ルソン島の戦いとは? わかりやすく解説

ルソン島の戦い

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ルソン島の戦い(ルソンとうのたたかい)は、1945年1月6日から(日本の)終戦までフィリピンルソン島で行われた、日本軍第14方面軍:司令官 山下奉文大将)とアメリカ軍の陸上戦闘のことを言う。首都マニラは3月にアメリカ軍が制圧したが、その後も終戦まで戦闘が続いた。日本軍に機甲師団が配属されていたため、太平洋戦線では珍しく多くの戦車戦が発生した。


  1. ^ The Offiicial Chronology of the US Navy in World War II
  2. ^ a b c 高木俊朗『陸軍特別攻撃隊 3』文藝春秋、2019年2月10日、337,341-342頁。 
  3. ^ 敷浪迪 「日本軍機甲部隊の編成・装備(3)」『グランド・パワー』2001年4月号、デルタ出版、45頁。
  4. ^ 矢野正美 (1993年8月5日). ルソン島敗残実記. 三樹書房 


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ルソン島の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/17 19:59 UTC 版)

テイラー (DD-468)」の記事における「ルソン島の戦い」の解説

テイラー巡洋艦護衛して1945年1月4日レイテ湾出発した翌日テイラーは2機の雷撃機陣形向かって飛んでくるのを発見した。さらに潜水艦対す警報が発せられた後、テイラー日本側の特殊潜航艇爆雷攻撃行った爆雷攻撃続きテイラーはその特殊潜航艇体当たりをかけて撃沈した艦隊リンガエン湾至り上陸作戦が行われている間、日本側はテイラー僚艦一連の激し空襲行ったが、テイラー対空砲火少なくとも2機の撃墜主張した1月終わりテイラールソン島西方海上哨戒する護衛空母巡洋艦護衛していた。 1945年2月初めから6月中旬にかけて、テイラーフィリピンスービック湾活動した2月18日から19日にかけて、テイラー掃海作業支援空挺部隊進撃啓開のために、コレヒドール島とマリヴェレス湾への激し砲撃任務参加する3月初旬テイラー艦砲射撃によって敵の沿岸防衛設備抵抗削ぐと共に掃海作業援護しミンダナオ島ザンボアンガ占領支援3月15日テイラーコレヒドール島戻り、島の西側の崖にある洞窟陣地砲撃した。なおも活動続き3月26日軽巡洋艦ボイシUSS Boise, CL-47)、フェニックスUSS Phoenix, CL-46)、駆逐艦ニコラスフレッチャーUSS Fletcher, DD-445)、ジェンキンスUSS Jenkins, DD-447)、アボット英語版と共にセブ島上陸作戦に伴う激し事前砲撃行っている。 2日マニラ見物した後、テイラーボイシフェニックス駆逐艦4隻、さらにオーストラリア海軍艦2隻と共にボルネオ島北東部の上作戦携わった。その途上、タウイタウイから筏で逃れようとしていた日本人5名を捕虜にしている。4月27日から5月3日にかけて、テイラー姉妹艦タラカン島上陸参加し上陸前上陸中の支援砲撃担当した上陸から2日後5月3日テイラーフィリピンでの任務に戻るため島を後にし、月内いっぱい訓練費やした

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ルソン島の戦い

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と号部隊」の記事における「ルソン島の戦い」の解説

連合軍ルソン島上陸迫っていると考えた第14方面軍司令官山下は、マニラ多く民間人居住しており、防衛戦には適さないため、オープン・シティとすべく、富永撤退要請した。しかし、第4航空軍司令部は、毎日特攻隊見送ってきた、悲壮な記憶が残る決戦本営クラーク飛行場見捨てて山に籠れという山下命令強く反発し富永マニラ墓場にすると決めており、「レイテ決戦をやるというか特攻隊出した決戦というからには、国家興亡かかっているから体当りやらせた。それなのに今度ルソン持久戦をやるという。これでは今まで何のために特攻隊犠牲にしたのかわからなくなる。富永部下顔向け出来んことになる。富永マニラを動かんぞ。マニラ死んで特攻隊お詫びするんだ」と主張してマニラ放棄拒否した第4航空軍参謀司令部要員軍属に至るまで、富永の「マニラ軍司令部最後まで死守する」という覚悟礼賛し、富永運命共にする覚悟司令部外郭防備強化奔走していた。 これまでの富永積極果敢な航空作戦によって、第4航空軍航空機は底を尽きつつあって機体のない搭乗員があふれる状況となっていた。富永貴重な搭乗員地上無駄に失うことを避けるために、誰よりも先に搭乗員日本送り返そう考えて輸送機で一旦台湾撤退させて、台湾から日本向かわせることとした。しかし、すでに制空権連合軍のものであり、搭乗員撤退用の輸送機連合軍戦闘機目を盗んで未明出発せざるを得ず十分に搭乗員台湾に送ることはできなかった。のちに海軍同様な搭乗員撤退作戦開始し少なくはない搭乗員とともに一部報道班員記者たちもルソン島連合軍侵攻してくる前に撤退成功している。第16飛行団率いて活躍した団長新藤も、第16飛行団壊滅状態陥る富永からマニラ呼ばれてご苦労だった。沢山、中島高橋惜し勇士ばかり戦死させたな。両戦隊長戦死させて、君だけでは飛行団戦力回復は困難と思って内地帰還し戦力回復するよう取りはからった。きみも不本意ではあろうが、なるべく早く戦力回復して、ふたたび前進してくれ、君が一日早く隷下帰るのを待っている」と優しく語りかけられて、今まで活躍報いるためとして感状ルソン壺受け取ると、富永昼食を共にし、11月23日フィリピンを後にして日本内地帰還している。飛行22戦隊についても、戦隊長坂川敏雄少佐戦死するなど、激し消耗壊滅状態に陥っており、富永先任の脇降一郎中尉以下の生存者に、日本本土へ帰還命じたが、申告のため司令部訪れたに「内地帰還するなどと言ってはいかんぞ。内地行って人員飛行機揃えてフィリピン帰ってくるのだ」「それまで富永は、首を長くして待っておるぞ」と恐縮している脇激励すると、激戦汚れきっていた脇身なり見て、「ネグロス島では不自由だったろうな」と優しく声かけし、「副官、脇森中尉は内地に行くのだから、新しい服を出してやれ」と新し軍服まで支給して感激させている。そして、いつものように富永自身も食さないよう豪勢な空中勤務専用特別食を作らせて、脇食べさせている。 フィリピンの戦い特攻は、海軍戦果ともあわせると100隻以上の連合軍艦船撃沈破しており、連合軍恐怖に陥れ、連合軍南西太平洋方面軍メルボルン海軍部は、「ジャップ自殺機による攻撃が、かなりの成果挙げているという情報は、敵にとって大きな価値があるという事実から考えて太平洋海域司令官担当海域におけるそのような攻撃について、公然と議論することを禁止し、かつ第7艦隊司令官は同艦隊その旨伝達した」と指揮下の全艦艇に対して徹底した報道管制引いたが、この検閲太平洋戦争中でもっとも厳重な検閲となっている。南西太平洋方面軍司令官マッカーサー自身関係したいわゆるバターン死の行進」について、陸軍中央から報道管制引かれ忸怩たる思い抱いており、報道管制には否定的であったが、特攻に対しては「カミカゼ本格的に姿を現した。この恐るべき出現は、連合軍海軍指揮官たちをかなりの不安に陥れ、連合国海軍艦艇至るところ撃破された。空母群はカミカゼ脅威対抗して搭載機を自らを守る為に使わねばならなくなったので、レイテ地上部隊掩護する事には手が回らなくなってしまった」と評するなどかなり警戒していたので、特攻が及ぼす大きな影響鑑みて報道管制命じている。しかし、多大な損害被りながらも、連合軍着実に進撃続けており、特攻結局のところは遅滞戦術のひとつに過ぎないことも明らかになっていた。旗艦の「ナッシュビル」は特攻離脱させられたので、軽巡洋艦ボイシ」に乗り換えたマッカーサーは、いよいよ念願ルソン島上陸着手することとした。1945年1月4日800の上艦隊支援艦隊を率い1941年本間雅晴中将上陸してきたリンガエン湾目指し進撃開始したが、そのマッカーサー艦隊立ちはだかったのが特攻機であった1945年1月4日、この日出撃する一誠全員富永は自ら鉢巻手渡して隊員一人一人熱く握手交わした出撃した一誠隊長津留中尉は、護衛空母オマニー・ベイ」に発見されることなく1,200m以内位置まで達すると急降下開始、まったく対空砲火を受けることも無くそのまま飛行甲板右舷側側激突した。火のついた航空燃料飛行甲板上に並べられ艦載機降り注いで大火災発生させ、機体搭載爆弾飛行甲板貫通して格納庫爆発したその後に「総員戦闘配置につけ」のブザー鳴ったが既に手遅れで、艦載機弾薬次々と誘爆をおこし、特攻機突入したわずか23分後には戦死者93名を残して総員退艦」が命じられた。1機で護衛空母1隻を葬った殊勲津留1回目の出撃不時着し生還しており、それから毎日戦闘指揮所にやってきては、所属する30戦闘飛行集団副官金川守雄中尉に「いい目標が出たら、いつでも出ますよ」と出撃嘆願しに来たという。出撃日も「きょうはやりますよ」と怯むことなく出撃したので、津留殊勲報告受けた金川は「とうとう彼もやりおった」と目頭が熱くなるのを覚えて津留覚悟知っていた団長青木武三少将喜んでいたという。「オマニー・ベイ」は陸軍沈めた唯一の空母となった連合軍特攻が有効と日本軍悟られないため、いくら損害出しても進むことを命じられていた。第4航空軍残存兵力結集しルソン島上陸作戦のため、リンガエン湾侵入してきた連合軍艦隊への全力特攻命じた1月5日から1月10日までの全力特攻で、海軍特攻機含めた戦果は、駆逐艦1隻、弾薬満載した輸送船1隻撃沈戦艦4隻、巡洋艦5隻、護衛空母1隻、駆逐艦5隻撃破特攻開始してからの最大戦果となったなかでも重巡洋艦ルイビル」に突入した石腸隊あるいは進襲隊の九九式襲撃機は、機体爆弾ルイビル甚大な損害与えとともに、火がついた航空燃料まき散らして、それを全身浴びたスリガオ海峡戦で第2戦艦部隊指揮したセオドラ・チャンドラー(英語版少将重篤火傷負って戦死したチャンドラー真珠湾攻撃でのアイザック・C・キッド少将第三次ソロモン海戦でのダニエル・J・キャラハン少将ノーマン・スコット少将並んで第二次世界大戦中戦死したアメリカ海軍高階級の将官となった。他にも戦艦ミシシッピ」に一誠隊(一式戦「隼」)、軽巡洋艦コロンビア」に鉄心隊あるいは石腸隊(九九式襲撃機)、がそれぞれ突入し大きな損害与えた日本軍陸海軍ともに、熟練した教官級から未熟練習生に至るまでの搭乗員が、稼働状態にある航空機のほぼ全機乗り込んでリンガエン湾連合軍艦隊襲いかかった大規模な特攻予想していた連合軍は、全空母艦載機や、レイテ島ミンドロ島進出した陸軍機も全て投入して入念にルソン島内から台湾に至るまでの日本軍飛行場爆撃し上陸時には大量戦闘機日本軍飛行場上空制圧したが、富永第4航空軍司令部は、連合軍空爆やり過ごすため、白昼には特攻機の中などに隠させて、夜間破壊され滑走路迅速に修理させ特攻機出撃させた。ときには遊歩道からも特攻機出撃させることもあったという。第4航空軍巧み特攻機運用によって、圧倒的に制空権確保していた連合軍であったが、特攻機上陸艦隊殺到するのを抑止することができなかった。また、特攻以外でも、1月7日には敵艦攻撃するため爆装して出撃していた第71戦隊四式戦闘機疾風」2機が、アメリカ陸軍航空隊エースマクガイア率いる4機の「P-38」と空戦突入マクガイアともう1機を撃墜し、両機とも生還する機体被弾多数大破)という完勝劇を演じている。 マッカーサー旗艦の「ボイシ艦上特攻機との戦闘を見つめていたが、そのうち特攻機の1機がまっすぐ「ボイシ」に向かって急降下してきた。マッカーサー付き添っていた主治医のロジャー・オラフ・エグバーグ(英語版医師らは身構えたが、その特攻機突入寸前対空砲火浴びて撃墜され特攻機爆発が「ボイシ」の艦体を揺るがせた。第4航空軍特攻地上爆撃などで何度も生命危機瀕したマッカーサーは「奴らは我々の軍艦狙っているが、ほとんどの軍艦一撃くらっても、あるいは何発もの攻撃受けて耐えうるだろう。しかし、もし奴らが我々の兵員輸送船これほど猛烈に攻撃してきたら、我々は引き返すしかないだろう」と特攻上陸作戦成否左右させかねない懸念示し上陸部隊支援していた第77.2任務指揮官ジェシー・B・オルデンドルフ少将は「日本軍特攻機大した妨害受けず攻撃実施することが可能のように見受けられる」「これ以上さらに損害を受けると、現在の作戦及び今後重要な作戦に、重大かつ不利な影響与えかも知れない」「特攻機輸送艦攻撃した場合その結果悲惨なものになるかもしれない」という切実な戦況報告行ったが、日本軍陸海軍ともにこの攻撃でほぼ航空機使い果たしてしまい、こののち散発的な攻撃しかできなかった。陸軍フィリピンにおける最後特攻出撃となったのが1月13日となり、この日、精華隊の2機の四式戦「疾風」が出撃、うち1機が護衛空母サラマウア」に命中機体爆弾次々と甲板貫通し最下甲板まで達し搭載爆弾機関室英語版)で爆発。そのため、サラマウア操舵航行不能となり、発生した火災格納庫炎上し95名の死傷者を出すなど甚大な損傷被った沈没逃れた最後まで特攻大損害を被ったアメリカ軍のなかでは、日本軍フィリピンにあと100機の特攻機保有していたら、連合軍進攻を何ヶ月遅らせることができたという評価もある。

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