領水軍、鄭鎮国・省都鎮撫倫信等領馬歩軍水陸並進。希寧官懼、棄船宵遁、獲鬼頭大船百餘艘。令都元帥那海・万戸甯居仁・鄭珪・高徳誠・張受等鎮八節澗海口」
  73. ^ 丹羽1953,146頁
  74. ^ 丹羽1953,146-147頁
  75. ^ 青山2001,209頁
  76. ^ ウィジャヤは王の従兄弟であったの孫、ラージャはジャヤカトワン王の息子であった(松岡1924,94頁)
  77. ^ 『パララトン』には「その時、ダハからの大軍が来襲し、彼らは音を立てないようにして、太鼓と旗を持たないで、ラウォルを目指して Pingir-Raksa から(来た)。シッダに到着すると、[彼らは]休息しないでシンガサリに進撃した」とある。「Pingir-Raksa」は「境界の塁壁」を意味し、今のLaksa川に相当する。シッダは位置不明であるが、この別動隊は現kawi 山南麓をダハからトゥマペルに向かう道を進んだものと見られる(仲田1969,12頁)
  78. ^ 松岡1924,98頁
  79. ^ 仲田1969,12頁
  80. ^ クルタナガラ王は後に「シヴァ神とブッダの世界に入滅した者」として祀られたという(青山2001,207頁)
  81. ^ a b 仲田1969,7頁
  82. ^ 松岡1924,99頁
  83. ^ a b c 仲田1969,8頁
  84. ^ 松岡1924,100頁
  85. ^ 1294年9月11日づけクダドゥ出土銅板刻文には「大王はマドゥラへ逃れたいと欲した(mungsire Madura ista cri maharaja)」とあり、大王=ウィジャヤが保護を求めてクダドゥからマドゥラに逃れたのは事実のようである(仲田1969,5頁)
  86. ^ 松岡1924,102-103頁
  87. ^ 松岡1924,107頁
  88. ^ a b 仲田1969,11頁
  89. ^ ただし、ウィジャヤの連合の申し出の背景として『元史』がジャヤカトワン王とウィジャヤの対立を強調するのに対し、『パララトン』はまずウィジャヤにジャワ統一の意志があって、これを果たすためにウィラーラージャの助言に従ってモンゴル軍を利用したのだとする(仲田1969,4-5頁)
  90. ^ 古ジャワ語刻文には「ウィラーラージャがクルタナガラ王の善良なる弟子であった」との記述があり、そもそもウィラーラージャがマドゥラに左遷されてきたということ自体が疑わしい。また、本当に上記のような約束をしたのであればクルタナガラ王の本拠であったダハこそウィラーラージャが受け取るべき土地であるところを、実際にはウィジャヤの腹心の部下ソラに与えられていることから、 このような約束が実際にあったとは考えがたい(仲田1969,6-7頁)
  91. ^ a b 仲田1969,19頁
  92. ^ a b c 丹羽1953,154頁
  93. ^ 『元史』巻210列伝97爪哇伝,「大軍方進、土罕必闍耶遣使来告、葛郎王追殺至麻喏巴歇、請官軍救之。亦黒迷失・張参政先往安慰土罕必闍耶、鄭鎮国引軍赴章孤接援。興進至麻喏巴歇、却称葛郎兵未知遠近、興回八節澗。亦黒迷失尋報賊兵今夜当至、召興赴麻喏巴歇」
  94. ^ 『元史』巻210列伝97爪哇伝,「七日、葛郎兵三路攻土罕必闍耶。八日黎明、亦黒迷失・孫参政率万戸李明迎賊於西南、不遇。興与脱歓由東南路与賊戦、殺数百人、餘奔潰山谷。日中、西南路賊又至、興再戦至晡、又敗之」
  95. ^ なお、『パララトン』は「タタルからの使者の到着後、ダハを攻撃した。タタルからの軍は北から攻め、マドゥラからの軍はマジャパヒトからのそれと共に東から攻めた」と記しており、西(北)と東からダハを挟撃したという点では一致するが、ウィジャヤが単独で動いていたどうかという点では相違する。『元史』高興伝では高興がウィジャヤの裏切りを常に警戒していたことが記されており、ウィジャヤは高興と行動をともにしていたとする『元史』の記述の方が正しいとみられる。また、マドゥラからの軍が単独で参戦したとも考え難い(仲田1969,11頁)
  96. ^ a b 仲田1969,13頁
  97. ^ 「昔剌八的昔剌丹不合」は「昔剌八的・昔剌丹不合」と二人の人名に解釈されることもあるが、仲田は前半の「昔剌八的」をÇrī Patihという官名と解釈し、また後半の「昔剌」をÇī(王族への敬称)と見て、最後の丹不合はmundarangの誤記であると推定する。『パララトン』ではジャヤカトワンのPatihはクボ=ムンダランとされることも、昔剌八的昔剌丹不合=Çrī Patih Çri Kebo-mundarang説を裏付ける(仲田1969,14-15頁)
  98. ^ モンゴル軍の撤退後、ソラはダハのPatihに、 ナムビはマジャパヒトのPatihにそれぞれ任命されたことがSukamrta刻文によって確認され、両人は間違いなく実在の人物である(仲田1969,14頁)
  99. ^ 『パララトン』には「ハジのカトンは何をすべきか知らず当惑した。その時、事実、タタル人により北から攻撃され、クボ=ムンダランは東からの軍を待ち伏せ、パンルットはソラにより殺され、クボ=ルブはナムビにより殺され、クボ=ムンダランはランガ=ラウェ(Rangga-Lame)と対戦し、クボ=ムンダランは敗れて、トウリニ=パンティの谷へ追跡され、ランガ=ラウェにより殺された」 と記されている。仲田はこの『パララトン』の記述と、『元史』高興伝の「哈只葛当(ジャヤカトワン)の子の昔剌八的・昔剌丹不合(クボ=ムンダラン)は山谷に逃れ入り、高興は単独で千人を率い山谷に深く入り、昔剌丹不合を捕虜とした(哈只葛当子昔剌八的・昔剌丹不合、逃入山谷、興独帥千人深入、虜昔剌丹不合)」という記述が同じ戦闘(山谷=トウリニ=パンティの谷での戦闘)を指す物であると指摘する(仲田1969,13-14頁)
  100. ^ 丹羽1953,155頁
  101. ^ 『元史』巻210列伝97爪哇伝,「十五日、分軍為三道伐葛郎、期十九日会答哈、聴砲声接戦。土虎登哥等水軍泝流而上、亦黒迷失等由西道、興等由東道進、土罕必闍耶軍継其後。十九日、至答哈。葛郎国主以兵十餘万交戦、自卯至未、連三戦、賊敗奔潰、擁入河死者数万人、殺五千餘人。国主入内城拒守、官軍囲之、且招其降。是夕、国主哈只葛当出降、撫諭令還」
  102. ^ なお、『パララトン』はジャヤカトワンの敗北について 「ハジのジャヤカトワンは北方で戦い、楯を奪われ、タタル人により攻撃され、その結果捕らえられ、彼はタタル人により捕虜にされた。ラーデンのウィジャヤは急いでダハの城内に入り、年下の王女を連れ出し、その後(彼女を)マジャパヒトへ連れ去った」と記載している
  103. ^ なお、ジャヤカトワン王がどの時点で死んだかは史料によって記述が異なり、ジャワ語史料では『パララトン』が「ジャヤカトワン王は西/北から来襲したモンゴル軍によってダハ北方で捕らえられた」とするのに対し、NKは「(ウィジャヤは)タタル人と連合して、ジャヤカトワンを討ち、皆殺しにした」と述べ、ダハ攻防戦で死んだかのように記す。また、漢文史料の『元史』でもジャワ伝は「国主が出降」したとするのに対し、高興伝は「後に捕らえた国王を処刑した」とあって記述が食い違う。仲田1969は諸史料を総合して、ジャヤカトワンはダハ北方の戦いでモンゴル軍に捕らえられた後、4月19日のウィジャヤの背反時に高興によって息子のÇrī Patih Çri Kebo-mundarangとともに殺されたとするのが史実に近いと考証している(仲田1969,15頁)
  104. ^ 『元史』ジャワ伝では「卯(6時前後)から未(午後2時前後)」、史弼伝には「自旦自午(正午12時前後)」に戦ったとそれぞれ記されている(丹羽1953,152頁)
  105. ^ 仲田1969,15頁
  106. ^ 丹羽1953,150-151頁
  107. ^ 丹羽1953,157頁
  108. ^ 『元史』巻162列伝49高興伝,「三十年春、浮海抵爪哇。亦黒迷失将水軍、興将歩軍、会八節澗、爪哇主婿土罕必闍耶降。進攻葛郎国、降其主哈只葛当、事見弼伝。又諭降諸小国。哈只葛当子昔剌八的・昔剌丹不合、逃入山谷、興独帥千人深入、虜昔剌丹不合。還至答哈城、史弼・亦黒迷失已遣使護土罕必闍耶帰国、具入貢礼。興深言其失計。土罕必闍耶果殺使者以叛、合衆来攻、興等力戦、却之、遂誅哈只葛当父子以帰」
  109. ^ 丹羽1953,158頁
  110. ^ 『元史』巻162列伝49史弼伝,「土罕必闍耶乞帰易降表、及所蔵珍宝入朝、弼与亦黒迷失許之、遣万戸担只不丁・甘州不花、以兵二百人護之還国。土罕必闍耶於道殺二人以叛、乗軍還、夾路攘奪」
  111. ^ 丹羽1953,159頁
  112. ^ a b 仲田1969,16頁
  113. ^ 松岡1924,108頁
  114. ^ 仲田1969,18頁
  115. ^ もっとも、モンゴル側の史料(『元史』)には王女の受け渡しに関する記述が全くなく、上記の逸話は史実かどうか疑わしい(仲田1969,18頁)
  116. ^ また、1305年のBalawi刻文ではクルタナガラ王の四王女の名前を 1.Bangli 2. Malaya 3. Madura 4. Tanjung-pura としているが、これは明らかにバリ島・スマトラ島・マドゥラ島・カリマンタン島というジャワ周辺諸島を意識した名称となっている。すなわち、クルタナガラ王の四王女にまつわる逸話は、ウィジャヤがモンゴル軍撃退後にジャワ島外に支配権を確立していく過程を象徴的に語るために創出された逸話ではないかとみられる(仲田1969,18頁)
  117. ^ 丹羽1953,160頁
  118. ^ 『元史』巻131列伝18亦黒迷失伝,「三十年、攻葛郎国、降其主合只葛当。又遣鄭珪招諭木来由諸小国、皆遣其子弟来降。爪哇主婿土罕必闍耶既降、帰国復叛事、並見弼伝。諸将議班師、亦黒迷失欲如帝旨、先遣使入奏、弼与興不従、遂引兵還、以所俘及諸小国降人入見、帝罪其与弼縦土罕必闍耶、没家貲三之一」
  119. ^ 『元史』巻162列伝49史弼伝,「四月二日、遣土罕必闍耶還其地、具入貢礼、以万戸捏只不丁・甘州不花率兵二百護送。十九日、土罕必闍耶背叛逃去、留軍拒戦。捏只不丁・甘州不花・省掾馮祥皆遇害。二十四日、軍還」
  120. ^ 丹羽1953,160-161頁
  121. ^ 丹羽1953,163頁
  122. ^ 松岡1924,109頁
  123. ^ 丹羽1953,164-165頁
  124. ^ 丹羽1953,161頁
  125. ^ 『元史』巻162列伝49史弼伝,「得哈只葛当妻子官属百餘人、及地図戸籍・所上金字表以還。事見史弼・高興伝」
  126. ^ 『元史』巻162列伝49史弼伝,「弼自断後、且戦且行、行三百里、得登舟、行六十八日夜、達泉州、士卒死者三千餘人。有司数其俘獲金宝香布等、直五十餘万、又以没理国所上金字表、及金銀犀象等物進、事具高興及爪哇国伝。於是朝廷以其亡失多、杖十七、没家貲三之一」
  127. ^ 『元史』巻17世祖本紀14,「[至元三十年八月]庚寅勅福建行省放爪哇出征軍帰其家」
  128. ^ 『元史』巻17世祖本紀14,「[至元三十年十二月]庚子、平章政事亦黒迷失・史弼・高興等無功而還、各杖而恥之、仍没其家貲三之一」
  129. ^ 『元史』巻162列伝49高興伝,「詔治縦爪哇者、弼与亦黒迷失皆獲罪、興独以不預議、且功多、賜金五十両」
  130. ^ 丹羽1953,165頁
  131. ^ 丹羽1953,165-166頁
  132. ^ a b 丹羽1953,166頁
  133. ^ 『元史』巻18成宗本紀1,「[至元三十一年夏四月]戊申……詔存恤征黎蛮・爪哇等軍」
  134. ^ 『元史』巻18成宗本紀1,「[至元三十一年九月]癸丑、詔有司存恤征爪哇軍士死事之家」
  135. ^ 丹羽1953,167-168頁
  136. ^ 『元史』巻162列伝49史弼伝,「元貞元年、起同知枢密院事、月児魯奏『弼等以五千人、渡海二十五万里、入近代未嘗至之国、俘其王及諭降傍近小国、宜加矜憐』。遂詔以所籍還之、拝栄禄大夫・江西等処行中書省右丞」
  137. ^ 丹羽1953,167頁
  138. ^ a b 青山2001,210頁
  139. ^ 『元史』巻18成宗本紀1,「[元貞元年九月]丁亥,爪哇遣使来献方物」
  140. ^ 『元史』巻19成宗本紀2,「[大徳元年冬十月]乙卯、爪哇遣失剌班直木達奉表来降」
  141. ^ 『元史』巻19成宗本紀2,「[大徳二年]九月己丑……交趾・爪哇・金歯国各貢方物」
  142. ^ 『元史』巻20成宗本紀3,「[大徳四年六月]甲子……吊吉而・爪哇・暹国・蘸八等国二十二人来朝、賜衣遣之」
  143. ^ 『元史』巻27英宗本紀1,「[延祐七年三月]壬午……爪哇遣使入貢」
  144. ^ 『元史』巻28英宗本紀2,「[至治三年二月]戊辰……天寿節、賓丹・爪哇等国遣使来貢」
  145. ^ 『元史』巻29泰定帝本紀1,「[泰定二年二月]辛卯……爪哇国遣其臣昔剌僧迦里也奉表及方物来朝貢」
  146. ^ 『元史』巻30泰定帝本紀2,「[泰定三年二月]甲戌……爪哇国遣使貢方物」
  147. ^ 『元史』巻30泰定帝本紀2,「[泰定四年十二月]乙卯、爪哇遣使献金文豹・白猴・白鸚鵡各一」
  148. ^ 丹羽1953,173頁
  149. ^ 青山2001,211頁
  150. ^ 丹羽1953,172頁
  151. ^ 例えば日本と大元ウルスの関係では、「蒙古襲来」直後は確かに両国の往来が激減したが(榎本2020,175-176頁)、14世紀初頭に入って私的な交易が爆発的に増えた(榎本2020,183-184頁)。一つの指標として、日本列島と中国大陸を往復した仏教僧の数は南宋時代に年平均1.1人だったものが元代は年平均4.1人となり、4倍近く増加している(榎本2020,204-205頁)
  152. ^ 杉山2010,214-215頁
  153. ^ a b 杉山2014B,141頁
  154. ^ 愛宕1970,31,頁
  155. ^ 『永楽大典』巻19418站赤,「十七日、尚書阿難答都事別不花等。奏平章沙不丁。上言今年三月奉旨遣兀魯䚟阿必失呵火者。取道馬八児往阿魯渾大王位下。同行一百六十人。内九十人已支分例。餘七十人聞是諸官所贈遺。及買得者。乞不給分例口粮。奉旨勿与之」
  156. ^ 愛宕1970,29-30頁
  157. ^ 訳文は愛宕1971,146-147頁より引用
  158. ^ 訳文は佐口1971,120頁より引用
  159. ^ 佐口1971,118-121頁
  160. ^ 深見2001,121-122頁
  161. ^ 至順3年(1332年)3月1日、83人の使者が訪れた記録がある(丹羽1953,174頁)
  162. ^ 丹羽1953,49-50頁
  163. ^ 丹羽1953,47頁
  164. ^ 青山 2001,215頁より引用
  165. ^ 青山2001,212頁
  166. ^ 深見2001,116頁


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