中央軍
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中央軍
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隋代では、兵力が一元化していたのに対して、唐政府の中央軍である禁軍として、「南衙」と呼ばれる国の正規軍と「北衙」と呼ばれる皇帝親軍の二元化した軍隊が存在した。 南衙禁軍は、長安城内に駐屯し、中央十六衛(左右衛、左右驍衛、左右武衛、左右威衛、左右領軍衛、左右金吾衛、左右監門衛、左右千牛衛)で構成され、十六衛のうち、左右監門衛、左右千牛衛をのぞく十二衛が全国の折衝府を統括し、兵力は長安近隣の関内にある折衝府から送られた府兵から構成されていた。 北衙禁軍は、唐創業時、皇帝親軍として残った「元戎禁軍」を基礎としている。長安の北、苑内に駐屯した。その選抜部隊が「百騎」と呼ばれ次第に拡大し、玄宗の時代に「左右龍武軍」として確立した。 また、元戎禁軍の本流からは 「左右羽林軍」が設立された。玄宗の時代に、「左右龍武軍」、 「左右羽林軍」は衰退した府兵の代わりに皇帝警護の中心となった。 南衙禁軍は、府兵制度の衰退とともに兵力の確保が困難になり、一部負担を軽減して下等戸から優先して徴兵する彍騎を確保しようとしたが、府兵制度事態が崩壊したため、玄宗の時代に名目的な存在となった。そのため、北衙禁軍がただ「禁軍」と呼ばれることになる。 安史の乱の際に、長安は陥落し、中央軍は壊滅していた。そのため、安史の乱の鎮圧にあたった粛宗が新たに北衙に「左右神武軍」を定めた。代宗の時代に「左右神策軍」が、徳宗は「左右神威軍」を新設し、 北衙は十軍となった。左右神策軍が、吐蕃の侵攻や朱泚の乱で功績を建てたため、左右神武軍・左右神威軍を吸収し、禁軍の中核を担うようになった。憲宗の代には、 左右神策軍の力を背景に藩鎮勢力を抑え込み、皇帝権の確立に貢献した。晩唐には、左右神策軍は横暴となり、民間は大変苦しんだ。
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