中央軍とは? わかりやすく解説

中央軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/06 14:35 UTC 版)

関連項目



中央軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 20:52 UTC 版)

「唐」の記事における「中央軍」の解説

隋代では、兵力一元化していたのに対して、唐政府の中央軍である禁軍として、「南衙」と呼ばれる国の正規軍と「北衙」と呼ばれる皇帝親軍の二元化した軍隊存在した。 南衙禁軍は、長安城内に駐屯し中央十六衛左右衛、左右驍衛、左右武衛左右威衛左右領軍衛、左右金吾衛、左右監門衛、左右千牛衛)で構成され十六衛のうち、左右監門衛、左右千牛衛をのぞく十二衛が全国折衝府統括し兵力長安近隣関内にある折衝府から送られ府兵から構成されていた。 北衙禁軍は、唐創業時皇帝親軍として残った「元戎禁軍」を基礎としている。長安の北、苑内に駐屯した。その選抜部隊が「百騎」と呼ばれ次第拡大し玄宗時代に「左右龍武軍」として確立したまた、元戎禁軍本流からは 「左右羽林軍」が設立された。玄宗時代に、「左右龍武軍」、 「左右羽林軍」は衰退した府兵代わりに皇帝警護中心となった。 南衙禁軍は、府兵制度の衰退とともに兵力確保困難になり、一部負担軽減し下等戸から優先して徴兵する彍騎を確保しようとしたが、府兵制事態崩壊したため、玄宗時代名目的な存在となった。そのため、北衙禁軍がただ「禁軍」と呼ばれることになる。 安史の乱の際に、長安陥落し、中央軍は壊滅していた。そのため、安史の乱鎮圧あたった粛宗新たに北衙に「左右神武軍」を定めた代宗時代に「左右神策軍」が、徳宗は「左右神威軍」を新設し、 北衙は十軍となった左右神策軍が、吐蕃侵攻朱泚の乱功績建てたため、左右神武軍・左右神威軍を吸収し禁軍中核を担うようになった憲宗の代には、 左右神策軍の力を背景藩鎮勢力抑え込み皇帝権の確立貢献した晩唐には、左右神策軍は横暴となり、民間は大変苦しんだ

※この「中央軍」の解説は、「唐」の解説の一部です。
「中央軍」を含む「唐」の記事については、「唐」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「中央軍」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「中央軍」の関連用語

中央軍のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



中央軍のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの中央軍 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの唐 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS