七代目
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「太鼓の達人のバトル・ミニゲーム一覧」の記事における「七代目」の解説
ミニミニゲーム以外は、「わくわく冒険ランド」でも課題として登場する。 まるバツ! 採点の達人 答案に○×を付けるゲームで、タタコンでの操作は、面と左ふちが○で右ふちが×。採点者は1Pがテツオ、2Pがはなちゃんとなっている。コースは「かんたん」「ふつう」「むずかしい」の3種類で、全25問(「かんたん」は20問)を早く採点した方が勝ちとなり、全採点にかかった時間が記録になる(但し制限時間がある)。間違えても反対のボタンを押さないと進めない。またどんかつは大音符の顔になり(多分怒っている)、テツオは舌を出し、はなちゃんは頭を叩いてくる。総合評価は全て生徒に関する文章である。ちなみにはなちゃんはミニゲーム選択時と勝利した時はメガネになる。問題は主に小学生レベルの漢字・計算などだが、音楽ゲームだけあって音楽系や、雑学的(「野球は1チーム何人か?」など)なものもある。また一部の問題は脳トレゲームの影響が見られる。裏技として、ポーズしても問題が見える時があり、それを利用して正解できることがある。 ぽいぽい雪合戦 先に3回当てた方が勝ちとなる。操作は、十字ボタンの左か○ボタン(タタコンは面)で雪玉を投げ、LRボタン(タタコンはふち)で左右によける。1人プレイではテツオを操作することになり、他のキャラがCPUになって出てくる。全3ステージで、1面ははなちゃん・2面はお面小僧(きつね)・3面はなまはげ。総合評価はそれらしい文章である。 飛べ! メカドン! ロケットを飛ばし、距離を伸ばすゲーム。まず十字ボタンの左か○(タタコンは面)でエネルギーを溜め、飛ばしてからは十字ボタン(タタコンはふち)の左右で移動し、○(タタコンは面)でパーツを分離する。パーツの分離はアナウンスされた時のみでいい。移動は障害物をよけるためである。その障害物は宇宙なのにも関わらず、タライが落ちてくることがある。2人プレイでは競争になる。総合評価は全て宇宙に関する文章である。 サンタが街にやってきた サンタクロースとなった和田どん・和田かつを操作し、深夜0時から朝6時までに寝ている子供にプレゼントを与える。 ○でプレゼントを投げて(タタコンは面)、L1R1で左右に移動+速度調整(タタコンは縁)し、基本ステージは3面までだが、時間に余裕がある場合は、タワーマンションを周る4面にも行ける。 なお、高得点の成績を取ると、本ミニゲームに使用されている「ジングルベル第765番」が演奏曲として解禁され、ゼビウスやディグダグのBGMの一部が文字通り含まれている。
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七代目
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鶴澤庄次郎 ⇒ 四代目鶴澤豊吉 ⇒ 七代目鶴澤伝吉 五代目鶴澤友次郎門弟。明治32年(1899年)2月3日61歳で没。墓所は大阪谷町八丁目妙徑寺。 豊竹山城少掾は「豊吉改傳吉と//有ますは田村歌の前の四代目豊吉改七代目/鶴澤傳吉此方は御霊文楽座に明治二十年頃/元太夫で有りし尼ヶ崎の琴声事豊竹綾太夫と名乗/出座す此時合三味線にて久々出勤あり暫時にて/休座明治三十三年二月三日死行年六十一」と記している。
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七代目
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七代目 竹澤 彌七(天保2年旧暦8月1日(1831年9月6日)- 明治9年(1876年)9月18日) 紀州の生まれ。はじめ六代目の門下で竹澤瀧造を名乗り明治2年(1869年)に大阪の堀江芝居で大三味線を弾いたのが話題となったものの、こののち大三味線が大流行して真似る者が現れたことから、大阪浄瑠璃界を追われる羽目となるが、のちに復帰。明治7年(1874年)には東京で大三味線を弾いたことで帝都でもその名が知られるようになった。
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七代目
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(生没年不詳) 竹本芝(柴)太夫 → 七代目竹本紋太夫 → 竹本綱戸(登)太夫 → 七代目竹本紋太夫 → 竹本綱戸(登)太夫 → 初代竹本津島(対馬)太夫 → 五代目竹本綱太夫 本名:大坂屋喜兵衛。屋号は加賀屋。 越中富山の出身。四代目竹本綱太夫の門弟。天保3年(1832年)4月いなり境内の文楽の芝居『彦山権現誓助剱』の大序 奥を語り竹本芝太夫として初出座。その後も天保6年(1835年)頃まで出座を続けたが、淡路座への出勤のため、上方を後にしている。天保11年(1840年)帰阪し、同年正月 大坂稲荷社内東芝居『契情小倉の色紙』に竹本綱戸太夫として出座し、「鳴戸の段 次」「箱崎松原の段」を語っている。 綱戸(登)太夫襲名の時期は明らかではないが、同年3月刊行の見立番付「三ヶ津太夫三味線人形見立角力」に「東前頭 京 芝太夫 竹本綱登太夫」と記されていることから、遅くとも天保11年には綱戸(登)太夫を名乗っていたことがわかる。 しかし、同年正月刊行の見立番付「三都太夫三味線人形見競鑑」に西前頭 大坂 柴(芝)太夫事竹本紋太夫と記されており、芝(柴)太夫から竹本紋太夫を襲名したことがわかる。一方、前述の通り3月刊行の見立番付では芝太夫から綱登太夫とあることから、芝太夫の紋太夫襲名は認められていない。これは、江戸に六代目紋太夫が存命中であったためであり、芝太夫は、紋太夫を諦め、綱登(戸)太夫を名乗った。この綱戸(登)太夫の名前は、前述の正月刊行の見立番付では惣(総)後見の筆頭に「大阪 竹本綱戸太夫」と記されており、『義太夫年表近世篇』では出座の番付を見つけることが出来ないが、よほどの重鎮であったと推察され、紋太夫を諦めた芝太夫に綱戸太夫の名跡を譲ったものと思われる。竹本紋太夫は三代目竹本綱太夫の前名であり、綱登太夫も「綱太夫に登る太夫」と読めることから、よほど竹本綱太夫への襲名に意欲を燃やしていたものと推察される(竹本濱太夫から竹本紋太夫と三代目綱太夫と同じ改名歴を誇った六代目紋太夫へのライバル意識も考えられる)。 天保12年(1841年)9月刊行の「三都太夫三味線人形改名附録」には「芝太夫改 竹本綱戸太夫」と記されており、紋太夫襲名はなかったことになっているが、綱太夫家所縁の竹本紋太夫名跡への思い断ちがたかったと見え、天保13年(1842年)8月大坂 北ノ新地芝居にて『播州皿屋敷』「鉄山屋敷の段」を竹本紋太夫として語り、七代目竹本紋太夫襲名を再び強行した。江戸の六代目紋太夫は、同年江戸 薩摩座7月29初日(8月4日初日とする史料あり)『菅原伝授手習鑑』「車争ひのだん 松王丸」「天拝山の段」を語っており、大坂と江戸に紋太夫が並立した。綱戸太夫の紋太夫は9月同座の『菅原伝授手習鑑』「寺子屋の段」、『伊賀越道中双六』「岡崎の段」を紋太夫として語っているが、同じく江戸の紋太夫も9月同座『仮名手本忠臣蔵』で十段目を語っている。この並立がいつまで続いたのかは詳らかではないが、翌天保14年(1843年)3月以前刊行の見立番付『三ヶ津太夫三味線大見立相撲』「西前頭 江戸 竹本紋太夫」「西前頭 大坂 竹本綱戸太夫」と記されており、今回の紋太夫襲名も認められることはなかった。 しかし、同年5月京 四条北側芝居『木下蔭狭間合戦』「矢はぎ橋の段 奥」を江戸登り 竹本津島太夫として語っていることから、紋太夫襲名を強行した綱戸太夫は、江戸に下り、江戸の紋太夫(六代目紋太夫)と紋太夫名跡についての話を付け、竹本津島太夫と名を改めたと推察される。 同年3月刊行『三都太夫三味線人形改名附録』に「芝太夫事 綱戸太夫改 竹本津島太夫」とあり、紋太夫はなく、綱戸太夫から初代竹本津島(対馬)太夫ということで問題の決着を見たものと思われる。しかし、続く紋太夫は、五代目綱太夫の門弟から出ていることから、江戸の紋太夫との間で、紋太夫名跡を上方に戻すという約束があったとも考えられる。 また、嘉永元年(1848年)8月刊行「次第不同 三都太夫三味線操改名録」に「芝太夫 綱戸太夫 加太夫 竹本津島太夫 加賀や」とあり、綱戸太夫から加太夫を経て津島太夫を名乗った史料もあるが、天保14年(1843年)3月以後刊行の見立番付『三ヶ津太夫三味線人形大見立』に「東前頭 竹本加太夫」「東前頭 竹本綱戸太夫」と加太夫と綱戸太夫が同時に記載され、同年に津島太夫を名乗っていることからも、竹本加太夫を名乗ったとは考えづらく、唯一可能性があるとすれば、津島太夫として大坂に登る前に江戸で綱戸太夫から加太夫を名乗り、その後に津島太夫と名を改めた…場合であるが、前述の通り見立番付に「綱戸太夫改 竹本津島太夫」と記載がある。 竹本津島太夫と竹本対馬太夫で表記にゆらぎがあり、『義太夫年表近世篇』によれば、どちらの名前も番付で見ることが出来るが、「対馬」が国号であることから、国号使用の禁止により「津島」とした理由もあるが、紋太夫襲名を強行するほど綱太夫家(の名跡)に思い入れがあったと推察され、竹本津太夫や竹本津賀太夫のように「津」の字は二代目綱太夫の営んでいた「津國屋」に由来する綱太夫家にとって大切な文字であることから、津島太夫を名乗ったと考えられる。 弘化2年(1845年)刊行の『浪華太夫三味線町々評判大見立』に西前頭〈早ふ聞に行なされ面白い事じゃ ちゃつと壱岐〉津島太夫と記されている。 弘化5年=嘉永元年(1848年)刊行の見立番付「てんぐ噺」に「古ふても出してみなされ皿屋しき是は御家の宝物なり 竹本津島太夫 鶴澤重造」とあり、前述の七代目紋太夫襲名を強行した天保13年(1842年)8月大坂 北ノ新地芝居にて語っていた『播州皿屋敷』「鉄山屋敷の段」を当たり役としていた。また、鶴澤重造とあるように初代鶴澤重造を長く相三味線としていた。 慶応元年(1865年)9月大坂 天満芝居にて太夫 竹本対馬太夫と紋下となり、二代目綱太夫ゆかりの『箱根霊験躄仇討』「滝の段 切」を語っている。続く同年11月北ノ新地芝居でも紋下に座り、こちらも二代目綱太夫場の『勢州阿漕浦』「平次住家の段」を語っている。翌慶応2年(1866年)8月座摩社内では「太夫 竹本対馬太夫 豊竹若太夫」と六代目若太夫と共に紋下に座っている。 慶応4年=治元年(1868年)7月四条道場北ノ小家『近江源氏先陣館』「盛綱陣屋の段」にて対馬太夫改五代目竹本綱太夫を襲名。翌明治2年(1869年)御りやう(御霊)芝居3月『仮名手本忠臣蔵』、4月『五天竺』に「名代 高橋竹造 太夫 竹本綱太夫」として紋下に座り出座したが、その後、堂上方(公家)へ出入りし、公家侍となり名を瓜生隼人を改め、その後、西陣辺りで風呂屋をしていたと伝わる。 『妹背山婦女庭訓』「妹山背山の段」大判事を当り役とし、生涯に6回勤め、内4回は五代目竹本春太夫が定高を勤めている。 その他にも、綱太夫代々の演物である『摂州合邦辻』「合邦内の段」『勢州阿漕浦』「平次住家の段」『伊賀越道中双六』「岡崎の段」『ひらかな盛衰記』「逆櫓の段」を得意とした他、『仮名手本忠臣蔵』「山科閑居の段」『近江源氏先陣館』「盛綱陣屋の段」『箱根霊験躄仇討』「滝の段」も度々語っている。 五代目綱太夫を「盛綱陣屋の段」で襲名した後も、『佐倉曙』「宗五郎内の段」『箱根霊験躄仇討』「滝の段」『五天竺』「長者館の段」『勢州阿漕浦』「平次住家の段」『関取二代鑑』「秋津嶋切腹の段」『本朝廿四孝』「勘助住家の段」『仮名手本忠臣蔵』「判官切腹の段」『花上野誉石碑』「志渡寺の段」等、歴代綱太夫の演物や紋下太夫に相応しい語り物を勤めている。
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七代目
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(生年不詳 - 明治17年(1884年)9月17日) 初代竹本春栄太夫 → 七代目竹本むら太夫 四代目竹本綱太夫(二代目むら太夫)の門弟である五代目竹本春太夫の門弟。大坂出身にて本名を倭保太郎という。 元治元年(1864年)7月松島文楽へ出勤し、明治9年(1876年)松島文楽座『妹背山婦女庭訓』「妹山背山の段」雛鳥で春栄太夫改七代目むら太夫を襲名。定高には先代むら太夫である四代目竹本重太夫が出演している。 明治17年(1884年)9月17日)死去。戒名は釋教思。「おしき哉行年四十二才の若死なり」と『増補浄瑠璃大系図』にある。
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七代目
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七代目 吉住 小三郎(昭和39年(1964年) - ) 東京の生まれ。六代目の長男。平成20年(2008年)に七代目吉住小三郎を襲名し家元を継承。
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七代目
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竹本操太夫(竹本津摩太夫?) ⇒ 陸奥茂太夫 ⇒ 竹本茂太夫 ⇒ 陸奥茂太夫 ⇒ 七代目竹本氏太夫 二代目竹本津賀太夫事竹本山城掾の門弟で後に五代目春太夫の門弟。四代目綱太夫の「竹本綱太夫門弟見立角力」の東関脇でもあり、四代目綱太夫の門弟でもある。五代目豊澤広助の父。もと京都西陣の機屋を営んでいた。『増補浄瑠璃大系図』は、「山四郎門弟にて播州高砂魚町に住居致して竹本津摩太夫と云後大坂に住居致し春太夫門弟と成て竹本茂太夫と云なり」とするが、天保11年(1840年)の西前頭に「操太夫事陸奥茂太夫」とあるため、前名は竹本操太夫が正しく、天保6年(1835年)正月京竹屋町長楽亭『妹背山婦女庭訓』「山の段 雛鳥」「杉坂屋」「馬子歌 口」を語る竹本操太夫がいる。しかし、二代目竹本津賀太夫の門弟であるため、「津」の字のつく竹本津摩太夫を名乗ったのも自然であるため、操太夫の前に津摩太夫を名乗ったか。いずれにせよ竹本津摩太夫は『義太夫年表近世篇』で確認できない。(竹本津満太夫は存在する) 翌天保7年(1836年)5月御霊境内『中将姫古跡の松』「三段目 切」を語っており、相当の実力者であることがうかがえる。 天保9年(1838年)10月京四条道場芝居太夫竹本綱太夫で『伊賀越道中双六』「円覚寺の段 切」と大切所作事『一〇(三つ巴の紋)七文字』を語っている。11月北の新地芝居『嫗山姥』「御殿の段」を鶴澤弁佶と勤め、大切所作事『一〇(三つ巴の紋)七文字』を勤める。これが『義太夫年表近世篇』で確認できる操太夫としての最後の出座となる。 陸奥茂太夫を襲名した経緯は不明であるものの、天保10年(1839年)9月北之新地芝居より陸奥茂太夫で出座。『本朝廿四孝』「弐段目 切」、『恋女房染分手綱』「子別れの段 切」を11歳の豊竹豆太夫(後の初代古靱太夫)と書き合いで勤め、大切 景事も語っている。陸奥茂太夫は初代義太夫(筑後掾)の高弟であり、門弟からは陸奥伊太夫(初代此太夫)がいる。二代目内匠太夫の門弟にも陸奥茂太夫がいる。翌10月竹田芝居で十二歳の陸奥操太夫が『釜淵双級巴』「中の巻」を鶴澤高麗蔵と勤めている。年齢的に息子の後の五代目廣助か(天保2年生まれ)。 以降、三代目竹本筆太夫が紋下を勤める諸座に引き続き出座する。 天保12年(1841年)正月道頓堀竹田芝居『奥州安達原』の大序を勤める竹本茂太夫と『伽羅先代萩』「御殿の段 切」を語る陸奥茂太夫が同座している。同年の「三都太夫三味線人形改名附録」には「竹本操太夫改陸奥茂太夫」とある。同年の見立番付では「東前頭京陸奥茂太夫」「東前頭大坂竹本茂太夫」が両名存在する。 天保14年(1843年)正月江戸大薩摩座へ出座。この江戸下りの期間だけ、豊竹麓太夫を名乗る。『染太夫一代記』によれば「いづれ皆々浅待、梶太夫の付添ひは古参政子事竹本中太夫、天喜茂太夫は当地だけ豊竹麓太夫と呼ぶ。付添ひは古参鶴沢市太郎、錦木太夫の付添ひには房事竹本伊勢太夫、そのほか座ならび惣一統操り頭兵吉の兄吉田千四、吉田冠二、西川伊三郎、当人弁者、長口上さわやかにのぶる。後文句に、『何とぞ麓より峠へ登り、御ヒイキの梶をえて、古里へ帰る錦の袖までも、すみからすみ迄づらりと御ヒイキの程をひとへに願ひあげ奉ります』かくの口上大当りして、やがて見物へ目見え浄るり『太功記十』麓太夫勤めをはり、後は楽屋にて梶太夫『二代鑑』のけいこはおこたりなく、あすより初日、打ち続きて興行」。ということで、陸奥茂太夫事豊竹麓太夫は『絵本太功記』「尼ヶ崎の段 切」を「御目見江出がたり」で語った。しかし、3月同座では陸奥茂太夫で出ている。12月道頓堀竹田芝居で帰阪。番付は「道奥茂太夫」となっている。同年の「三都太夫三味線人形改名附録」には「竹本操太夫改 陸奥改 竹本茂太夫」とあり、竹本姓に改姓したことになっているが、天保15年=弘化元年(1845年)正月兵庫の芝居の番付には引き続き道奥茂太夫とある。以降も陸奥茂太夫の表記になっている。同年5月道頓堀竹田芝居では『伊賀越』「岡崎の段 口」で四代目綱太夫の端場を勤める。9月京四条南側大芝居太夫竹本氏太夫と四代目氏太夫が紋下と勤める芝居に出座。同年の見立番付では西前頭1枚目竹本茂太夫となっている。 弘化2年(1846年)「浪華太夫三味線町々評判大見立」には〈東山坊じや聞すまし近江に評判喜美濃よき信濃の能声陸奥〉茂太夫とある。 弘化5年=嘉永元年(1848年)6月兵庫明石芝居太夫竹本綱太夫『五天竺』「短山寺の段」を鶴澤時蔵の三味線で竹本茂太夫が語っている。7月なんば新地まつの尾南山の素浄瑠璃公演では『阿波鳴戸』「八つ目」を子息豊澤富助の三味線で語っている。同年の見立番付も「竹本茂太夫」となっている。「三都太夫三味線操改名録」には「操太夫 茂太夫 十二屋」とある。「当時名人太夫浄瑠理一本語てんぐ噺」に「音に聞阿波の鳴戸は物すごき汐のさし引すさましきこと 道奥茂太夫 豊澤源之介」とあり、阿波鳴門を得意といたことがわかる。以降も芝居の番付も見立番付も竹本茂太夫となっている。 嘉永7年=安政元年(1854年)の見立番付には「東前頭布引滝三人上戸竹本茂太夫」とある。 安政5年(1858年)5月名古屋橘町常芝居『傾城阿波の鳴戸』「十郎兵衛住家の段 切」を陸奥茂太夫として語る(端場を竹本摩津太夫が語る)。以降再び陸奥茂太夫に表記が戻っている。 安政7年=万延元年(1860年)9月座摩社内太夫竹本山城掾藤原兼房の芝居に出座。以降師竹本山城掾が紋下を勤める芝居に出座。 元治2年=慶応元年(1865年)正月天満戎門『伊賀越』「政右衛門屋舗の段 切」で陸奥茂太夫改竹本氏太夫を襲名。慶応2年(1866年)2月まで天満戎門の芝居に出座。4月より江戸結城座に出座。『菅原伝授手習鑑』「加茂堤の段」「寺子屋の段 切」を語る。二代目竹本織太夫も出座している。8月に帰坂。座摩社内太夫竹本対馬太夫の芝居に出座。慶応3年(1867年)正月天満芝居以降は、京で出座する。 明治2年(1869年)2月天満戎門『薫樹累物語』「土橋の段 切」を語る。明治6年(1873年)5月道頓堀若太夫芝居で『浪花大汐譚』「和州弓削村の段」を語る。翌明治7年(1874年)9月松島文楽座で八代目氏太夫の襲名が行われていることからこの頃引退または没した。 子息の五代目廣助の門弟であった豊澤廣仁という三味線弾きが、後に八代目氏太夫が名乗った浦太夫を襲名している。
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七代目
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明治30年(1897年)2月2日 - 昭和26年(1951年)5月4日。常磐津十五世家元。六代目文字太夫の甥子。本名・常岡鑛之助。前名九代目常磐津小文字太夫。六代目文字太夫に実子がいなかったため妻きよの弟の子である鑛之助が家元家に養子入りする。兄は六代目常磐津政太夫。1915年1月、三代目小文太夫襲名を経て、帝国劇場9月興行「三景眺容艶」にて六代目文字太夫のワキ語りとして出演、九代目小文字太夫を襲名披露。その年、襲名記念曲として「常磐の松」が発表される。1926年養父二代目豊後大掾隠退を兼ね、5月27日、28日の両日歌舞伎座にて七代目文字太夫の襲名披露演奏会を開催する。襲名新曲として「壽松の名所」が演奏される。1927年に第1次常磐津協会を設立し、初代理事長に就任、永年にわたる常磐津宗家と三味線方岸澤家の分立を終結に導いた。1928年東京音楽学校(現東京藝術大学)の御大典記念にて「祝言式三番叟」を奏楽堂で御前演奏する。その後1941年関西に発展を目指し関西常磐津協会を設立、初代会長(理事長)も兼任する。1934年には歌舞伎座に於いて二代目豊後大掾の追善演奏会を開催。口上を市川三升(十代目市川團十郎)、六代目尾上菊五郎、七代目坂東三津五郎、四代目市川男女蔵(三代目市川左團次)が述べて、二代目花柳壽輔(壽應)が「老松」で出演した。追善新曲「松色增常磐敷島」が発表された。1940年に「定本常磐津全集(全12巻)」を刊行。1946年第2次常磐津協会を設立、初代会長に就任する。肖像画は伊藤深水作。 代表曲:「常磐の松」「廓の仇夢(権八)」「義積雪子別(佐倉宗吾郎)」「松色增常磐敷島」「壽松の名所」
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七代目
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(明治32年(1899年)4月1日 - 昭和51年(1976年)) 豊澤猿太郎 → 六代目豊澤猿糸 → 七代目豊竹岡太夫 六代目の子息。本名仁木善雄。東京生まれ。大正元年(1912年)豊澤猿之助に入門。大正4年(1915年)大阪に出て、六代目豊澤廣助の門弟となる。昭和10年(1935年)3月四ツ橋文楽座『信州川中島合戦』「輝虎配膳の段」にて二代目豊竹つばめ太夫(八代目竹本綱太夫)を弾き、猿太郎改め六代目豊澤猿糸を襲名。同年7月の明治座にて出身地東京での披露が行われ、三の替りまで二代目豊竹古靱太夫(豊竹山城少掾)を弾く。披露演目は『東海道四谷怪談』「伊右衛門住家の段 切」『菅原伝授手習鑑』「桜丸切腹の段 切」『義経千本桜』「大物ヶ浦渡海屋の段 切」他。 昭和11年(1936年)12月、二代目豊竹つばめ太夫(八代目竹本綱太夫)らと共に、新義座を結成。新義座が解散してのちは、太夫に転じ、父の名跡である豊竹岡太夫を七代目として襲名し、吉右衛門劇団のチョボ(竹本)となり、活躍した。
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七代目
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(天保10年(1839年) - 明治45年(1912年)7月23日) 初代竹本緑太夫 → 三代目竹本津太夫 → 七代目竹本綱太夫 文楽座第七代紋下(櫓下)。本名:桜井源助(桜井源助は代々が名乗る通名)。通称:法善寺。 実家は公家や雲州(出雲国)・薩州(薩摩国)に出入りする名鳥・狆を商う唐鳥屋を営んでいた。祖父は唐鳥屋松五郎といい、二代目竹本綱太夫の門弟で、素人で名を挙げていたが、師匠二代目綱太夫の営んでいた津國屋(つのくにや)から津の字を取り初代竹本津太夫を名乗る。28歳の際に二階より落ち耳が不自由となったため、津太夫の名跡を息子である小鳥屋松蔵に譲り、初代竹本蟠龍軒を名乗る。 その小鳥屋松蔵が七代目竹本綱太夫の父であり、三代目竹本綱太夫の門弟で竹本山城掾とは相弟子。父同様素人で活躍したのち、津太夫の名跡を父より譲られ二代目竹本津太夫を名乗り、後に二代目竹本蟠龍軒を名乗る。 自らの死亡記事によれば、安政3年(1856年)18歳の時に、父の縁故に依り三国屋巴太夫(三代目豊竹巴太夫)の弟子となり、巴太夫の一座で初代竹本緑太夫を名乗り初出座し、後に竹本山城掾に入門し、三代目竹本津太夫を名乗ったとするが、安政元年(1854年)10月因幡薬師境内 の芝居で「国姓爺 三ノ口」を語る竹本緑太夫が確認でき、この芝居の紋下は滑稽物語 竹本山城掾であることから、竹本山城掾に入門し初代竹本緑太夫を名乗ったと考えるのが適切である。また、死亡記事が、三国屋巴太夫(三代目豊竹巴太夫)の弟子と表現していることは、この頃大坂で巴太夫は紋下を勤めており(京の紋下は師匠竹本山城掾)、大坂の巴太夫の一座に出座するための入門と解するべきである。確かに安政4年(1857年)11月大坂竹田芝居太夫『仮名手本忠臣蔵』の芝居の紋下は豊竹巴太夫であり、「大序 鶴ヶ岡の段」を父二代目津太夫、続く「二段目 若狭之助館の段 口」を子息初代竹本緑太夫(後の三代目津太夫・七代目綱太夫)が語っている。その後も大坂で巴太夫の一座での出座が確認できる。大坂に師匠竹本山城掾の一座が来た場合はその芝居に出座している。 「私の家は祖父の代から浄るりが好きで、祖父は津太夫と云ひまして、私の父も津太夫、都合、私で三代目津太夫になるので御座います」ー本人談 その後、明治8年(1875年)11月松島文楽座『伊賀越道中双六』「沼津の段 (前半)」にて文楽座に初出座。明治22年(1889年)8月紋下に準ずる地位である「庵」に入り、重きをなす。当時の紋下であった二代目竹本越路太夫(後摂津大掾)が東京で長期公演を行っていた間に、文楽座の留守を預かり、当時のライバルであった彦六座に劣ることなく奮闘した功に報いる形で、明治24年(1891年)2月興行では文楽座第七世紋下に就任。披露狂言は『近頃河原達引』「堀川猿回しの段」。明治41年(1908年)11月28日に喀血し、静養に入る。明治43年(1910年)七代目竹本綱太夫を襲名するも、引退し、 明治45年(1912年)7月23日逝去。戒名は雲龍軒響譽津海居士。門弟に二代目豊竹古靱太夫(後の豊竹山城少掾)がいる。 ※「庵」―「明治の文楽座の庵は津太夫一人で、津太夫は紋下になるだけの技量と年功を持っていながら紋下の越路太夫を押しのけるわけにはいかぬから、紋下と同じ紋下格の意味で置いたのが庵である。」 住居を法善寺に構えていたことから、通称「法善寺」「法善寺の津太夫」と呼ばれる。 「法善寺で茶見世をしてられた師匠(津太夫)の家は、以前二代目鶴澤勝七さんがやつてられたあとへ這入られたんだと聞いてゐます。表を茶見世に使つてられたので、住居は極く手狭で、梯子段のある二畳と、奥の四畳半それだけでした。」と弟子古靱太夫が語っている通り、伴侶である鶴澤きく(初代鶴澤清六の娘)が茶見世を経営していた。その後、茶見世から「カフェーリスボン」というカフェとなり、さらに四代目清六が経営する天ぷら屋「鶴源」となった。「鶴源は天婦羅屋、大阪風の衣のややあついテンプラ、主人は文楽の三味線引きの鶴澤清六。酒は菊正。梅月や天寅に比敵する一流店であった。」と宮本又次の「法善寺界隈由来記」に記されている。鶴源の名前は、鶴澤きく(初代鶴澤清六の娘)と三代目津太夫=七代目綱太夫の本名、桜井源助からつけられており、鶴澤清六家と竹本津太夫家=竹本綱太夫家が一緒であることを表している。 伴侶は初代鶴澤清六の娘である鶴澤きくで、竹本津太夫家=竹本綱太夫家と鶴澤清六家は一緒となり、この後八代にわたり家が続き、八代目竹本綱太夫五十回忌追善での六代目竹本織太夫襲名へつながっている。主な一族に、初代豊澤新左衛門(鶴澤きくの前夫)、二代目豊澤団平(娘婿)、三代目竹本大隅太夫(娘婿)、四代目鶴澤清六(曽孫婿・名跡養子)がいる。 弟子である二代目豊竹古靱太夫は、師匠(七代目綱太夫)の養子であり自らの相三味線である四代目清六のことを「息子はん息子はん」と呼んでいたと八代目竹本綱太夫は記している。 「文楽座の直系といふと、まづ五代目春太夫を中心にして、摂津大掾の一派と、千日前の法善寺に住んでゐた故に、「法善寺」の名で呼ばれる竹本津太夫、その他文楽座土着の人々です。」 と石割松太郎が記しているように文楽系の重鎮である。 「永く因講会長として斯界の雑多の事件を摂津大掾副会長と共に円満解決を見て皆心服す。」と木谷蓬吟は記している。 明治35年(1902年)9月9日、京都河原町田中市兵衛の別荘にて、小松宮の前で『仮名手本忠臣蔵』「九段目 山科閑居の段」を御前演奏。その際に、二代目竹本越路太夫は『本朝廿四孝』「謙信館(十種香)の段」を披露、竹本摂津大掾たる令旨の仮書を拝領している。 摂津大掾が艶物を得意にしたのに対し、津太夫(綱太夫)は世話物、「沼津」「湊町」「忠臣蔵四段目」「質店」「酒屋」「兵助内」「鰻谷」「堀川」「橋本」等を得意とした。特に明治元年(1868年)の初冬に大阪で『日吉丸稚桜』「駒木山城中の段」を自暴気味に語り散らして、しかも特長を出してこれを流行させた。また『寿連理の松』「湊町の段」等上演頻度の低い作品を復活させた功績がある。 「温順で上品な楽天家。滑稽奇才に富んで、愛嬌があつた。十八番の「日吉丸」で「ほとけ様で無理いふて」を「かみゆうて」をやって大笑ひを買つたのも平気で語り終わった呑気さ、楽屋中では綽名を『お公卿様』歌舞伎見物が飯より好きで、批評が奇想天外だったといふ。」 四代目鶴澤叶(二代目鶴澤清八)『鶴澤叶聞書』にて、以下のように書き残している。 「御存じのとほり只今の文樂座の兩立物、津太夫さん、古靱太夫さん、お二人とも三代目津太夫さんの門人でゐられます。津太夫さんは後に七代目竹本綱太夫を名乘られました。通名を法善寺さんと申し上げます。南地法善寺境内にお住まひになつて御留守宅は茶店を出してゐられました。 まことに御圓滿なお方で、長らく因講の會長をなさつておいでになつて、斯界の雑多な事件を處理なされましたが、曾て津太夫さんの御處置に不服が出たことはなく、皆心服してをりました。當時副會長は攝津大掾さんでありました。 津太夫さんは優さ形で上品な御風采のお方でした。お柔和な一面にまたなかなか奇才に富んでゐられて、瓢逸なところがお有りになりました。大のおしやれで、お召物なども凝つたものを着てゐられました。夏など、當時流行つた違つた柄を染め分けにした帷子などの上に、いつも折目のくづれぬ薄ものゝ羽織を召してゐられました。お頭もあまり多からぬ髪をいつも綺麗に分けてゐられました。樂屋では「お公卿さん」と緯名してをりました。 お得意のうちでも「大江山、松太夫内」「天王寺村、兵助内」「紙治、茶屋」「沼津里」「湊町」「橋本」「守宮酒」「夏祭、團七内」「妹脊山、杉酒屋」「白石噺、吉原」「戀女房、沓掛村」「お俊傳兵衞、堀川」「忠臣講釋、喜内住家」「忠臣藏、四段目」「お妻八郎兵衞、鰻谷」「おはん長右衞門帶屋」など殊によろしかつたことを覺えてをります。 ともかくお聲は小音でも、情のよろしいことなんともいへぬところがございました。上品であつて色氣がお有りになりましたので、八重垣姫とか雛鳥とかお三輪とか、またお染とかさうしたものがなかなかよろしうございました。毎度申し上げます明治二十四年三月、文樂座に「忠臣藏」の通しが出ました時の、大評判だつた「茶屋場」の掛合は攝津大掾さん(當時二世越路太夫)のお輕、はらはら屋の呂太夫さんの平右衞門、津太夫さんの由良之助でありましたが、津太夫さんの由良之助は氣品と貫祿の備はつたまことに立派な由良之助でございました。攝津大掾さんのお輕との例の、「由良さんか」「おゝお輕か、そもじはそこに何してぞ」「わたしやお前にもりつぶされ、あんまりつらさにゑひざまし、風に吹かれてゐるわいな」の文句の掛合ひのところなどのよろしさは、全く絶品と申すほかはございませんでした。 津太夫さんは京都のお生れで、安政三年に竹本山城掾さん--近世のチヤリ語りの名人--の門に入られ、幼名を緑太夫と申され、元治元年に三代目竹本津太夫になられ、文樂座へ入座されたのは明治九年十月でありました。明治四十三年に七代目竹本綱太夫をお繼ぎになり、同四十五年七月二十三日、七十四歳でお亡くなりになりました。御趣味としては歌舞伎見物が何よりお好きであつたと聞いてをります。」
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七代目
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本名は高科正守(大正12年(1923年)- 昭和63年(1988年)5月18日)。山車造りを営む家で生まれた父・岩次郎は大正12年に六代目と養子縁組したが、翌年七代目を継ぐことなく死去。昭和5年(1930年)、六代目の死去に伴い7歳で七代目を継いだ。全国のからくり人形を直接見て回るなど独学で知識を積み上げ、各地で死蔵されていたからくりの復元に尽したとされるが、その一方で元々と違う形で「修復」することがあり、からくりの研究家などからの評価は高くないとも言われる。
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七代目
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2017年1月21日、六代目会津小鉄会会長・馬場美次は七代目会津小鉄会総裁に就任し、六代目会津小鉄会若頭四代目いろは会会長・金子利典(本名:金元)が七代目会津小鉄会会長を襲名した。 一方、六代目会津小鉄会若頭心誠会会長・原田昇もまた七代目会津小鉄会会長と名乗り、神戸山口組系と六代目山口組系の組織体が存在する事態となった。 2017年4月、京都地方裁判所は、下京区に位置する会津小鉄会本部事務所の使用禁止とする決定を出した。 2021年1月、淡海一家の事務所に於いて、弘道会竹内会長と野内若頭の下に七代目会津小鉄の金子会長が出向き、金子会長が一連の経緯から野内若頭に頭を下げ、原田氏が会津小鉄の若頭として戻り一本化した。若頭の新原氏は本部長に降格した。
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七代目
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「WORST (漫画)」の記事における「七代目」の解説
村田 将五(むらた しょうご) 七代目武装戦線頭。四代目武装戦線副頭・村田十三の弟。「加地屋中」出身。顔に刀傷あり。 天地とは中学時代からの顔見知り。顔の傷は天地につけられたもの。親友の拓海と共に中学時代から武装の集会に顔を出しており、加盟当初から次期頭として目されていたが、鉄生が目の前で事故死したのがきっかけで失意のどん底に。黄泉の梟との抗争の決着がつくまで行方をくらましていたが見事克服し、七代目頭として復活。漆黒の蠍との抗争では、天魔のKKKの姫川敬とのタイマンで圧勝し、実力の差を見せ付けた。 前頭の鉄生が感情豊かだったのに対し冷静沈着でクールな性格だが、ことケンカになれば好奇心旺盛な面もあり、E.M.O.Dとの抗争前には拓海に勝手な行動をしないよう釘を刺されていたが、敵将の前川宗春に単独で会いに行った。 腕っぷしも強く頭もキレるが仲間意識が強すぎる面もあり、六代目時代にはリトルリーグでバッテリーを組んでいた幼馴染をケガさせ、強請ろうとした狂屋の幹部・寺門を憤怒の表情で半殺しにした。また、幼馴染との会話から、中学時代に怪我をしたことで野球をやめて不良になったらしい(兄・十三の影響もあるとのこと)。 E.M.O.Dとの抗争では、頭の前川宗春とのタイマンに勝利。その後は拓海の提案でE.M.O.Dと同盟を組んだ。 花と光政のタイマンの立会人にもなったこともあり、鈴蘭の月島花、鳳仙の月本光政とは3人共に認め合っている仲で、将五自身もこの2人に刺激されている。 萬侍帝國・池島會との抗争では頭の池島長次をタイマンで倒した。その後、萬侍帝國との抗争に備え鈴蘭、鳳仙、天地軍団などに協力を頼み、慚愧の虎と同盟を結ぶ。萬侍帝國七人会との7対7のタイマン戦では最終6番手を務め、ビスコこと蛭子幸一と対決。最初の一撃でほぼ意識が飛ぶもその後4回立ち上がり、健闘するも敗北。そのタイマンで立ち会ったすべての人間が将五に男を見た。ビスコに勝った時には花とのタイマンを希望するも、叶わなかった。 冬先には、鉄生の墓前に萬侍帝國との抗争のことや十三が働いている大阪の知り合いの店に行くことを報告し、それを機に引退を決意する。 藤代 拓海(ふじしろ たくみ) 七代目武装戦線副頭。梅星一家2号室の住人。加地屋中出身で、将五・天地の同級生。容姿端麗で性格は沈着冷静、争い事は好まないが喧嘩の実力は非常に高く、知略とそれを実現する行動力に長けている。合気道のような投げ技を使う。当初は黒咲工業高校に通っていたが、2年生の時に家の都合で退学し、その後はバイク屋「フジキ」で働いている。柳と旧知の仲で、着用しているライダースジャケットは柳が五代目引退の時に譲り受けたものである。「フジキ」には、前作のメインキャラクターだった鈴蘭25期生・本城俊明(ポン)が先輩として勤めている。 高校入学前に将五らから武装入りを勧められ、その後も度々武装にスカウトされていたが、集団行動が苦手などと言って断り続けていた。鉄生の死後、「黄泉の梟」との抗争の裏に「漆黒の蠍」の暗躍があることを見抜き、抗争を止めるため武装に加入し、「慚愧の虎」の頭・晴本を仲裁に立てることで抗争を鎮め、七代目副頭となった。 萬侍帝國に対抗するためE.M.O.Dとの同盟を成立させ、戸亜留市連合と萬侍七人会とのタイマン決戦に際しては、国吉と共に萬侍副総長・谷に掛け合ってメンバーの無事を確保した。
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七代目
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(生没年不詳) 二代目豊竹巴太夫の門下で豊竹伊豆太夫、錦太夫を経て明治2年頃に七代目若太夫を襲名。1877年頃に没したという。
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七代目
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天保13年(1842年)-明治39年(1906年)。常磐津十二世家元。十一世家元六代目小文字太夫(通称・佐六文中)妻である常岡ツネ(十三世預家元・太夫文中)の養子。本名・山蔭(常岡)忠助。後の初代常磐津林中。幼少のころ和登太夫に入門し小和登太夫を許される。その後に初代豊後大掾の内弟子となり、1862年に豊後大掾が没すると初代松尾太夫の門下となる。1879年まで二代目松尾太夫を名乗っていたが、新富座座元の十二代目守田勘弥の世話で家元家に養子に入り七代目小文字太夫を襲名。1882年には1860年以来分れていた常磐津三味線方岸澤派との和解を成立させ、1884年には記念曲として「松島」を作曲。1886年以降に家元家を故あって離れたあとは、初代常磐津林中となり出勤している。豪快で自由闊達、変幻自在の語り口で近世邦楽史不出世の名人とされ、清元節家元五代目清元延寿太夫、長唄研精会を創始した四代目吉住小三郎(吉住慈恭)など他流の名人からも一目置かれる。明治39年の万朝報には「名人と称へられたるは、僅かに能楽の梅若六郎(五十二世。初世梅若実)、宝生九郎(宝生流十六世宗家)と常磐津の林中と三人なりし…」と高い評価を受けている。また、明治維新の功労者の一人である後藤象二郎は林中の語り口を非常に好んでいた。 代表曲:「釣女」「松島」「白糸」「羽衣」等
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七代目
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(生年不詳 - 万延元年7月20日(1860年9月5日)) 六代目との血縁関係は不明。五代目佐太郎が1853年に七代目傳左衛門を襲名。八代目が長男、九代目が次男。
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七代目
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鶴澤常吉 ⇒ 鶴澤小庄 ⇒ 二代目鶴澤友之助 ⇒ 五代目鶴澤豊吉 ⇒ 七代目鶴澤三二 本名:田村常吉。通称:田村歌。五代目鶴澤友次郎門弟。嘉永6年(1853年)京都市生まれ。 明治元年(1868年)7月鶴澤常吉で初出座。以降、文楽の芝居・松島文楽座に出座する。 明治2年(1869年)3月稲荷社内東芝居(文楽の芝居)で常吉改鶴澤小庄と改名。 明治6年(1873年)2月松島文楽座『義経千本桜』で小庄改二代目鶴澤友之助を襲名。 明治8年(1875年)3月まで松島文楽座に出座、以降は師匠五代目友次郎が出座する道頓堀竹田芝居へ移る。同年9月の道頓堀竹田芝居 太夫竹竹本春太夫の番付に鶴澤友之助が確認できる。 明治17年(1884年)4月松島文楽座で二代目友之助改五代目鶴澤豊吉を襲名。『國言詢音頭』「五人伐の段」で二代目長尾太夫を弾いた。 「此君帖」には明治21年七代目鶴澤三二を襲名とある。 明治27年(1894年)9月30日没。享年42歳。戒名:釋常楽。京都鳥辺山本寿寺。 一時初代豊澤團平の養子となっていた。六代目友次郎の三味線の手ほどきをした。実子に三代目鶴澤友之助。 「鶴澤豊吉ハ一時清水町團平師ノ/養子と成られし京都ノ通称田村歌と申五世友次郎/師ノ門人にて始め友之助と名乗り後ニ此二代長尾太夫ノ合/三味線となり阪地へ出座五代目豊吉を襲名其御人/で有後年七世三二を相続す明治廿七年九月三十日死/行年四十二当今の六世友次郎氏の手ほどきの/御師匠さんまた近い頃亡しました友之助の実父になり/ます」と豊竹山城少掾が記している。
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七代目 (1982年 - 1987年)
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「リンカーン・コンチネンタル」の記事における「七代目 (1982年 - 1987年)」の解説
1980年型モデルのコンチネンタルをフォード・パンサープラットフォームの採用でダウンサイジングした後、リンカーン部門は危機的な問題に直面していた。1980年初頭にコンパクトモデルにあたるリンカーン・ヴェルサイユ(英語版)が生産中止となった後、リンカーンには2車種のフルサイズセダンが残された。リンカーン・コンチネンタルとコンチネンタルマークVIは、それぞれその年の新モデルだったが機能的には全く同じ車だった。マークVIのコンチネンタル・タイヤ(英語版)のトランクリッド、ユニークなリアクォーターパネル、テールランプの異なるデザイン、リトラクタブル・ヘッドライトを除けば、この2車種にはほとんど違いがなかった。 リンカーン・コンチネンタルは1981年初頭に1982年型モデルとして再登場した。タウンカーに車名を改めた先代コンチネンタルとの差別化を図るために、リンカーンのデザイナーはコンチネンタルの名称をミッドサイズセグメントに移動させた。4ドアセダンのみの設定となったコンチネンタルはキャデラック・セビルやインペリアルを直接意識する様なバストルバック型のリアエンドが採用された。リンカーンのスタイリストたちはヴェルサイユのバッジエンジニアリングから学んだ教訓を生かし、高級モデルであるコンチネンタルをフォード・フォックスプラットフォーム(英語版)を共有するフォード・グラナダ(英語版)やマーキュリー・クーガー(英語版)と差別化するために細心の注意を払った結果、ヴェルサイユと違って目に付く部分の車体パネルは共有されていなかった。また、コンチネンタルは1984年型モデルとして登場したコンチネンタル・マークVII(英語版)とホイールベースとパワートレインを共有していた。 1981年型モデルから、すべての自動車メーカーは17文字のVINコードを使用する事が義務付けられた。最初の3桁はその車の製造元を示すWorld Manufacturer Identifier(世界製造者識別子)であり、1982-1985年型モデルのコンチネンタル4ドアセダンとタウンカーにはVINコード1MRがリンカーンの1LNとは別個に設定され、これはコンチネンタルを製造元とする事を意味していた。1986年にはフォード・モーター・カンパニーによって状況が明らかにされ、コンチネンタルのVINコードも1LNに変更されリンカーンを製造元とするようになった。
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