ロシア正教会の歴史とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ロシア正教会の歴史の意味・解説 

ロシア正教会の歴史

(ロシア正教史 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/12 04:58 UTC 版)

ロシア正教会の歴史では、キリスト教独立正教会のひとつであるロシア正教会の歴史を扱う。


注釈

  1. ^ この時期(10世紀)は、東西教会の分裂の象徴的年代とされる1054年より以前のことであり、オリガは「正教会から洗礼を受けた」というよりは「キリスト教の洗礼を受けた」というべきだとする見解も有力である。しかしながら東西教会の分裂の始まりを800年カール大帝の戴冠に求める見解もあるのであり、そもそも東西教会の分裂は、年代を確定できるような事象ではなく、両教会は徐々に分離したものである(詳細は記事:東西教会の分裂を参照、参考となる文献…久松英二『ギリシア正教 東方の智』第二章「教会分裂の始まり」 講談社選書メチエ (2012/2/10) ISBN 9784062585255)。この時代、すでにコンスタンティノープル(コンスタンティノポリス、コンスタンディヌーポリ)の教会とローマの教会の溝は深まっており、オリガがコンスタンティノープル教会から洗礼を受けたことが、のちのルーシが正教会を導入する始まりとなったことは間違いない。したがって本項では折衷的記述として、オリガが受けた洗礼を「キリスト教正教会)」からのものと表現する。
  2. ^ 1988年に挙行された「ロシア正教千年祭」は、988年をロシア正教会の出発点とする考えに基づいている。
  3. ^ 「ルーシ」の語義を巡っては、「キエフ(ウクライナ読みでは「キイウ」)・ペレヤスラヴリなどが存在するドニエプル川中流域」という狭義の語義のみが主張される場合があるが、本稿では参考文献(三浦清美『ロシアの源流』p19 - p20, 講談社選書メチエ、2003年 ISBN 978-4-06-258274-2)に従い、「ルーシ」の語義を広義のものとして扱い、「東スラブ人のキリスト教(正教)的政治共同体とその影響領域の全体」とする。
  4. ^ ルーシにおける正教の初期の歴史はこのように現在のウクライナに該当する地域で展開していたために、「ロシア正教会」の歴史ではなく「ウクライナ正教会の歴史」として捉えるべきであってロシア正教会のそれと混同してはならないという議論も存在するが、本稿ではルーシからロシアへの連関性を一定程度認めた上で記述する。
  5. ^ 「余は命令する。首長、すなわち、ローマ教会から分離し、ギリシアの典礼にしたがってきたまさにその地において、ルーシの民がラテンの典礼を遵守するよう強制されるべきである、と」:ローマ教皇ホノリウス3世(1216-1227)による1222年の宣言(山内進『北の十字軍』講談社選書メチエ・1997年・178頁による)。教皇ホノリウス3世は正教への信仰を「傲慢」と「分派行為」であるとも決め付けた。なお「北方十字軍」はルーシにとどまるものではない。
  6. ^ 遷座(せんざ)…正教会における、主教座の移動のことをいう。
  7. ^ 『ニーコン年代記』は、イヴァン・カリターウズベク・ハンから勅許状を得てウラジーミル大公国に帰還した1328年から「大いなる平和(静寂)」(ロシア語: Великая Тишина)が40年間あったと伝えている。"Тишина"(ティシナー)は、「静寂」「平穏」「平静」を含意する。
  8. ^ ヘシュカスム:静寂主義についてはグレゴリオス・パラマスの項を参照。
  9. ^ 14世紀後半までリトアニア大公国はカトリック国家となっておらず、正教とカトリックの間で自らの態度を留保することによって外交を優位に進めることを目指し、一定の成果を挙げていた。しかしながらのちにポーランドと合同し正式にカトリック国となることで、それまで態度を保留していたことによって生まれていた多数の正教徒住民と大公国の軋轢が増し、これはリトアニア衰退の原因のひとつとなった。
  10. ^ イヴァン4世は非常に複雑な性格の持ち主であってその実像は今なお謎に包まれている。詳細はイヴァン4世の項を参照。
  11. ^ 「痛悔」(つうかい)。正教会の訳語。カトリック教会の「告解」に相当するが、正教会にあっての「痛悔」は「告白」を重視するものではなく、行動を改めていくことを重視する傾向が強い。したがってこの場合、府主教フィリップが「痛悔をするよう迫った」というのは、単に「罪を告白せよ」と言ったに留まらない意味を持つ。フィリップは皇帝に文字通り、軌道修正をするよう説得したのである。
  12. ^ 総主教イェレミアス2世は、ルター派からの接触を最初期に持ったコンスタンティノープル総主教として有名である。ルター派の聖職者達はアウクスブルク信仰告白をコンスタンティノープル総主教庁に送付し、以降1576年から1581年にかけて両者の間で書簡が往復した。この書簡中でイェレミアス2世は正教会における「宗教改革」の必要性を明確に否定した。
  13. ^ 17世紀から19世紀までの正教会の西欧化を、ロシア・ウクライナ等の東スラヴ地域のみに限定するかのような認識は誤りである。東地中海においても正教会は欧化の波にさらされていた。本文で後述の通り、東地中海地域の聖職者達はオスマン帝国の下で伝統的な神学教育を受けることが許されず、西欧のローマカトリック系の大学に赴いてラテン語で教育を受ける他に高度な神学知識を獲得する方法がなかったからである。
  14. ^ 正教会では夫婦が同時に別々の修道院に入ることができるが、この例外的な規定を利用し、強力なライヴァルであったロマノフ家当主であるフョードルに対し、夫婦それぞれ修道士になることを強要したのがボリス・ゴドゥノフであった。この時、フョードル・ロマノフは修道士となり、修道名「フィラレート」を与えられた。フョードル夫妻にはすでに子がおり、これがミハイルである。このミハイルがツァーリになったことから、総主教とツァーリが親子であるという歴史上非常に珍しい事態が生じた。
  15. ^ 宗教改革も参照。本記事作成について使っている主要参考文献をはじめ正教会関係者および正教会・ロシア史の専門的な研究者の間では、ニーコン改革を「宗教改革」と呼んでいるケースは皆無である。後述の通り、西欧における宗教改革とニーコン改革とでは、あまりにも内実が異なるからであり、そもそも同じ語を使うという発想が絶無である。
  16. ^ キリロス・ルカリスは若くしてウクライナにおいて目の当りにしたカトリック教会のやり方に対し死ぬまで反感を抱き、正教会の立場を確立しようと努力した。のち30歳にしてアレクサンドリア総主教、さらには48歳の時にコンスタンティノープル総主教となる。彼のこうした思想性と熱血漢としての性質はオスマン帝国からも危険視され、最後には刺客によって絞殺されボスフォラス海峡に投げ入れられた。
  17. ^ 当時流布していた形式の尊重は、表面的な誤魔化しのレベルにとどまるものではなかった。夫婦で自室で行う毎日の就寝前の祈りにおいても、イスス・ハリストス(イエス・キリスト)に600回の祈り、生神女マリヤに100回の祈り、さらに300回の伏拝(起立姿勢からいわゆる土下座をし、また起立する方式)を、リーダーである長司祭アヴァクームとその妻が行っていたこと、そしてそれは決して珍しい物ではなかったことにもみられる通り、その形式主義は正に筋金入りのものである。それだけにそうした伝統を大事にする者達を翻意させるのは容易ではなかった。
  18. ^ F.プロコポーヴィチ…ポーランドのクラクフ、ローマ、フィレンツェに学び、カトリックに改宗したものの帰国後また正教会に戻った。1716年にピョートルから宗務規定作成のために首都に招聘された。
  19. ^ 正教会からのピョートル1世に対する評価は、【高橋保行『ギリシャ正教』講談社学術文庫】、【オリヴィエ・クレマン(訳:冷牟田修二)『東方正教会』白水社 文庫クセジュ】によく示されている。というよりも、ピョートル1世に好意的な正教会関係の文献は皆無である。
  20. ^ 精確に言えば、ベーリュスチンは著書を発行するつもりはなかったのだが、本書を受け取った人物が勝手にライプツィヒパリで出版し、それが検閲の厳しいロシアに逆輸入されて地下で流通していったものである。
  21. ^ セルギイ・ストラゴロツキーには日本の正教会を牧会した経験がある。北海道を巡回した際の著作には邦訳もある[45]。なお日本に正教会を伝道したニコライ大主教の後継者であるセルギイ・チホミーロフ府主教とは別人。
  22. ^ ちなみにコンスタンティノープル総主教はローマ教皇の訪問を受け入れるなど、比較的カトリックに対して融和的である。ただし、管轄下にあるアトス山の修道院の中には、こうしたコンスタンティノープル総主教の「西側」への融和的姿勢に激しく反発しているものもあり、コンスタンティノープル総主教管轄下の全ての教会・修道院が「親西方教会」で一枚岩である訳ではない。西方教会に比較的融和的なルーマニア正教会のダニエル総主教と、ルーマニア正教会についても、同じことが言える。

出典

  1. ^ この項の主要参考箇所:黒川知文『ロシア・キリスト教史』42頁(教文館、1999年初版)
  2. ^ a b The Holy Apostle Andrew the First-Called (Pervozvyannii)
  3. ^ 『諸聖略伝 十二月』71頁、日本ハリストス正教会府主教庁 (2004年1月発行)
  4. ^ The PriestMartyr Clement, Pope of Rome
  5. ^ The Monk John, Bishop of the Goths
  6. ^ 高橋保行 (1980, p. 123)
  7. ^ 高橋保行 (1980, p. 124)
  8. ^ 高橋保行 (1980, p. 126)
  9. ^ 三浦清美 (2003, p. 34)
  10. ^ Christianity and the Eastern Slavs Vol. I: Slavic Cultures in the Middle Ages p113, Edited by Boris Gasparov, Olga Raevsky-Hughes ISBN 9780520079458
  11. ^ Kyiv-Pechersk Lavra
  12. ^ a b c 三浦清美 (2003, p. 24)
  13. ^ a b 三浦清美 (2003, p. 28)
  14. ^ a b 三浦清美 (2003, pp. 29–30)
  15. ^ 山内進 (1997, p. 179)
  16. ^ 山内進 (1997, pp. 181–185)
  17. ^ 三浦清美 (2003, p. 31)
  18. ^ 廣岡正久 (1993, p. 62)
  19. ^ N. ゼルノーフ、宮本 (1991, p. 37)
  20. ^ 三浦清美 (2003, pp. 32–33)
  21. ^ N. ゼルノーフ、宮本 (1991, p. 31)
  22. ^ 三浦清美 (2003, p. 110)
  23. ^ ТВЕРСКАЯ ЛЕТОПИСЬ→ЧАСТЬ 1 (ЛЕТОПИСНЫЙ СБОРНИК, ИМЕНУЕМЫЙ ТВЕРСКОЮ ЛЕТОПИСЬЮ)
  24. ^ Глава III - Житие и подвиги преподобного и богоносного отца нашего Сергия
  25. ^ a b 三浦清美 (2003, p. 145)
  26. ^ クレマン、冷牟田 (1977, p. 25)
  27. ^ 高橋保行 (1980, p. 134)
  28. ^ 三浦清美 (2003, p. 148)
  29. ^ 三浦(2003: 150 - 152)
  30. ^ 全ロシアの奇蹟者府主教・聖アレクセイの生涯
  31. ^ 参考図書:栗生沢猛夫・土肥恒之(以上2人が該当項目第4章第5章の執筆者)『ロシア史』(編:和田春樹)山川出版社
  32. ^ Hieromartyr Hermogenes the Patriarch of Moscow and Wonderworker of All Russia
  33. ^ a b 術語出典:『ギリシャ正教』講談社学術文庫、87頁~89頁 1980年 ISBN 9784061585003 (4061585002)
  34. ^ I.S.ベーリュスチン著/白石治朗訳『十九世紀ロシア農村司祭の生活-付 近代ロシアの国家と教会-』中央大学出版部 1999 年、163頁
  35. ^ コワリョフ、ウサミ (1991, pp. 236–237)
  36. ^ コワリョフ、ウサミ (1991, pp. 223–224)
  37. ^ コワリョフ、ウサミ (1991, p. 156)
  38. ^ コワリョフ、ウサミ (1991, p. 146)
  39. ^ 本節の主要参考文献:高橋保行『迫害下のロシア正教会 無神論国家における正教の70年』教文館、1996年、ISBN 4764263254
  40. ^ 出典:イラリオン・アルフェエフ著、ニコライ高松光一訳『信仰の機密』88頁、東京復活大聖堂教会、2004年
  41. ^ 高橋保行 1996, p. 83.
  42. ^ 高橋保行 1996, p. 125.
  43. ^ 高橋保行 1996, p. 126.
  44. ^ 藤原潤子「現代ロシアにおける宗教的求道と「歴史」の選択 : カタコンベ正教会のネオ旧教徒たち」『宗教と社会』第14号、「宗教と社会」学会、2008年6月14日、45-68頁、NAID 110007652982 
  45. ^ 宮田洋子訳『掌院セルギイ 北海道巡回記』キリシタン文化研究会/1972
  46. ^ a b 森本良男『ソビエトとロシア』、講談社現代新書、1989年、117ページ
  47. ^ 川又(2004: 180 - 182)
  48. ^ "The Blackwell Dictionary of Eastern Christianity" Wiley-Blackwell; New edition (2001/12/5), p160 - p161, ISBN 9780631232032
  49. ^ 参考記事:Interfax 5月17日報道
  50. ^ 川又(2004: 173 - 180)
  51. ^ 参考記事:世界キリスト教情報 2006/12/11号
  52. ^ ウクライナの独立教会を承認、コンスタンティノープル ロシア反発”. 日本経済新聞 (2018年10月12日). 2021年8月18日閲覧。
  53. ^ ウクライナ正教会、ロシアから独立した新教会を設立へ”. AFP (2018年12月16日). 2021年8月18日閲覧。
  54. ^ ロシア正教会が総主教庁との関係断絶 ウクライナ正教会独立めぐり”. www.afpbb.com (2018年10月16日). 2021年8月18日閲覧。
  55. ^ ロシア正教会が「コンスタンチノープル総主教庁」と断絶 日本正教会も続く”. キリスト新聞 (2018年10月23日). 2021年8月18日閲覧。
  56. ^ Японская православная церковь будет следовать решению РПЦ”. vz.ru (2018年10月18日). 2021年8月18日閲覧。





英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ロシア正教会の歴史」の関連用語

ロシア正教会の歴史のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ロシア正教会の歴史のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのロシア正教会の歴史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS