ルソン島の戦い
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ルソン島の戦い(ルソンとうのたたかい)は、1945年1月6日から(日本の)終戦までフィリピン・ルソン島で行われた、日本軍(第14方面軍:司令官 山下奉文大将)とアメリカ軍の陸上戦闘のことを言う。首都マニラは3月にアメリカ軍が制圧したが、その後も終戦まで戦闘が続いた。日本軍に機甲師団が配属されていたため、太平洋戦線では珍しく多くの戦車戦が発生した。
- 1 ルソン島の戦いとは
- 2 ルソン島の戦いの概要
- 3 背景
- 4 両軍の損害
- 5 参考文献
- 6 関連項目
ルソン島の戦い
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「テイラー (DD-468)」の記事における「ルソン島の戦い」の解説
テイラーは巡洋艦を護衛して1945年1月4日にレイテ湾を出発した。翌日、テイラーは2機の雷撃機が陣形に向かって飛んでくるのを発見した。さらに潜水艦に対する警報が発せられた後、テイラーは日本側の特殊潜航艇に爆雷攻撃を行った。爆雷攻撃に続き、テイラーはその特殊潜航艇に体当たりをかけて撃沈した。艦隊がリンガエン湾へ至り、上陸作戦が行われている間、日本側はテイラーと僚艦に一連の激しい空襲を行ったが、テイラーの対空砲火は少なくとも2機の撃墜を主張した。1月の終わり、テイラーはルソン島西方海上を哨戒する護衛空母と巡洋艦を護衛していた。 1945年2月初めから6月中旬にかけて、テイラーはフィリピンのスービック湾で活動した。2月18日から19日にかけて、テイラーは掃海作業の支援と空挺部隊の進撃路啓開のために、コレヒドール島とマリヴェレス湾への激しい砲撃任務に参加する。 3月初旬、テイラーは艦砲射撃によって敵の沿岸防衛設備の抵抗を削ぐと共に掃海作業を援護してミンダナオ島ザンボアンガ再占領を支援。3月15日、テイラーはコレヒドール島に戻り、島の西側の崖にある洞窟陣地を砲撃した。なおも活動は続き、3月26日に軽巡洋艦ボイシ(USS Boise, CL-47)、フェニックス(USS Phoenix, CL-46)、駆逐艦ニコラス、フレッチャー(USS Fletcher, DD-445)、ジェンキンス(USS Jenkins, DD-447)、アボット(英語版)と共にセブ島へ上陸作戦に伴う激しい事前砲撃を行っている。 2日間マニラを見物した後、テイラーはボイシ、フェニックス、駆逐艦4隻、さらにオーストラリア海軍艦2隻と共にボルネオ島北東部への上陸作戦に携わった。その途上、タウイタウイから筏で逃れようとしていた日本人5名を捕虜にしている。4月27日から5月3日にかけて、テイラーと姉妹艦はタラカン島上陸に参加し、上陸前と上陸中の支援砲撃を担当した。上陸から2日後の5月3日にテイラーはフィリピンでの任務に戻るため島を後にし、月内いっぱいを訓練に費やした。
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ルソン島の戦い
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連合軍のルソン島上陸が迫っていると考えた第14方面軍司令官の山下は、マニラは多くの民間人が居住しており、防衛戦には適さないため、オープン・シティとすべく、富永に撤退を要請した。しかし、第4航空軍司令部は、毎日特攻隊を見送ってきた、悲壮な記憶が残る決戦本営のクラーク飛行場を見捨てて山に籠れという山下の命令に強く反発し、富永もマニラを墓場にすると決めており、「レイテで決戦をやるというから特攻隊を出した。決戦というからには、国家の興亡がかかっているから体当りをやらせた。それなのに今度はルソンで持久戦をやるという。これでは今まで何のために特攻隊を犠牲にしたのかわからなくなる。富永が部下に顔向け出来んことになる。富永はマニラを動かんぞ。マニラで死んで、特攻隊にお詫びするんだ」と主張してマニラ放棄を拒否した。第4航空軍の参謀ら司令部要員も軍属に至るまで、富永の「マニラ軍司令部を最後まで死守する」という覚悟を礼賛し、富永と運命を共にする覚悟で司令部外郭の防備強化に奔走していた。 これまでの、富永の積極果敢な航空作戦によって、第4航空軍の航空機は底を尽きつつあって機体のない搭乗員があふれる状況となっていた。富永は貴重な搭乗員を地上で無駄に失うことを避けるために、誰よりも先に搭乗員を日本に送り返そうと考えて、輸送機で一旦台湾に撤退させて、台湾から日本に向かわせることとした。しかし、すでに制空権は連合軍のものであり、搭乗員撤退用の輸送機は連合軍戦闘機の目を盗んで未明に出発せざるを得ず、十分に搭乗員を台湾に送ることはできなかった。のちに海軍も同様な搭乗員撤退作戦を開始し、少なくはない搭乗員とともに、一部の報道班員の記者たちもルソン島に連合軍が侵攻してくる前に撤退に成功している。第16飛行団を率いて活躍した団長の新藤も、第16飛行団が壊滅状態に陥ると富永からマニラに呼ばれて「ご苦労だった。沢山、中島、高橋と惜しい勇士ばかり戦死させたな。両戦隊長を戦死させて、君だけでは飛行団の戦力回復は困難と思って、内地に帰還して戦力回復するよう取りはからった。きみも不本意ではあろうが、なるべく早く戦力を回復して、ふたたび前進してくれ、君が一日も早く隷下に帰るのを待っている」と優しく語りかけられて、今までの活躍に報いるためとして感状とルソン壺を受け取ると、富永と昼食を共にし、11月23日にフィリピンを後にして日本内地に帰還している。飛行第22戦隊についても、戦隊長の坂川敏雄少佐が戦死するなど、激しい消耗で壊滅状態に陥っており、富永は先任の脇森降一郎中尉以下の生存者に、日本本土への帰還を命じたが、申告のため司令部を訪れた脇森に「内地に帰還するなどと言ってはいかんぞ。内地に行って、人員、飛行機を揃えて、フィリピンに帰ってくるのだ」「それまで富永は、首を長くして待っておるぞ」と恐縮している脇森を激励すると、激戦で汚れきっていた脇森の身なりを見て、「ネグロス島では不自由だったろうな」と優しく声かけし、「副官、脇森中尉は内地に行くのだから、新しい服を出してやれ」と新しい軍服まで支給して脇森を感激させている。そして、いつものように、富永自身も食さないような豪勢な空中勤務者専用の特別食を作らせて、脇森に食べさせている。 フィリピンの戦いで特攻は、海軍の戦果ともあわせると100隻以上の連合軍艦船を撃沈破しており、連合軍を恐怖に陥れ、連合軍南西太平洋方面軍のメルボルン海軍部は、「ジャップの自殺機による攻撃が、かなりの成果を挙げているという情報は、敵にとって大きな価値があるという事実から考えて、太平洋海域司令官は担当海域におけるそのような攻撃について、公然と議論することを禁止し、かつ第7艦隊司令官は同艦隊にその旨伝達した」と指揮下の全艦艇に対して徹底した報道管制を引いたが、この検閲は太平洋戦争中でもっとも厳重な検閲となっている。南西太平洋方面軍司令官のマッカーサーは自身が関係したいわゆる「バターン死の行進」について、陸軍中央から報道管制を引かれて忸怩たる思いを抱いており、報道管制には否定的であったが、特攻に対しては「カミカゼが本格的に姿を現した。この恐るべき出現は、連合軍の海軍指揮官たちをかなりの不安に陥れ、連合国海軍の艦艇が至るところで撃破された。空母群はカミカゼの脅威に対抗して、搭載機を自らを守る為に使わねばならなくなったので、レイテの地上部隊を掩護する事には手が回らなくなってしまった」と評するなどかなり警戒していたので、特攻が及ぼす大きな影響を鑑みて報道管制を命じている。しかし、多大な損害を被りながらも、連合軍は着実に進撃を続けており、特攻は結局のところは遅滞戦術のひとつに過ぎないことも明らかになっていた。旗艦の「ナッシュビル」は特攻で離脱させられたので、軽巡洋艦「ボイシ」に乗り換えたマッカーサーは、いよいよ念願のルソン島上陸に着手することとした。1945年1月4日に800隻の上陸艦隊と支援艦隊を率い、1941年に本間雅晴中将が上陸してきたリンガエン湾を目指して進撃を開始したが、そのマッカーサーの艦隊に立ちはだかったのが特攻機であった。 1945年1月4日、この日出撃する一誠隊全員に富永は自ら鉢巻を手渡して、隊員一人一人と熱く握手を交わした。出撃した一誠隊隊長津留洋中尉は、護衛空母「オマニー・ベイ」に発見されることなく1,200m以内の位置まで達すると急降下を開始、まったく対空砲火を受けることも無くそのまま飛行甲板の右舷側側に激突した。火のついた航空燃料が飛行甲板上に並べられた艦載機に降り注いで大火災を発生させ、機体と搭載爆弾は飛行甲板を貫通して格納庫で爆発した。その後に「総員戦闘配置につけ」のブザーが鳴ったが既に手遅れで、艦載機と弾薬が次々と誘爆をおこし、特攻機が突入したわずか23分後には戦死者93名を残して「総員退艦」が命じられた。1機で護衛空母1隻を葬った殊勲の津留は1回目の出撃で不時着して生還しており、それから毎日戦闘指揮所にやってきては、所属する第30戦闘飛行集団の副官金川守雄中尉に「いい目標が出たら、いつでも出ますよ」と出撃を嘆願しに来たという。出撃日も「きょうは、やりますよ」と怯むことなく出撃したので、津留の殊勲の報告を受けた金川は「とうとう彼もやりおった」と目頭が熱くなるのを覚えて、津留の覚悟を知っていた団長の青木武三少将も喜んでいたという。「オマニー・ベイ」は陸軍が沈めた唯一の空母となった。 連合軍は特攻が有効と日本軍に悟られないため、いくら損害を出しても進むことを命じられていた。第4航空軍は残存兵力を結集し、ルソン島上陸作戦のため、リンガエン湾に侵入してきた連合軍艦隊への全力特攻を命じた。1月5日から1月10日までの全力特攻で、海軍の特攻機を含めた戦果は、駆逐艦1隻、弾薬を満載した輸送船1隻撃沈、戦艦4隻、巡洋艦5隻、護衛空母1隻、駆逐艦5隻撃破と特攻開始してからの最大の戦果となった。なかでも重巡洋艦「ルイビル」に突入した石腸隊あるいは進襲隊の九九式襲撃機は、機体や爆弾でルイビルに甚大な損害を与えるとともに、火がついた航空燃料をまき散らして、それを全身に浴びたスリガオ海峡戦で第2戦艦部隊を指揮したセオドラ・チャンドラー(英語版)少将が重篤な火傷を負って戦死した。チャンドラーは真珠湾攻撃でのアイザック・C・キッド少将、第三次ソロモン海戦でのダニエル・J・キャラハン少将とノーマン・スコット少将と並んで、第二次世界大戦中に戦死したアメリカ海軍最高階級の将官となった。他にも戦艦「ミシシッピ」に一誠隊(一式戦「隼」)、軽巡洋艦「コロンビア」に鉄心隊あるいは石腸隊(九九式襲撃機)、がそれぞれ突入し大きな損害を与えた。日本軍は陸海軍ともに、熟練した教官級から未熟の練習生に至るまでの搭乗員が、稼働状態にある航空機のほぼ全機に乗り込んで、リンガエン湾の連合軍艦隊に襲いかかった。大規模な特攻を予想していた連合軍は、全空母の艦載機や、レイテ島、ミンドロ島に進出した陸軍機も全て投入して、入念にルソン島内から台湾に至るまでの日本軍飛行場を爆撃し、上陸時には大量の戦闘機で日本軍飛行場上空を制圧したが、富永ら第4航空軍司令部は、連合軍の空爆をやり過ごすため、白昼には特攻機を林の中などに隠させて、夜間に破壊された滑走路を迅速に修理させ特攻機を出撃させた。ときには遊歩道からも特攻機を出撃させることもあったという。第4航空軍の巧みな特攻機の運用によって、圧倒的に制空権を確保していた連合軍であったが、特攻機が上陸艦隊に殺到するのを抑止することができなかった。また、特攻以外でも、1月7日には敵艦を攻撃するため爆装して出撃していた第71戦隊の四式戦闘機「疾風」2機が、アメリカ陸軍航空隊のエース、マクガイア率いる4機の「P-38」と空戦に突入、マクガイアともう1機を撃墜し、両機とも生還する(機体は被弾多数で大破)という完勝劇を演じている。 マッカーサーは旗艦の「ボイシ」艦上で特攻機との戦闘を見つめていたが、そのうち特攻機の1機がまっすぐ「ボイシ」に向かって急降下してきた。マッカーサーに付き添っていた主治医のロジャー・オラフ・エグバーグ(英語版)医師らは身構えたが、その特攻機は突入寸前に対空砲火を浴びて撃墜され、特攻機の爆発が「ボイシ」の艦体を揺るがせた。第4航空軍の特攻や地上爆撃などで何度も生命の危機に瀕したマッカーサーは「奴らは我々の軍艦を狙っているが、ほとんどの軍艦は一撃をくらっても、あるいは何発もの攻撃を受けても耐えうるだろう。しかし、もし奴らが我々の兵員輸送船をこれほど猛烈に攻撃してきたら、我々は引き返すしかないだろう」と特攻は上陸作戦の成否を左右させかねないと懸念を示し。上陸部隊を支援していた第77.2任務群指揮官ジェシー・B・オルデンドルフ少将は「日本軍の特攻機は大した妨害も受けずに攻撃を実施することが可能のように見受けられる」「これ以上さらに損害を受けると、現在の作戦及び今後の重要な作戦に、重大かつ不利な影響を与えるかも知れない」「特攻機が輸送艦を攻撃した場合、その結果は悲惨なものになるかもしれない」という切実な戦況報告を行ったが、日本軍は陸海軍ともにこの攻撃でほぼ航空機を使い果たしてしまい、こののちは散発的な攻撃しかできなかった。陸軍のフィリピンにおける最後の特攻出撃となったのが1月13日となり、この日、精華隊の2機の四式戦「疾風」が出撃、うち1機が護衛空母「サラマウア」に命中、機体と爆弾は次々と甲板を貫通し最下甲板まで達し、搭載爆弾は機関室(英語版)で爆発。そのため、サラマウアは操舵、航行不能となり、発生した火災で格納庫も炎上し、95名の死傷者を出すなど甚大な損傷を被ったが沈没は逃れた。最後まで特攻で大損害を被ったアメリカ軍のなかでは、日本軍がフィリピンにあと100機の特攻機を保有していたら、連合軍の進攻を何ヶ月か遅らせることができたという評価もある。
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