さんぶ‐かい〔‐クワイ〕【三部会】
三部会
三部会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/28 23:30 UTC 版)
1302年にフィリップ4世は三部会を開いて等族諸身分の支持をとりつけ、教皇ボニファティウス8世を捕らえてこれを憤死させた(アナーニ事件)。 マルク・ブロックによれば、これはボニファティウス8世の即位事情から納得できるという。すなわち教皇ニコラウス4世の死後、教皇選挙会議はオルシニ派とコロンナ派の対立によって2年の間決着がつかず、結局ケレスティヌス5世が即位したが、教皇庁を統治することができずに5か月で辞任した。その後にボニファティウス8世が即位するのだが、このときケレスティヌス5世が辞任したのはボニファティウス8世が不正手段を用いたからだという認識が当時おもに教権の敵対者を中心に存在した。 フィリップ4世はフランス人であるクレメンス5世を擁立すると、教皇庁をアヴィニョンに移転させた。以後70年間にわたり教皇庁はアヴィニョンにあってフランス王権の影響をうけた(アヴィニョン捕囚)。 クレメンス5世の時代にはテンプル騎士団がフィリップ4世によって異端として告発され、クレメンス5世はこの異端裁判において教皇側のイニシアティヴを維持しようとした。フィリップ4世は宰相ノガレに命じてテンプル騎士団員を逮捕させ、拷問などによって自白を強要して異端告発した。教皇があらためて騎士団員の取り調べをおこなうと、彼らはこれまでの自白の一切を取り消したという。教皇は裁判をやり直すこととしたが、フィリップ4世は教皇を脅迫する一方、フランス世論をたきつけてテンプル騎士団への非難をあおったとされているが、結局はフランス王権に屈服し、ヴィエンヌ公会議でテンプル騎士団の解散を宣言した。 カペー朝の断絶後、1337年に百年戦争が始まるとフランスは徐々に戦争により疲弊し、相対的に教皇庁は自立性を強めた。「アヴィニョン捕囚」期は続く教会大分裂時代とともに概して教権の没落期・低迷期と考えられる時期であるが、一方で教会の司法制度が整えられ、教権の教会法上における権限の上昇が見られた。 この時代にフランス(ガリア)の教会が教権からの独立を求めるガリカニスムという主張があらわれた。その契機と考えられるのはパリのヨアンネスである。
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