一部を黒塗りにして公開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 13:38 UTC 版)
「大正天皇実録」の記事における「一部を黒塗りにして公開」の解説
公開は2002年、2003年、2008年、2011年の4回に分けて天皇在位期間の部分を一部黒塗り(マスキング、黒のマジックペンで塗られていた)にしたうえで公開された。宮内庁は一部を黒塗りにした理由について、「個人情報の保護」「公式には発表されていない私的なものだ」としており、個人情報の非開示基準は情報公開法施行令に従ったとしている。これに対し、専門家からは「歴史への冒瀆」(御厨貴)「積極的に公開すべき」(右崎正博)だとの批判が出された。また、本実録は粗悪な和文タイプで印刷されたものであったため、公開された複写版は字が潰れている箇所が多く判読できない部分もあったという。 1回目の公開は2002年3月29日午前に宮内庁書陵部で行われ、1912年(大正元年)7月30日から1914年(大正3年)6月29日までの約2年分となる48巻-55巻の8冊計443ページで、86日分にわたって本文141箇所と見出し18箇所が黒塗りにされている。大臣の内奏、下賜金の金額、人名、イギリスへの天皇の親書の内容、天皇の病状に関する部分が黒塗りにされた。 2回目の公開は2003年3月28日午前に宮内庁書陵部で行われ、1914年(大正3年)7月2日から1921年(大正10年)6月28日までの約7年分となる56巻-76巻の21冊計1,251ページが公開された。黒塗り部分は500箇所以上となっている。 3回目の公開は2008年6月4日午前に宮内庁書陵部図書課で行われ、1921年(大正10年)7月9日から昭和2年2月の葬儀までの約5年半分となる77巻-85巻の計9冊643ページが公開された。当初は2007年度内に公表すると2008年2月9日に報道されていたが、2008年度にずれ込んだ。今回公開された約16万字のうち、黒塗りの部分は2%の約250カ所となっている。これにより天皇在位期間の部分は全て公開され、未公開は本文全85冊のうち第1巻から第47巻の47冊となった。 その後、2011年4月1日に施行された公文書管理法に伴い、2011年3月25日午前に宮内庁書陵部図書課で4回目の公開が行われ、未公開であった1879年(明治12年)8月31日の誕生から1912年(明治45年)7月30日の明治天皇崩御までの約33年分となる第1巻から第47巻と、年表、索引など10冊の計57冊4,138ページが公開された。このうち本文47冊2,786ページ、約70万字のうち黒塗り部分は約3%となっている。また、これにより本文85冊、年表2冊、索引7冊、正誤表1冊の全95冊が公開されたことになり、宮内庁が保有する全ての歴代天皇の実録が閲覧できるようになった。実録全冊本文5,098ページのうち、黒塗り部分は本文全体の約3%に減っている。当初は2002年度末までに全て公開される予定であったが、約9年かけて公開された。 2015年には、日本放送協会(NHK)が黒塗りなしで公開された昭和天皇実録と同じ基準で公開するよう宮内庁に申請した。これを受け宮内庁は、公文書管理法の定める「時の経過」の規定に鑑み、黒塗り部分の範囲を見直し、約3%だった黒塗り部分の約8割を解除して全体の約0.5%に減らしたうえで、2015年6月27日に宮内公文書館において再び公開した。本文だけで1,000か所以上黒塗りが解除されている。 現在、診断書や学業成績(明治26年7月の学習院初等科の成績順位など)といった個人のプライバシーにかかわる記述が非公開となっており、天皇在位中の記述に限っては黒塗り部分は2行分の計41文字と限定的となっている。
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