ライバル関係の背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/22 14:48 UTC 版)
「サッカーにおけるイングランドとスコットランドのライバル関係」の記事における「ライバル関係の背景」の解説
「サッカーの歴史」も参照 1863年、フットボール・アソシエーション(FA) によってサッカーのルールが取り決められて形式化された。1870年までに、FAで秘書を務めていたチャールズ・ウィリアム・アルコックはグラスゴー・ヘラルド紙を含むスコットランドの各新聞に、スコットランド対イングランドの国際試合の選手募集広告を掲載した。しかし、「アソシエーションルールの信奉者はスコットランドの鋼の前では敵兵に値しない」というスコットランドの公衆からの反応もあった。アルコック会長はこれらの試合でプレーする権利を「ツイード川(イングランド-スコットランドの国境を流れる川)の北側にいるか南側にいるかに限らず、すべてのスコットランド人選手に開かれている」と強調したが、実際にはスコットランド代表選手の全員がイングランドに居住するスコットランド人で構成された。1870年と1871年の対戦は国際サッカー連盟(FIFA)から正式に認知されているわけではないが、スコッツマン紙は「国際試合」と表現し、グラスゴー・ヘラルド紙は「真の国際サッカー試合」と表現した。この2試合はただ「世界で初めて行なわれたサッカーの国際試合」だっただけではなく、チーム戦術が例証された試合でもあった。例えば、1870年11月19日の試合の観衆は、この試合を「多くの連携プレーが見られた試合」とみなしており、1871年2月25日の試合に出場した選手(アルコックを含む)は「ゴールを生むために選手が協力していた」と記している。 スコットランド勝利 引き分け イングランド勝利 1870年から1872年に行われたイングランドとスコットランドの試合結果日付場所ホームチームスコアアウェーチーム大会1870年3月5日 ロンドン, ジ・オーバル イングランド 1–1 スコットランド 親善試合 1870年11月19日 1–0 1871年2月25日 1–1 1871年11月17日 2–1 1872年2月24日 1–0 1872年10月3日にFAによって記された覚え書きには、「スコットランドにおけるサッカーのさらなる発展のため、(イングランドは)本シーズン中にグラスゴーにチームを送ってスコットランド代表と対戦すべきと決定された」ことが記されている。1872年12月2日のスコッツマン紙によれば、当時のスコットランドに存在するサッカークラブは約10クラブだけだった。この時期の国際試合はスコットランドのサッカー人口増加に貢献した。国際サッカー連盟(FIFA)によって認められている初の国際試合は1872年11月30日、スコットランドの祝日であるセント・アンドルーズ・デイに、西スコットランドクリケットクラブのホームスタジアムであるパルティック地区のハミルトン・クレセントで行なわれた。当時のスコットランドでもっとも成功を収めていたクイーンズ・パークFCの選手がそのままスコットランド代表となった。入場料は1シリングであり、4,000人が観戦した試合はスコアレスドローに終わった。1873年3月8日、今度はイングランドで対戦が行なわれ、イングランドのアレクサンダー・ボンサーが国際試合における初得点を記録し、イングランドが4-2で勝利した。この試合以後、スコットランドとイングランドの対戦は年1回の定期戦となり、両国で交互に開催された。1874年の試合は再びハミルトン・クレセントで行なわれ、2-1で勝利したスコットランドが初勝利を記録した。1870年代後半にはスコットランドが3連勝し、特に1878年の試合では7-2で大勝した。
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