乱の鎮定
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裘甫は寧海を失って、やむなく一味を率いて南陳館(寧海県西南にある駅舎)付近に駐屯した。兵力はまだ10000名余りあった。辛未、東路軍が上疁村(寧海県西北)で賊将孫馬騎を破った。戊寅、浙東の東路軍が南陳館で裘甫を大いに打ち破り、数千もの首級をあげた。賊は絹の反物を路いっぱいに捨てて追撃を緩めさせようとしたが、ケツ跌戣が「それらに目をくれる奴は斬る」と宣言したので、誰も命令に違反する者が出ず、賊は遁走した。 6月甲申、諸軍は裘甫を見失ってしまったが、張茵が唐興県で捕らえた捕虜の情報により、剡県にいることが判明した。張茵は裘甫より1日遅れて到着し、その東南に陣を構えた。王式は東路・南路両軍に命じて剡県に集結させた。辛卯、これを包囲したが敵の守備は固く陥とすことができなかった。諸将は相談したのち、渓流をせき止めて飲み水を断つ作戦をとった。賊は3日間連続して出撃し、83戦して敗北したが、官軍も疲労した。賊が降伏を申し出てきても、王式は休息したいだけだと見抜き、逆に警戒を厳重にさせた。賊は再び出撃し、また3度戦った。 庚子の夜、裘甫・劉暀・劉慶が100名余りを従えて降伏した。遠くから官軍の諸将と言葉を交わしてきたが、城から数十歩離れたとき、官軍は素早く走りこんで退路を断ち、彼らをとりこにした。 壬寅、裘甫らは越州に送られた。王式は劉暀・劉慶ら20余人を胴斬りにし、裘甫は枷をはめて京師(長安)へ送った。 剡城はまだ陥ちなかったが、部将たちは裘甫をとりこにしたので備えを怠ってしまった。劉従簡は壮士500名を率いて包囲を突破して逃走した。部将たちは大蘭山(浙江省余姚市南)まで追撃したが、劉従簡は要害に立てこもって守った。 秋7月丁巳、諸将は一斉に攻め立てて、これを陥れた。台州刺史の李師望が「劉従簡を捕らえ、または斬って自己の罪をあがなう者はいないか」と賊中に呼びかけると、降伏するものが数百人あり、彼らは劉従簡の首を献上した。
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乱の鎮定
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402年(元興元年)、桓玄が朝廷の実権を掌握すると、孫恩は再び臨海郡を襲撃したが、太守の辛景はこれを迎撃して破った。孫恩は追い詰められ、海に身を投じた。数百人ほどの仲間が、孫恩を「水仙」(水の仙人)と呼んでともに身を投げたという。 残党は、孫恩の娘婿である盧循を首領にして、抗戦を続けた。
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乱の鎮定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/17 14:48 UTC 版)
盧循はやむなく合浦(広西省北海市)を攻略し、さらに交州に進攻しようとして龍編(ハノイ市東南)まで迫った。そこで交州刺史の杜慧度は策略を使って盧循を破った。 進退窮まった盧循は、まず妻子たちに毒を飲ませた。また妓妾を呼んで一緒に死ぬように求めた。殉死を断った者にはことごとく毒をあおらせ、自らは水中に身を投じた。 杜慧度は盧循の屍を水から引き揚げ、改めて斬刑に処するとともに、その父盧嘏と一味を根こそぎ捕らえて首を都に送った。
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