ラサ島の利権争いと資源調査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 21:19 UTC 版)
「恒藤規隆」の記事における「ラサ島の利権争いと資源調査」の解説
水谷新六の甥が持参した石が優良なリン鉱石であったというニュースは、まず三重県四日市で肥料商を経営していた九鬼紋七のところに伝わった。全国肥料取次所の職員の一人が、リン鉱石発見のニュースとラサ島の調査開発計画を携えて九鬼のところへ赴いたのである。この職員は早速九鬼から資金援助を受けてラサ島へ向かったものの、船はラサ島に辿り着くことなく失敗に終わった。 もちろんラサ島の開拓許可を受けていた玉置半右衛門も鉱業権を主張した。こうしてラサ島の鉱業権を巡る争奪戦が始まった。1907年8月、恒藤は肥料鉱物調査所からの部下である松岡操を責任者とする調査隊をラサ島に派遣した。調査団の中には九鬼の部下と玉置半右衛門の子、鎌三郎も同乗した。調査団の乗る船はなかなかラサ島を発見できず、到着後も原生林に覆われた島内の調査は難航したが、島内の測量、探鉱を行い、リン鉱石数トンを採集して帰還した。 ラサ島から持ち帰った数トンのリン鉱石は、恒藤の要請により某肥料会社の手によって実際に肥料として製造された。出来上がった肥料の品質は、当時輸入されていた、クリスマス島やオーシャン島のリン鉱石から製造した肥料と同等のものとなった。 ラサ島の鉱業権を巡っては、ラサ島の話を恒藤に持ち込んだ水谷新六も争奪戦に参加した。恒藤によれば水谷は権利獲得を目指して有力政治家、実業家をバックに様々な策を弄したという。水谷はまず西沢吉治と組んでラサ島の開発を行おうした。西沢は清との国際問題となって東沙諸島の開発事業から撤退を余儀なくされ、次のターゲットとしてラサ島を狙っていた。1909年8月には水谷が島の借地権を所有し、西沢が資金提供を行って開発を進める計画であると報道された。水谷の構想は更にエスカレートし、1910年2月には玉置半右衛門、九鬼紋七、西沢吉治、そして水谷の4名が合同で、資本金50万円の沖大東島開発を行う株式会社を設立する予定となっていると報道された。 一方恒藤はラサ島のリン鉱石開発開始に向けて布石を打っていく。1910年11月、恒藤は支援者らとともにラサ島のリン鉱石開発、尖閣諸島での鳥糞の採集、種子島でのオレンジ栽培、台湾高雄でのサトウキビ栽培と肥料工場、製糖工場の建設を目的とした日本産業商会を設立して理事長に就任する。日本産業商会設立直後の11月、恒藤は第2回のラサ島リン鉱石探査のための調査団を派遣した。第1回の時と同様に過酷な環境に苦しみながらも、調査の結果、リン鉱石資源が予想以上に有望であることを確認した。なお当初、第2回調査時は調査後そのまま鉱山開発に着手する予定であったが、過酷な環境下での鉱山開発に調査団全員が拒絶反応を示したため、鉱山開発に着手することなく帰還した。 2回のラサ島での探査の結果、リン鉱石資源が極めて有望であることが明らかになって権利問題はより一層紛糾した。ついには横浜の某外国商館からニュースを聞きつけたロンドンの某シンジケートがラサ島のリン鉱石資源に手を伸ばそうとしているとの情報が流れるに至った。恒藤は貴重な日本の資源が外国資本に攫われては一大事と、日本産業商会の関係者らとラサ島の鉱業権取得のため奔走した。玉置と水谷には示談金を支払うなど権利の回収を進めた結果、1911年初頭には恒藤は全ての権利掌握に成功する。
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