三国協商の成立とは? わかりやすく解説

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三国協商の成立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/30 22:04 UTC 版)

三国協商」の記事における「三国協商の成立」の解説

これによって外交的に孤立したロシア同じく孤立していたフランス接近し翌年1891年から1894年にかけて交渉行い1891年政治協定を、次いで1894年軍事協定成立させた(露仏同盟)。 その動き見たドイツ行動移りいわゆる3B政策(バグダード・ビザンティウム・ベルリン)を推進して西アジアへの進出図りイギリス3C政策(カイロ・ケープタウン・カルカッタ)との対立深めていった。こうなると最強イギリスの力をもってしても、西アジアにおけるドイツ東アジアにおけるロシアという二つの敵を独力で抑える事は難しくなった。長い間保持してきた「栄光ある孤立」を放棄し1902年日本日英同盟を、1904年長年宿敵フランス英仏協商結んでそれぞれロシアドイツ伸張食い止めようとした。 更に1905年日露戦争におけるロシア敗戦により、東アジアにおけるロシア伸張抑えられた今ならばロシアとの利害調整可能になる考え1907年英露協商結んだ。この露仏同盟英露協商英仏協商によって形成され三国協調関係指して三国協商呼ばれるまた、三国協商成立伴って1895年三国干渉以来のロシア・フランスによる日本イギリス同盟国)の中国大陸進出抑制路線変更迫られた。これに基づいて1907年には日仏協商及び第1次日露協商締結されて、日本三国協商枠組実質参加することになった

※この「三国協商の成立」の解説は、「三国協商」の解説の一部です。
「三国協商の成立」を含む「三国協商」の記事については、「三国協商」の概要を参照ください。

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