乙支文徳とは? わかりやすく解説

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乙支文徳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/31 02:59 UTC 版)

乙支文徳(いつし ぶんとく、6世紀後半ころ - 7世紀初頭ころ)は、高句麗将軍であり大臣。「朝鮮最大の民族英雄の一人[1]」「朝鮮では救国の英雄として今もたたえられている[2]」とされる。『三国史記』巻四十四・乙支文徳伝においては世系は不明とあるが、1794年洪良浩朝鮮語版が編纂した『海東名将伝』に「平壌石多山の者」と記され、李氏朝鮮時代16世紀に編纂された『新増東国輿地勝覧』も「平壌府の人物」と記している[3][4]。しかし、いずれも後代の記録であり、しかも一切の根拠を示しておらず、信憑性はないと指摘されている[4]。さらに、元々は、高句麗に帰化していた鮮卑族あるいは鮮卑族の子孫ともいわれる[5][6][7][4]第二次高句麗遠征612年)において、隋軍に偽りの降伏を申し入れ撤退を開始した隋軍に追い討ちをかけ大勝利を収めた。その功績は高く評価されてはいるが、戦後の文徳の動向は『三国史記』には記事が残っておらず、死の状況についても詳細は解らない。


  1. ^ 伊藤一彦『7世紀以前の中国・朝鮮関係史』法政大学経済学部学会〈経済志林 87 (3・4)〉、2020年3月20日、181頁。 
  2. ^ a b 世界大百科事典乙支文徳』 - コトバンク
  3. ^ a b “乙支文徳”. KBSワールドラジオ. (2010年6月25日). オリジナルの2010年7月8日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20100708082818/http://world.kbs.co.kr/japanese/program/program_koreanstory_detail.htm?No=13416 
  4. ^ a b c d e “을지문덕 乙支文德”. 国史編纂委員会. オリジナルの2022年9月7日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220907091723/http://contents.history.go.kr/mobile/kc/view.do?levelId=kc_n101520 
  5. ^ “을지문덕”. 韓国コンテンツ振興院. オリジナルの2021年9月20日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210920213135/https://www.culturecontent.com/content/contentView.do?search_div=CP_THE&search_div_id=CP_THE003&cp_code=cp0607&index_id=cp06070272&content_id=cp060702720001&search_left_menu 
  6. ^ “을지문덕(乙支文德)”. 韓国民族文化大百科事典. http://encykorea.aks.ac.kr/Contents/Item/E0042969 2021年9月22日閲覧。 
  7. ^ “을지문덕 乙支文德,?~?”. 斗山世界大百科事典. https://www.doopedia.co.kr/doopedia/master/master.do?_method=view&MAS_IDX=101013000855607 2021年9月22日閲覧。 
  8. ^ 輜重隊を含めて113万3,800人だったという。
  9. ^ このときの9軍は、『三国史記』高句麗本紀には宇文述・于仲文のほかに、荊元恒、薛世雄、辛世雄、張瑾、趙孝才、崔弘昇、衛文昇によるものとする。
  10. ^ a b c d 金元龍 (1979). 을지문덕의 출자에 대한 의론. 전해종박사화갑기념 사학논총. 一潮閣朝鮮語版 
  11. ^
    金庾信,王京人也。十二世祖首露,不知何許人也。以後漢建武十八年壬寅,登龜峯,望駕洛九村,遂至其地開國,號曰加耶,後改為金官國。其子孫相承,至九世孫仇充,或云仇次休,於庾信為曾祖。羅人自謂少昊金天氏之後,故姓金。庾信碑亦云:「軒轅之裔,少昊之胤。」則南加耶始祖首露與新羅,同姓也。 — 三国史記、巻四十一


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