万延元年遣米使節
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万延元年遣米使節(まんえんがんねんけんべいしせつ)は、江戸幕府が日米修好通商条約の批准書交換のために1860年に派遣した77名から成る使節団である。1854年の開国後、最初の公式訪問団であった。また、津太夫一行以来、日本人として2度目の世界一周をした。
- ^ a b http://www.examiner.com/article/city-museum-unveils-samurai-new-york
- ^ New York Times article from June 16, 1860
- ^ “【世界を驚かせた日本人】立石斧次郎 米国女性を熱狂させた幕末の侍アイドル”. zakzak (産経デジタル). (2014年6月18日) 2017年10月1日閲覧。
- ^ 五味安郎右衛門MUH vol.27 ニュースメディア甲府 2002.10.1
- ^ 「大坂町奉行並松本寿大夫救民手宛米一件」の社会事業史的意義古川隆司、追手門学院大学社会学部紀要 2015年3月30日,第9号
- 1 万延元年遣米使節とは
- 2 万延元年遣米使節の概要
- 3 使節団員
- 4 通貨の交換比率の交渉
- 5 参考文献
- 6 関連項目
- 7 リンク
万延元年遣米使節
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万延元年(1860年)、新見は日米修好通商条約の批准書を交換する重責を担った万延元年遣米使節の正使として、副使・村垣淡路守(範正)、監察・小栗豊後守(忠順)らとともに渡米した。 1月22日に横浜でアメリカ軍艦「ポーハタン」に乗り込み、ハワイ王国のホノルルを経由して太平洋を横断、サンフランシスコにいったん寄港の後、一路パナマへと向かい、パナマ地峡鉄道で大西洋へ抜け、そこから今度はアメリカ軍艦「ロアノーク(英語版)」に乗って北上、首都ワシントンD.C.に到着したのは万延元年閏3月25日(1860年5月15日)のことだった。 ワシントンでは大統領のジェームズ・ブキャナンに謁見し、4月3日(5月23日)に国務長官のルイス・カスと批准書を交換。一行はその後フィラデルフィアやニューヨークでも熱烈な歓迎を受けた。5月12日(6月30日)にニューヨークでアメリカ軍艦「ナイアガラ」に乗船し、西回りで大西洋からインド洋に入り、9月27日(11月9日)に横浜に帰着した。新見はこの功績により300石加増され、10月には外国奉行専任となった。
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万延元年遣米使節
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「万延元年遣米使節」を参照 安政7年(1860年)日米修好通商条約批准書交換のため幕府がアメリカへ派遣する使節団の副使(正使は新見正興、目付は小栗忠順)を拝し、正月に米国軍艦ポーハタン号にて太平洋航路で出港。途中ハワイに寄港し、3月にサンフランシスコに到着。ワシントンD.C.に向かい、4月3日に批准書を交換。アメリカ合衆国大統領ジェームズ・ブキャナンと会見した。帰路はナイアガラ号にて大西洋航路をとり、南アフリカ・インドを経由して帰国、9月27日に江戸へ到着した。この間、克明な航海日誌(『村垣淡路守公務日記』、『遣米使節日記』とも)を残した。 帰国後、功績により300石を加増され、500石取となった。同年11月プロシア(プロイセン)の外交官フリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルクとの間の日普修好通商条約締結にあたり、交渉中であった堀利煕が突然謎の自刃を遂げたため、その交渉の任を引き継ぎ、翌月、日本側全権として調印に臨んだ。 文久元年(1861年)ロシア艦ポサドニック号が対馬芋崎浦を占拠するという事件(ロシア軍艦対馬占領事件)に際しては、箱館においてロシア領事ゴシケヴィチと交渉し、退去を求めた。また箱館港の砲台建設も促進した。文久3年(1863年)6月には作事奉行に転じ、翌元治元年(1864年)には西の丸留守居、若年寄支配寄合となり、一線から退く。明治元年(1868年)には病のためと称して隠居、淡叟と号した。明治維新後は官職に就かず、明治13年(1880年)に東京にて没した。享年68。墓は谷中墓地(東京都台東区)に建てられた。 遣米使節の護衛として咸臨丸に乗船した軍艦奉行・木村喜毅(芥舟)は、村垣を「機敏にして吏務に練達す」と評した。一方、福地源一郎(桜痴)は「純乎たる俗吏にて聊か経験を積たる人物なれば、素より其の器に非ず」と酷評している。
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万延元年遣米使節
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詳細は「万延元年遣米使節」を参照 7年後、江戸幕府は日本が西洋流の航海および造船技術を習得したことを世界に示すためにアメリカへ向けて「咸臨丸」を派遣した。1860年1月19日、「咸臨丸」はサンフランシスコに向かい浦賀水道を出発した。使節団の中には船長の勝海舟や中濱万次郎、福澤諭吉などが含まれていた。使節団はアメリカの船に乗りパナマを経由して首都ワシントンに向かった。使節団の目標は「今までで初めての日本の大使をアメリカに派遣すること」、「両国政府間で新しい修好通商条約を批准すること」にあった。使節団はまた、ペリーが締結した条約の条項のうち、アメリカ有利、日本不利の不平等条約条項を修正しようとしたが、失敗に終わった。 最初の駐日アメリカ合衆国大使はタウンゼント・ハリスが務めた。[要出典]二代目の大使はウィリアム・ヘンリー・スワードの政治的盟友で親しい友人であったロバート・H・プルインで、1862年から1865年まで務めた。彼は1842年から1852年までと1854年にオールバニ郡からニューヨーク州議会の議員に選出されたホイッグ党の党員であり、 1850年から1854年まで州議会議長を務めた。当時国務長官であったスワードの個人的な求めにより、エイブラハム・リンカーン大統領はプルインを駐日大使に任命し、プルインはその職を1865年まで務め、その後ニューヨーク州へと戻った。プルインが成し遂げた最も優れた業績の一つに下関戦争後の交渉を仲立ちしたことが挙げられる。プルインは将軍との取引で高い成功を収めたと考えられている。他にも、座礁した船に乗っていた日本人の船員を本国に送還することに関する合意にも署名した。
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万延元年遣米使節
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「日本とパナマの関係」の記事における「万延元年遣米使節」の解説
日本人で最初にパナマと交流を持ったのは、日米修好通商条約の批准書交換のため、江戸幕府により米国ワシントンD.C.に向かわされていた77名からなる使節団「万延元年遣米使節」の人々である。彼らは米国軍艦ポーハタン号にて太平洋を渡ってサンフランシスコに一時停泊した後、パナマを訪問。当時まだパナマ運河は開通していなかった事から大西洋側のアスピンウォール(現在のコロン)まではパナマ地峡鉄道の特別に用意された汽車で移動し、大西洋に出てワシントンD.C.やニューヨークを目指した。汽車に乗った際、副使を務めていた村垣範正は、「やがて蒸気盛んになれば、今や走り出んとかねて目もくるめくやうに聞きしかば、いかがあらんと舟とは変わりて案じける内、凄まじき車の音して走り出たり」と記している。 なお、当時パナマは大コロンビアの一地域であり、独立国ではなかった。
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