ロシア将校時代
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「カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム」の記事における「ロシア将校時代」の解説
カリシュで2年勤務した後、1891年1月にサンクトペテルブルクで皇后マリア・フョードロヴナの近衛騎兵(英語版)として異動した。マンネルヘイムは187cmと長身であり、そのことが宮廷行事の際に有利に働いた。1896年にはニコライ2世の戴冠式において目立つ場所の警護を任されることになった。 マンネルヘイムはサンクトペテルブルクの社交界に受け入れられたが、経済的な負荷がかかった。1892年、伯爵夫人の仲介でマンネルヘイムはアナスタシア・アラフォヴァ(Анастасия Арапова)と結婚した。アナスタシアはロシア少将ニコライ・アラポフの遺児で、農園を所有した裕福な貴族であり、家計の問題は無くなった。1893年に長女アナスタシエ、1895年に次女ソフィーが生まれ、3人目は男児であったが死産であった。娘のアナスタシエは後にカトリックに改宗し、ロンドンでカルメル会の修道女となった。マンネルヘイムとアナスタシアの結婚生活は1902年には別居という形で非公式に終わりを迎え、1919年に正式に民事離婚した。 1904年まで近衛騎兵を勤めたが、1897年から1903年にかけては王室厩舎に出向していた。王室厩舎は馬に関する帝国全体の管理を行う部門であり、マンネルヘイムはより専門的な馬の知識を習得し、他国から優れた種馬や特別な軍馬を調達した。1903年に展覧騎兵中隊に任じられ、騎兵連隊の装甲訓練委員の一員となった。妻と別れてから経済的状況は再び悪化し、ギャンブルの負けによってさらに加速した。マンネルヘイムは環境を変えることで解決を図り、日露戦争が勃発すると前線勤務を志願して受理された。 1904年の10月、満州のパーヴェル・ミシチェンコ指揮下の第52ネージン竜騎兵連隊へ中佐昇進と共に配属された。マンネルヘイムは奉天会戦において騎兵2個隊と軽装歩兵を指揮してロシア軍右翼で警戒と偵察を行い、乃木希典の第三軍の行動を捉えるなどの功績を挙げ、終戦後の12月に大佐へと昇進した。次の任務として、内モンゴルの長期間の偵察を任され、計画と準備を行ったが実行されなかった。ロシア第一革命のストライキでシベリア鉄道の輸送が遅れ、1906年1月にサンクトペテルブルクに戻ると私的な長期休暇が認められ、親類の住むフィンランドやスウェーデンを訪れた。その間にマンネルヘイムは男爵分家の代表としてフィンランド議会に参加した。
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