不平等条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/27 06:01 UTC 版)
不平等条約(ふびょうどうじょうやく、英語: unequal treaty)とは、条約の性質に基づいてなされた分類の一種で、ある国家が他の国家に、自国民などに対する権力作用を認めない条約である。民事事件については訴えられる側の国の司法機関、刑事事件については被疑者の国の司法機関で裁判を行うとした条約もある(治外法権)[1]
概要
19世紀から20世紀初頭にかけて、帝国主義列強はアジア諸国に対して、条約港の割譲や在留外国人の治外法権承認、領土の割譲や租借など不平等な内容の条約を押し付けた。その中には、片務的最恵国待遇もあった。憲法および法典(民法、商法、刑法など)を定めている先進国側が、それらの定められていないあるいは整備の進んでいない国において、それらを定めていないことによって被るであろう不当な権力の行使を避けるために結ばれることが多い。現刑法においても「国民以外の者の国外犯」による「日本国民に対しての罪」については、詐欺罪など一定の犯罪については、日本国は司法管轄権を持たない(刑法3条2。属人主義・属地主義も参照)。
不平等条約は、具体的には「関税自主権を行使させない」ことや「治外法権(領事裁判権)などを認めさせる」ことによって、ある国の企業や個人が、通商にかかわる法典の整備されていない国から商品を輸入する際に莫大な税金を要求されたり、軽犯罪によって死刑を被ったりすることを避けることを目的としたものである。たとえば、条約上有利な国の国民が不利な側にある国の居留民として犯罪を犯した際、その国の裁判を免れることから、重大な犯罪が軽微な処罰ですんだり、見過ごされたりする場合もあった。
元来は、オスマン帝国が恩恵的にフランス、オランダ、イギリスに対して与えていたカピチュレーションの制度において、領事裁判権その他を認めていたものだが、産業革命以後は西欧経済圏への従属を企図したものに変質していった。
歴史的には、イギリスと清国がアヘン戦争後の1842年に結んだ南京条約が近代的な意味での「不平等条約」の嚆矢となった。中国は、宣教師の駐在を許可するという名目で外国との貿易のために5港(広州、福州、廈門、寧波、上海)を開き、中国の法秩序ではなく、外交官である領事の権威によって港市の在留外国人の公正を守ろうとして「治外法権」を認めた。ただし、中国に不平等条約を押し付けることができなかった国も存在する。
日本も封建制度の体制下で欧米の近代法にある法治国家の諸原則が存在しておらず、刑事面では人権を無視した前近代的な拷問や残虐な刑罰(火あぶりなど)が存置され、民事面では自由な契約や取引関係を規制して十分な保護を与えていなかったために、欧米列強からはその対象国であると考えられていた。一方で日本の側でも海外との交流に乏しかったこともあって認識不足があり、外国人を裁く事の煩雑さを免れようとしたことと、関税という概念を十分に理解していなかったことから、結果として不平等条約を結ぶこととなった。
江戸幕府が日米和親条約や日米修好通商条約で長崎、下田、箱館、横浜などの開港や在留外国人の治外法権を認めるなどの不平等条約を結ばされ、明治初期には条約改正が外交課題となっていた。一方で明治時代に入ると、朝鮮、清に対して日朝修好条規[2]や下関条約[3]、「日清通商航海条約」[4]など不平等条約を結んだ。なお日清通商航海条約に先立って締結されていた日清修好条規は、日清両国が相互に治外法権を認めるという、欧米によって押し付けられた不平等条約の事項を、相互に認め合うというものであった。いわば「平等条約」であるが、条約として特異なものであるとされる。
朝鮮で最初の不平等条約は西洋とではなく日本と結んだ日朝修好条規であった。1894年から1895年にかけて起こった日清戦争後、西洋諸国はもはや日本に対して不平等条約を結ぶことは不可能であるとみなした。朝鮮に対して欧米各国が結んだ数多くの不平等条約は、1910年の日本による韓国併合によって大部分が無効となった。
1911年、日本はアメリカとの間に新しく日米通商航海条約を結び、関税自主権を完全に回復した。
第一次世界大戦後、半植民地状態になっていた中国ではナショナリズムが興起して中華民国政府により国権回復運動が進められ、日中戦争中には中国の不平等状態の解消がおおいに進んだ。しかし、不平等条約の全面的解消は第二次世界大戦後の植民地解放を待たなければならなかった。なお、中国の国権回復運動について、当時日本の外務大臣であった幣原喜重郎は「日本は不平等条約撤廃にあたって打倒帝国主義などと叫ばず国内改革に尽力し、不平等でも条約を遵守して、列強が条約改正に快く同意するだけの近代化を行った。不平等条約は国内政治の結果であって原因ではない」と述べている[5]。もっとも、日本のこのような姿勢についてはこれを引用した岡崎久彦も別のところで「(中国が国内法制の整備と外交的説得によらず排日・侮日などの手段で不平等条約を撤廃しようとしたときに、としてはいるが)日本はダッチ・アンクルのように振る舞った」と書いている。ダッチ・アンクルとは直訳すると「オランダのおじさん」であるが、英語で「自分は若い頃散々苦労してここまでになったのだ、それに引き換え今の若い者は何だ」と説教する年配者のこと[6]。
なお、1960年に締結された日米地位協定や、1998年改正以前の日本側とアメリカ側で以遠権の行使条件に差があった日米航空協定なども「不平等条約」といわれることがある。2009年に日本とEUが刑事共助協定を締結したが、日本に死刑制度があることを理由に、死刑の可能性のある犯罪に関しては一方的にEUが共助要請に対して拒否権を行使でき、日本で殺人などの罪を犯した容疑者がEU域内に逃げ込めばEU側が一方的に証拠収集等の捜査協力を拒否できることが判明している[7]。
さらに、現代において核兵器の保有国と非保有国で権利・義務の関係が異なる核拡散防止条約が、主権対等の原則に反するとして「不平等条約」と称される場合がある[8]。
2国間FTAやTPPなどの関税を引き下げる世界的潮流がある。経済学的には関税は国家財政に寄与するが、一方で消費者たる国民にとって不利益となる。関税自主権のない時代は、消費者や内需企業にとって海外の財やサービスが安価に手に入る時代でもあった。
19世紀から20世紀初期の東アジア
清
- 南京条約 1842年8月29日 英国
- 虎門寨追加条約 1843年10月8日 英国
- 望厦条約 1844年7月3日 米国
- 黄埔条約 1844年10月24日 フランス
- 中露イリ通商協定 1851年8月6日 ロシア帝国
- アイグン条約 1858年5月28日 ロシア帝国
- 天津条約
- 北京条約
- 中独通商条約 1861年9月2日 在天津
- 下関条約 1895年4月17日 日本 在下関
- 日清通商航海条約 1896年7月21日
- 中独膠州湾租界条約 1898年3月6日 在北京
- 中露旅順大連租界条約 1898年3月27日 在北京
- 威海衛租借協定 1898年7月1日 英国、在北京
- 広州湾租界条約 1899年11月16日 フランス、在広州湾
- 辛丑条約 1901年9月7日 英国、米国、日本、ロシア帝国、フランス、ドイツ、イタリア、オーストリア、ベルギー、スペイン、オランダ
- 満州里境界条約 1911年12月20日 ロシア 在満州里
李氏朝鮮
幕末・明治期日本
- 日米和親条約(神奈川条約) 1854年 米国
- 日英約定 1854年 英国
- 日露通好条約 1855年 ロシア帝国
- 日蘭和親条約 1855年 オランダ
- 安政五カ国条約 1858年
- 日葡修好通商条約 1860年 ポルトガル
- 日普修好通商条約 1861年 プロイセン王国(現在、ドイツ)- 外交官ではないドイツ人に対しては居住地域の周囲に塀を設けることが禁じられ、また旅行禁止の区域も設けられた[9]。
- 日伊修好通商条約 1866年 イタリア
- 樺太島仮規則 1867年 ロシア帝国[要出典]
- 日墺修好通商航海条約 1869年 オーストリア・ハンガリー帝国
琉球王国
阮朝ベトナム
関連項目
脚注
- 注釈
- 出典
- ^ 『日本国プロイセン国修好通商条約』、ウィキソース。
- ^ 糟谷憲一『朝鮮の近代』(山川出版社、1996、p.30)、吉野誠「江華島事件」(同『明治維新と征韓論』明石書店、2002、p.205)等学術査読研究多数。
- ^ 千葉功「列強への道をたどる日本と東アジア情勢」(川島真ほか編『東アジア国際政治史』名古屋大学出版会、2007、p.61)他。
- ^ 井上裕正ほか『中華帝国の危機』(中央公論社、1997、p.226)。
- ^ 岡崎久彦「幣原喜重郎とその時代」PHP文庫、pp.321-322
- ^ 岡崎久彦「小村寿太郎とその時代」PHP研究所、P318、1998年
- ^ 共同通信2010年1月5日付
- ^ 村田良平 『村田良平回想録 上巻』 ミネルヴァ書房、2008年、p.212
- ^ 『日本国プロイセン国修好通商条約』、ウィキソース。「日本にては孛漏生國の臣民住すへき場所の周圍には門塙を設けす自由の出入を妨くへからず」
不平等条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 19:43 UTC 版)
問題となった点は主に以下の3点である。 領事裁判権の規定 関税自主権の欠如 片務的最恵国待遇(日露修好通商条約のみは双務的最恵国待遇) これらの条約は、領事裁判権を認める、関税自主権がない、などといった不平等条約だった。しかし、歴史学者の三谷博は当初問題にされたのは勅許を得ていないという点であり、当時の日本人の国際知識の欠如もあったが、これらの不平等性が問題になったのは明治維新以降であって、調印時点では大きな問題とみなされていなかったとしており、同じく歴史学者の荒野泰典もこれに賛成している。明治新政府が条約の不平等性と改定の必要性を指摘したのは明治二年の岩倉具視による『外交・会計・蝦夷地開拓意見書』が最初と考えられている。 関税自主権という概念を当時の幕府は理解しておらず、したがって日米修好通商条約交渉時の関心事は税率をいくらにするかであった。以下の表に示したように、当初設定された輸入税率は、一部例外を除き20%とされ、同じく不平等条約の天津条約の5%と比較すると妥当なものであった。また、開国当初は圧倒的に日本の輸出超過状態にあったが、5%の輸出関税を設けたために幕府の収入は増えた(日米修好通商条約交渉において、この輸出関税と引き換えに、最恵国待遇が双務的なものから片務的なものに改められている)。1864年の幕府の関税収入は174万両、歳入の18%に達していた。しかし、下関戦争の賠償交渉と並行して行われた1866年の改税約書の調印により輸入関税が5%に下げられてからは輸入が増加に転じ、大量生産による安価な外国製の木綿製品が流入したために、関税の目的の一つである国内産業の保護ができなくなり、日本の手工業による木綿生産は大打撃を受けている。もっとも手工業から大量生産への変化は近代化においては避けて通れない事柄であり、明治政府は富岡製糸場のような官営模範工場を設立してこれに対抗した。また、関税収入も減り、明治初期には国庫収入の4%程度となってしまった(同時期の英国の関税収入は国庫収入の26パーセント)。 領事裁判権は日米和親条約では認められていなかったが(第四条で米国人も「公正な法」に従うとされていた)、安政4年5月26日(1857年6月17日)の日米追加条約で認められ、そのまま安政五カ国条約に引き継がれたものである。江戸初期には外国人にも日本の法律が適用されており、平戸のオランダ商館員が死罪になった例もあるが、その後はオランダ人が犯罪を犯した場合は、その処罰はオランダ商館長に委ねられるようになった。したがって、領事裁判権は幕府にとってはむしろ都合が良かった。開国後に外国人の犯罪を領事裁判で裁いた例としては、モース事件 やアイヌ人骨盗掘事件 がある。 また、安政条約は外国から見ても不平等な面があった。天津条約とは異なり、外交官以外の外国人の日本国内旅行は原則禁止されていた。このため外国商人は直接生糸の原産地へ出向くことが出来ず、価格の決定権は日本商人が握っていた。これが生糸価格の高騰を招いた一因でもあった。明治の条約改正において、改正内容に不満を持つ対外強硬派が、条約改正案に反対するために現行条約励行運動(条約正文に明白に規定されていない事項に関しては一切外国人の権利を認めず、日本国内における外国人の活動や生活を制約する)を起こしたのは、その不平等性に目を付けたものとされている。 明治維新以後は新政府の最重要課題の一つとして条約改正交渉が断続的に行われたが、その進展は芳しくなかった。領事裁判権の撤廃と双務的最恵国待遇の獲得は日清戦争直前の1894年、関税自主権の完全回復は日露戦争後の1911年のことであった。 天津条約・安政五カ国条約の不平等条項比較協定関税率内地通商権[1]沿岸貿易権[2]沿岸海運権[3]内河航行権税関管理権領事裁判権天津条約(1858年) 輸出税・輸入税:5% 承認 [1]承認[2]承認[3]揚子江のみ承認 外国人税務司制度 承認 安政五カ国条約(1858年) 輸出税:5%輸入税:20%(一部5%・35%) 否認。開港場10里以内の通行は許可 否認 自主権を堅持 承認
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