ヴェルサイユ条約とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 方式・規則 > 法令・規則 > 条約 > 講和条約 > ヴェルサイユ条約の意味・解説 

ベルサイユ‐じょうやく〔‐デウヤク〕【ベルサイユ条約】

読み方:べるさいゆじょうやく

1919年6月連合国ドイツとの間で締結され第一次大戦戦後処理のための講和条約ベルサイユ宮殿調印された。ドイツは全植民地本土10パーセント以上を失い軍備制限を受け、多額賠償金課せられた。また、同時に国際連盟規約なども定めた


ヴェルサイユ条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/25 17:39 UTC 版)

ヴェルサイユ条約(ヴェルサイユじょうやく、: Traité de Versailles)は、1919年6月28日フランスヴェルサイユで調印された、第一次世界大戦における連合国ドイツ国の間で締結された講和条約の通称。「ベルサイユ条約」とも表記される[1][2](「」の記事も参照の事)。


注釈

  1. ^ 『中学社会 歴史』(教育出版株式会社。平成10年1月20日発行。文部省検定済教科書。中学校社会科用)p.228、
    『新しい社会 歴史』(東京書籍株式会社。平成16年2月10日発行。文部科学省検定済教科書。中学校社会科用)p.154には、「ベルサイユ条約」と記載され、
    『社会科 中学生の歴史』(株式会社帝国書院。平成20年1月20日発行。文部科学省検定済教科書。中学校社会科用)p.190には、「ベルサイユ条約」、「ベルサイユ体制」と記載されている。
    ちなみに、『日本史B 新訂版』(実教出版株式会社。平成14年1月25日発行。文部科学省検定済教科書。高等学校地理歴史科用)p.293、
    『詳説世界史 世界史B』(株式会社山川出版社。2004年3月5日発行。文部科学省検定済教科書。高等学校地理歴史科用)p.288には、「ヴェルサイユ条約」、「ヴェルサイユ体制」と記載されている。
  2. ^ フランス政府内でクレマンソーは最強硬というほどではなく、レイモン・ポアンカレ大統領など多くの閣僚は、クレマンソーと同等か、より強硬であった[18]
  3. ^ スマッツはドイツによる承認の重要性を説き、「この偉大な文書の最終的裁可は人類による承認であらねばなりません」と発言した[30]
  4. ^ ただし、ウィルソンは賠償総額を1200億金マルクに緩和する案を提出しているが、英仏の反対で実現しなかった[要出典]
  5. ^ 日本語訳文では「亜米利加合衆国、英帝国、仏蘭西国、伊太利国及日本国」[68]

出典

  1. ^ “ドイツ、第1次大戦の賠償金完済 終結から92年後”. 共同通信社. 日本経済新聞. (2010年10月4日). https://www.nikkei.com/article/DGXNSSXKA0400_T01C10A0000000/ 2023年1月9日閲覧。 
  2. ^ 第一次世界大戦と国内外の関係”. NHK for School. 10min.ボックス「日本史」. 日本放送協会. 2013年1月9日閲覧。
  3. ^ 三省堂大辞林』第三版
  4. ^ "ベルサイユ体制". 日本大百科全書(ニッポニカ) ほか. コトバンクより2023年3月2日閲覧
  5. ^ 牧野 2009, pp. 17–18.
  6. ^ 牧野 2009, p. 18.
  7. ^ 牧野 2009, pp. 24–29.
  8. ^ 牧野 2009, p. 43.
  9. ^ 牧野 2009, p. 44.
  10. ^ 牧野 2009, pp. 44–50.
  11. ^ a b 牧野 2009, p. 82.
  12. ^ 牧野 2009, p. 53.
  13. ^ 牧野 2009, p. 61.
  14. ^ 吉川 1963a, pp. 291–292.
  15. ^ 牧野 2009, pp. 92–95.
  16. ^ 牧野 2009, p. 76.
  17. ^ 牧野 2009, pp. 148–149.
  18. ^ 牧野 2009, p. 157.
  19. ^ 吉川 1963b, p. 512.
  20. ^ 吉川 1963a, p. 363.
  21. ^ 牧野 2009, pp. 143–158.
  22. ^ 吉川 1963d, pp. 210–211.
  23. ^ a b c d 吉川 1963d, p. 217.
  24. ^ 牧野 2009, p. 179.
  25. ^ 牧野 2009, p. 181.
  26. ^ 牧野 2009, p. 186.
  27. ^ 牧野 2009, pp. 186–192.
  28. ^ 牧野 2009, pp. 194–196.
  29. ^ a b 牧野 2009, p. 197.
  30. ^ 吉川 1963d, p. 218.
  31. ^ 吉川 1963d, pp. 218–219.
  32. ^ 牧野 2009, p. 201.
  33. ^ 吉川 1963d, p. 220.
  34. ^ 吉川 1963d, p. 221.
  35. ^ 吉川 1963d, p. 222.
  36. ^ オウヴァリー 2000, p. 16.
  37. ^ 牧野 2009, p. 218.
  38. ^ 牧野 2009, pp. 218–219.
  39. ^ 牧野 2009, p. 219.
  40. ^ 牧野 2009, p. 220.
  41. ^ 「ワイマル共和国」pp. 57-58 林健太郎著 昭和38年11月18日初版 中公新書
  42. ^ 牧野 2009, p. 221.
  43. ^ 牧野 2009, pp. 251–252.
  44. ^ 清水 2003, pp. 136–137.
  45. ^ 清水 2003, pp. 147–148.
  46. ^ 牧野 2009, p. 245.
  47. ^ 尾崎 2003, p. 3.
  48. ^ デンマークの民族研究家C.H.クラウセンデンマーク語版の調査に基づく
  49. ^ 尾崎 2003, p. 4.
  50. ^ 尾崎 2003, pp. 4–5.
  51. ^ a b 尾崎 2003, p. 9.
  52. ^ 北村 2011, p. 6.
  53. ^ 松川 2011, p. 112.
  54. ^ 田中 2006, pp. 59–62.
  55. ^ 中井晶夫「教皇ベネディクト15世の和平工作とドイツ帝国宰相ゲオルク・ミヒャエーリス」『上智史学』第37巻、上智大学、1992年11月、313-339頁、国立国会図書館サーチR000000004-I3481427 
  56. ^ 吉川 1963d, pp. 217–218.
  57. ^ 吉川 1963b, pp. 512, 528.
  58. ^ 牧野 2009, pp. 244–245.
  59. ^ ポール・レイノーの「回顧録」 (1963年)
  60. ^ 児島德「第二次世界大戦・ヒトラーの戦い」第一巻、文春文庫、23p
  61. ^ 福井 2016, pp. 45–49.
  62. ^ 福井 2016, pp. 49–50.
  63. ^ 牧野 2009, p. 223.
  64. ^ H.A.ヴィンクラー 1999,p401-402
  65. ^ 吉川 1963b, p. 530.
  66. ^ 福井 2016, p. 51.
  67. ^ 藤田 2007, pp. 7–8.
  68. ^ 御署名原本・大正九年・条約第一号・同盟及聯合国ト独逸国トノ平和条約及附属議定書 (国立公文書館)」 アジア歴史資料センター Ref.A03021294200 



ヴェルサイユ条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/27 02:13 UTC 版)

平和条約」の記事における「ヴェルサイユ条約」の解説

平和条約の最も著名な例は、第一次世界大戦の公式な終わりとなったヴェルサイユ条約がある。この条約一方では最も悪名高い平和条約で、歴史学者中にはドイツにおける反発ナチズム勃興つながり第二次世界大戦結果的に引き起こしたとして糾弾する者もいる。ヴェルサイユ条約により、ドイツ巨額賠償金戦勝国へ払うよう強制され第一次大戦起こした戦争責任唯一引き受けさせられ再軍備に関して厳し制限かけられたが、これがドイツ国内に深い恨み反感呼び起こした。ヴェルサイユ条約に第二次大戦引き起こした責任があるのかどうかについてはさておき、これは平和条約作ることに存在する困難を示すものである

※この「ヴェルサイユ条約」の解説は、「平和条約」の解説の一部です。
「ヴェルサイユ条約」を含む「平和条約」の記事については、「平和条約」の概要を参照ください。


ヴェルサイユ条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 01:57 UTC 版)

旧ドイツ東部領土」の記事における「ヴェルサイユ条約」の解説

第一次世界大戦終結時のヴェルサイユ条約では、ドイツ領の一部他国割譲することが強いられた中央ヨーロッパにおいて割譲されたのは以下の地域である。 ヴィエルコポルスカ(「ポーゼン州」)やポメレリア西プロイセン属す)の大半。この地域大部分は、プロイセン王国ポーランド分割獲得したもので、ヴィエルコポルスカ蜂起後に再建されポーランド第二共和国割譲された(上部シレジアの510km2と2万6000人を含む、5万3800km2と4224000人)。 モラヴィア・スレスコ州フルチーン地域英語版)をチェコスロバキア割譲(316km2または333km2、49000人) 上部シレジア東部カトヴィツェを含む)をポーランド割譲(3,214km2、965000人) 東プロイセン東北部の「メーメル地方」と呼ばれた地域フランス統治下に置かれた(後にクライペダ地方英語版)としてリトアニア併合された) ジャウダヴァ(英語版地域ポーランド割譲(492km2[要出典])。更に、東プロイセン国民投票後に、西プロイセン東部東プロイセン南部ヴァルミアとマスリア(英語版))の数ポーランド割譲された。 バルト海流入するヴィスワ川デルタ地帯ダンツィヒグダニスク)は、国際連盟部分的にポーランド管轄下におかれる自由都市ダンツィヒとなった(1893km2、1929年時点408000人)。 ヴェルサイユ条約においては明らかにポーランド語話者過半占め領域は、たとえ住民投票反対多数であってもポーランド割譲された。しかし、ポーランド内のゲルマン民族による入植正当性認め要求絶えず、当該領域ドイツ属すべきかポーランド属すべきかという問題再燃させつづけ、第二次世界大戦の原因一つとなった。[要出典]

※この「ヴェルサイユ条約」の解説は、「旧ドイツ東部領土」の解説の一部です。
「ヴェルサイユ条約」を含む「旧ドイツ東部領土」の記事については、「旧ドイツ東部領土」の概要を参照ください。


ヴェルサイユ条約(1919)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 13:23 UTC 版)

侵略」の記事における「ヴェルサイユ条約(1919)」の解説

現代国際法上における侵略の定義については西欧国際法における国際犯罪概念の発展段階により徐々に形成されてきたものであった今日の意味での「侵略aggression使用されたのは1919年のヴェルサイユ条約においてであり、231条の戦争責任条項明記されたことを端緒とする。連合国被った全ての損害責任は、aggression攻撃侵略)によって戦争ひきおこしたドイツおよびその同盟国の側にあると規定された。 The Allied and Associated Governments affirm and Germany accepts the responsibility of Germany and her allies for causing all the loss and damage to which the Allied and Associated Governments and their nationals have been subjected as a consequence of the war imposed upon them by the aggression of Germany and her allies.連合国政府ドイツおよびその同盟国侵略により強いられた戦争の結果連合国政府および国民被ったあらゆる損失損害を生ぜしめたことに対すドイツおよびその同盟国責任確認しドイツはこれを認める。 — 1919年ヴェルサイユ条約231条の戦争責任条項 この条約署名した大正9年当時日本条約文では aggression を「侵略」でなく「攻撃」と翻訳された。 その後国際連盟期における1920年国際連盟規約11条、ジュネーブ議定書ロカルノ条約(1925年)、不戦条約(1929年)などで戦争違法化が合意されつつあったものの、侵略の定義化は非常に困難であったオースティン・チェンバレン侵略を定義すれば無実のものにとっては罠となり、侵略企図する者にとっては抜け道探すための基準となると述べ、その定義化反対した。ラムゼイ・マクドナルドが「侵略責任帰着判定するの能のある者は戦後五十年を経て筆を執る歴史家であって開戦の際における政治家にあらず」と述べている。その後国際軍縮会議で一応の合意見られたのは、国際条約上の義務無視して開戦した場合侵略とされるということであったが、条約違反認定相互に意見異なるのは当然であり、問題が完全に決着したとは言い難い情況であった

※この「ヴェルサイユ条約(1919)」の解説は、「侵略」の解説の一部です。
「ヴェルサイユ条約(1919)」を含む「侵略」の記事については、「侵略」の概要を参照ください。


ヴェルサイユ条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 03:20 UTC 版)

滑空」の記事における「ヴェルサイユ条約」の解説

ただし、スポーツとしての滑空グライディング)は、第一次世界大戦後初めて、ヴェルサイユ条約が原因始まったのである。 同条約は、ドイツに対して単座航空機製造飛行厳しく制限した(ヴェルサイユ条約#軍事に関するもの)。その結果、1920~30年代には、世界各国航空界が飛行機性能向上を進めたに対してドイツ効率の高いグライダー設計飛行の向上に努め、より遠く早く飛行するために自然力利用指向した。この活動は、将来再軍備布石として、時の政府後押しされていた。後年第三帝国ジュネーブ条約破棄して第二次世界大戦準備進んだとき、グライダー研究訓練熟練した軍用機航空要員供給源となり、中にはエース・パイロットになった者が何人もいる。 詳細は「ドイツ空軍#ドイツ帝国軍航空隊」を参照

※この「ヴェルサイユ条約」の解説は、「滑空」の解説の一部です。
「ヴェルサイユ条約」を含む「滑空」の記事については、「滑空」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ヴェルサイユ条約」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ヴェルサイユ条約」の関連用語

ヴェルサイユ条約のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ヴェルサイユ条約のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのヴェルサイユ条約 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの平和条約 (改訂履歴)、旧ドイツ東部領土 (改訂履歴)、侵略 (改訂履歴)、滑空 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS