両曽我氏と大光寺合戦とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 両曽我氏と大光寺合戦の意味・解説 

両曽我氏と大光寺合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 15:33 UTC 版)

大光寺町 (青森県)」の記事における「両曽我氏と大光寺合戦」の解説

鎌倉幕府後醍醐天皇奉じる勢力打倒されたあと、幕府方残党東北落ち延びてきて、大光寺城曽我氏頼ったという。本家大光寺曾我氏はこれを迎え入れたが、朝廷方の北畠顕家追討軍を送ってくると、分家岩館曽我氏はこれに恭順して大光寺本家攻めた。これが大光寺合戦である。この戦の様子伝えた書状の中で複数曽我一族討ち死にしたことが記されているものの、系譜不明瞭なため、これらの戦死者本家と分家のいずれに属していたかはよくわかっていない。いずれにせよこの戦いによって大光寺曽我氏敗退し弘前方面落ち延びたあと滅亡し岩館曽我氏にとってかわられた。 北畠氏従属した岩館曽我氏は、後醍醐天皇方と足利尊氏が争うようになると、はじめは天皇方南朝)に与した。しかしまもなく北朝転じ暦応2年1339年南朝方の南部氏南部政長)と大光寺城舞台戦った。このときは、3ヶ月に及ぶ合戦の末に岩館曽我氏南部氏撃退成功した。しかし1360年正平15年)の史料一帯領地南部氏分配されていることが記されており、この少し前に岩館曽我氏南部氏によって滅ぼされたものと考えられている。 年表 承久4年1222年) - 曽我真光の子曽我惟重が地頭代として北条義時承認されたという史料(『北条義時下知状』)が残る。 建武1年1334年) - 大光寺合戦大光寺曽我氏敗走し数カ月後に滅亡暦応2年1339年) - 岩館曽我氏北朝)と南部氏南朝)が大光寺城で戦う。3ヶ月争いの後、南部氏敗退正平14年1359年)頃 - この頃岩館曽我氏一帯支配を失う。

※この「両曽我氏と大光寺合戦」の解説は、「大光寺町 (青森県)」の解説の一部です。
「両曽我氏と大光寺合戦」を含む「大光寺町 (青森県)」の記事については、「大光寺町 (青森県)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「両曽我氏と大光寺合戦」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「両曽我氏と大光寺合戦」の関連用語

両曽我氏と大光寺合戦のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



両曽我氏と大光寺合戦のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの大光寺町 (青森県) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS