中部イタリア革命
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中部イタリア革命(ちゅうぶイタリアかくめい、イタリア語: Rivoluzione Italia centrale)は、1831年にモデナ=レッジョ公国で最初に発生し教皇領やパルマ公国にも波及した、武装蜂起を伴う民衆反乱である。カルボナリやアポファジーメニが大きく関与し、複数のイタリア諸邦に加えフランスやオーストリア帝国も巻き込んだ革命となった事から事態は大規模化・複雑化・長期化した。
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- ^ VICINI, Giovanniイタリア辞典 (イタリア語)
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- ^ 森田鉄郎『イタリア民族革命‐リソルジメントの世紀』 105ページ
- 1 中部イタリア革命とは
- 2 中部イタリア革命の概要
- 3 革命失敗後
中部イタリア革命
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「イタリア統一運動」の記事における「中部イタリア革命」の解説
「中部イタリア革命」も参照 トスカーナ大公国やルッカ公国は政治的・思想的弾圧をある程度免れることができた。結果、その思想は弾圧の厳しいモデナ公国や教皇国家など中部イタリアへと波及していき、1830年代に入るとイタリア統一を目指す革命の機運が蘇って、一連の蜂起によってイタリア半島に一つの国家を作り上げる基礎が形づくられた。 革命思想を弾圧していたモデナ公フランチェスコ4世はサルデーニャ王位の獲得を望んでいた。野心家のモデナ公とカルボナリのエンリーコ・ミズレィとの結託が成立し、モデナ公は革命派の期待を自らに集めることによって北イタリアの王となる思惑から、一転して革命派の支援を行い始めた。 1830年にフランス7月革命が勃発し、フランス王が革命家たちによって廃位され、ルイ・フィリップを戴く7月王政が成立した。パリに亡命していた革命家たちはルイ・フィリップと接近してモデナ公を擁する革命に対する積極的な支援が得られるよう働きかけた。亡命者グループの主導権はフィリッポ・ブオナローティが掌握し、イタリア全土での革命を志向していたが、中部イタリアのみの革命を企図していた国内グループと思惑の相違が生じていた。 一方、国内派のチーロ・メノッティはフィレンツェに亡命していたルイ・ボナパルトと接触してボナパルト主義者との協力関係を築こうとした。だが、このことがルイ・フィリップを警戒させる結果となる。メノッティらが蜂起の準備を進めたが、オーストリアからの警告を受けたモデナ公は浮足立っていた。 1831年2月、モデナ公は決起寸前でカルボナリの支持者たちを裏切り、メノッティをはじめとする陰謀者たちを逮捕した。だが、直後にボローニャで蜂起が起こり、恐れたモデナ公はウィーンへ逃亡する。 同時期に教皇国家レガツィオーネ(イタリア語版)地域(教皇領北部地区)のボローニャ、フォルリ、フェラーラ、ラヴェンナ、イーモラ、ペーザロそしてウルビーノで武装蜂起が発生した。教皇旗として三色旗を採用した一連の武装蜂起は教皇国家全域に広まり、新たに樹立された地方政府は統一イタリア国家の樹立を宣言した。 モデナ公国や教皇国家での反乱はパルマ公国にも広まり、ここでも三色旗が使用された。パルマ女公マリア・ルイーザ(フランス皇帝ナポレオン1世の元皇后)は騒乱から逃れるために町からの避難を余儀なくされている。 蜂起した諸州は各々臨時政府を樹立して憲法制定を準備し、「イタリア統合諸州」(Province Italiane unite) の樹立を計画した。メッテルニヒはルイ・フィリップに対して、オーストリアはイタリアの騒乱を放置する意思はなく、フランスの干渉は容認されないと警告した。ルイ・フィリップは軍事援助を差し控えさせ、フランス国内の革命家の拘束さえ行っている。 1831年春になるとオーストリア軍がイタリア半島へ侵攻した。この革命も大衆の支持を欠き地域対立から相互の連携も杜撰であり、反乱を起こした諸州は順次制圧され、3月にボローニャが制圧されて革命は瓦解した。これにより揺籃期の革命運動のほとんどが鎮圧されメノッティを含む、多くの急進派革命家が逮捕・処刑された。
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