事件の経過
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そして、延暦寺の僧兵が動き出した。朝廷の許可など出ていない状態で法然廟所を襲って破壊したのである。 これに驚いた浄土宗の僧たちは、天台宗の僧兵たちが更に法然の遺骸を鴨川に流すつもりでいるのを聞き、信空と覚阿が中心となって機先を制して22日に法然の遺骸を掘りおこし、嵯峨の二尊院に運ぶことにした。事は秘密裏に行われるはずだったが、これを聞いた浄土宗の信者である蓮生(宇都宮頼綱)、信生(塩谷朝業)、法阿(東胤頼)、道弁(渋谷七郎)などの出家者や、六波羅探題の武士団が1000名も集まって遺骸移送の護衛についた。そのため、二尊院に着いた頃には延暦寺側に動きがばれてしまい、今度は証空が中心となって28日に円空がいた太秦の広隆寺境内にある来迎院(現、西光寺)に移し、一旦改葬を行った。 7月に入ると、隆寛は陸奥に、幸西は壱岐に、空阿は薩摩に配流され、10月には延暦寺の僧達が入手した『選択本願念仏集』の版木を延暦寺大講堂の前で焼き捨て、依然として天台宗は浄土宗へ圧力をかけ続けていた。 翌安貞2年(1228年)1月、更に法然の遺骸を西山の粟生にいる幸阿の念仏三昧院(現、光明寺)に運び込んだ。すると、そこで幸阿と円空がそろって奇瑞を見たというので、丁度法然の十七回忌でもある25日に信空、証空、覚阿、幸阿、円空らが見守る中で火葬して荼毘に付した。この後、遺骨は念仏三昧院や知恩院など各地に分骨された。
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事件の経過
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「ロブ小学校銃乱射事件」の記事における「事件の経過」の解説
※日時はすべて現地時間。 2022年5月24日。午前11時28分、容疑者は自宅で祖母を銃撃後、車でロブ小学校近くの側溝に突っ込み、そのまま車を乗り捨て学校に向かった。この際、容疑者は車が突っ込む音を聞いて確認に来た近くの斎場の職員2名に向かって発砲した(負傷なし)。 午前11時30分、最初の911通報。 午前11時31分、容疑者が外から教室に向けて銃撃を開始。同時刻パトロール警官が現場に到着。 午前11時33分、容疑者が学校に侵入。111及び112教室に立て篭もり銃を乱射(111と112の教室は内部で繋がっている構造)。なお、生存者の証言によれば容疑者は教室に押し入った際に最初に目が合った教師に対して「Good night(おやすみ)」と一言発して教師の頭部を撃ち、生徒達に乱射する直前には「You're all gonna die(お前達はみんな死ぬ)」と発したとされる。 午前11時35分、7名の警官が現場に到着。内3名が容疑者が立て篭もる教室に近づくが2名の警官が銃撃で負傷。 午前11時43分、学校側はFacebookで銃撃事件発生のため学校を封鎖したことを発表。この時点では学校内の生徒と職員は無事であるとしていた。 午後12時3分、19名の警官隊が教室へと続く廊下に集結。しかし現場指揮官はこの時点において救出が必要な者は既にいないと判断し、突入に向けた装備を確保するため教室外で待機。だが後述の通り教室内にはまだ複数の生存者がいた。この対応について警察側は事件後「間違った判断であった」と誤りを認めた。 午後12時10分、112教室の生存者の生徒が911に通報し、複数の死者が出ていることを伝える。 午後12時15分、国境警備隊戦術部隊が現場に到着。 午後12時16分、先ほどの生存者から再び911に通報があり、教室内にまだ8〜9人の生存者が残されていることを伝える。 午後12時19分、別の生存者から911に通報。しかし他の生徒が電話を切るように伝えたため通話が切れる。 午後12時21分、別の911通報内にて3発の銃声が確認される。 午後12時36分、先ほどの112教室の生存者から911に再び通報。容疑者がドアを撃ったことを伝える。 午後12時50分、国境警備隊員がマスターキーを使い、教室の鍵を開けて突入。容疑者を射殺。
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事件の経過
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「政治家の年金未納問題」の記事における「事件の経過」の解説
2004年4月23日…小泉内閣の閣僚のうち、中川昭一(経済産業大臣)・麻生太郎(総務大臣)・石破茂(防衛庁長官)の後の麻生内閣の首相・閣僚となる3名が国民年金の納付をしていなかったことが判明。民主党代表の菅直人はヒット曲の「だんご3兄弟」にちなんで「未納三兄弟」と揶揄して強く批判。 2004年4月28日…小泉内閣閣僚の年金未納問題を追及していた菅直人も1996年1月から同年10月までの10か月間、当時の所管大臣(厚相)であったにも関わらず年金に未加入だったことが判明する(後に行政の過失と判明。社会保険庁は菅の未加入を加入期間と訂正したが未払いは解消せず)。小泉内閣では福田康夫(官房長官)、竹中平蔵(経済財政・金融担当大臣)、谷垣禎一(財務大臣)、茂木敏充(沖縄・北方対策担当大臣)の4名に年金未納期間があったことが判明する。 2004年5月7日…福田康夫が内閣官房長官を引責辞任。 2004年5月10日…菅直人が民主党代表を辞任。 2004年5月11日…年金制度改革関連法案が、自・公・民の三党合意で衆議院を通過。 2004年5月12日…公明党、代表の神崎武法ら幹部を含む13人の未納議員を公表。 2004年5月13日…民主党が33人の未納議員公表。厚生労働副大臣の森英介、谷畑孝の未納判明。 2004年5月14日…小泉首相の任意加入期間の年金未加入が発覚。衛藤晟一衆議院厚生労働委員長の未納判明。 2004年5月17日…小沢一郎が年金未加入時期があったとして、民主党次期代表を辞退する旨を発表した。 2004年5月26日…自民・公明両党は、検討を進めていた保険料未納者が保険料追納を可能にする特例法案の成立を断念。 2004年5月27日…坂口力厚生労働大臣が国民年金未加入(任意期)を公表。 2004年5月27日…1986年4月以降の年金未納の議員氏名を公表することを義務つける法案を民主党の議員が提出。 2004年6月5日…年金改革関連法案が参議院で可決、成立。 2004年7月30日…社会保険庁職員300人ほどが私用目的で年金未納情報を閲覧していたことが発覚し、一斉処分が行われた。一部の職員がマスコミに情報をリークしていたことも明らかになった。
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事件の経過
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1945年11月1日午後6時頃、台湾北部基隆港に碇泊中の「栄丸」へ、密航を警戒中の中国国民党軍の目を盗んで乗客の乗船が始まった。「栄丸」は、戦時中から基隆のドックにあった廃船の船体に老朽機材を寄せ集めて整備した、焼玉機関搭載の小型船であった。乗船には切符が必要だったが乗船者名簿は作成されておらず、直前に乗船を止めたり、逆に飛び乗りをする者もあって正確な乗船者数は不明である。最終的に宮古列島からの疎開者を中心に100人以上が乗り込んだのは確実で、八重山列島関係者も9人以上含まれていた。 1日午後7時頃、「栄丸」は、夜陰にまぎれて基隆から宮古島へ出航した。45分ほどで港外に出たが、波が荒いため渡航を断念して引き返すことを決めた。しかし、反転と同時にエンジンが故障し、台湾沿岸約400mの東シナ海上を漂流する状態に陥った。救助を求めるために衣類を燃やして陸上へ合図したが、反応は無かった。故障から4時間半ほど経過した頃に約20戸の万里集落の沖に差し掛かると、海岸から100mほどの地点で岩礁に乗り上げ、繰り返し打ち付ける波を受けて翌朝までに船体が崩壊した。 乗船者は次々と波にさらわれて海に投げ出され、付近一帯の岩礁に叩きつけられるなどして多くが死亡した。万里集落の台湾人住民と、同地にまだ駐屯していた日本軍の通信部隊が海岸で救助活動にあたったが、助かったのは海岸に泳ぎ着くか打ち寄せられた一部の者だけであった。多数の遺体も海岸に打ち上げられたが、遅く漂着した遺体には手足が欠損するなど損傷の激しい例が多かった。遺体は、同じく漂着した船材に油をかけて燃やして火葬された。生存者は、廃屋に仮住まいしたり、基隆の病院に入院するなどし、一部は12月にかけて帰国した。 乗船者数が不明のため正確な犠牲者数も不明であるが、ある生存者証言によると全乗船者数183人・生存者32人、別の証言によると乗客数172人・生存者32人である。乗客数127人・生存者23人とする証言もあるが、前記2証言と照らすと乗客数172人・生存者32人に由来する誤りの可能性がある。また、事件当時に引き揚げ支援のため台北市にいて2日朝から遺体収容に参加した下地町助役の証言によると、死者数は105人程度であるという。沖縄県生活福祉部援護課所蔵の『台湾引揚者調書』(1969年調整)には、本事件関係で89人の死者が確認できる。
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事件の経過
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「ヴィネンデン銃乱射事件」の記事における「事件の経過」の解説
犯人は2009年3月11日9時30分 (CET) 、ヴィネンデン(Winnenden)にある実業中等学校に徒歩で向かい、学校で銃の乱射を行った。この乱射で9人の生徒(男性1人、女性8人)と3人の教師が殺害された。犯人は逃走中に近くの精神科病院で職員1人を射殺した。12時4分、犯人はヴィネンデンで自動車をジャックし、運転手に南へ向かうよう指示し、40 km 離れたヴェンドリンゲン(Wendlingen)へ向かった。自動車は警察の検問を避けようとして衝突事故を起こした。犯人は自動車から出て自動車のショールームに入って銃撃し、セールスマンと客の合わせて2人を射殺した。その後、駆けつけた警察隊と銃撃戦となった。警官の銃撃で犯人の足に1発の銃弾が命中した。また、警官2人が負傷している。その後、犯人の遺体が見つかった。警察によれば自殺とみられている。
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事件の経過
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「栃木兄弟誘拐殺人事件」の記事における「事件の経過」の解説
2004年9月11日 - 兄弟の誘拐事件が発生。 2004年9月13日 - 男(40歳)が未成年者誘拐の容疑で逮捕される。男は被害者家族と同居しており、家主はこの男である。男は2人を連れまわしたことを1度は認めるが、「わからない」と供述が一変する。 2004年9月14日 - 容疑者が2人の殺害を認めた。その供述通り、思川で弟の遺体が発見される。 2004年9月16日 - 兄の遺体も同じ川で発見される。 2004年9月17日 - 容疑者を殺人の容疑で再逮捕した。 2005年9月8日 - 被告人が1審の宇都宮地方裁判所で死刑判決。 2006年6月4日 - 被告人が東京拘置所で病死。
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事件の経過
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朝日新聞東京本社銃撃事件 1987年1月24日(土曜日)午後8時過ぎ、朝日新聞東京本社で発生した事件である。当初は、事件発生の痕跡が見つからなかったため報道されなかった。朝日新聞阪神支局襲撃事件後になって、実際に事件が発生していたことが確認された。 後になって行われた実況見分(1987年10月1日実施)や朝日新聞社の社員の証言によると、1987年1月24日の午後8時過ぎに、東京本社1階の植え込みから建物の2階に向けて散弾銃を2発発射したものと見られる。実況見分により、植え込み付近で未燃焼の火薬がみつかったことから、銃身を短く切った散弾銃が使われたことが確認されている。 事件当時、広告局で仕事をしていた社員数人が、窓ガラスに何かが当たったような音を2度聞いたので、窓の外のテラスに出てしばらく外の様子を見ていたが特におかしなこともなかったので、そのまま部屋に戻った。 一方犯人は「日本民族独立義勇軍 別動 赤報隊 一同」を名乗って、時事通信社と共同通信社に犯行声明を送り付けた。文面はどちらも同じもので、ワードプロセッサーによって書かれたものである。時事通信社に送られた声明書は、1月26日の午前9時から10時頃に届き、総務部員経由で社会部に回された。社会部は、声明書の実物をオートバイ便で警視庁クラブに送り、同クラブの公安担当記者がそのコピーを警視庁に提出した。犯行声明書の入っていた封筒の方は、社会部周辺で捨てられてしまったので残っていない。一方、共同通信社に送られた方は、犯行声明の入っていた封筒も声明文も捨てられてしまい、どのように処理されたのかの記録もとられていなかったため、どうなったのかは確認しようがなかった。 朝日新聞社は犯行声明について、時事通信社の公安担当経由で知った。そこで1月28日午後に東京本社の警備センターに問い合わせて確認を行ったが、その時には東京本社だけでなく、大阪、名古屋、西部(福岡)本社でも散弾銃発射の形跡を発見できなかったので、新聞報道をしなかった。また、時事通信、共同通信も同様に報道しなかった。そのような事情を知らない犯人は、自分たちがこれらの報道機関に無視されたと思い込み、それが次の朝日新聞阪神支局襲撃事件の凶行に及ぶ原因になったとみられる(実際に、朝日新聞阪神支局襲撃事件の犯行声明文にそのことが書かれている)。 犯行声明の中で、犯人は自分たちを「日本国内外にうごめく反日分子を処刑するために結成された実行部隊」とし、さらに「反日世論を育成してきたマスコミには厳罰を加えなければならない」「一月二十四日の朝日新聞社への行動はその一歩である」「特に朝日は悪質である」と朝日新聞に激しい敵意、恨みを示し、マスコミを標的としたテロの継続を示唆する内容だった 朝日新聞阪神支局襲撃事件 1987年5月3日夜に発生した事件で、朝日新聞の小尻知博記者(享年29)が殺害され、犬飼兵衛記者(当時42歳)が重傷を負った。現場にいたもう1人・高山顕治記者(当時25歳)に対しては、犯人が発砲しなかったため無事だった。 事件発生の直前、4月後半から5月初めにかけて、阪神支局には夜になると無言電話が頻繁にかかって来ていた。 5月3日(日曜日)は3連休の初日で、当日の当番勤務は犬飼、小尻、高山の3人で、他にデスク役の大島支局長が出勤していた。襲撃事件が起きたのは午後8時15分頃のことである。支局長は3人の書いた原稿を本社に送ったあと、支局近くの寿司店での会合に出席しており不在だったが、3人は午後7時ころから支局2階の編集室で夕食にビールを飲みながらすき焼きを食べていた。夕食をほぼ食べ終えていた8時15分頃に、黒っぽいフレームの眼鏡をかけ、黒っぽい目出し帽をかぶった全身黒装束の男が散弾銃を構えて編集室に押し入り、ソファーに座って雑談していた犬飼記者の左胸めがけていきなり発砲した。 撃ち方は腰だめではなく、むしろ射撃の撃ち方に近いものだったという。ただ、犬飼記者は、銃床を肩に当ててはいなかったように思うと証言している。「銃声はクリスマスの時などに使うクラッカーの音を大きくしたような音」がしたという。犬飼記者は腹部、右手、左ひじなどに約80発の散弾粒が食い込み内出血を起こしていたが、左胸のポケットに入れていた鰻皮製の札入れとボールペンのおかげで、心臓から約2ミリメートルまでの際どいところで散弾粒が心臓に達することはなく、一命を取り留めた。小指が吹き飛び、薬指は皮1枚でつながっているだけでほぼ切断された状態、中指は半分ちぎれかけていた。 うたたねをしていた小尻記者は発砲音で目が覚め、ソファーから起き上がろうとした。これに驚いた犯人は、小尻記者の脇腹めがけて2発目を発砲した。発砲は至近距離から行われており、銃口が接するほどだったため、プラスチック製のカップワッズ(直径約2センチメートル、長さ約5.8センチメートル)がそのまま体内に入り、胃の後ろ側で散弾粒が飛散した。カップワッズには約400個の散弾が詰まっており、内約200個がカップ内に残り、残りが飛散した。 高山記者は、銃声を聞いてソファーの後ろに隠れたが、犯人は一瞬高山記者に銃口を向けた。しかし、犯人は発砲せず、体を反転させ、銃を抱えたまま立ち去った。銃身を短く切った2連式の散弾銃が犯行に使われたと推定されており、この時には残りの銃弾がなかったため発砲しなかったのだろうと推測されている。高山記者は数秒間呆然としてソファーに座っていたが、すぐに110番に電話し通報、犬飼記者の止血などをしている内に、警官2名が到着、支局長も戻り、小尻記者も担架で救急車に運ばれていった。 犯行時間は1分足らずの短時間で行われ、犯人は終始無言だった。顔が見えなかったので犯人の年齢はよくわからないが、犬飼記者は、身のこなしの柔らかさから割と若いのではないかと証言している。高山記者は、体つきや動作から、20歳から30歳くらいの若さではないかと証言している。 小尻記者は、関西労災病院で5月3日午後8時40分から翌4日午前1時10分まで治療を受け、手術により輸血、左腎臓摘出、脾臓摘出、心臓マッサージなどが行われたが手術中に心停止を起こし、回復しなかった。同記者は翌5月4日に死亡(殉職により記者のまま次長待遇昇格)、犬飼記者も右手の小指と薬指を失った。勤務中の記者が襲われて死亡するのは、日本の言論史上初めてであった。 5月6日には、時事通信社と共同通信社の両社に「赤報隊一同」の名で犯行声明が届いた。1月の朝日新聞東京本社銃撃も明らかにし、「われわれは本気である。すべての朝日社員に死刑を言いわたす」「反日分子には極刑あるのみである」「われわれは最後の一人が死ぬまで処刑活動を続ける」と殺意をむき出しにした犯行声明であった。 「小尻知博」および「en:Tomohiro Kojiri」も参照 朝日新聞名古屋本社社員寮襲撃事件 1987年9月24日午後6時45分ごろ、名古屋市東区新出来にある朝日新聞名古屋本社の単身寮が銃撃された。無人の居間兼食堂と西隣のマンション外壁に1発ずつ発砲した。その後、「反日朝日は五十年前にかえれ」と戦前回帰、戦後民主主義の全否定、戦後の朝日新聞への敵意を示す犯行声明文が送りつけられた。 朝日新聞静岡支局爆破未遂事件 1988年3月11日、静岡市追手町(現:静岡市葵区追手町)の朝日新聞静岡支局(現:静岡総局)の駐車場に、何者かが時限発火装置付きのピース缶爆弾を仕掛けた。翌日、紙袋に入った爆弾が発見され、この事件は未遂に終わった。犯行声明では、「日本を愛する同志は 朝日 毎日 東京などの反日マスコミをできる方法で処罰していこう」と朝日新聞社だけでなく毎日新聞社や中日新聞東京本社(東京新聞)も標的にする旨が記されていた。しかし、実際に毎日・中日の2社を対象とした事件はなかった。 中曾根・竹下両元首相脅迫事件 静岡支局事件と同じく1988年3月11日の消印(静岡市内で投函)で、群馬県の中曽根康弘前首相の事務所と、島根県の竹下登首相の実家に脅迫状が郵送された。中曾根には「靖国参拝や教科書問題で日本民族を裏切った。英霊はみんな貴殿をのろっている」「今日また朝日を処罰した。つぎは貴殿のばんだ」と脅迫、竹下には「貴殿が八月に靖国参拝をしなかったら わが隊の処刑リストに名前をのせる」と靖国神社参拝を要求する内容だった。 江副元リクルート会長宅銃撃事件 1988年8月10日午後7時20分頃、リクルート事件で世間を騒がせていた江副浩正リクルート元会長宅に向けて散弾銃1発が発砲された。犯行声明は、その動機を「赤い朝日に何度も広告をだして金をわたした」からだとしている。また、「反日朝日や毎日に広告をだす企業があれば 反日企業として処罰する」と企業を標的にした内容も犯行声明には記されていた。ただし、リクルート社が他紙に比べ、朝日に多く広告を出していたわけではなかった。 愛知韓国人会館放火事件 1990年5月17日午後7時25分頃、名古屋の愛知韓国人会館(民団系)が放火される事件が発生した。犯行声明では、当時の韓国・盧泰愚大統領を「ロタイグ」と日本語読みした上でその来日に反対し、「くれば反日的な在日韓国人を さいごの一人まで処刑」と脅した。 時効 警察は全国的な捜査を行ったが、2002年に阪神支局襲撃事件、2003年には静岡支局爆破未遂事件が公訴時効となり、全事件が未解決のままとなった。兵庫県警察は捜査一課、西宮警察署に連絡要員を置き、時効後も真相解明を目指している。捜査資料は、事件に関係する人物が浮上した時の照合用として保管されている。 朝日新聞社は、時効を越えて「真相に迫る努力を続けてまいります」としている。 法制審議会では、赤報隊事件について「社会に重大な影響を及ぼす事件に時効を適用するのはおかしい」と議論されている。 兵庫県警刑事部長は「時効で犯人の処罰は難しくなりましたが、真相究明の道が全てなくなったわけではなく、今後もあらゆる機会をとらえ、究明の努力を続ける所存であります」と表明した。 兵庫県警西宮警察署長は「言論に対する暴力は許せない行為であります。時効を迎えていますが、引き続き情報提供を呼びかけたい」とコメントした。 小尻記者の遺族は「長い間お世話になりました。でも、私たちには時効はありません」、「殺人罪に時効はなくていいと思います」、「何年たっても同じ気持ちです。犯人をなおさら許すことはできません。この事件に時効は関係ありません。早く解決して真相解明をしてほしいと思います」と話した。
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事件の経過
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「筑後リサイクル店事件」の記事における「事件の経過」の解説
2003年(平成15年)4月下旬ごろ、X ・Y夫妻が福岡県筑後市にリサイクル店を開業。XとYは、従業員に商品の磨きや清掃をさせ、不徹底であった場合、嘘をついた場合、さぼっていた場合などには体罰を加えていた。またXとYは、従業員に仕事ぶりを相互監視させ、問題があった場合には従業員同士で体罰を加えさせることもあった。XとYが店に顔を出すのは週に1回程度だったが、夫婦不在時は仕事の進捗状況を10分おきにYに携帯電話で報告させていた。 8月、A(事件当時22歳)がリサイクル店で働き始める。その頃Bも従業員として勤務していた。AとBは勤務態度などからXとYによる体罰を頻繁に受けていた。 12月、AとBがX・Yのアパートに住み始める。生活習慣などもXとYに指導され、体罰を受けるようになった。Yの指示によりAとBは一方が不始末を起こすと他方が体罰を加える間柄にさせられ、喧嘩に発展することもあった。また、AとBは罰として食事を抜かれることもあり、次第に衰弱していった。 2004年(平成16年)4月ごろ、体罰によりあざが目立つようになったAとBは客の目につかないところで磨き作業をさせられるようになる。この頃、Aの母はAを訪ねてリサイクル店を訪れたが、XとYは会わせず、Aに貸し付けたという700万円の返還をAの母に求め、Aの母はこれを分割して支払った。支払い終えた時Aの母はAと会わせるよう求めたところ、XがAと通話状態になった電話を渡し、Aは母親に「大丈夫」とだけ告げた。 5月下旬〜6月上旬、Bが死亡。この知らせを受けて駆けつけたXに、YはAの暴行により死亡したことを告げ、Aも暴行を認めた。Bの死を受けてXとYは、Aの体罰をやめ、Aを実家に帰すことなどを話し合うが、Aの不始末に妥協できないYにより体罰は続けられることになった。YはBが死亡したのはAの責任であることをAに言い聞かせ、A自身も捕まりたくないと言っていたため、YはAがBの死を他言することはないと考えていた。 6月下旬、XがAにいつものように体罰を加え、Bが浴室で反省を促したところ、Aはそのまま死亡した。AはX夫妻の自宅に住み込みを始めてから一度も自宅に戻ることはなかった。 7月、行方が分からなくなっていたAの捜索願をAの親族が筑後警察署に提出。その後も3回にわたって相談していた。。 2006年(平成18年)3月、Yの妹とその夫C(事件当時33歳)がリサイクルショップで働き始める。しばらくして、XとYは他の従業員にCが自分の能力や経歴から横柄な態度をとっていると話し、そのためかCは他の従業員とは異なり事務所内の一室に隔離された生活を強いられ、靴べらやゴルフクラブによる体罰を受けた。 8月、Cの妻(Yの妹でもある)がCが事務所の一室に隔離された生活を強いられる中、息子D(事件当時4歳)を残してYの元を去る。XとYはDを自宅アパートに引き取って生活を共にするようになった。Cの妻は1週間ほどでYの元に戻ったが、DはXとYのアパートで引き取られたままだった。 9月上旬から10月下旬ごろまでの間、CはXとYによる暴行の結果死亡した。また、9月下旬から10月上旬までの間、Dを養育する中でXとYは 2人の意に沿わない態度をとるようになったDに体罰を加え始め、その結果Dは死亡した。 2014年(平成26年)4月11日、知人名義の消費者金融カードで不正に現金を引き出したとして、X・Y2人を窃盗容疑で逮捕。 6月16日、Xの「元従業員の遺体を実家の庭に埋め、白骨化した骨を砕いて川に捨てた」の供述に基づき捜索した結果、Xの実家の庭から発見された骨の一部のDNAが Aと一致。A殺人容疑でXとYは再逮捕された。 8月6日、C殺害容疑でX・Y再逮捕。 9月7日、D殺害容疑でX・Y再逮捕。Dの骨は確認されなかった。 11月14日、B傷害致死容疑でX・Yを書類送検(時効送致)、Yについては1994年ごろの福岡市の知人男性(当時20歳)に対する傷害致死でも書類送検(時効送致)。 検察はA事件を殺人事件、C、D親子の事件を傷害致死事件として起訴。
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事件の経過
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1979年 10月26日、朴正煕大統領が金載圭中央情報部長に暗殺される(朴正煕暗殺事件)。 10月27日、崔圭夏国務総理が大統領権限代行に就く。済州島を除く全国に非常戒厳令を宣布。 12月12日、全斗煥保安司令官が、戒厳司令官である鄭昇和陸軍参謀総長を逮捕。陸軍第3軍司令部と、陸軍本部及び国防部を襲撃し、国防長官をも拘束、韓国軍全軍を掌握する(粛軍クーデター)。 1980年 4月14日、全斗煥が中央情報部長を兼任。 4月中旬、労働者と学生の民主化要求デモが激しさを増す。 5月14日、ソウルで5万の学生が戒厳令の解除と早期改憲を求めてデモ。 5月15日、10万の学生がソウル駅前に集結するが市民の呼応が少なく、学生指導部は当局に学生の意思が伝わったとして大学に戻る決定を行う(ソウル駅回軍)。 5月16日、光州市で5万の学生・市民が参加し「民族民主化聖会のためのたいまつ大会」(民主大聖会)が行われる。 5月17日、戒厳司令部が非常戒厳令を済州島を含む全国に拡大(5・17非常戒厳令拡大措置)。 5月18日、戒厳司令部が金大中、文益煥、金鍾泌、李厚洛など26人を騒擾の背後操縦や不正蓄財の嫌疑で逮捕し、金泳三を自宅軟禁した。政治活動の停止、言論・出版・放送などの事前検閲、大学の休校などを盛り込んだ戒厳布告を発表。 同日未明、光州市の全南大学と朝鮮大学に陸軍第七空挺旅団の三三大隊と三五大隊が配置される。朝、全南大学の校門前でこの空挺部隊と学生が衝突。排除された学生は光州駅前で体勢を立て直して錦南路をデモ行進し、機動隊と衝突。午後、空挺部隊が市内各所に投入され学生を鎮圧。400人以上の学生が連行され、80人が負傷。 5月19日、陸軍第十一空挺旅団が急派される。デモの主体は市民に変わり、角材、鉄パイプ、火炎瓶などを使用して対抗。 5月20日、群集は20万人以上に膨れ上がり、対峙した軍・警察は3万人、(戒厳軍の声明を伝えていた)MBC光州文化放送の社屋がデモ隊によって放火された。バスやタクシーを倒してバリケードを築くなど、陸軍部隊との市街戦の様相を呈した。 5月21日、市民は亜細亜自動車や、軍需関係工場、予備軍の武器庫を襲撃して、装甲車などの車両や銃器やTNT爆薬なども奪取し、全羅南道庁を占拠した。光州での惨状を知らせるため、市外に向かうデモ隊の一部が、その途中にあった光州刑務所の戒厳軍から刑務所奪取だと誤認され、銃撃をうけた。軍は一時撤退した後、光州市と外部の鉄道、道路及び通信回線を遮断した。 5月22日、陸軍部隊が光州市の包囲を完了。「市民収拾対策委員会」が組織され、軍との交渉を開始したが、抗争隊指導部は軍との妥協に反対し、光州市民側にも「事態収拾派」と「抗戦派」の意見の対立が現れ始める。市民に、更なる抗争を恐れた離脱者が出始める。 5月23日、5万名の市民大会開催。 5月24日、数万名の第2次市民大会、雨の中で開催。 5月25日、5万名の第三次市民大会開催。「光州民主民衆抗争指導部」が抗戦派を中心に結成され、「金大中の釈放」「戒厳令撤廃」を要求し、最後まで戦うことを決議。 5月26日、陸軍部隊が戦車で市内に侵入開始。 5月27日、数千名の部隊が戦車とともに市中心部に進出して、市内全域を制圧。抗争派を中心に、市民に多数の死傷者が出る。 5月28日、何人もの市民が逮捕・拘留される。 9月17日、普通軍法会議にて金大中に、内乱予備罪・陰謀罪・反共法違反・国家一級保安法違反を理由とする死刑判決が言い渡された(後に無期懲役に減刑)。
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事件の経過
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海洋汚染の被害を受けた龍坑生態保護区は交通の便が悪く、また珊瑚礁の群生地であったことから珊瑚礁及び岩石に重油が入り込み、また東北の季節風の時期に当り海上は時化模様であり、協力のため出港した中油公司の船舶がアマルガス号に接近できないなど海上での行動に大きな支障を来たした。そのため環保署は軍の出動を要請したが、軍船舶も時化のため出港できず、僅かに海岸で人力による善後策が講じられるに過ぎなかった。そうした中でも船主がチャーターした救難船により2月3日までに217.6トンの流出重油が回収された。 2月6日、環保署は複数の行政組織による対策チームを組織し、内政部、交通部、国防部、海巡署、農委会、屏東県政府、中油公司などと協力し対策計画と関連の協議を行なった。 海岸の重油汚染は2月16日まで合計1万人を投入し462トンを除去した。2月17日から3月24日までは2千人を投入し礁岩の重油除去を行い513トンを除去、更に3月25日から5月18日にかけて3万5千人を投入し高圧放水により549トンを除去するなど、合計3500トンの重油除去を行なった。 船主による船舶に残された燃料除去作業は3月、5月、6月に行なわれ、合計148.8トンを撤去し6月12日に完了した。燃料除去作業完了以前、屏東県政府は船会社に対し1日当り150万NT$の罰金を課し、それは98日にも及んだ。 重油除去及び燃料撤去作業完了後、交通部は7月2日に事故海域の事故船舶撤去チームを組織した。積荷の鉄鉱石を除去し、10月16日にアマルガス号を水深1000メートルの海域に移動させた上で沈没させ作業を完成させた。
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事件の経過
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1544年11月、中宗が死去すると、世子が29歳で即位し、仁宗となった。仁宗は生母が産褥で生後直ぐに死去したため、継妃であった文定王后に育てられた。文定王后の実子で、仁宗の異母弟・慶源大君(後の明宗)はこのとき11歳であった。 中宗代の晩年、政治の実権をめぐって、仁宗の伯父・尹任(朝鮮語版)の率いる大尹派と文定王后の次弟・尹元衡を中心とする小尹派とが、ことごとくに対立していたが、仁宗の即位により大尹派が優位となった。 仁宗は、その短い在位期間中に、己卯士禍で被害にあった趙光祖ら士林派の名誉回復をはかり、自らも道学政治を標榜して士林派の登用を推進したが、即位後わずか9か月足らずで、原因不明の急病で死去した。仁宗の急死については、当時から継母である文定王后による殺害説がひそかに囁かれてきたが、真相は歴史の闇に葬られた。 仁宗の死によって後ろ盾を失った大尹派に対し、幼い国王・明宗とその生母・文定王后(明宗が成年に達するまで、評判の悪い垂簾政治を行った)に擁護された小尹派の中心人物・尹元衡は、策略を駆使しながら口実を設けて、尹任、柳灌、柳仁淑らの大尹派の首領を自決に追い込み、彼らに追随した多くの士林派の官僚たちを配流した。そのために乙巳士禍と呼ばれる。
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事件の経過
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「五霞町女子高生殺害事件」の記事における「事件の経過」の解説
7月6日 正午過ぎ、自宅にいた父親に「午後8時すぎぐらいには帰ってくるから」と言い残して外出。 バイト先の同僚と、草加市内で買い物や食事をする。 別れたあと、夏祭り会場となる瀬崎浅間神社に行く。 午後8時頃、露天会場内にいた氷売りのアルバイト店員と意気投合し、売り込みなどを手伝っていた。 午後9時10分頃、被害者携帯電話に着信、何か会話があり、別れる。これ以後の足取りは途絶える。 午後10時頃、被害者の携帯電話がつながらなくなる。 7月9日 午前9時45分頃、被害者の遺体が、散歩中の近所の住人によって発見される。 その後 テレビで遺体の発見を報道。 報道を見た家族が警察に問い合わせ、身元が判明する。
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事件の経過
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まず、加害者の略歴と、事件の経緯を時系列順に示す。 1957年 奈良県天川村で、4人姉妹の次女として生まれる。 父親はアルコール依存症で、加害者はその父親から近親姦を受けていた。また、複数の男性からも性的虐待を受けていた。 1981年 看護師の男性と結婚。以後、3人の子供(長男、長女、次女)を儲けた。 1993年 夫と離婚。その後は両親と子供3人とともに、奈良市内の団地に住んでいた。 1997年 長男と次女が相次いで死亡。 その直後、彼女は自殺を図るが未遂に終わる。 2000年 父親が不審死。その後、母親も不審死。 長女の件で7月16日に逮捕。長女には3000万円の保険金がかけられていた。硫酸サルブタモールとは気管支拡張剤であり、長女は3月頃から連日服用させ続けられていたと考えられている。 加害者には解離性障害の疑いが持たれ、責任能力の有無が問われた。 2002年3月15日、精神鑑定では「代理ミュンヒハウゼン症候群の疑いで、責任能力は認められる」とされたが、家庭環境による情状酌量の余地があるとして減刑された。長女殺人未遂のみで裁かれ、懲役3年の実刑判決を受け、刑は確定した。その他の件に関しては証拠不十分となった。
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事件の経過
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2006年 18歳の女性が7人のサウジアラビア人の男性に輪姦され、事件の4ヶ月後に裁判所に訴え出た。 2007年11月16日 サウジアラビアのカティフ裁判所は強姦被害者の女性に対し、親族以外の男性と車に同乗したことが姦通罪に当たるとして禁固6ヶ月と鞭打ち200回の有罪判決を言い渡した。姦通罪の法廷刑罰は鞭打ち100回であるが、被害者女性が報道機関を利用して司法を挑発した罪により法廷刑罰の2倍が宣告されている。 被害者女性の弁護をしたアブドゥル・ラハマン・アル=ラヒム弁護士(ar:عبد الرحمن اللاحم)は、資格を剥奪されそうになった。 2007年11月19日 米国務省の報道官は、事件について直接的な批判をしなかった。 2007年11月25日 サウジの法務省は、レイプ被害者の女性に姦通罪で有罪判決が下された問題について、問題の女性の服装が事件を誘発したと主張する声明を発表した。 2007年11月26日 サウジのサウード外相は、事件についてオカーズ新聞で不当判決であるとの意見を表明した。 2007年11月27日 サウジのサウード外相は、事件についてサウジの司法府は本件を見直べきであるとの意見を表明した。 その一方で、サウード外相は、この問題はサウジ政府と国民に対する攻撃に利用されていると表明した。 2007年12月4日 アメリカのブッシュ大統領は、サウジで強姦被害者の女性が親族以外の男性と車に同乗した罪で有罪判決を受けた問題について裁判所を批判した。 2007年12月17日 サウジのアブドッラー国王は、姦通罪で有罪判決を受けた問題について恩赦を与え無罪放免した。
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事件の経過
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「埼玉県所沢市ガソリンスタンド店員放火殺害事件」の記事における「事件の経過」の解説
2010年8月 12日午前4時分頃、ガソリンスタンドの事務所が燃えているのを通行人が発見し、119番に通報する。 同日午前4時30分、消防隊員が事務所の火事を消し止めた。その際に所沢警察署員も駆けつけており、男性が事務所の外で倒れているのを発見。病院に搬送。 17日、重傷だった男性が、全身やけどにより死亡。 2013年 2月14日、強盗殺人と現住建造物等放火の疑いで元従業員を逮捕。 3月6日、元従業員を強盗致死罪で起訴。 2014年 3月17日、さいたま地裁で開かれた裁判員裁判で、元従業員に求刑通り無期懲役判決。 9月17日、東京高裁は一審判決を破棄、懲役30年判決。
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「アッティカ刑務所暴動」の記事における「事件の経過」の解説
1971年9月9日の朝8時20分頃、囚人の4つの班が点呼のため集合させられた。このとき囚人たちは先日ほかの囚人と揉め事を起こした1人の囚人が独房に戻されたことに気付き、監禁の後拷問を受けるといううわさが広がった。同様の拷問を受けることを懸念した一部の囚人がこれに抗議し、独房に戻った。このとき囚人たちは先に監禁された囚人を解放し、朝食に向かう囚人に追いついた。この直後、1人の刑務官が何が起こったか気付き、捜査を開始しようとした矢先囚人に襲われ、暴動が始まった。 囚人たちは鉄パイプやチェーン、野球のバットで看守を襲撃し、42人の所員と民間人を人質に取り、彼らの不平と要求を書いたリストを公表した。
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時宗の執権就任から4年後の文永9年(1272年)2月7日、鎌倉で騒動があり、2月11日、名越時章・教時兄弟が得宗被官である四方田時綱ら御内人によって誅殺され、前将軍宗尊親王の側近であった中御門実隆が召し禁じられた。4日後の2月15日、京において前年12月に六波羅探題北方に就任していた北条義宗が、鎌倉からの早馬を受け、同南方の北条時輔を討伐した。多くの人々が戦闘で死に、また事件に連座して六波羅探題にあった安達泰盛の庶兄安達頼景が所領を没収され、事件とのかかわりは明確には分かっていないが、同年に渋川義春と世良田頼氏は佐渡へ流罪、前将軍宗尊親王は出家した。なお、北条時輔は逐電したとの説もある。 間もなく、名越時章に異心はなく誤殺であったとされ、その結果、討手である御内人5人は責任を問われて9月2日、斬首された。時章の子公時は所領を安堵された。教時への討手には罰も賞もなく、人々の笑いものになったという。 この事件に関して出された2月11日付の二通の関東御教書によると、討伐の主体は執権時宗・連署北条政村であり、名越兄弟は幕命として前もって準備された上で、「謀反」として討伐されている。
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事件の経過
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当時、学園紛争によりバリケード封鎖されていた東大では、11月1日に事態の収拾に失敗した大河内一男総長以下学部長全員が辞任し、加藤一郎総長代行を中心とする新執行部が誕生した。文学部では五味智英教授を経て、文学部教授の林が学部長に就任した。 それに対し文学部全共闘は、学生との交渉を拒否した大河内総長の辞任は認めず、従って林学部長の就任も認めないという立場をとった。このとき全共闘は、学生と大学側の「交渉」のことを、本来は労働組合と雇用者側との間で行われる交渉である団体交渉に因んで「大衆団交」、略して「団交」と呼んだが、この語は以後各地で起った学園紛争で学生側が使う常套句の一つとなった。 11月4日、全共闘は学部長の林以下教授数名を文学部第二号館に呼び、半ば強制的な「団交」を行った。全共闘側は林の学部長就任の撤回、学部長選出時等に行われる教授会の討議内容の公開、学生の処罰の禁止などを主張し受諾を迫った。しかし林らは教授会の決定は自分たちの一存では撤回できないし、学生の処罰はしないなどという約束はできないと一貫してこれを拒否。このため団交は延々と続き、翌5日にはそのまま林が館内にカンヅメにされた状態となった。 事態が何の進展を見せる気配もないまま数日間が過ぎると、三島由紀夫や阿川弘之らの作家や文化人は林の救出を訴えて全共闘を糾弾、また警視庁も機動隊による救出を計画するなど事態は深刻化した。 一方林は、全共闘が求めた度重なる団交には嫌な顔一つ見せずに応じ、そこで彼らの要求に屈するどころか、逆に学生に議論を挑んでは次々と論破。四回目の団交では学生の中から自由を拘束した形での交渉とそれをかたくなに強要する全共闘を批判する意見が出るまでになった。 結局林は8日後に解放されて東京大学医学部附属病院に搬送されたが、この間少しも妥協することなく全共闘との対話を続けた。その姿勢は当の全共闘が後日雑誌などでこれを称賛する内容の談話を発表するほどのもので、林は「全共闘を負かした教授」として一躍世に知られることとなった。林は後に東大総長をへて参議院議員になっている。
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事件の経過
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改革開放後の中国においては、集団農業組織としての人民公社が廃止され、土地は村民委員会が管理することになっているが、土地の処分などの問題については、成人の全村民が参加する村民会議で承認することが必要である。しかし烏坎村においては、村民委員会が村民会議に諮らず、役員だけで勝手に取り決めたとされる。しかもこれらの土地には7億元余りの代金が支払われたにもかかわらず、村民には1人当たり500元(全村で400万元余り)の補償金が支給されたのみで、残りは村民委員会の役員などが着服したと推測された。これらの土地取引に疑問を抱いた烏坎村の青年20名余は2009年から2011年にかけて、陸豊市や政府陳情局に10数回にわたり「信訪」(中華人民共和国においては、個人または組織等が、国家機関に対する文書の提出または直接の訪問により、請願・陳情や苦情を申し立てることを「信訪」という)を繰り返していた。2011年夏ごろからデモ行進を組織するなど、抗議行動はエスカレートしていた。9月21日には3000名近い村民はデモを行い、開発業者、村民委員会、市政府の事務所などに請願に訪れ、一部は道路を封鎖するなどした。その日はそれ以上の騒動は起こらなかったが、翌日武装警察の特別部隊100名余が村内に進駐し、集会に参加していた村民(女性、子供を含む)を威嚇して解散させようとしたため、激しい衝突が発生した。村民・警察とも10数名の負傷者が発生し、警察は4名を拘束した。この事態を受け、陸豊市と東海鎮の政府と村民代表で話し合いが行われ、陸豊市の副市長が調査班を派遣して調査すると約束し、村民もこれを受け入れ、ひとまず自体は収拾した。村民たちはこの調査の進行状況を監視するため、烏坎村村民臨時代表理事会を立上げ、13名の理事を選出した。しかし、烏坎村に派遣された調査班の責任者は大量の土地を購入した開発業者の親戚であったためもあり、調査はなかなか進まなかった。11月21日から三日連続で市庁舎の前で座り込みが行われた。12月9日になって、ようやく汕尾市政府は記者会見を開き調査結果を報告したが、そこには以下のような事実が含まれていた。 烏坎村党支部書記および副書記に党紀違反があったことを認め両名を解任した。 陸豊市政府は11月17日に村民から要求のあった土地問題を全て処理し終え、問題は解決した。 同日、公安機関は上述理事会を非合法組織と認定し、薛錦波副会長ら5名の関係者を逮捕した。 12月10日、この報告内容に激怒した村民たちは、調査班責任者の親戚が経営する牧場に押しかけ、警備にあたっていた武装警官隊と激しく衝突した。警察は村を包囲し、村民側もバリケードを築くなどして自衛して村は実質上孤立した。12月11日、拘束され取り調べを受けていた薛錦波副会長の様子が急変し、病院に搬送されたが死亡したとの発表がされると、双方の対立は抜き差しならないものとなった。警察は村への水道、電気、食料の供給を断ち兵糧攻めを行うとともに、メディアが村に入ることを禁じた。村民側は、インターネットや携帯電話のミニブログ(中国版ツイッター)などを利用して村民の主張を全国および全世界に訴えた。村民側は逮捕された理事会のメンバーの釈放ならびに薛錦波の遺体の引き渡しを求めて青年600名で組織する部隊によるデモを敢行すると発表した。12月20日、汕尾市政府の関係者が烏坎村に入り、村民の要求を受け入れる代わり、デモを中止するように求め、村民もこれを受け入れ、3か月におよぶ烏坎村の混乱はようやく収束した。2012年2月には村民代表の選挙、3月3日には新しい村民委員会を選任するための村民全員による直接選挙がそれぞれ実施された。
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事件の経過
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「朝木明代市議転落死事件」の記事における「事件の経過」の解説
特に出典の記載がないものは下記の文献を出典としている。 東京地裁判決(救急隊判決)(『創価新報』事件判決)[要出典] 宇留嶋瑞郎 『民主主義汚染-東村山市議転落と日本の暗黒』 ユニコン企画、1998年。ISBN 978-4930695802。 乙骨正生 『怪死-東村山女性市議転落死事件』 教育史料出版会、1996年。ISBN 978-4876522927。 矢野穂積・朝木直子 『東村山の闇』 第三書館、2003年。ISBN 978-4807403332。
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事件の経過
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中溝らは「全国民に告ぐ」に呼応し、第1段階として政党の解消のために動き出した。中溝らは東京の2箇所に屯所を設けそこに団員を常駐させ、そこから各政党代議士の元へ団員を派遣し政友会、民政党の解党勧告を説かせた。 しかし効果がなかったことから、中溝らは実力行使に出て、1938年(昭和13年)2月17日の午後、団員六百人を動員して政友会本部、民政党本部に押しかけ、挙国一党実現のための解党とそのための新党樹立を要求し、政友会本部を一時占拠した。民政党本部襲撃組は途中で阻止されたため未遂である。占拠から10時間後に警視庁は全員を検挙、中溝は逃走したが3月18日に自首し事件は収束した。 一方、政治の側にもこの事件に関係したと見られる人物が何人かいる。事件の計画には久原房之助が関与したのではないかと指摘されており、実際に、久原の配下だった政友会の衆議院議員、津雲国利と西方利馬の2名が事件後除名されている。
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事件の経過 (1692)
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「ジョン・ウィラード」の記事における「事件の経過 (1692)」の解説
5月10日 — 逮捕令状が発行され、逃亡するも逮捕。 5月18日 — ジョン・ウィラードによる審査。 6月3日 — 大陪審が正式に魔術使用容疑による起訴を承認。 8月5日 — 有罪として死刑宣告。 8月19日— 絞首刑執行。
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事件の経過
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「ボーフィン (潜水艦)#第6の哨戒 1944年7月 - 9月・対馬丸」も参照 8月21日18時35分、対馬丸と暁空丸、和浦丸で構成されたナモ103船団は台風接近による激しい風雨の中、蓮と宇治の護衛を受けて長崎へ向けて那覇を出港する。対馬丸には民間人および那覇国民学校の児童と介添者を合わせた1,661名(1,667名、1,788名の説もある)、上海から転送中の乾繭1,775梱とゴマ1,000梱を乗せていた。また、当時の乗組員は86名であった。他の2隻も疎開者を乗せており、船団最優秀船の和浦丸には学童疎開者だけ1,514名、鹵獲船の暁空丸には一般疎開者だけ約1,400名が乗船した。 対馬丸の乗客の多くは、軍隊輸送船として兵員収容区画へ改装されていた船倉に居住することになったが、階段一つと緊急用の縄梯子があるだけの出入り困難な状態であった。児童たちの対馬丸船内での様子はさまざまで、「まるで修学旅行でも行くかのように」、甲板に出て和浦丸を眺めたり、「先生、ヤマトに行くと雪が見られるでしょう」とまだ見ぬ雪に思いをはせる者、船酔いになるも一晩で回復した者、一晩中寝ずに騒いだ者などもいた。手空きの対馬丸乗組員も児童たちとつきあい、「戦争の話や、前に遭難して助かった話などをした」。 一方、アメリカ潜水艦ボーフィン (USS Bowfin, SS-287) は7月16日に6回目の哨戒で真珠湾を出撃して東シナ海で行動しており、8月10日朝には南大東島に停泊中の機帆船2隻を雷撃で破壊していた。その後は奄美大島、徳之島、伊平屋島、与論島近海で哨戒を行った。8月19日朝には沖縄本島北西海域で前述の609船団を発見しており、浮上攻撃を試みるも逃げられている。8月20日は漁船を見たのみで、8月21日は久米島北西海域で哨戒を行った。 アメリカ海軍は暗号解読などによって、ナモ103船団の予定航路をおおよそ把握していた。8月22日4時10分頃、ボーフィンはレーダーでナモ103船団を探知する。ボーフィンは潜航状態で観測を行ったが、哨戒機2機が「機械的な旋回飛行」しかしなかったとはいえ常時張り付いていたことと、強烈なジャミングを発していたことから「重大任務の船団」と識別して夜間攻撃を行うことに決めた。 8月22日を迎えたばかりの対馬丸の船長室では、西沢武雄船長と陸軍少尉の輸送指揮官との間で激論が交わされていた。西沢船長はこの航路の危険を熟知していたので、ジクザグコースを取る事を主張していた。しかし輸送指揮官は、船団から離れる危険や、到着の遅延への懸念の方を重く見て直線での航行を主張し、結局「軍の命令」ということで直線コースをとった。その頃、10時34分に浮上したボーフィンはナモ103船団を見失っており、全速で予想針路へと急行することとなった。ボーフィンが再びナモ103船団をレーダーで捕捉したのは12時54分頃で、彼我の距離はおよそ42,000ヤード(約38キロメートル)から45,000ヤード(約41キロメートル)であった。 ボーフィンは速力を調節しながらナモ103船団との距離を十分に保ちつつ触接を続けた。19時58分、ボーフィンはナモ103船団への攻撃地点を平島と諏訪之瀬島間の海峡の手前と決め、21時30分に攻撃予定時刻に設定の上、全速力で攻撃予定海域へと向かった。夜を迎えた対馬丸の船内では、引率教師が児童たちに救命胴衣の着用を指示し、児童のうち3分の1は上甲板上のいかだに寝場所をこしらえて寝ることとなった。前日の夜とは違い、雨がぱらついてきたので船倉へ移ったり、疲れで前日ほどの元気のない者がいた。 一方のボーフィンは20時53分頃には平島を後方6マイルに、諏訪之瀬島を左舷前方8マイルに、悪石島を右舷前方6マイルに臨む海域に到達した。ボーフィンからは対馬丸と暁空丸がしばし重なるように見え、21時22分にはついにナモ103船団の全貌を視界内にとらえることとなった。ボーフィンは攻撃方法を水上攻撃とし、まず艦首発射管からの魚雷を対馬丸、暁空丸および蓮に対して発射し、面舵で方向を転換した後、艦尾発射管からの魚雷を和浦丸と宇治に対して発射するという攻撃プランを組み立てた。 22時9分、ボーフィンは距離2,800ヤード(約2.6キロメートル)で艦首発射管から魚雷6本を発射し、予定通り面舵で方向転換した後、艦尾発射管からの攻撃に備えた。ボーフィンの観測によれば約1分後、魚雷は「対馬丸と暁空丸の双方に2本ずつ、蓮に1本命中して対馬丸は早くも沈み始め、蓮は粉砕された」というが、実際に被雷したのは対馬丸だけであった。攻撃された対馬丸は見張員が魚雷発射を確認し、ただちに反撃の砲撃にとりかかろうとした。船橋では西沢船長が「取舵一杯、両舷全速前進」を下令した。しかし、いずれの効果もほとんど示さぬまま魚雷は接近し1本は対馬丸の船首前方をかすめ去ったが、続く3本の魚雷が対馬丸の第一、第二、第七船倉左舷に命中した。間を置いて、別の魚雷1本が対馬丸の第五船倉右舷に命中。魚雷命中による夥しい海水の流入で縄梯子はほとんど流され、階段もすぐに海水につかって使えなくなった。階段へいち早く登った者は、暑さに耐えかねて既に甲板に上がっていた者とともに船倉から脱出できた。 西沢船長は「総員退船」を令し、引率教師はなかなか起きない児童を蹴っ飛ばしてまで起こし、何名かの対馬丸乗組員とともに梯子を登らせようとしたが上手くいかず、何人かは梯子を踏みはずして下に転落する有様であった。脱出した者の中にも舷側が高すぎたため、恐怖から海に飛び降りることができなかった者が大勢おり、対馬丸の乗組員は何人かの児童をブルワークから引き離して海に放り投げた。一方、配られた救命胴衣が大きすぎたことでうまく使いこなせず溺れた児童もいた。煙突の方を見れば、児童を背負った女性が4名から5名ばかり登っていたが、煙突の崩落とともに海中に転落した。 魚雷命中から11分後の22時23分頃、対馬丸は大爆発を起こして沈没した。船の爆風で救命ボートが転覆し、生存者は台風襲来の中、筏で漂流しながら救出を待つことになった。漂流は、風雨、三角波、眠気、真水への渇望、錯覚等との戦いでもあった。ボーフィンは船尾発射管から2本の魚雷を発射して1本の命中と対馬丸の確認をした後、横当島方向へと移動していった。 暁空丸、和浦丸と護衛の蓮、宇治は全速力で危険海域から姿を消していった。他船が救助活動を行わなかった理由として、9ヵ月前の1943年(昭和18年)12月21日未明に、対馬丸が沈没した海域に程近い北緯30度26分 東経129度56分 / 北緯30.433度 東経129.933度 / 30.433; 129.933の地点で発生した、沖903船団の事件が挙げられる。沖903船団は、奄美大島の名瀬港を出航した後、アメリカ潜水艦グレイバック (USS Grayback, SS-208) の魚雷攻撃によって貨客船湖南丸(大阪商船、2,627トン)が轟沈。そして湖南丸の生存者の救助にあたるため、停止していた特設捕獲網艇柏丸(宇和島運輸、515トン)も、またグレイバックの魚雷で撃沈され、湖南丸の船客683名のうち、柏丸に一旦救助された者も含めて576名と、その他乗員が死亡した。そのためナモ103船団の他船は、漂流者救出を断念してその場を去り、数日後に目的地の長崎港に着いている。 また、当時のアメリカ潜水艦は3隻程度のウルフパックを組んで行動していることが多く、護衛不足の船団では二次災害防止のため残存船を逃がすのが最善の策であった。海域を去る際に蓮は爆雷攻撃を行ったが、浮上攻撃のボーフィンに対する攻撃としては意味がなかった。北上していた台風は、大東諸島方面へ逸れた。 犠牲者の遺体の多くは奄美大島・大島郡宇検村などに流れ着いたため、現地には慰霊碑が建立されている。生存者の多くは、トカラ列島の無人島に漂着したり、嵐がやんでから軍から連絡を受けた鹿児島県の奄美大島や揖宿郡山川町(現:指宿市山川町)などの漁船に救出された。最も長い人は10日間の漂流を強いられた。 漂流中、対馬丸の小関保一等運転士は10名ぐらいの児童が乗ったいかだにつかまり、漂流している児童を見つけてはいかだに乗せていた。小関運転士は児童に対して、腰まで水に浸かりながらもあえて座ることとかたまることを指示する。小関運転士の一団は台風に翻弄されながらも必死に耐え、8月23日15時ごろに漁船2隻に救助された。この2隻の漁船に救助されたのは児童、民間人83名、兵7名、乗組員21名であった。 他方、対馬丸の高射砲受け持ちであった吉田薫夫砲手は児童3名といかだで漂流し、軍歌を歌ってしばし気を紛らしたがやがて体力の衰微とともに児童2名が相次いで死亡するという「忘れられぬ悲痛」を体験した後、生き残った児童とともに8月24日に救助された。8月24日に救助されたのは児童、民間人90名、兵13名、乗組員33名であった。 最終的に乗員・乗客合わせて1,484名が死亡し、このうち対馬丸の乗組員は西沢船長以下24名が対馬丸と運命をともにした。一方で、生き残った児童はわずかに59名だった。関連資料によっては60人とされることもある。対馬丸の生存率は学童7%、一般(疎開者)14%、軍人48%、船員72%とする資料もある。
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事件の経過
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「尖閣諸島戦時遭難事件」の記事における「事件の経過」の解説
1945年(昭和20年)6月24日、石垣島の住民に対し、24回目となる台湾疎開希望者の募集がされた。台湾へ物資を受け取りに行く独立混成第45旅団「水軍隊」所属船の往路を使った輸送であった。6月30日の夕刻に石垣港で乗船が始まり、友福丸(軍呼称:「第一千早丸」)と一心丸(軍呼称:第五千早丸)の焼玉エンジン搭載小型船2隻に約180人が乗り込んだ。乗船者のほとんどは女性と子供で、男性は高齢者が少数、朝鮮人と台湾人も少数いた。乗船者数を各120人程度の約240人とする回想もある。 船団は空襲を避けるためになるべく夜間航行を選び、6月30日夜7時頃に石垣港から台湾の基隆港を目指し出航、7月1日午前2時頃に経由地である同じ八重山諸島の西表島船浮へ入った。昼間は碇泊して7月1日夜に航行再開する予定であったが、友福丸のエンジン故障のため出港を延期し、7月2日の午後7時に船浮を出た。船団は台湾直進ではなく、尖閣諸島付近まで迂回した欺騙針路で進んだ。 船団が数時間で基隆入港予定という7月3日午後2時頃、定期哨戒中のアメリカ軍機(日本側ではB-24爆撃機と判断)1機によって発見されてしまった。アメリカ軍機は船団側方から3回の爆弾投下と機銃掃射を行い、さらに船尾方向から航過しながらも機銃掃射を1回加えた。日本側は機関銃で応戦したが、効果は無かった。船上では一心丸の宮城三郎船長以下死傷者が続出し、銃弾で割れた瓶から味噌が流れて血と混じる惨状となった。一心丸は船体中央部に爆弾が命中して炎上沈没、友福丸も機銃弾でエンジンが破損して航行不能となった。アメリカ軍機は、友福丸も沈没するものと判定しつつ立ち去った。友福丸から伝馬船が降ろされて救助作業が行われたが、乗船者には体力に劣り泳げない者も多かったため相当数が溺死した。 友福丸は浸水しながらもかろうじて沈没を免れ、有り合わせの布をつなぎ合わせて帆を張り、翌7月4日朝にはエンジンも再始動できた。乗船者の中に尖閣諸島で古賀商店の鰹節製造事業に携わった経験者がいたため、尖閣諸島へと向かうこととなり、4日午前9時半頃に魚釣島に到着した。このとき尖閣諸島には、本船団とは別に遭難して漂着した日本兵6人がおり、合流している。 上陸当初は米や鰹節など乏しい食糧を出し合って野草入りの雑炊にする協同炊事が行われたが、1週間から2週間ほどで打ち切りとなり、以後は各自で食糧を集めた。魚釣島には淡水が湧くため飲料水には困らず、石垣島民に別名で「クバ島」と呼ばれるほど食用樹木のビロウ(地方名:クバ)も豊富だったものの、100人以上の食糧としては不十分だった。ネズミやヘビも生息していたが、動きが素早くて捕まえられなかった。サクナ(長命草)などの野草や、磯辺で獲った小魚やヤドカリなどで命をつないだ。体力の低下が激しく、数人の餓死者が出た。毒草を食べて苦しむ者もあった。B-24爆撃機も島に連日飛来したが、幸いに死傷者は出なかった。 救援を呼ぶために一部の者が友福丸で出発したが、すぐに機関故障を起こして航行不能となり、やむなく船体を放棄して伝馬船で島へと戻った。その後、手漕ぎのサバニを作って救助を呼ぶことが計画された。遭難者の中にいた船大工1人と陸軍工兵を中心に、海岸にあった難破船の残骸を資材として建造は進められ、10日ほどで全長5メートルのサバニが完成した。陸軍兵と船員経験者ら8人の決死隊が編成され、出発直前に強く希望する主計准尉1人も加えて、8月12日午後5時頃に石垣島を目指して出発した。帆走と漕走で進んだ。途中で3度も敵機に遭ったが、攻撃は受けなかった。8月14日午後7時頃に石垣島の川平湾へと到着、川平駐屯の日本軍部隊を経由して独混第45旅団司令部に連絡がされた。 8月15日、事態を知った独混第45旅団の要請を受け、台湾所在の日本軍機が魚釣島に飛行、乾パンと金平糖をパラシュート投下した。石垣島からも独混第45旅団水軍隊の長谷川少尉が指揮する2-3隻の救助船が軍医を乗せて出発し、終戦の日の後である8月18日に到着した。救助船は魚釣島所在の生存者を収容し、19日午後に石垣島へと帰還した。救出されたにもかかわらず、急に多量の食物を摂取したことによる消化器疾患や、助かったと言う安堵感により死亡した者もあったという。 また、救助船到着時に南小島(別名:トリ島)へ食料採取に出かけたまま帰島不能で消息不明になっていた者が6人あり、取り残されてしまった。6人が魚釣島へ戻ったときには救助船が去った後で、うち2人はその後に病死した。残る4人は、11月に家族が雇った台湾漁船によって救助された。 犠牲者数については諸説あるが、『沖縄県史』の統計表では乗船者180人余のうち死亡75人、『琉球新報』によれば救出までの死者70人・救出後の衰弱死等20人近くとされている。このほか、少ない数値では戦死者約45人・餓死者8人、多い数値では約240人乗船で半数死亡とする回想もある。また、『沖縄県史』では、八重山諸島住民の戦闘死者総数179人のうち、船の沈没による死者総数37人となっている。
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事件の経過
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「イースタン航空シャトル1320便ハイジャック事件」の記事における「事件の経過」の解説
1970年3月17日午後7時30分ごろ、ニュージャージー州ニューアークからマサチューセッツ州ボストンへ旅客を乗せて飛行していた1320便で、.38口径のリボルバーを携えた犯人の J. Divivo がハイジャックを実行に移した。アメリカ空軍パイロット出身で35歳の機長Robert Wilbur Jr.は6か月前に機長に昇格したばかりだった。彼は腕を撃たれたが、銃撃の発生と救急車の要請を管制塔に伝えて、着陸へ向けて操縦を続けた。副操縦士のJames Hartley(30歳)は犯人からいきなり撃たれる形になった。彼は重傷を負い、一度倒れたものの、犯人から銃を奪い取り3発の銃弾を撃ち返した。その後副操縦士は再び意識を失い、最終的には回復することなく亡くなった。犯人は座席の間に倒れた後、墜落に追い込むべく起き上がって機長に這い寄り始めた。機長はセンターコンソールから取り出した銃で犯人の頭を殴打した。1320便はローガン国際空港に安全に着陸し、ハイジャック犯は直ちに逮捕された。1970年10月31日、裁判を控えていた犯人はボストンにあるチャールズストリート拘置所で首を吊り自殺した。
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事件の経過
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1930年 10月10日、中共満州省委員会の指示により、現在の間島省延吉県(現・延吉市)で「中共東満特別委員会」が組織される。延吉、琿春、和龍、汪清、敦化、安図、撫松、樺甸、額穆、長白など10県の党組織を指揮。 1932年 3月13日、延吉県小母鹿溝の民生団員の家が共産党員20名余りにより襲撃される。 3月24日、局子街(現・延吉市街)近郊で民生団員7名が共産党員により殺害される。 5月以降、民生団に反対するビラが間島各地でばら撒かれる。 8月、宋おじいさんが老頭溝の日本軍憲兵隊に捕まるも一週間後に「逃亡」してきた。これを疑わしく思った中共老頭溝区委員会は宋おじいさんに延吉県農民協会が創刊した「農民闘争報」の印刷作業をさせ、その様子を観察。 10月16日、延吉県細鱗河附近で活動していた延吉県抗日遊撃隊が日本軍憲兵と通訳の朱ら3人を発見し、その場で憲兵を射殺、朱を捕える。朱は宋おじいさんが日本のスパイであると自白。逮捕された宋おじいさんは自らを民生団員と認め、組織の朝鮮人幹部らをスパイと自白。中共東満特別委員会は宋おじいさんがあげた20名余りを逮捕し処刑した。(宋おじいさん事件) 1933年 3月、中共東満特別委員会は組織部長の金聖道を和龍漁浪村抗日遊撃隊に派遣し、反民生団闘争を展開させる。清算委員会は平崗区農民協会責任者の李化春を逮捕し、査問を経ずに処刑。これ以後、和龍抗日遊撃隊内で反民生団闘争が全面的に展開され、2、3ヶ月の間に数十人が粛清される。 5月、中共東満特別委員会は機関紙『両条戦線』で反民生団闘争を理論化、体系化する。 5月、民生団員とされた李龍国・汪清県委員会書記が、ほか10名とともに銃殺される。 6月、中共満州省委員会吉東局常任委員の潘慶由(朝鮮族 ?-1933年7月)と楊波が汪清県小汪清根拠地で、中共東満特委書記の童長栄(1907-1934)と会見、中共中央の「1・26」指示を伝達。その後に潘慶由らの主催で開かれた汪清県委第1次拡大会議で、汪清県委員会書記の李用国と県委軍事部長の金明均を民生団員として査問。 9月、中共東満特別委員会は第1次拡大会議を開催、以後、反民生団闘争がさらに過熱する。「民生団の親玉」とされた金聖道は「誤りも犯したが民生団員ではない」と手を噛み切り、「民生団ではない」と血書を残すが処刑される。 10月、汪清県委員書記の金権一が民生団員として逮捕・銃殺される。 1935年 1月、民生団員と疑われた韓英浩が拷問に耐えきれず、東北人民革命軍第2軍独立師第1団3連連長の朴春和と独立師師長の朱鎮らを民生団員と自白。民生団との嫌疑をうけた東満特別委員会組織部長の李相黙が脱走する。(韓英浩事件) 2月17日、朱鎮が逃走。その後、朱鎮の部下40人余りが民生団員とされる。 2月24日~、大荒崴会議が開かれ民生団問題を討議。 3月、民生団員と疑われた李宋一・汪清県委書記兼中共東満特別委員会粛反委員会主席・宣伝部長が殺害される。 4月1日、脱走した李相黙・元中共東満特別委員会組織部長が「敬愛する琿春県鮮人党員諸君」と題した文章で漢族幹部を批判。 「我等は過去に於いて革命戦線に立ち、中共、工農のため死力を尽して理想実現に努めた。然し乍ら中共党は呉々に何を与へたか。反動分子といふ貧弱なる名称を与へたのみに非ずや。現今中共党は過去に於ける朝鮮人の光輝ある奮闘努力史を奪ひ、中国人の歴史に移転しやうとしている」 8月1日、中共が「抗日救国のために全同胞に告げる書」(8・1宣言)を出す。各民族が協力して抗日闘争することを呼びかける。 1936年 2月、寧安県で東北人民革命軍第2軍と第5軍、中共東満特別委員会の連席会議を開く。反民生団闘争の誤りを認める。 3月、3年半にわたる民生団闘争が終了。
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1934年当時、ドイツは国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の一党支配下にあり、強制的同一化政策が推し進められつつあった。その頃、世界に冠たる名門オーケストラベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とベルリン国立歌劇場の音楽監督の地位にあったヴィルヘルム・フルトヴェングラーは、当時のドイツの新進作曲家であったパウル・ヒンデミットの新作オペラで画家のマティアス・グリューネヴァルトを題材にした『画家マティス』の初演の準備を進めるとともに、そのオペラの音楽素材を用いて作曲された交響曲『画家マティス』を同年3月12日にベルリンのフィルハーモニーホールで初演した。 演奏会は大成功で、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の団員の多くも、次のシーズンにこの曲をプログラミングすることに大賛成だった。しかし、ヒンデミットは当時の帝国音楽院の顧問であり、シャルロッテンブルク音楽大学の教授であったが、ユダヤ人音楽家と弦楽三重奏を組んでレコーディングしたりするなど、ナチスにとっては目の上のたんこぶとも言うべき人物だった。アドルフ・ヒトラーはヒンデミットの歌劇『今日のニュース』において女声歌手のヌードシーンがあることを快く思っておらず、ヒンデミットに対して厳しい措置を取ることにし、フルトヴェングラーがベルリン国立歌劇場で初演しようとしていた歌劇『画家マティス』は上演禁止を通達された。 フルトヴェングラーはこれに怒り、ヒンデミットを擁護するために辞任も辞さない構えをとり、さらに11月25日、『ドイツ一般新聞』に「ヒンデミット事件」と題する論評を載せた。 その論評(全文がフルトヴェングラーの著書『音と言葉』に収録されている)の中でフルトヴェングラーは、ヒンデミットを排斥しようとする動きを根拠のない言いがかりと断じ、ヒンデミットは現代ドイツの音楽において必要不可欠な人物であり、これを容易に切り捨てることは、いかなる理由があろうとも許されるべきではない、と強力にヒンデミットを擁護した。 この論評はドイツ国内外でセンセーションを起こし、ベルリンのフィルハーモニーホールや国立歌劇場ではフルトヴェングラー支持のデモンストレーションが起こっていた。 ナチス政府の宣伝相であったヨーゼフ・ゲッベルスはこの事態に対し、断固たる対抗措置を取ることにした。フルトヴェングラーは(以前から彼自身が望んでいたことでもあったが)帝国枢密顧問官を辞任させられ、さらにベルリン・フィル及びベルリン国立歌劇場の監督をも辞任させられた。ベルリン・スポーツ宮殿では、名指しではないにせよ、「無調の騒音製造者」に対して攻撃的な講演会が行われ、ナチス寄りの新聞は一斉にヒンデミットとフルトヴェングラーを批判した。 ヒンデミットは帝国音楽院の顧問を辞し、音楽大学の教授職を休職した上でトルコに渡った。この事態を受けてベルリン国立歌劇場の第一楽長の地位にあった指揮者のエーリヒ・クライバーも亡命した。 フルトヴェングラー辞任後、ベルリン・フィルハーモニーの技量は落ち込み、また世界的な指揮者フルトヴェングラーがドイツ楽壇の表舞台から去ったことによるイメージダウンを恐れたナチスがフルトヴェングラーに歩み寄りを見せ、1935年3月に両者は和解し、フルトヴェングラーは指揮台に復帰することになる。 しかし、これでフルトヴェングラーはナチスに忠誠を誓ったわけではなく(もっとも、国際社会はフルトヴェングラーがナチスに屈服したとみなした)、内外でナチスに対して反抗的な態度をとり、ユダヤ人の亡命をも手助けしたりしたので、戦争末期には彼に個人的恨みを抱くハインリヒ・ヒムラー率いるゲシュタポに命を狙われ、結局はスイスに亡命することになる。
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「アエロメヒコ航空576便ハイジャック事件」の記事における「事件の経過」の解説
記録によると、アエロメヒコ航空576便はメキシコのキンタナ・ロー州にあるカンクン国際空港を現地時間の11時38分に離陸した。メキシコ・シティ国際空港への到着予定時刻は13時50分であり、フランス人やアメリカ人を含む107人が搭乗していた。 メキシコシティ国際空港に着陸後、機体は滑走路23Lの端にある緊急エプロンに入り乗客はそこですぐに解放された。この乗客たちがバスに乗り込み機体を離れ、武装したメキシコ公安当局が乗員と犯人が残る航空機を包囲する姿は多くのレポーター達によって目撃されている。当初犯人はカルデロン大統領との対話を求めている3人のボリビア人であり、ケーブルなどを組み合わせた即席爆発装置を所有していると伝えられており、メキシコ政府は緊急会合を開き非常事態宣言を発令した。そして14時37分大半の人質が降機してバスにより避難した。 同日14時56分、連邦警察は航空機に突入し容疑者として武器を持たない5人の男性を拘束した。これに対しメキシコシティのボリビア大使館はこの中にボリビア人が含まれているとの情報を否定した。また乗客が目撃していた爆発装置に関しては爆発物処理班が機内を捜索したものの発見することが出来なかった。
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事件の経過
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1388年2月、元を倒して政権を確立した明の洪武帝は、高麗に対して元代に得た旧領を返還するように要求してきた。これに対し、親元派が主流であった高麗朝廷は議論の末、崔瑩を総司令官とする攻伐軍の遼東派遣を決定し、曹敏修と李成桂を左右都統使に任命した。この派兵に対して、李成桂は「四不可論」を掲げて反対を表明していた。 『高麗史』によれば、「四不可論」の内容は「今者、師(軍のこと)を出すに、四つの不可あり。小(高麗)を以て大(明)に逆うは、一の不可なり。夏月に兵を発するは、二の不可なり。国を挙げて遠征せば、倭(日本)はその虚に乗ぜん、三の不可なり。時方に暑雨し、弓弩の膠は解け、大軍は疾疫せん、四の不可なり」というものであった。 同年4月18日に西京(現在の平壌)を発した軍は、5月7日に鴨緑江の中洲である威化島に到着したが、折からの長い梅雨で鴨緑江が増水し、渡河できずに難渋していた。李成桂は曹敏修に撤兵をもちかけて賛同を得ると5月22日に回軍を決定し、開京を目指した。反乱軍を率いた李成桂は6月1日には開京近郊に帰還して布陣すると、2日後に宮中に突入し、崔瑩を捕捉して配流後に処刑した。また禑王を廃して江華島に追放した後に賜死した。後継者には曹敏修の意見を入れて、昌王が即位した。 その後、クーデタに成功した李成桂と曹敏修は主導権を争った結果、李成桂が勝利し、翌1389年に李成桂が推す恭譲王(高麗最後の王)が即位した。こうして李成桂が実権を完全に掌握して朝鮮王朝開国の基礎を築いた。 威化島回軍が計画されたクーデタであったかどうかについては見解の分かれるところだが、李成桂と曹敏修との共同行動のとり方、また曹敏修主導の新王の推戴の経緯からみて、出兵当初からの計画的行動というよりは、従軍の現場での実利的な状況判断からの行動とみるのが妥当である。
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事件の経過
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17世紀の終りまでにチェサピーク湾一帯では大西洋岸の特権的農園主は「海岸地域の地主」と呼ばれ、その地域でも最良の農園を所有し、その数には比例しない政治的権力を行使していたので、その他の大多数である小農夫、年季奉公者および奴隷の不満を買っていた。小農夫は良い土地が得られず、先住民族の攻撃の恐れが強い後背地に土地を求めていた。1660年以降バージニアの経済は停滞していたので、奥地に住む農夫は生産した商品を市場に運び出すだけでも難渋していた。低品質のタバコは常に生産が過剰になり、航海条例の規制によっても追い討ちを掛けられて、タバコの価格は下落していた。経済を多様化する実験的な試みには費用が掛かり、オランダ人やインディアンから防衛する必要性もあって、それらの費用を捻出するために税金が高くなっていた。1674年、植民地の住人は、ロンドンにいるバージニアの領主であるアーリントン卿とカルペッパー卿に対して政治的働きかけを行う代理人を送るために更なる課税を要求された。この状況は入植者の悲惨さをさらに悪化させるものであり、バージニア総督ウィリアム・バークリー卿の指導のまずさもあって、政府に対する憤懣が広がった。 ベイコンは植民地の住人の間で広い支持を得ていた者であり、インディアンに対して民兵を組織し戦うことを要求した。ベイコンは様々な政治的駆け引きの後で、辺境のインディアン数種族に対する作戦行動を率いる任務を認められた。1675年7月、バージニアのノーザンネック地区、ポトマック川の近くにあったトマス・マシューズのプランテーションをドーグ族インディアンが襲撃し、闘争が引き起こされた。このことで、植民地の住人は報復のために間違ってサスケハノック族を攻撃し、これが更にインディアンによる大規模な襲撃を呼んで大変な事態になった。バークリーは更なる攻撃を避け、事態を沈静化させるために事情の調査を命じた。その結果、関係者間の会合を開いた時に数人のインディアン酋長を殺害してしまうという悲惨なことになった 。この危機の間、バークリーは植民地住人の自制を常に要求していた。しかし、ベイコンを含め数人が言うことを聞かなかった。ベイコンは友好的なアポマトックスのインディアン数人をトウモロコシを盗んだという廉で捕まえることで、総督の直接命令を無視することになった。バークリーは妥協を生むために、インディアンに弾薬を供給し、1676年3月には「長い会談」を召集した。しかし、ジェームズタウンに戻った後で、ベイコンとバークリー支持者の間に紛争が起こった。ベイコンの一党はバークリー派に打ち勝ち、総督はバージニアの東海岸に逃走した。ベイコンの一党は首都を3ヶ月間占領し、貴族政府の象徴である町を破壊した。 この時16年前に終わっていたイングランド共和国に倣って、人民宣言が発せられた。ベイコンは1676年10月26日に赤痢で死んだ。反乱は、ロンドンを母港とする数隻の武装商船がバージニアに到着しバークリーに従う時まで続いた。これらの船は貿易船であり、その船長達は到着するまで反乱のことを知らなかった。反乱の噂を聞いたイギリス海軍の艦隊がバージニアに向かったが、その到着は商船隊の到着から数ヶ月遅れた。バークリーはこれらの商船の大砲と船員を使って、反乱を抑えることができた。その後、イギリス艦隊が到着する前に、バークリーは多くの反乱者を裁判に掛けて絞首刑に処し、恐怖政治に似たものになった。イギリス艦隊とともにイギリスの調査委員が到着し、バークリーの報復行動が止められ、多くの恩赦が実行された。反乱者の中でもかなり多くの者がノースカロライナのアルベマール開拓地に逃げた。
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事件の経過
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このような土地や銃器の強制的な買収に対して不満を募らせた農民たちは、土竜山の東方八虎力屯の大地主であり自衛団の団長でもあった謝文東(中国語版)を総司令として、武装蜂起した。謝は、日本人移民団の放逐と江東自治権の確立を標榜して、東北民衆軍を編成した。この情報が、依蘭県内外に伝わり、各地農民が手に手に武器をもって集まり、総数6,700名もの大群となった。3月9日、東北民衆軍の農民たちは日本人移民団を包囲し、警察も武装解除させた。 翌3月10日、依蘭県駐屯の歩兵第63連隊が駆け付けたが、飯塚朝吉連隊長以下19名が戦死する結果に終わった。3月末、土竜山区から撤兵した関東軍は、政治的には威嚇と利益誘導、軍事的には大群で包囲攻撃をするという二面作戦を採用し、民衆軍を孤立、分化、瓦解させていった。7月下旬には、民衆軍は800名ばかりとなり、10月初め、樺木崗にて関東軍の襲撃にあった民衆軍は大きな損害を受け、謝は、依蘭県吉興河の深山密林地帯に逃げ込んだ。
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事件の経過
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「たちかぜ自衛官いじめ自殺事件」の記事における「事件の経過」の解説
2004年10月27日、「たちかぜ」の一等海士(当時21歳)が立会川駅で飛び込み自殺した。 遺書には、家族への感謝の言葉とともに、上職の二等海曹を名指しして批判し、虐待を受けた事を示唆する内容が書かれていた。 このことからたちかぜ艦内の問題が発覚した。横浜地方裁判所横須賀支部刑事部は、「いじめは艦内では日常茶飯事、常習的で、本件は氷山の一角」「暴行を苦にしたとみられる隊員が自殺したのをどう償うのか」と、海自と二曹の「行為」を認定した。これについて自衛隊は、社会と遺族に対し、一切の沈黙を通した。 2005年(平成17年)1月、二曹は別の自衛官達に対する暴行罪・恐喝罪で有罪判決を受け、海上自衛隊を懲戒免職処分。判決では、「艦内の暴行は日常的」「事件は氷山の一角」と指摘された。二曹はたちかぜ艦内にエアガン・ガスガンなどを不法に持ち込み、レーダーやコンピューター機器など重要な精密機械があり立ち入り制限地区の「CIC室」(戦闘指揮所)でサバイバルゲームに興じていたことが後の裁判で発覚する。 詳細は「護衛艦たちかぜ暴行恐喝事件」を参照 このため遺族の両親は2006年(平成18年)4月5日、「自殺したのは先輩隊員のいじめが原因で、上官(艦長、分隊長)らも黙認していた」と主張し、国(国家賠償請求)と二曹を相手に計約1億3,000万円を求める訴訟を起こす。 2011年(平成23年)1月26日、横浜地裁(裁判長・水野邦夫)は判決において、以下の点を認定した。 「元二等海曹から受けた暴行などの仕打ちが自殺の重要な原因となった」 「当時の分隊長ら上官は規律違反行為を認識しながら、何らの措置も講じず、指導監督義務を怠った」 「元二等海曹や分隊長らが、自殺することまで予見することができたとは認められない」 以上の理由により、国と二曹に計440万円の支払いを命じた(死亡に対する賠償は認めず)。 地裁判決を受け、遺族の母親と弁護団は「国と個人の両方の責任を認めたのは評価するが、予見可能性のハードルが高すぎて不当」として、即日控訴を表明。2月4日、東京高裁に控訴した。控訴審では2014年4月23日、遺族の主張を認め、賠償許容額も7700万円と一審から大幅に増額する判決が言い渡された。小野寺五典防衛相は25日の閣議後記者会見で「重く受け止める」と述べ、上告を断念する意向を示した。遺族側も上告しない意向で、判決が確定する見通しとなった。
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事件の経過
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「三重大医学部集団レイプ事件」の記事における「事件の経過」の解説
1999年3月~5月の新歓コンパシーズンに、参加女性に酒を飲ませ、野球拳で服を脱がすことを強要した上で、胸を揉んだり裸の女子学生を逆さ吊りにしたりといったわいせつ行為をしていた。[要出典]被害者は4人である。この件で5人が退学、4人が無期停学、厳重注意が4人という処分が出る。13人は全員医学部生。しかし、大学側は刑事事件的要素を認めつつもセクハラと位置付け、被害者のプライバシーを盾にわいせつ行為や強姦行為があったかどうかさえ明かす事は無かった。その後、退学処分を受けた1人が「野球拳の時には自分は既に帰宅していた」として、大学に退学処分取消を求めて訴訟を起こす。[要出典]野球拳の事とテニス部の合宿先で女子学生のベッドに入り込んだとされて退学処分となっていたが、2003年8月に津地方裁判所は事実誤認の認定と大学の裁量権の乱用を理由に取消を命じた。2004年6月に名古屋高等裁判所は、野球拳を煽ったと認め、途中で帰っても責任は生じるとして[要出典]一審判決を取り消した。
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事件の経過
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首謀者・江連(えづれ)力一郎(1887年12月31日 - 1954年10月15日、当時34歳)は茨城県結城町(現・結城市)出身、海城中学卒・明治大学中退のちに入隊した陸軍軍曹である。彼は柔道、剣道、合気道など各武術をきわめた猛者で、段位は合計で30段に達していたという。そんな彼は尼港での惨劇に悲憤慷慨し、復讐を決意。軍部や実業家から潤沢な資金を回収し、決行の機会をうかがっていた。 神戸西之宮の相沢汽船会社所有の船・大輝丸740トンを用意した彼は、「オホーツク海に砂金採取に行く」と称して乗組員を募集。その呼びかけに人夫、失業者、学生など60人が集まった。9月26日、北海道・小樽を出航した一行は、10月1日、樺太北部のアレクサンドロフスク・サハリンスキーに入港。ここで江連は乗組員全員を船の甲板に整列させ、ピストルを誇示しつつ檄を飛ばす。 「オホーツクでの砂金回収60貫は流氷による航海不能により見送ることにする。そこで我らは進路を変え、アムール川河口のニコラエフスクに向かう。諸君らもよく知るはずの尼港だ!」 10月9日、ニコラエフスクに入港。沖合でロシアのランチ1隻、発動機船1隻を略奪し、さらに北樺太のポコピー、デスカストリー付近で帆船1隻および多量の海産物や油類を略奪し、それと同時にロシア人船長以下12人および先の発動機船の乗組員4人を大輝丸の船員室に監禁した。 10月22日、23日、捕虜17人全員を甲板に引き出すや命乞いを聞き入れることもなくピストルと日本刀を使い分けて殺害。小樽に帰港したのちは略奪品を荷揚げし、各乗組員に150円ずつの分配をしたうえ、厳重な口止めを約束させて解散した。
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事件の経過
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2013年7月12日午前9時20分頃、市役所本庁舎1階の市税収納課へ男が納税相談のため訪れた。当初職員1名で対応したが、男が声を荒らげていたためさらに1名が対応に加わった。この時、男の持ち物は相談窓口のカウンターに遮られて職員からは確認できなかった。9時35分頃、男は激高して「おれの人生めちゃめちゃや。おれの答えはこれや」と述べ、火炎瓶をかばんから取り出してカウンター越しに職員の座席へ投げ入れた。火炎瓶はワインボトルにガソリンを入れたもので、1本目は火の付いていない状態で職員の頭部へ当たり、2本目はライターで火を付けた状態だった。前後してポリタンクに入ったガソリンをカウンター内にぶちまけた。 これにより発生した火炎はすぐに天井に達し、職員が消火器を使用して初期消火に当たったものの一部しか消火できず、屋内消火栓の使用も試みたが有効な放水に至らないまま、火勢が猛烈なため消火活動を中止して避難を開始した。被災した部署では黒煙が天井を伝って視界を遮り避難が阻害された。市税収納課を始めとして、カウンター前が火災となったために避難経路がベランダに限られた部署もあった。初期消火の際に気道熱傷を負った職員1名がベランダで倒れたが、周囲の職員により救出された。9時50分頃までに庁舎内にいた市民52名、職員642名は全員避難を完了した。 男は追いかけた市税収納課などの職員により庁舎G階(グラウンドフロアー、地上階)で取り囲まれた。お茶を飲んでいた男は発見した職員に「何をしよんや」と尋ねられると「何が悪いんや」と居直った。たばこに火を付けようとして止められ「おまえら税金で飯食っとんやろ。市民をもっと大事にせんかい」などと大声を上げて職員ともみ合いになった。職員1名へ暴行を加えたため取り押さえられ、その後に臨場した警察官へ引き渡された。 火災は迅速な消火活動により早期に鎮火したものの、職員4名と来庁していた市民2名の計6名が負傷(中等症から軽症)。男の投げた火炎瓶が頭部に当たった職員1名が全治約7日間の打撲・皮下血腫、消火に当たった職員1名が全治約15日間の気道熱傷などを負った。
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「大阪地裁所長襲撃事件」の記事における「事件の経過」の解説
2004年2月16日の夜、大阪市住吉区の住宅街で、徒歩で帰宅中の大阪地方裁判所所長・鳥越健治が4人組の若者に襲われ、現金6万3千円を強奪された上に骨盤骨折などで全治2ヶ月の重傷を負った。 大阪府警察の捜査は難航したが、補導歴や不登校など問題行動のある少年をしらみつぶしに調べた結果、A(当時16歳)・B(当時14歳)・C(当時13歳)の3人を犯行に関与したと断定して強盗致傷容疑でA・Bを逮捕、Cを補導した。 6月14日朝から事情聴取は始まり、その日のうちに「西成区の二十代の男ら二人におやじ狩りを指示された」「顔見知りのD・Eから指示され、二人も見張り役などで加わっていた。相手が裁判所の所長と知らなかった」などとあっさり口を割っている(読売新聞より引用)が、この自白が事実であったのであれば以降の報道と矛盾する。その後Cが「初めはやっていないと言ったけど、言っても言っても聞いてくれなくて、脅されたりして…」と後に語るように(外部リンク参照)、刑事2人により3ヶ月間、本来は違法である推定有罪的な取り調べのやり方で長時間の取り調べを受け、「早く自宅へと帰りたい」との一心で顔見知りのD・Eの名前を出し、自分たちが犯行をやったと一旦は自供する(ただし、読売新聞の記事通りであれば6月14日の時点で最初から自供していることとなり、矛盾が生じている)。 警察は少年らの供述からD・Eを逮捕、A・Bを大阪家庭裁判所に、Cを児童自立支援施設に送致した。D・Eの逮捕から4ヵ月後、大阪府警は担当刑事を本部長表彰。だが、D・Eは警察署でも拘置所でも一貫して無罪を主張する(拘置所では重要人物襲撃による重大事件の被疑者として独居房に置かれた)。 やがてD・Eの弁護団は、犯人の写っている防犯カメラの映像を警察が押収していたが、科学鑑定を行っていなかった事実を突き止める。専門家に分析を依頼した結果、警察がD・Eの片方だと判断した映像内の男性と、本人の身長差が15センチ以上もあることが判明。そして、鳥越に体当たりしたと警察に犯行を自供したCが、犯行時刻に現場から遠く離れた自宅付近でメールのやりとりをしていたことが判明。警察が防犯カメラの分析も、少年の携帯電話のチェックもしておらず、見込み捜査のみで供述の裏付け・アリバイつぶしを行っていなかったことが発覚した。 2005年2月、大阪地裁は強盗致傷の罪に問われているD・Eを全面否認のまま保釈するという異例の決定を行う。 その後も真犯人を特定できず2019年に公訴時効となった。
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事件の経過
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ボグダノフ兄弟は応用数学をパリで学んだ。 1980年代の初めにはテレビでのキャリアを積み初め、Temps X (『X時間』)という番組をプロデュースする。この番組は一般向けの科学とサイエンス・フィクションを扱い、彼らを有名人にした。Temps X は10年に渡って続き、同じジャンルの別の番組に引き継がれた。 1993年に兄弟は博士課程に入り、初めはブルゴーニュ大学の数理物理学者 Moshé Flato に師事した。Flato が1998年に亡くなり、その同僚の Daniel Sternheimer (フランス国立科学研究センター在籍)がボグダノフ兄弟の指導を引き継いだ。Sternheimer によると、双子のボグダノフは自らを「アインシュタイン兄弟」と見なし、曖昧で「印象派的」な発言をする傾向があった。兄弟を指導するのは「マイ・フェア・レディにオックスフォード流アクセントで喋るのを教えているかのよう」だったと彼は後に述べている。The Chronicle of Higher Education 紙の記事で述べているように、Sternheimer は自分がグリシュカの学位論文に含まれる話題の全てについての専門家だとは考えていなかった。しかし、彼はそれらグリシュカの専門内のものについては、博士号に値すると判断した。 Richard Monastersky は The Chronicle of Higher Education 紙上で、1991年に出版された『神と科学—超実在論に向かって』(ボグダノフ兄弟と哲学者ジャン・ギトンによる共著)の裏表紙では未取得のはずの博士号が冠されている、と記している。この本自体、バージニア大学の天文学教授 Trinh X. Thuan が自著 The Secret Melody: And Man Created the Universe を剽窃したとしてボグダノフ兄弟を1992年に告訴するという争いを引き起こしている。フランスでの法廷論争の後、Thuan とボグダノフ兄弟は和解し、兄弟はのちに不正行為を全否定した。Thuan は剽窃行為が可能な限り早い博士号取得へと兄弟を推し進めたのだろうと示唆した。 グリシュカは数学、イゴールは理論物理学の学位論文に拠ってブルゴーニュ大学 (en) の博士号をそれぞれ1999年と2002年に取得した。1999年にグリシュカは学位論文 Quantum fluctuations of the signature of the metric at the Planck scale(『プランクスケールにおける計量符号の量子ゆらぎ』)に対して、大幅に書き直して物理学的内容の数学的側面を強調する事を条件に、珍しい低評価の合格グレードである "honorable" を与えられている。同じ日に、イゴールは学位論文 Topological Origin of Inertia (『慣性の位相幾何学的起源』)の口頭試問に落ちている。指導教官はその後、査読のある専門誌に3本の論文が掲載できればイゴールへの博士号授与を認める、とした。要件である論文が出版された後、イゴールは3年後に別の話題において指導教官2人の指導の下で学位論文を無事審査通過させることができた。新しい学位論文である Topological State of Spacetime at the Planck Scale(『プランクスケールにおける時空の位相幾何学的状態』)も同じく低評価合格グレードの "honorable" を与えられた。Daniel Sternheimer が『ニューヨーク・タイムズ』紙の科学部記者 Dennis Overbye に述べたところによると、このグレードは滅多に与えられる事がない。ボグダノフ兄弟への博士号授与は正当であるとして、Sternheimer は『タイムズ』紙に対し「彼らは10年間無給で働いた。学位として自身の仕事を認められる権利が彼らにはある。もっとも、その学位も今日では大したものではないが。」と述べた。 兄弟は合計6本の論文を物理学と数学の専門誌上で出版した。それら掲載誌の中には査読官(レフェリー)による査読審査のある Annals of Physics と Classical and Quantum Gravityが含まれていた。学位論文両方の概要を読んだ後、ドイツ人物理学者 Max Niedermaier は論文が疑似科学であり、中身の無い内容を科学的に見せかけるため大量の専門用語で構成したものだ、と結論付けた。Niedermaier の視点では、ボグダノフ兄弟は査読制度に脆弱性があることを証明しようとして、ソーカル事件(物理学者アラン・ソーカルが偽論文を人文科学誌 Social Text 2002年10月22日号へ掲載させる事に成功した事件)と同様の手法を使ったものだと考えられた。Niedermaier はこの影響についての電子メールを書き、後にそのメールは広く配信された。最終的な受信者のひとりであるアメリカ人数理物理学者 John C. Baez はユーズネットのニュースグループ sci.physics.research に "Physics bitten by reverse Alan Sokal hoax?"(『逆・ソーカルの悪戯に物理学が噛みつかれた?』)と題した議論用スレッドを作り、そのスレッドは投稿数にして数百件の長さへと急成長した。 この口論はすぐに、物理学業界と国際的な一般紙の両方から世界的な注目を浴びた。Niedermaier に続いて、Baez が作った議論用スレッド参加者の大部分も論文は手の混んだ悪戯だという意見を表明した。しかし、ボグダノフ兄弟は一貫してその意見を否定している。その事を聞いた後 Niedermaier は、初めからあまりに憶測を含んでいた事について公的にも私的にもボグダノフ兄弟に謝罪する声明を2002年10月24日に出している。しかし、これはこの事件への Niedermaier による最後の公式コメントであることが分かっている。問題の論文について彼は正当性も長所も是認していない。
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事件の経過
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「熊谷男女4人殺傷事件」の記事における「事件の経過」の解説
大里郡寄居町に住む無職の少女(当時16歳)は、2003年(平成15年)6月下旬ごろから本庄市の飲食店店員Aと交際を始め、間もなく熊谷市箱田7丁目のAの自宅アパートに身を寄せるようになった。しかし、薬物に手を出すことを心配したAが自室に少女を住まわせようとしたことから、関係が悪化しAと少女は口論が絶えなくなる。 他方、少女は7月10日ごろに熊谷市広瀬、元稲川会系暴力団員のOと知り合い、交際関係になる。Oは少女の好意を利用して風俗関係で働かせようと考えていた。少女はAとOと二股交際をしていた。 少女は外出中にAが頻繁に連絡を取ろうとすることなどを疎ましく感じ始め、Oにも Aへの不満を話していた。7月末ごろ、Oと共にいた少女の元にAから呼び出しの電話があり、これにOも同行した。少女はAに対し交際相手がいること、頻繁な電話が「うざい」ことを告げ、Oは少女が「俺の女」であることを告げて怒鳴りつけたところ、怯えたAは引き下がり、少女はA宅の鍵を返却した。 しかし、親と喧嘩をして再び家出した少女はAの部屋に出入りするようになる。 8月18日午前、Oは乗用車で熊谷市内の無職少年の自宅アパートに身を寄せていた少女を迎えに行き、2人を連れ出した。同市筑波1丁目のファミリーレストランに入りビールや焼酎を飲んだ。その席で少女から「Aに姦淫されそうになった」ことを聞いたOは激昂し、「あの野郎、俺をなめやがって。Aが俺の女だって知ってるのに手を出してくるんだから、俺にけんか売ってるのと同じだよな。今から乗り込んじゃうか。野郎をやっちゃうか」とAを襲うことを示唆すると、少女は「そうだよ。やっちゃって。やっちゃえ、やっちゃえ」、少年は「人の女に手ぇ出すなんて、絶対に許せないっすよ。そんなヤツ、やっちゃうしかねえっすよ」と同調した。 ファミリーレストランを後にしたOは、ボーガンを入手しようと考え少女、少年を連れて同市内のホビーショップに向かうが店が閉まっていたため、「拳銃を自宅に所持しているが音がうるさいから」と、自分が経営するゲーム喫茶から包丁を持ち出し、少女に「本当にやっちゃって大丈夫なん」と確認し、少年に対し「帰ってもいいぞ」と言ったが2人も同行して、午後1時ころ、Aのアパートへ向かった。 Aは同じアパートに住む同僚の女性Bの部屋にいたため、少女が言葉巧みに誘い出しAの部屋に連れ込んだ。そこでAが少女に手を出そうとしたことを認めようとしなかったため、OはAに激しい暴行を加えた。OはBをもAの部屋に無理やり連れ込み、Bの見る前で「俺の女に手を出しやがって」と言いながらAに暴行を加え続け、「早く死ね、くたばれ」と言いながら背中に包丁を刺したあと腰、大腿部など数カ所も刺して殺害した。 午後1時20分ごろ、Aの勤務先のマネージャーが、「遅刻しないように」と伝えるためAの携帯電話に連絡をしたが通じなかったため、同じアパートに住むAの同僚の女性Cが様子を見に行くよう依頼され、携帯電話を繋いだままAの部屋を訪れる。Oは恐怖に震えるBに対応させ「(Aは)携帯電話に出られない」と答えさせた。動揺を隠せないBの応対を見たOはCを室内に連れ込み、「見ろ」と命じてAの遺体を見せつけた。 BとCをAの部屋に監禁したまま、少女は部屋に残した荷物を集めAの財布に入っていた現金を窃盗した。Oは尿意を訴えたCにトイレに行くことを許可せず室内で放尿させた。OはCの失踪を装わせようと、少年にCの部屋に行き携帯電話等を回収に行かせたところCの友人であるDに少年の顔を見られたため、OはDをAの部屋に連れ込みAの遺体を見せつけ、「見ちゃったもんはしょうがねぇよな。やっちゃうしかないよな」と言って、午後1時40分ごろ、車で3人を拉致した。 少年を助手席に乗せ、少女に加え拉致したBとDを後部座席に乗せてCをトランクに閉じ込めたOは、車を秩父市方面へと走らせた。 Oは秩父市黒谷の美の山公園駐車場でDを降ろし、女子トイレに連れ込んで乳房と陰部を触りタオルで首を絞めたあと、殴る蹴るの暴行を加えた。OはDの背部に包丁を振りおろしたが便器に当たり刺すには至らず、踏みつけたところ動かなかったことなどからすでにDは死亡したものと考え、美の山公園に放置した。 Oが駐車場へ戻ると少女が「携帯電話の着信音が聞こえた」と言ったため、Oがトランクを開けた。猛暑日のトランクに閉じ込められた暑さで汗を流しつつ「全部私のせいにしていいから許して。チーフ(A)をやったのも私のせいにしていいから」と必死に訴えるCに対しOは「うるせえ」などと言い放ち、歯が折れるほど強く殴った。Oは、「後ろの奴うるさいから、後ろの奴から始末するか」といい、美の山公園の観光道路脇でCをトランクから車外に降ろし、首を絞めたうえ右背部を3回刺して殺害。遺体を道路脇の崖に投げ落とした。 Oは1人残されたBに「手足を縛って口にアロンアルフアをつけてマンホールに入れて、次の日の朝迎えに行って生きていたら、見逃してやる」と言い放った。熊谷市内へ戻ったOは、Bを同市大麻生の国道140号線沿いの建築解体会社の資材置場で降ろした。Oは両手足をビニール紐で縛ったBの唇と鼻腔にアロンアルファを塗り、窒息させることができないことが分かると、ビニール紐で首を締め、湾曲した包丁で胸などを刺した。OはBの上衣に血の染みが広がっていくのを見てこのまま放置すれば確実に死亡するだろうと考え、Bを放置して現場を立ち去った。。 午後4時45分、美の山公園に倒れていたDを通行人が発見し、110番通報した。Dは秩父郡皆野町の病院に搬送された。病院を訪ねてきた秩父警察署員にDは「熊谷のGハイツに死体がある。調べて」と告げた。 同6時25分ごろ、熊谷警察署員がアパートに急行しAの部屋で布団をかけられたAの遺体を発見。 同8時50分ごろ、Bが放置された場所の敷地内で、そこを借りて車を置いていた男性に発見される。助け出されると間もなく意識不明の重体に陥った。胸部からの出血が多く、搬送先では輸血の処置が取られた。その結果、意識を回復した。 翌8月19日午前6時5分、犬の散歩中の男性がCの遺体を発見した。
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事件の経過
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「河内長野市家族殺傷事件」の記事における「事件の経過」の解説
2003年11月1日午前2時頃、大阪府河内長野市の会社員から 「息子がいきなり切りつけてきた」との119番通報があり救急隊が駆けつけると、1階で会社員の妻が首などを切られ倒れており(搬送先の病院で死亡)、2階で寝ていた次男や、長男を取り押さえようとした会社員も刺され重傷を負っていた。大学生の長男(18)は会社員の車で逃走したが、午前3時過ぎ、緊急配備中のパトカーに発見され緊急逮捕された。凶器の包丁は、犯行2、3日前にホームセンターで購入したと供述。同日、車に同乗していた高校1年の少女(16)が、自分も家族を殺そうと思い包丁を買ったと供述したため、殺人予備容疑で逮捕された。少年は犯行後、少女に電話をかけ一緒に逃げようと車に乗せていた。2人は幼馴染で交際中であり、少女は「互いの両親を殺害して一緒に暮らそうと話し合っていた」「最後は2人で死のうと思っていた」と供述。 2人にはゴシックロリータ趣味、自傷癖という共通点があった。 少年は猟奇殺人に関する本を好み、自分なら完全犯罪が出来ると友人に話していた。 少女はホームページで、詩やBL小説、日記や自身を撮影した画像などを公開していた。 事件当日には、ホームページに「いってきます」「探さないで下さい」という主旨の記述をしていた。
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事件の経過
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「日蓮正宗住職交通事故死事件」の記事における「事件の経過」の解説
事件の経過を時系列で紹介する 7月21日 交通事故発生 7月22日 新聞各紙が「日蓮正宗住職がトラックに衝突し死亡」と報道。また同日、保険会社が「100対0で日蓮正宗住職側の損失」と認定。 8月22日 事故被害者の創価学会員が週刊新潮記者の取材に答える 8月25日 週刊新潮(9月1日号)において「大石寺僧侶を衝突死させた創価学会幹部」の記事が掲載。 9月27日 創価学会元顧問弁護士・山崎正友と自民党の白川勝彦が都内ホテルで会談 10月5日 事故にあった創価学会員が『週刊新潮』を名誉毀損で提訴 10月11日 衆議院予算委員会で自民党の川崎二郎が交通事故死事件を追及。 事故後、現場検証が行われ、タイヤ痕等から住職の乗った乗用車が猛スピードでセンターラインをオーバーし、対向する学会員の運転するトラックに正面衝突したと判断された。また、事故の原因は(死亡した住職の)スピードの出しすぎによるハンドル操作の誤りによるものと判断、過失割合は「100対0」で、学会員側の過失を「ゼロ」と認定。住職側の保険会社は学会員が所有していた業務用トラックが廃車になったため、費用全額を負担した。 その後、週刊新潮記者が事故にあった学会員を取材。取材後に発売された週刊新潮では「大石寺僧侶を衝突死させた創価学会幹部」というタイトルの下、あたかも学会員が住職を交通事故死させたような内容が掲載された。また同記事では事故当日、創価学会が札幌市内で『遂に日蓮正宗天罰下る!室蘭住職交通事故死!ガードレールに衝突し、10:20頃死亡』というビラを配布したと記している。 10月11日、自由民主党の川崎二郎が衆議院予算委員会においてこの事件を取り上げた。
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事件の経過
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1944年(昭和19年)10月、赤十字社の仲介により、日本とアメリカの間で捕虜および拘束民間人への救援物資を交換する協定が成立した(日本側は、日本軍人の捕虜は居ないという建前があるので抑留されている民間人への物資ということにしていた)。両国の物資は中立国ソビエト連邦領のナホトカで交換され、アメリカ側救援物資2,025トンは貨客船「白山丸」により持ち帰られた。 アメリカ側物資のうち、800トンは日本軍占領下のジャワ島やマレー半島にある連合軍捕虜収容所向けであり、その輸送担当に選ばれたのが、当時の日本に残る数少ない高性能の貨客船となっていた阿波丸であった。日本と東南アジアを結ぶ航路は、アメリカ軍潜水艦の通商破壊により、極めて危険な状況だったが、阿波丸は病院船に準じた保護(安導権、安導券、Safe-Conduct)が約束された。軍隊輸送船状態だった阿波丸からは武装が撤去され、識別のため船体を緑色の迷彩塗装から灰白色へ塗り替え、舷側・煙突・甲板2か所に緑十字の識別マークが描かれ、夜間には煙突に照明も灯された。アメリカ軍は阿波丸の航路情報を各部隊へ通知し、攻撃しないよう命令した。 阿波丸の往路では、800トンの救援物資が積み込まれたほか、航空機・自動車の予備部品や弾薬など600トンの軍需物資が積み込まれた。軍事利用は協定違反だったが、日本軍により軍需物資の積み込みが決定された。事前協議の際、アメリカ側は船をどのように利用しようとも構わないと了解していたが、それがどの程度の範囲までかは曖昧であり、阻止しないとまでも明言していない。ただ、市民や官吏の輸送については黙認する構えであった。1945年2月17日に門司を出港した阿波丸は、高雄港で22トン、香港で41トン、シンガポールで562トンの救援物資を降ろし、最終目的地のジャワ島(救援物資175トン)へ無事に到着した。 3月28日、当初の任務を終えた阿波丸はシンガポールを発って日本への帰途に就いた。協定では帰路でも安全が保障されていたため、日本軍は再び軍事輸送への利用を計画した。これに船長は反対したものの、軍の要求に押し切られた。阿波丸には、船が撃沈されて滞留していた商船員480人、三井物産支店長以下の商社員、技術者、大東亜省次官以下の公務員など非戦闘員600人、軍人および軍属820人が便乗することになり、乗員と合わせて2,004-2,130人が乗り込んだ。また、スズ・タングステン・アルミニウムなどの地金5,000トン以上、生ゴム2,000トン以上、重油及びガソリン2,500トンという大量の軍需資源が船倉に収められた。アメリカ軍は暗号解読で日本側の工作を知り、航空偵察で阿波丸が物資を大量に積んで喫水が深くなった状態であることも把握していた。アメリカ太平洋潜水艦隊司令官のチャールズ・A・ロックウッド中将は、チェスター・ニミッツ大将に攻撃許可を要請したが、返答は届かなかった。 1945年4月1日午後10時頃、阿波丸は沖縄戦勃発の影響で、予定針路を変更して台湾海峡に進入、平潭県の牛山島(中国語版)付近を航行していたところ、クイーンフィッシュのレーダーに探知された。クイーンフィッシュは潜望鏡による目視確認を行わないまま、レーダー照準で攻撃を開始。およそ50秒後に阿波丸へ魚雷3本(4本との説もあり)が命中し、ほとんど一瞬で沈没した。約10分後に戦果確認のため浮上したクイーンフィッシュは無数の人が漂流物に混じって泳いでいるのを発見し、うち船員1人を収容した。クイーンフィッシュの報告によれば、他の漂流者はいずれも救助されるのを拒んだという。クイーンフィッシュに収容された1人を除く、2,003-2,129人全員が死亡した。
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事件の経過
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「宇都宮毒入りジュース事件」の記事における「事件の経過」の解説
昭和37年4月6日の早朝、宇都宮市で農業を営むA(35歳)は、自宅近くのあぜ道で新聞紙の包みを発見した。中にはポリエチレン袋入りのジュースが4袋あり、捨てておくのはもったいないと考えた彼は家に持ち帰った。朝食の席でA、Aの子供3人(9歳、7歳、4歳)、Aの母親の計5人がそのジュースを飲んだところ、一同はまもなく苦しみ始めた。飲まなかった祖父と妻が慌てて救急車を呼んだものの、到着した頃には3人の子供は絶命していた。Aと母親は飲んだ量が少量だったため、一命をとり止めた。 被害者の嘔吐物や残りのジュースからは、有機リン系統の毒物が検出され、さらにジュースの袋には注射針を差し込んだような穴が発見された。その毒入りジュースが拾い物だという証言を得た警察は、聞き込みの末に近隣の農家・B家の娘も同日の同時刻に、同じようなジュースを2袋拾っていたとの情報を得る。そのジュース袋にも注射器の穴があり、中には毒物が混入されていた。しかし、B家ではそのジュースを放置していたため被害を免れていた。捜査陣は不特定多数の殺害を狙った凶悪犯と推理したが、農業組合で要職に就いていたB家の一家皆殺しを図った、怨恨による犯行の可能性もあった。 一方、ジュースの入手経路を探って聞き込みを重ねる捜査員は、現場近くの菓子屋で「若い男が、同じジュースを6袋買っていた。しかもその男は、事件後に再度やってきて『俺がジュースを買ったことをしゃべるな』と、口止めを頼んでいった」との証言を得る。菓子屋の主人はその男の顔を覚えていたことから、犯人が逮捕される。犯人はB家の長男・C(20歳)だった。
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事件の経過
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1985年9月11日 - 撚糸工連が元経理課長兼業務課長を詐欺罪等で東京地検特捜部に告訴。 10月下旬 - 撚糸工連理事長らが工連の資金を私的口座に移し株取引をしている事実が発覚。 12月3日 - 東京地検特捜部、元課長を2億7000万円分の業務上横領容疑で逮捕。 12月25日 - 元課長を2億7000万円分の業務上横領で起訴。 1986年2月13日 - 撚糸工連理事長、前専務理事、石川県撚糸工業組合事務局長、仮より糸の賃加工あっせん業者の4人を4億2000万円分の融資に絡む詐欺容疑で逮捕。元課長も再逮捕。 3月6日 - 約7億6000万円の資金を撚糸工連の口座から私的に引き落とし、利付商工債を購入し、転売益をあげた業務上横領容疑で撚糸工連理事長を再逮捕。理事長が実質的に経営する「小田興産」(石川県小松市)役員を共犯で逮捕。 3月26日 - 通商産業省工業再配置課長、中小企業庁組合兼調整係長を収賄容疑で逮捕。加えて、撚糸工連常務理事を贈賄と証拠隠滅容疑で逮捕。撚糸工連理事長、前専務理事を贈賄容疑で再々逮捕。通産省課長は東京六本木での飲食代を撚糸工連に支払わせていたこと、中小企業庁係長は新宿区内の料亭で接待を受けていたことで逮捕となった。 4月16日 - 民社党の横手文雄衆議院議員を受託収賄容疑で任意で事情聴取開始。 4月24日 - 民社党、横手の離党届を正式に受理し、横手は離党。 4月25日 - 自民党中曽根派の稲村佐近四郎衆議院議員を収賄容疑で任意で事情聴取開始。 4月26日 - 稲村の私設秘書を証拠隠滅容疑で逮捕。 4月28日 - 稲村の別の私設秘書を証拠隠滅容疑で逮捕。 5月1日 - 東京地検特捜部、横手を受託収賄罪で、稲村を収賄罪でそれぞれ在宅起訴。稲村、自民党を離党。 5月23日 - 撚糸工連元課長を2億円分の撚糸工連利付商工債権横領容疑で追起訴(2億7000万円分については起訴済。合計4億7000万円の業務上横領にて起訴)し捜査終結。稲村の秘書2名を含む4人を処分保留のまま起訴猶予処分。 6月1日 - 稲村、次回の衆院選に立候補しない意向を表明(横手は潔白を主張し立候補)。 7月6日 - 横手、第38回衆議院議員総選挙に福井県全県区から無所属で立候補するも、落選。 7月16日 - 東京地裁、通産省元課長を保釈金500万円で保釈を認める決定。 7月11日 - 東京地裁、小田興産元役員の公判開始。その後他の被告の公判も始まる。 7月30日 - 東京地裁、撚糸工連前専務理事を保釈金2500万円で保釈を認める決定。 8月15日 - 通産省、中小企業庁元係長を懲戒免職。元課長については起訴事実を否認していることを理由に処分見送り。 9月29日 - 東京地裁、収賄で中小企業庁元係長に懲役10月執行猶予2年、追徴金104万円余の有罪判決。 12月25日 - 東京地裁、通産省課長らへの贈賄、詐欺で撚糸工連理事長に懲役4年の実刑判決。その後同理事長は控訴。 12月25日 - 東京地裁、詐欺、業務上横領で撚糸工連元課長に懲役4年の実刑判決。 12月25日 - 東京地裁、贈賄、詐欺で撚糸工連前専務理事に懲役3年執行猶予5年の有罪判決。 12月25日 - 東京地裁、詐欺で仮より糸の賃加工あっせん業者に懲役2年執行猶予3年の有罪判決。 12月25日 - 東京地裁、業務上横領で小田興産役員に懲役1年6月執行猶予2年の有罪判決。 1988年3月15日 - 東京地裁、通産省元課長に懲役1年6月、執行猶予3年、追徴金246万余の有罪判決。同課長、その後控訴。飲食代金計58回、256万円余を業者側に支払わせていたと認定。 1989年9月7日 - 東京高裁、通産省課長に懲役1年6月、執行猶予3年、追徴金244万円余の有罪判決。同課長、その後上告。高裁は事実認定に誤りがあるとし1審判決を破棄。追徴金の金額が変更された。 11月6日 - 東京地裁、稲村に懲役2年6月、執行猶予3年の有罪判決。稲村は控訴したが後に取下げ1審判決確定。 11月27日 - 稲村、地元石川県羽咋市で開かれた後援会の席上政界引退を正式に表明。 1990年7月29日 - 執行猶予中の稲村佐近四郎元衆議院議員が脳梗塞で死去。 1992年10月27日 - 最高裁、通産省元課長の上告を棄却する決定。収賄罪にて懲役1年6月、執行猶予3年、追徴金244万円余が確定。 10月28日 - 最高裁、撚糸工連理事長の上告を棄却する決定。3年6か月の実刑が確定、収監。詐欺、業務上横領、通産官僚への贈賄容疑。衆議院議員2人への贈賄については公訴時効が成立していた。 2021年4月28日、横手文雄元衆議院議員が死去。
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事件の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 07:04 UTC 版)
翌2月25日朝、安達少尉を先頭に280名の捕虜全員が広場に集まって座り込んだ。この座り込みの際に、安達少尉は「いかなる場合も軽挙妄動することなく、一糸乱れぬ行動をとれ」と厳命している。 この状況を見たニュージーランド軍は、中尉を指揮官とした完全武装の50名を派遣した。指揮官はただちに50名の作業員を出すよう要求したが、安達少尉は断乎として拒否したため、ニュージーランド軍の指揮官は安達少尉の連行を命じた。しかし、「古鷹グループ」のメンバーが体を張って阻止したため、ニュージーランド兵は安達少尉の連行を諦めざるをえなかった。 安達少尉の連行に失敗したニュージーランド兵たちは、捕虜たちの前方で横一列となり、銃を構えつつ捕虜たちに向かってきた。この時、ニュージーランド軍指揮官が威嚇のためにピストルを取り出し、それに対して安達少尉は自分の胸を叩きながら「撃つなら、おれを撃て」と叫んだ。その直後、捕虜たちは持っていた石をニュージーランド兵に向かって投げると同時に素手で突進を始め、ニュージーランド兵も捕虜たちに対して小銃や軽機関銃で応戦した。 その結果48人の捕虜が死亡(31人が即死)、68人が負傷した。負傷者の中には安達少尉も含まれていて、頭、左腕、脇腹、腕の4ヶ所を撃たれ、一時意識不明の重体に陥った。 ニュージーランド側ではウォルター・ペルビン二等兵が跳弾により死亡したほか、18人が負傷した。
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事件の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/13 00:25 UTC 版)
11月12日には長沙飛行場の破壊も開始された。長沙の火災は強風により城内一帯に燃え広がった。この際に郭沫若は放火をしている兵から張治中の命令によって放火していることを確認している。地方政府の役人は逃げ去り、住民の不安はさらに増した。英国の揚子江艦隊に所属する砲艦サンドパイパー(Sandpiper, 排水量185トン)は避難する外国人保護のために外国人の施設附近に留まった。
※この「事件の経過」の解説は、「長沙大火」の解説の一部です。
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事件の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 07:48 UTC 版)
1945年8月8日、ソ連は日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦を布告し、さらに8月9日未明に満洲国、朝鮮半島、樺太などに侵攻を開始した。 8月10日と11日の両日、興安(別称、興安街ないし王爺廟。後の内モンゴル自治区ヒンガン盟のウランホト)が爆撃を受け、興安の都市機能はほぼ破壊された。11日午後4時、興安街在住の日本人約千数百人が近郊のウラハタに集結、興安総省参事官浅野良三の指揮の下、行動隊が組織された。 行動隊の当初の目的地は北東へ約100キロメートル離れたジャライド旗(扎賚特旗)だったが、12日からの降雨や興安軍による馬車の略奪などにより計画を変更。興安街の南東約40キロメートルに位置する葛根廟を経由し列車(白阿線(中国語版))で白城子(後の吉林省の白城)へ避難、同地で関東軍の保護を受けつつ列車でさらに南下するという計画を立て、徒歩で移動を開始した。 8月14日午前11時40分頃、行動隊が葛根廟丘陵付近まで到達したところで、ソ連軍中型戦車14両とトラック20台に搭乗した歩兵部隊に遭遇したため、浅野参事官は白旗を掲げたが、機関銃で射殺された。ソ連軍は丘の上から行動隊に対し攻撃を開始し、戦車が機関銃で攻撃を加えながら、避難民を轢き殺していった。戦車の後方からは、ひき殺された人々がキャタピラに巻き込まれ宙に舞いだしたという。ソ連軍戦車は攻撃をある程度続けると、丘に引き返し、何度も避難民めがけて突入しながら攻撃を繰り返した。戦車による襲撃が止むとトラックから降りたソ連兵が生存者を見つけ次第次々と射殺し、銃剣で止めを刺していった。2時間余りの間に非武装の女性、子供を主体とした1,000人以上が殺害され、生存者は百数十名にすぎないとされている。殺害を免れた者も戦車に轢かれたり、被弾して負傷したものや、家族が殺害されたものがほとんどであり、大勢が自決した。犠牲者のうちの200名近くの児童は、興安街在満国民学校の児童であった。護衛・反撃に回るはずの肝心の関東軍部隊は既に南転済みであった。 生存者に対する襲撃も執拗を極めた。生存者は、中国人暴民によって、身につけている下着にいたるまで身ぐるみ全てを剥がされるなどした。また、暴民から逃れようとして川で溺死した者もいた。ある女性はソ連兵に子供を殺され、続いて襲ってきた暴民に衣服を全てはぎ取られた上に鎌で乳房を切り落とされている。暴民たちは、生き残った母子を見つけると母親を棒で殴りつけ、子供を奪っていった。親を殺された子供達は、生き残った大人のもとに集まっていたが、暴民たちはその子供たちをも同様に奪っていった。当時は日本人の男児は300円、女児は500円で売買されるのが一般的であった。 8月15日の終戦後も、避難民に対する襲撃は続いた。事件後に10人余りの婦女子の一団に加わった12歳の少女の証言によると、少女が加わった女性たちの一団は、暴民に襲われて衣服を奪い取られ暴行を受けるなどしながら、一週間余りをかけて葛根廟駅(中国語版)から10キロのところにある鎮西駅(中国語版)にたどりついた。女性たちは駅から少し離れたところにある畑の空き家に身を寄せることにしたが、夜になるとソ連兵に発見され、深夜まで暴行が行われた。暴行が終わるとソ連軍兵士たちは屋外に積まれてあった枯れ草を家の中に投げ入れては火を付け、女性たちを焼き殺そうとした。少女と妹は窓のそばにいたために難を逃れることができたが、他の女性たちは火の回りが早く脱出できなかったようであると証言している。助かった少女はその後、残留孤児として生きることを余儀なくされた。 一方、中国人、モンゴル人、朝鮮人のなかには生存者に食事を提供する者もおり、中国人のなかには子供を手厚く育てる者もいた。行動隊の生き残った親を殺された子供たちは、さまざまな経緯から中国残留孤児となっていた。約30人が残留孤児となった。また、多くの女性が中国残留婦人となることを余儀なくされた。 国民学校は校長夫婦以下児童270人うち200人が殺害された。 藤原作弥は、この事件は暴民ではなく一国の軍隊の攻撃によって無差別的に大量虐殺されたジェノサイドであり、その点では終戦時に満洲の日本人難民が遭遇した悲劇のなかでも最大のものであると評している。
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事件の経過
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「東京教育大学生リンチ殺人事件」の記事における「事件の経過」の解説
1970年(昭和45年)8月4日早朝、東京都新宿区の東京厚生年金病院(現、東京新宿メディカルセンター)の警備員から「玄関前に死体がある」との110番通報があり、上半身裸の若い男性の遺体が遺棄されているのが発見された。 警視庁の捜査によると、被害者は当時東京教育大学理学部化学科3年生で、革マル派活動家のEと判明した。 前日の8月3日午後3時頃、池袋駅東口で街宣活動を行っていた中核派活動家が偶々通りかかったEを発見、その場で殴る蹴るの暴行を加えた。その後、Eに猿ぐつわ、目隠しをして、デモのようにしながら飯田橋の法政大学に拉致した。 中核派活動家らはEを法政大学第二校舎(通称、六角校舎)地下室に連行し椅子に縛り付け、“自己批判”を要求したり、「反革命は死ね」「ここから生きて帰れると思うな」と罵声を浴びせながら、集団リンチを加えた。リンチは Eが気絶すると水を掛けるなどして意識を回復させ、更に暴力を加える凄惨なものとなった。やがて幹部達は「このまま帰すと報復が怖い。とどめをさせ。」とする結論に達して Eを殺害。翌4日に遺体を東京厚生年金病院の車寄せに遺棄した。リンチが行われた地下室は、幹部の命令で無関係の5-6人の学生により徹底的に掃除が行われたほか、凶器の角材やモップ、Eの教科書などの所持品は学校の焼却炉で焼かれて証拠隠滅が行われた。
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事件の経過
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事件の舞台となった下湧別村は、北海道北部・オホーツク海に面した漁村である。昭和17年初頭の当時、太平洋戦争は開戦から半年ほど、日本軍がまだ快進撃を続けていた時期であり、北辺のこの地には平穏な空気が流れていた。流氷は南風を受けて去り、根雪が融けて畑土が顔を覗かせる中、住民らは鰊漁や作付けの準備に追われていた。 そんな折の4月ころから、漁民たちの間で「浮遊機雷らしいものが見える」との噂が立ち始めた。オホーツク海沿岸という立地条件故、日本海軍、あるいはソビエト連邦、アメリカ合衆国が敷設した機雷が流れたものと想像された。その機雷が、5月下旬に至って村内のポント浜(ポン・トは、アイヌ語で小さな沼の意)と、サロマ湖東岸のワッカ海岸(ワッカは、アイヌ語で水の意。砂州の中ながら淡水が湧き出す立地)に相次いで漂着した。 機雷漂着の知らせは村内の駐在所から内陸の遠軽警察署へ即座に伝えられた。警察署側では一挙に2個の機雷漂着に驚きながらも、これを安全な場所(陸上)に移した上で公開爆破処理する計画を立案、一般にも通達した。一般への通達は危険防止への配慮もあったが、時節がら「戦意高揚」(プロパガンダ)の目的でもあった。陸上での爆破処理は、機雷の威力を広く衆人に知らしめるとともに、仮に水中で爆破された場合、周辺海域の魚介が全滅することを嫌がった漁民の意見も受けてのことである。こうして、5月26日正午、ポント浜での爆破作業実施が決定した。 通達を受けた下湧別警防団では、爆心予定地から半径1,000 mを危険区域として赤旗で表示し、2個の機雷を並べて配置する作業に着手。前日の25日までに滞りなく終了した。
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事件の経過
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文久元年3月4日の夜、小姓組・山田新六の長男・山田広衛と茶道方・益永繁斎が、節句祝いの宴会の帰りに井口村(現・高知県高知市井口町)の永福寺という寺の門前で郷士・中平忠次郎と肩がぶつかる。当初、忠次郎は非を認め謝罪し立ち去ろうとしたが、相手を郷士と見た山田は酒の勢いもあり忠次郎を罵倒し口論に到る。 口論の末に逆上した山田は抜刀し、忠次郎もこれに応戦するが敵わず殺害されてしまう。 忠次郎に同行していた宇賀喜久馬は忠次郎の兄・池田寅之進にこの事態を知らせ、2人は急いで現場へ駆けつけるが、時既に遅く、忠次郎は殺害された後だった。近くの小川で刀を洗い、喉の渇きを潤している山田を発見した寅之進は背後から袈裟懸けに斬り掛かり山田を殺害、近くから提灯を借用して現場に戻ってきた繁斎も殺害した。 寅之進は当初、弟の亡骸を運ぼうとするが、現場に駆けつけた上士・諏訪助左衛門と上士・長屋孫四郎の2人が「死体をみだりに移動させることは禁じられている」と彼の行動を咎めた。その為、寅之進も一旦、弟の亡骸を寺の門前へと戻し、改めて上士たちの亡骸は山田家に、忠次郎の遺体は池田家へと引き取られる。 翌朝には事件は人々の知るところとなり、山田の家には上士達が、寅之進の家には郷士達が集まる。両者、互いに対決せんと息巻いており、一触即発の危機を迎えていた。この時、郷士側に当時25歳の坂本龍馬も参加したと伝えられる。『維新土佐勤王史』には、「坂本等、一時池田の宅に集合し、敢て上士に対抗する気勢を示したり」とだけ記されている。 事態は寅之進と喜久馬の切腹をもって終結した。 宇賀喜久馬の切腹は親族立会いの下、介錯をしたのが喜久馬の実兄である寺田知己之助(寺田利正。宇賀市良平の次男。18歳の時、同じく郷士の寺田久右衛門の養子となる。寺田寅彦の父親)であった。実弟を介錯した当時25歳の知己之助はその後、精神を病んだとも伝わっている。
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事件の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/01 04:42 UTC 版)
1995年7月 倒産 1995年8月 大阪地方裁判所から破産宣告を受ける。破産管財人は米田実弁護士。 1996年9月 社長らが詐欺容疑で逮捕される。
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事件の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 01:57 UTC 版)
1979年11月30日、台湾人權委員会は高雄市第一分局に対し世界人権デーに当る12月10日午後のデモを申請したが不許可との決定が伝えられた。その後も数度の申請が試みられたが、結局許可を得られず、党外活動家は元来の計画に従い高雄市にて無許可のデモを決定した。 12月9日、国民党政府は軍事演習を理由に12月10日の全てのデモ活動の禁止を宣言した。デモ当日、『美麗島』のボランティアである姚国建と邱勝雄は活動日時を知らせるビラ配布により逮捕、官憲の暴行を受けた。『美麗島』活動家は逮捕の事実を知ると警察に対し即時釈放を要求、両名は翌日未明に釈放された(鼓山事件)。この事件が党外活動家の怒りを買い、元来デモへの参加を計画していなかった多くの活動家が高雄に向かいデモ参加の準備を開始した。 12月10日午後6時デモ隊はデモを開始、当局は治安部隊を出動させこれを阻止しようとした。集会地として計画された「扶輪公園」は既に封鎖されていたため、デモ隊は急遽現在の新興分局前のロータリーに集会地を変更した。集会で黄信介の演説が開始されると治安部隊によりデモ隊は完全に包囲された。施明徳と姚嘉文は警察側との協議を行い午後11時までの集会の許可と、治安部隊の撤収を要求したが、警察側は治安維持を名目にこれらの要求を全て拒否した。午後8時半、治安部隊がデモ隊に対し催涙弾の使用を開始すると集会現場は混乱、双方間での衝突に発生し、午後10時前後には警察の応援部隊も到着し大混乱となった。 事件発生後の12月13日午前6時、政府は台湾全島での党外活動家の逮捕を決定、治安部隊を全島に展開させた。1980年2月20日、憲兵軍法会議は叛乱罪で黄信介、施明徳、張俊宏、姚嘉文、林義雄、陳菊、呂秀蓮、林弘宣らを起訴、その他三十数人が一般法廷で起訴された。張徳銘、陳継盛などの支援の下、党外活動家側は弁護人選定に着手し、最終的に15人の弁護団が結成された。被告1名に弁護士2人が対応して裁判が行われたが、軍法会議で起訴された8人全員は有罪、施明徳は無期懲役、黄信介には懲役14年、その他6人には懲役12年が言い渡された。
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「2007年ターリバーン韓国人拉致事件」の記事における「事件の経過」の解説
7月19日 - ターリバーンがアフガニスタンで短期宣教に参加していた大韓イエス教長老会(高神)に属する韓国人の福音派キリスト教徒23名を拉致し、アフガニスタン政府に対し、人質の解放と引き換えにターリバーン兵士の釈放を要求。 7月21日 - ターリバーンが交渉期限の24時間延長。22日、23日にも交渉期限を24時間延長する。 7月25日 - 人質のうちの一人であり、リーダー格の42歳の牧師を殺害。 7月26日 - ターリバーンの報道官は、アフガニスタン政府の要求に応じ、新しい期限を27日の朝まで遅らせると語った。 7月31日 - 更に人質男性の一人(29歳)を殺害。 8月1日 - ターリバーンと韓国政府が直接交渉を開始。同日夜、ロイター通信が「救出作戦開始」の誤報を配信。 8月11日 - ターリバーン代表と韓国政府代表が対面交渉を開始。 8月13日 - 人質女性2人が解放。 8月28日 - 残りの人質19人全員の解放に合意。 8月29日 - 人質の内、女性10人と男性2人が解放。 8月30日 - 最後まで残っていた人質7人が全員解放される。
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事件の経過
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1979年9月11日午後2時頃、熊本県免田町(現:あさぎり町)の道路を歩いていた主婦(当時21歳)が近くの畑に連れ込まれ、暴行目的で首を締められた末に刃物でメッタ刺しにされ殺害される。後に男が殺人罪で逮捕、起訴される。
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「制服警官女子大生殺人事件」の記事における「事件の経過」の解説
1978年(昭和53年)1月10日午後、東京都世田谷区経堂二丁目のアパートの一室で、この部屋に住む被害者である清泉女子大学4年生の女子大生(当時22歳)が死んでいると家主から110番通報があった。 女子大生は窓際のベッドの下にうずくまるように倒れていて、ストッキングで絞殺されており、暴行された形跡もあった。部屋には物色した形跡もあった。北沢警察署は殺人事件として特別捜査本部を設置し、捜査を開始した。 その後、第一発見者は家主ではなく若い警察官であり、通報は家主が彼に頼まれてしたものだという事が分かった。その警察官は北沢警察署経堂駅前派出所に勤務する男性巡査(当時20歳)であった(彼はこの事件の捜査にも加わっていた)。巡査は事情聴取に対し、この日の午後4時半頃、現場のアパート近くをパトロール中、ガラスの割れる音を聞いたので駆けつけたところ、女子大生の遺体を発見したのだと話した。 しかし、時間が合わない・その場で署活系無線を使って署に至急知らせればいいのにそれをせずわざわざ110番通報させた、などのあやふやな部分があり、その度に巡査は話を二転三転させた事から、不審に思った刑事たちは巡査を追及し始めた。巡査は犯行を否定し続けたが、顔にひっかき傷があるのを指摘されると犯行を認め、逮捕(即日懲戒免職となった)。更に、家主が巡査を見た時には服装が随分と乱れており、制服のボタンがちぎれており、更に調べると制服内のパンツから女子大生の血液が検出された。またその後の調べで、巡査はパトロール中に住人不在の部屋を見つけると、侵入して現金などを盗む空き巣も数件行なっていた事が発覚した。
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焼き物を窯で焼くには大量の燃料(薪)が必要であり、その確保のためには豊かな山林が不可欠である。当訴訟は、須恵器の陶工たちを束ねる河内・和泉両国が、薪を採る山(陶山)の帰属ないし薪の採取権をめぐって争ったもので、その経過は『日本三代実録』にわずか2箇所程度の記述ながら、以下の通り見える。 天安3年3月4日(ユリウス暦859年4月10日)、遣左衛門少尉正六位下紀朝臣今影・右衛門大志従六位上桜井田部貞雄麻呂、於河内・和泉両国弁決陶山之争。 貞観元年4月21日(859年5月26日)、河内・和泉両国、相争焼陶伐薪之山、依朝使左衛門少尉紀今影等勘定、為和泉国之地。 陶山をめぐる2国間の係争について、3月4日に朝廷から紀今影・桜井田部貞雄麻呂の2名が派遣され、審議の結果、4月21日に陶山は和泉国に属すると裁定されたことがわかる。なお、両記述の間の4月15日(859年5月20日)には貞観に改元している。
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事件の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 09:46 UTC 版)
1944年後半から日本本土空襲が行われるようになった。硫黄島が占領された1945年3月以降、関東地方各地の都市は毎日のように米軍機による襲撃を受けるようになっていた。 1945年6月23日も千葉県八日市場町上空にP51の編隊が襲来、機銃掃射などを加えた。やがて編隊は九十九里方面に離脱していったが、うち一機が迎撃に上がった日本軍戦闘機と交戦し被弾、久賀村に墜落した。撃墜された搭乗機の操縦士だったジョン・スキャンラン・ジュニア(John V.Scanlan Jr.) アメリカ陸軍中尉(当時・24歳)は落下傘で脱出したが降下中に日本軍戦闘機から銃撃を浴び、降下した久賀村では村人や軍人から竹槍や銃剣で刺され重傷を負い捕らえられた。 スキャンラン中尉は第152師団司令部が置かれていた佐原町立国民学校一部校舎にトラックで連行され、簡易治療を受けた後に捕虜尋問を受けた。その後、スキャンラン中尉は両手を縛られ、一部校舎裏手にある校庭に出された。町では「アメリカ兵が捕まった、小学校へ連れて行かれた」などという噂が流れ、次第に一部校舎に見物人が集まってきた。軍人は戸惑いと憎悪が入り混じった目でスキャンラン中尉を見つめる町民の前で「お前らの敵だぞ」と言い放って一部校舎に生えていた桜の枝を2本折ると、枝で2、3回中尉の体を叩いて見せた。それを見て一挙に興奮した町民達はその桜の枝を奪い合うようにして次々とスキャンラン中尉を叩いた。激しい憎悪に駆られ叩きつけたため桜枝はすぐに折れてしまった。そして身動きができないほどの町民が集まったため、4、5人の軍人たちは倒れ込んでいたスキャンラン中尉を起こし、学校橋対岸にある広い校庭へ引きずって行った。 対岸の広い校庭には、さらに多くの町民が集まりはじめた。町民達の中には米軍機による度重なる空襲にさらされ身内を失ったり、戦地で身内を亡くした者も既に多く、「息子のかたき」、「父ちゃんを返せ」などと叫びながら、女性・子供・老人を中心とした数千人の群集が取り囲んだ。やがて町民の誰かが持ってきた竹槍や棒で代わるがわるスキャンラン中尉を叩きはじめた。校庭にあった朝礼台の上では拡声器を持って「もっと叩け、もっと叩け」と煽動する町民もいた。叩かれる合間に衛生兵がカンフル注射を2、3本打ったが、最後の注射には反応はなく息絶えた。それでも気の収まることのない町民はスキャンラン中尉を叩き続け、数時間余りの暴行のすえスキャンラン中尉は死亡した。 中尉の亡骸は浄国寺に隣接する無縁仏を埋葬するための共同墓地に荒縄で縛られた状態で逆さまに埋められ、其の上には彼が履いていた靴が供えられた。
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事件の経過
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反ファシズム統一戦線は内部に社会民主主義、自由主義、反戦運動と言った多様な側面を持つ運動で、司法省内部には社会民主主義や自由主義を共産主義の温床だとみなす意見があり、内務省警保局はこの意見に追従し検挙に踏み切った。 1937年12月15日午前6時、警察は全国18府県で466名(加藤勘十が委員長を務めていた日本無産党(日無党)、その支持団体である日本労働組合全国評議会(全評)、全国農民組合などの中央・地方幹部、学者、評論家ら)を検挙した(第1次人民戦線事件)。更に、第1次人民戦線事件のあとの12月22日には、日無党と全評も結社禁止処分となり解散した。その後、翌1938年2月1日、9府県で38名を検挙した(第2次人民戦線事件、教授グループ事件)。教授グループ事件に関しては、当時の東京帝大経済学部内の対立もからんでいたらしい。土方成美、田辺忠男、本位田祥男、橋爪明男ら、特に内務省警保局嘱託だった橋爪が検挙に1枚噛んでいたと言われている。 検挙された484名の内訳は、日無党関係265名、全評関係174名(うち、日無党とも関係のある者は42名)、労農派グループ34名、教授グループ11名である。検挙された中で有名な人物としては、第一次人民戦線事件では、代議士の加藤勘十・黒田寿男、運動家の山川均・荒畑寒村・鈴木茂三郎・岡田宗司・向坂逸郎・大森義太郎など、第二次人民戦線事件では、大内兵衛・有沢広巳・脇村義太郎・宇野弘蔵・美濃部亮吉や佐々木更三・江田三郎などが挙げられる。
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事件の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/13 20:33 UTC 版)
李らは、まず農民講座を通して農民の権益を自衛すべく啓蒙活動を行った。1925年10月6日には、李らは会社に対し、以下のことを要求した。 台湾総督府機関による買付期日の決定 刈り取り前の買付価格を公示すること 肥料は甘蔗農民が自由に購入できるようにるすこと 双方の協議による買付価格の決定 刈り取った甘蔗の重量を検査する時は双方が一緒に監視すること である。しかしこの要求は林本源製糖会社に拒絶され、同社は日本の警察に事件への介入を依頼した。10月22日、林本源製糖会社が刈り取りと強制買付けを実行しようとすると、二林地区の甘蔗農家がこれに反発し、警察との衝突に発展した。農民は警官のサーベルを奪い警官9名が負傷する事態となると、警察は甘蔗農家及びこの運動を支持していた台湾文化協会の構成員の逮捕に踏み切った。逮捕者には、事件当時現場にいなかった蔗農組合の幹部も含まれ、逮捕者総数は400名にも及んだ。 事件後日本労農党の布施辰治、麻生久の2名の弁護士が台中に駆けつけ応援した。また台湾文化協会の蔡式穀等も出廷して弁護した。逮捕者400名中25名が有罪となった。事件の中心人物となった李応章は1927年(昭和2年)4月に懲役8ヶ月の有罪判決を言い渡されている。
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事件の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/27 20:15 UTC 版)
1950年6月25日に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が大韓民国(韓国)を攻撃し、韓国軍は後退を続けていた。6月27日深夜1時、中央庁において招集された非常国務会議で、政府の水原移転が決定された。ソウル市民については当初より移動計画はなく、この席でも何らの対策も講じられなかった。この後、深夜国会において、「国会議員は百万のソウル市民とともに首都を死守する」との決議がなされた。午前5時ごろより招集された国防首脳会議において、参謀総長の蔡秉徳少将は「政府は南に移動しても、軍はソウルを固守する」との決意を披瀝したが、散会直後、前線から「今晩持ちこたえることは難しい」という悲観的な状況報告を受けた。 27日午前3時ごろ、大統領の李承晩はついに周囲に説得され、ソウルより退避した。午前6時、政府が水原への遷都を発表したことで、それまで楽観的な報道のみを聞かされていたソウル市民は、初めて首都の危機を知った。避難路を求める市民が漢江の人道橋付近やソウル駅に殺到する一方、増援部隊の車両は北上を続けており、市内は大混乱に陥った。 6月28日午前1時、彌阿里(城北区)において韓国軍の防御線が突破され、ソウルの最終防衛線は崩壊した。1時45分、北朝鮮軍戦車が市内に突入したとの報を受け、蔡はただちに漢江橋の爆破を命令して、漢江を渡って始興に向かった。一方、参謀総長の出発直後に陸軍本部に到着した第2師団長の李亨根准将、第5師団長の李應俊少将、第7師団長の劉載興准将はこの命令の件を聞き、第一線部隊が後退命令を受けないままで戦闘を継続中であることから、部隊を後退させたのちに爆破するように進言した。参謀副長の金白一大佐もこれに同意し、作戦局長の張昌国大佐に橋梁爆破を中止するよう命じた。張は南漢江派出所の爆破指揮所に急行したものの、ソウル市内、特に漢江北岸は避難民や将兵によって大混乱に陥っており、道路の通行は極めて困難であった。 爆破指揮所においては、参謀総長の爆破命令を受け、28日午前2時20分ごろ、陸軍本部工兵監の崔昌植大佐は爆破命令を下達した。この時、橋梁においては陸軍憲兵と警察が、命令なしに後退する車両を阻止しようとしていたが、ほとんど統制できなかった。午前2時30分(韓国時間)には、約4000名の避難民が漢江人道橋を渡っていた。 点火信号と同時に、人道橋、続いて3本の鉄道橋(漢江鉄橋)が爆破された。爆破中止命令を下達するため急進中であった張は、爆破指揮所まであとわずかのところで大爆音を聞いた。統制が不十分であったことから、爆破時にも橋梁上には4000人の避難民と車両があった。この漢江人道橋爆破事件によって約500-800名と推定される避難民が犠牲となった。また、北漢江派出所付近では破片によって40余両の車両が大破し、多くの人員が負傷した。そして、韓国軍主力部隊は退路を遮断され、これらを支援していた1,318両の車両や装備品、補給品が漢江北岸に取り残され、北朝鮮軍の手中に落ちた。しかし装薬の不発により、京釜線の複線鉄橋と京仁線の単線鉄橋が完全に破壊されず、のちに北朝鮮軍戦車の漢江渡河を許すことになり、作戦に大きな影響を及ぼした。朝鮮人民軍が漢江人道橋に到着したのは、爆破から6時間後のことであった。 このように、混乱状態のなかで橋梁を爆破したことは、民間人に多数の犠牲を出しただけでなく、爆破を行なった韓国軍自身にとっても大きな損失となった。この時点で、韓国軍の主力である第2、第3、第5、第7師団と首都防衛司令部の部隊は依然としてソウルの外郭防衛線において戦闘を継続中であり、また、第1師団は坡州南側の陣地を固守し、小規模な反撃を繰り返すことで北朝鮮軍の攻勢を阻止し続けていた。しかし、橋梁が爆破され、また北朝鮮軍が市内に突入したことで、背後を遮断されたことを知った各部隊は、雪崩を打ったように後退を開始した。その様相について、日本の陸上自衛隊幹部学校(旧軍の陸軍大学校に相当)の戦史教官たちによる陸戦史研究普及会は、 韓国軍主力は、北朝鮮軍の強圧もさることながら、自ら過早に退路を遮断したことが決定的な要因となって、信じられぬ速度で崩壊していった と評している。 このことから、本事件の責任が誰にあるのかが大きな問題となった。蔡は「軍事常識のあるものがそんな命令を下すはずがない」、国防次官であった張暻根は「私は命じていない」と主張し、結局は、現場責任者であった崔が責任をとらされて、 9月21日、釜山郊外で銃殺された。しかし1962年の再審の結果無罪となり、崔の名誉は回復された。爆破時の消息を知る米軍顧問は、命令は蔡より発せられており、崔はそれを忠実に実行したに過ぎないと信じており、また、当時作戦局にいた匿名の高官や、参謀副長であった金は、張次官による命令であったと考えているとのことである(陸戦史研究普及会 1970: 68)。 事件から60年を経た2010年6月28日、韓国では事件以来、初となる慰霊祭が民間団体によって行われた。現在に至るまで、事件犠牲者の慰霊碑すら建立されていないため、建設を要求する動きもある。
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事件の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/28 15:01 UTC 版)
「南海本田ストライキ事件」の記事における「事件の経過」の解説
譚をはじめとする従業員側は、当初月額800元の賃上げを求めた。当時の同社の賃金は正社員でも1500元であった。同年5月20日と21日に行われた労使間の交渉では、会社側が50元から100元の賃上げの回答を示したが、従業員側の要求額と差がありすぎたので、労働者側が反発し、ストが再開された。5月24日、27日、28日と連続して行われた交渉で、会社側は賃上げ額を小刻みに上積みしていくが、従業員側の要求額とは、なお隔たりが大きかった。6月1日、ホンダ自動車中国法人のパートナー企業である、広州自動車集団会社の曾慶洪総経理が突然工場を訪れ、紛争の調停に乗り出すと宣言した。同日午後に400人の従業員を集めて、自分が調停人になることを受け入れるよう訴えた。その結果、500元の賃上げをもって交渉は妥結した。従業員側からすれば800元という当初要求額からは下回っているものの、30パーセントを超える賃上げとなっており、十分満足のいくものであった。会社側にとっては、受け入れがたい水準ではあるものの、曾総経理の立場を考慮すれば、受け入れざるを得ないものであった。
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事件の経過
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「山口県下関市6歳女児殺害事件」の記事における「事件の経過」の解説
11月28日午前5時前頃 - ニット帽の不審な男がアパートの敷地内を歩いているのを住人が目撃する。それから少し後に「助けて」などと叫ぶ女の子のものと思われる声が聞こえて、泣き声がした後、静かになる。 午前5時20分頃 - ニット帽の不審な男がアパート前に駐めていた車に乗って走り去るのを住人が目撃する。 午前5時30分頃 - 女性の長男と長女が隣に住む夫婦に火事の発生を伝え、助けを求める。長男と長女は隣人の夫婦にベランダ伝いで救助される。 午前5時40分頃 - 男性の妻が119番通報をする。その後火事は消し止められたものの、長男と長女が次女の姿が見えないことに気づく。その後、アパート近くの側溝で倒れている次女が発見され、病院に運ばれたものの、1時間半後に死亡が確認される。
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事件の経過
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「アルミン・マイヴェス」の記事における「事件の経過」の解説
2001年3月、マイヴェスと被害者の男性は落ち合った。二人はマイヴェスの家まで移動。マイヴェスは男性の陰茎を切断し、男性と共にそれを食している。男性は自分の陰茎をマイヴェスによって噛み千切られる事を要望したが、それは行われなかった。代替の方法として、マイヴェスはナイフで男性の陰茎を切断しようとしたが切れ味が悪かったことから、より切れ味のいい物に持ち替え切断を達成する。その後、彼らはその陰茎を二人で分け食べようとしたが、火が通っていない状態では噛み切りづらく、結局、塩コショウとにんにくで味付けしソテーにしている。このビデオを見たジャーナリストの見解は一致していて、失血により男性が自分の陰茎を食べている頃には男性は既に衰弱している様に見えたという。マイヴェスは大量のアルコールと鎮痛剤を男性に与えた。それから、この殺害の為に彼の家に増設した部屋でその男性の同意の下、殺害した。急速冷凍冷蔵庫で男性の遺体の一部を保管し、マイヴェスは数ヶ月にわたりそれを食べた。 2002年12月、新たに食人させてくれる人を求める書き込みをインターネット上に掲示したことから、マイヴェスは逮捕された。捜査官の家宅捜索により、殺害の様子が収められたビデオテープと遺体の一部が見つかった。ビデオのあまりの内容に、それを見た人の多くが心理カウンセリングを求めるほどだった。 2004年、カッセル地方裁判所でおこなわれた裁判でマイヴェスは故殺罪により8年6ヶ月の禁錮刑を言い渡された。この事件では、被害男性は自発的にこの行為に参加している為、マイヴェスを断罪できるのか注目を集め、また議論された。2005年4月、判決を不服とした検察が上告した事から、ドイツ連邦裁判所は再審命令を下し、2006年5月9日、フランクフルト地方裁判所はマイヴェスに謀殺および死体損壊の罪により前審より重い終身刑を言い渡した。これに対し、マイヴェス側は控訴したものの、2008年10月7日終身刑が確定した。
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事件の経過
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1837年12月、アッパー・カナダ、トロント近郊において、ウィリアム・マッケンジー(英語版)を指導者とするアッパー・カナダ反乱(英語版)が発生した。これは家族盟約として知られる寡頭支配に対する住民の不満が原因であった。この反乱はイギリス当局によりすばやく鎮圧され、マッケンジーはアメリカに逃亡する。 彼自身、イギリスからの独立を求めて蜂起したわけではないが、アメリカ人は間違って蜂起をイギリスに対する自らの革命と同一視し、反乱軍に同情をしたため、アメリカ人民衆によるマッケンジーに対する支援が行なわれた。国際法学者の島田征夫はアメリカ人の意図は同情の他に、カナダ併合もあったとしている。 ニューヨーク州バッファローに逃亡したマッケンジーらはカナダと国境を接するニューヨーク、ミシガン、ヴァーモントの諸州に住むアメリカ人民衆から援助を受けた。反乱に加わった者は戦況が悪化すればカナダから米国領内に逃げ込み、武器等を補充していた。一方、米国政府はこの内乱に不介入の政策を堅持し、政府としては反徒にいかなる援助も与えなかっただけでなく、アメリカ市民の個人的援助をも取り締る方針をとった。そして、米国国民が反乱に加わることおよび反乱に加わった者に対し援助を行うことについて取締まるよう、前記3州の知事および地方検事に指令していた。 マッケンジーは、アメリカ人義勇兵を募集し、ナイアガラ川の米側の川岸でカナダの反乱軍と合流し、共闘を呼びかけた。反乱軍はネイビー島に立て篭もった。ネイビー島はカナダと米国ニューヨーク州の境界を流れるナイアガラ川の中州にあり、カナダ領内にある無人島である。そのネイビー島と米国本土を連絡するために用いられた軽汽船がキャロライン号であった。1837年12月28日、連邦保安官は現地から、反乱軍(主として米国から参加したもの)がネイビー島に立籠ってその数は千名に及び、彼らは十分に武装され、彼らに対して出された逮捕令状は執行不能の状態にあることを報告してきた。 その翌日の12月29日、キャロライン号はバッファローを出帆して若干の「乗客」(恐らく反乱軍に身を投ずるもの)をネイビー島に降ろして後フォート・シュロッサー(英語版)(ニューヨーク州)に向い、その日のうちにこの港とネイビー島との間を2回往復して午後6時にフォート・シュロッサーに帰港仮泊した。 英国側司令官はあまり事情を正確に把握していなかったのか、英国海軍に対してキャロライン号を捕捉し、破壊せよと命令した。英国海軍が川に出てみたところ、キャロライン号はカナダ領のネイビー島ではなく、米国領内に停泊しているのがわかった。しかし、ともかくも英国のキャロライン号破壊作戦は実行された。キャロライン号は、その真夜中キャロライン号は武装した英国海軍の襲撃を受け、33名の船員及び「乗客」のうち十数名は殺害され又は行方不明となった。船体は放火されて河上に放たれたため、流れてナイアガラ瀑布に落下した。 このような事態に対し、米国のフォーサイス国務長官は、英国公使ヘンリー・ステファン・フォックス(英語版)に通牒を送り、米国領土内において米国国民が殺害され、財産破壊が行われたことに対して、深い憂慮の念を禁じ得ないと述べ、この事件に対する償いの要求がなされるであろうと述べた。これに対し、イギリスのフォックス公使は、キャロライン号の襲撃者が英国の正規の軍隊であることを認めたが、キャロライン号が海賊的な性格を持っていることは十分証明されていると主張した。さらに、国境付近では、米国の法令が実行されていなかったことを考えると、キャロライン号破壊は自衛及び自己保存の必要(necessity of self-defense and self-preservation)に基づく行為であると主張した。米国政府は、この見解に納得せず、1838年5月、ロンドン駐在米国公使を通じて、英国政府に賠償要求を行った。しかし、英国政府は、考慮を払うことを約束したが、その後4年間、ほとんど何の進展もなかった。 「:en:William Lyon Mackenzie」も参照 「:en:Upper Canada Rebellion」も参照 「:en:Henry Stephen Fox」も参照
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事件の経過
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趙光祖は中宗の信任をもとに、1517年(中宗12)の「昭格署(道教の祭祀を行なう部署)の廃止」や「郷約の普及」をはじめ、保守勢力に対する本格的な改革を断行し、1519年(中宗14)には「賢良科(科挙によらない人材の推薦制度)」を実施して、勲旧派の強い抵抗を招くことになった。 事件の直接の原因となったのは、「偽勲削除事件」と呼ばれるもので、この年の秋、趙光祖らは「反正功臣の人数が多すぎるので、そのうち76名の資格を剥奪すべきだ」と国王に訴え出た。偽勲問題を通して、改革の対象が勲旧派の核心部分に及ぶようになると、危機感を覚えた南袞・沈貞・洪景舟らの勲旧派は、中宗の心理を読み取りながら、趙光祖一派の朋党政治の害をくり返し上疏し、また後宮を利用して、宮中の桑の葉に「走肖為王」(趙光祖が王になろうとしている)といった工作をして、中宗の心を趙光祖から引きはなすことに努めた。実際、中宗自身も経筵の席で趙光祖が長々と「道学政治」の理想を語り、中宗に君主としての聖人統治の実践を求めるなど、その妥協のない政治姿勢を疎ましく思うようになっていた。 1519年11月、国王に直訴するため趙光祖らが座り込みを始めると、勲臣派の讒言により中宗は趙光祖一派を断罪する決意を固めて、趙光祖・金浄・金湜・金絿らの投獄を命じた。事件が発覚すると、成均館の儒生ら1千人が光化門前に集まって、趙光祖らの無実を訴えたが、かえって事件をのっぴきならない状況にして、士林派への処分を早めることになった。 主導権を掌握した勲旧派は、趙光祖を綾城(のちの綾州)に流刑に処した後、穏健派の反対を押し切って、1ヵ月後に趙光祖を賜死した。死に臨んだ趙光祖は、いささかの疑念もなく王への忠誠心と憂国の情を辞世の詩に残した。38歳であった。事件に連座して、多くの士林派が流刑や免職となり、中宗の時代を通じて、その政治行動を厳しく規制された。
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事件の経過
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1981年12月1日、楽器輸入販売業「カンダ・アンド・カンパニー」の社長・神田侑晃が有印私文書偽造および同行使の容疑で東京地方検察庁特別捜査部に逮捕された。神田は、世界有数の楽器鑑定者レンバート・ウーリッツァー社(Rembert Wurlitzer Co.、米国)の鑑定用紙を偽造し、イタリアから輸入した楽器を塗装し直した上、自らが作った贋の鑑定書を付してニコロ・アマティの作品と偽り、総額1億1000万円の利益を得ていた。 やがて、神田侑晃に対する取り調べの過程で海野義雄に対する贈賄が明らかになった。その一つは、海野が神田保有のガダニーニ(イタリア語版、英語版)製作のヴァイオリン1丁(価格1600万円相当)を教育研究用弦楽器として同大学に購入させ、その見返りとして、神田からビネロン(英語版)製作にかかるヴァイオリン用弓1丁(価格80万円相当)を受け取った件。もう一つは、神田保有のプレッセンダ(イタリア語版、英語版)製作のヴァイオリン1丁(価格880万円相当)を自らの指導する学生に購入させ、その謝礼として神田から現金100万円を受け取った件であった。海野は国内外のオーケストラと共演し、史上最年少で東京藝術大学教授に就任、数多くの国際コンクールで審査員を務める等高名なヴァイオリニストとして知られる人物であった。 海野は新聞社のインタビューで「私の出演料は1回50万円もする。民音のコンサートだって45万円も出す一流の演奏家だ。3日間出演すれば150万円にもなる。芸大教授としての年収500~600万円を含めれば年収は約2000万円。私が楽器業者からワイロをもらう必要はない。こんなことを言われるのだったら、芸大教授をやめて、演奏活動一筋に生きたい」と答えたが、1981年12月8日、東京地検特捜部は海野を受託収賄ならびに有印私文書偽造の容疑で逮捕、同年12月28日、受託収賄罪で東京地裁に起訴した。特捜部は1976年初めから約3年のあいだに神田から海野に2000万円近い金品が贈られていることをつかんだ。法廷では、 ガダニーニ購入のリベートとして神田侑晃から弓を受け取った件 芸大生に神田侑晃の店の楽器を斡旋し、現金100万円を受け取った件 の2点が問題となった。 この問題は当時の日本社会党参議院議員であった粕谷照美が国会でも追及し、当時東京芸術大学の学長であった山本正男が参考人として招致されるなど、著名な演奏家・教育者が関わった前代未聞の事件として波紋を呼んだ。海野の逮捕後に芸大は綱紀粛正を図り、教員が学外でする個人レッスンを当面禁止すると申し合わせたため、吉田秀和からは「レッスンをやめてどうするのか。それは日本音楽教育に何十年の後退、損失を意味する恐れがある」「芸大に入らず学外にいるものにも才能の豊かな、あなた方の授業を必要とする人間が少なくない。それを全部やめるのですか?」と批判された。 1985年4月8日、海野は東京地方裁判所刑事第10部で懲役1年6月、執行猶予3年の有罪判決を言い渡された。これに対して海野は、東京高等裁判所に控訴したものの、「裁判をこれ以上続けることは、精神的にも時間的にも演奏と両立しない」との理由により1985年10月29日に控訴を取り下げ、有罪判決が確定した。この後、海野は家族と共にフランスに移住して音楽活動を続けた。 また、楽器商・神田侑晃については1審で実刑判決がくだされたが、控訴審で執行猶予となった。
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事件の経過
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「中核派書記長内ゲバ殺人事件」の記事における「事件の経過」の解説
1975年(昭和50年)3月14日午前6時過ぎ、埼玉県川口市戸塚(現東川口)の男性から「午前3時30分頃、アパート2階でいざこざがあったようで、気になって午前6時ごろ行ってみたら、ガラス戸が破壊され、部屋には血が飛び散り男の人が死んでいる」との110番通報があった。 埼玉県警察の捜査によると、アパートは3畳と4畳半の二間で、男は入口に近い3畳間で丸首シャツ、パンツ姿のまま死んでいた。一方、同日早朝、警視庁記者クラブに若い男から「中核派書記長本多延嘉を東川口のアパートで襲った。これは革マル派政治局員が襲われたことに対するわれわれの回答だ」と電話があり、指紋と本多の弟が身元を確認したことなどから、アジトで就寝中の中核派書記長本多延嘉が革マル派の襲撃を受け、鉄パイプ、ハンマー、斧等で全身を滅多打ちにされ、頭蓋骨骨折、脳内出血により死亡したことが判明した。 通報した男性は県警の事情聴取に対し、「午前3時30分頃、アパートで騒ぐ音がしたので2階に行ってみたところ、15~16人くらいの男がいて、その中の2~3人はストッキングをかぶっていた。男の一人から、『お前は関係ない、引っ込んでいろ』と言われたので、そのまま自分の部屋に帰った」と話した。アパートの住民らは警察に知らせようとしたが、電話が通じなかったという。鳩ヶ谷電話局が調べたところ、現場近くの電話線が3か所切断されており、不通になっていた。また、襲撃された部屋は本多とは別の第三者名義で賃借されていた。 同日夕方、革マル派は解放社(公然拠点)で記者会見を開き、革マル派全学連委員長土門肇が次の声明を読み上げた。 今朝、わが全学連戦士たちは、反革命の頭目、本多延嘉に対して、階級的怒りの鉄槌を振りおろしました。これは、産別戦争と称して、無差別無制限のテロを労働者に加えるという、世界革命史上、前古未曽有の反革命集団に対して振りおろした怒りの鉄槌であります。わが全学連の戦士たちは、午前0時40分に本多が東川口の戸塚荘というアパートに、防衛隊と車で帰ってくるところから捕捉していました。そして、わが戦士たちに本多が面と向かったときに、彼が発した唯一のことばは、“人殺し、人殺し”と叫ぶことでしかないという、革命家として未熟な態度を示したのです。“完全せん滅”のことばのもとに、殺人を賞揚していた男が、本質的には小心者で、自分では殺人なんかできない男であることを、わが戦士に対する対応の中でバクロしたのです。 我々は血を血であがなう戦いをよしとするものではありません。本多に対して鉄槌を加えたのも、殺害が目的ではありませんでした。彼が死に至ったのは、全学連戦士の燃えたぎる階級的怒りが、鉄槌の一ふり一ふりにおいて表現されたことの結果であるということです。 東京教育大学生リンチ殺人事件以降、革マル派は内ゲバ専門部隊「全学連特別行動隊 (JAC) 」を創設し、内ゲバを強化した。一方、中核派は「二重対峙・対カクマル戦」の方針を策定し、革マル派に「宣戦布告」をし、双方による内ゲバ抗争を繰り返していた。 革マル派は1972年(昭和47年)の「内ゲバ勝利宣言」に続き、1975年(昭和50年)3月28日、「中核派解体闘争における勝利を最終的に確認」したとして、「内ゲバ停止宣言」を発表したが、これより前の3月17日、中核派は「革マル派に対する無差別報復」を宣言し、1975年(昭和50年)だけで14人の革マル派活動家を殺害した。
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事件の経過
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「オイコス大学銃乱射事件」の記事における「事件の経過」の解説
2012年4月2日10時半、看護学科棟にある教室に韓国系アメリカ人コ・スナムが侵入する。事務員を人質に取り、大学職員(後述)を探すよう命じたが不在であったため、持っていた.45口径の拳銃を使い、その場で事務員を射殺し、授業中の教室に侵入。学生たちに壁の前に一列になって並ぶように命じたが一部が応じなかったため、全員殺すと言い放ち銃を約30発乱射した。その場で5人が死亡し、搬送先の病院で2人が死亡。また3人が負傷した。犠牲者は韓国(20代、2人)のほかフィリピン、ネパール、ナイジェリアなどの出身者であった。 10時33分頃に銃乱射事件が発生したとの通報を受けた警察は現地にSWATを派遣。犯行後、コは死傷者が所有していた車で逃走したが、事件発生後1時間半後に約8キロメートル離れたアラメダのスーパーマーケットで警察に投降し、身柄を拘束された。4日に殺人罪など7つの容疑で起訴された。 事件の翌日には犠牲者を追悼する祈りが付近の教会で捧げられ、オイコス大学の前には追悼の花やろうそくが手向けられた。
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事件の経過
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近く解散・総選挙が行われる情勢の中で、日比谷公会堂ではこの日、自民党・社会党・民社党3党党首立会演説会「総選挙に臨む我が党の態度」(主催:東京都選挙管理委員会、公明選挙連盟、日本放送協会)が行われていた。会場は2500人の聴衆で埋まり、民社党委員長西尾末広、日本社会党委員長浅沼稲次郎、自由民主党総裁池田勇人の順で登壇し演説することになっていた。 浅沼は午後3時頃演壇に立ち「議会主義の擁護」を訴える演説を始めたが、直後に右翼団体の野次が激しくなり、「中ソの手先、容共社会党を打倒せよ」などと書かれたビラを撒く者も出始めた。司会を務める小林利光(NHKアナウンサー)は「会場が大変騒々しゅうございまして、お話が聞きたい方の耳に届かないと思います。だいたいこの会場の最前列には新聞社関係の方が取材においでになっている訳ですけれども、取材の余地がないほど騒々しゅうございますので、この際、静粛にお話を伺いまして、この後、進めたいと思います」と自制を求めると、場内は拍手が沸き上がり、一瞬野次は収まった。それを見計らって浅沼は自民党の選挙政策についての批判演説を続けた。 浅沼が「選挙の際は、国民に評判の悪い政策は、全部伏せておいて、選挙で多数を占むると……」と言いかけた午後3時5分頃、山口が壇上に駆け昇り、持っていた刃渡り約33センチメートルの脇差様の刃物で浅沼の左脇腹を深く、左胸を浅く突き刺した。浅沼はよろめきながら数歩歩いたのち倒れ、駆けつけた側近に抱きかかえられてただちに病院に直行した。秘書官は浅沼の体を見回し、出血がなかったことから安心したが、それは巨漢ゆえに傷口が脂肪で塞がれたために外出血が見られなかっただけのことであり、実際には一撃目の左脇腹に受けた深さ30センチメートル以上の刺し傷によって背骨前の大動脈が切断されていた。内出血による出血多量によりほぼ即死状態で、近くの日比谷病院に収容された午後3時40分にはすでに死亡していた。山口は現行犯逮捕された。 事件発生直後に大日本愛国党総裁赤尾敏らが壇上に駆け上がり、三党の党首のみに演説させることについて司会者に向かい抗議を始めた。また壇上のマイクで「共産党にもやらせろ」と主張する男も現れ、主催側は休憩にするとして幕を下ろした。会場では「浅沼は病院に担ぎ込まれたが傷は大したことはない」という噂が飛び込み、主催者と各陣営の間で「西尾と浅沼が演説したのに池田ができないのは不公平」「浅沼の演説が中断させられたのに池田が演説するのは不公平」といった議論となった。しかし浅沼が死亡したという新聞社からの未確認情報が首相秘書官に伝えられたこともあり、中止と決まった。その後、日本共産党の機関紙であるアカハタの記者が池田に録音機を差し出して感想を求めたが、池田はノーコメントのまま官邸に戻った。
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事件の経過
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「本庄事件 (1923年)」の記事における「事件の経過」の解説
9月4日、埼玉県の本庄町(現・本庄市)では、住民によって朝鮮人が殺害される事件が起きた。 本庄町内でも鉈や棍棒などで武装した自警団が中山道などの主要道で即席の検問所を設け、通行する人や車への検問を行った。本庄駅では3日午後、東京方面からの避難者などを満載した列車に乗っていた朝鮮人が青年団らに降ろされて警察へ連行され、本庄警察署内に収容されるなどの動きがあった。県警では混乱を防ぐため、自警団により警察に連行された朝鮮人を群馬県などの県外に移送しようと試み、警察官や自警団によって県北部に向けて徒歩やトラックで移送した。県の北部に位置する本庄町や熊谷町(現・熊谷市)、寄居町、妻沼町などには、県南部から移送されて来た朝鮮人が滞留する状況があった。本庄署内にも移送されてきた朝鮮人が収容・保護されており、その人数は証言や記録によって異なるが、20 - 40人程度であったと見られる。 本庄署では、興奮した自警団などによる危害に遭うことを恐れて朝鮮人労働者らを保護していたが、収容しきれなくなったため、一部をトラックに分乗させたうえで群馬県方面に移送しようとした。4日午後1時過ぎ、2台のトラックに15人の朝鮮人を分乗させて本庄署を出発し、群馬県との県境である神流川の河原に到着した。対岸の群馬県側では新町の自警団が検問を行っており、朝鮮人の引き継ぎや通過を拒否した。同行の警官は群馬県警藤岡警察署に電話連絡して引き継ぎを依頼したがこれも拒否されたため、とりあえず移送してきた朝鮮人を河原に残してトラックは本庄署へ戻った。この時、降車された朝鮮人らは賀美村の自警団に暴行を受けるなどしたが、後に賀美村役場に収容された。 その後も本庄署では数回に分けて数台のトラックに朝鮮人を分乗させ、群馬県方面への移送を試みた。夜に入って朝鮮人の移送を開始したトラック3台が再び賀美村に差しかかったが、自警団が投石するなどして通行を妨害したため、先に賀美村役場に収容されていた朝鮮人一行も同乗させて本庄署へ向けて引き返した。しかし、トラックが神保原村を通過した際に群衆がトラックを取り囲み、朝鮮人を棍棒で殴打するなどの暴行を加えて殺傷する神保原事件が発生した。本庄署ではこれ以上の移送は困難と判断し、移送を中止したトラックが本庄署に戻ったところ、署の周辺に蝟集していた群衆がこれを見つけて暴徒化し、朝鮮人および警察官に襲いかかった。暴徒化した群衆は署内にも乱入し、署内で匿われていた朝鮮人らに日本刀、竹槍、木刀や棍棒、丸太などで暴行を加え、殺傷するに至った。 裁判記録によると、4日午後8時頃、数十人の朝鮮人を分乗させた3台のトラックが到着し、警察署を取り囲んだ群衆約4000人がこれに襲いかかり、そのうち1台は逃走したが、逃げ遅れた2台に乗っていた朝鮮人が虐殺されたという。この時、本庄警察署で殺された人数については、殺害に加わった当事者らの証言によると85名とされるが、東京日日新聞では79名と報じられており、浦和地方裁判所の検事正は30余名と発表している。当時の本庄町会議員の証言では署内で87名、町内で1名の計88名としており、元本庄署巡査の証言では署内で86名、町内で15〜16名としている。また、戦後に建立された慰霊碑には86名と記載されており、関東大震災六十周年朝鮮人犠牲者調査追悼事業実行委員会の調査では88名プラス不確定が14名程度となっている。 翌5日にかけて死体は署内から荷馬車などで運び出され、一部は町内の火葬場に運ばれた。しかし、そこでは処理しきれなかったため、付近の野原に穴を掘って石油をかけて焼却され、遺骨は共同墓地に葬られた。 町内では無秩序状態が続き、9月6日には300人(目撃者証言)とも3000人(新聞報道)とも記録される暴徒が本庄署を取り囲み、「署長を殺せ」などと叫んで警察署を包囲した。これに畏怖した署長は逃亡し、乱入した群衆は署内を破壊したうえ、炭俵や石油を運び込むなど焼き討ちする勢いであった。署長は着任以来、遊廓への取り締まりを厳しく行うなど、町内の有力者などから目の敵にされていたという事情に加え、最初に連行された朝鮮人をすぐに釈放したことへの批難が発端となり、震災の混乱に乗じた暴徒がこのような行動に出たと考えられる。このような状況を危惧した大沢村村長で在郷軍人会児玉連合会会長の岡本保次らは、本庄駅に停車中の列車に第9師団歩兵第7連隊が乗車しているのを知り、指揮官に事態を告げて出動を要請した結果、一個小隊が本庄署に派遣され、同署での事態は鎮静化した。本庄署では応援を要請し、周辺の警察署から応援の警察官が到着したうえ、戒厳令によって県内に展開していた陸軍部隊が続々と本庄町内に入った。9月7日深夜には第2師団歩兵第32連隊一個小隊、同日早朝に第14師団歩兵第15連隊一個小隊が到着し、町内の治安の回復を図った。その後、憲兵隊などからも応援が派遣されるなど、陸軍部隊が入れ替わり町内に派遣され、10月26日まで軍隊の駐屯が続いた。
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事件の経過
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「ピル治験女性バラバラ殺人事件」の記事における「事件の経過」の解説
1986年10月31日、デンマークのコペンハーゲン港で昼食を取っていたタクシーの運転手が、海面に漂っていた黒いプラスティック製のバッグを発見した。中身を調べると人間の下半身や脚の一部が詰められていた。デンマーク警察はフロッグマンも投入し、港とその周辺の海中を徹底して捜索、11月7日までに約1.5km離れた海底から同じくバッグに詰められていた頭部や腕の部分も発見したことで全体が揃った。デンマーク警察がアジア系と見られる遺体の歯形や血液型などの特徴をICPOを通じて各国に手配すると、翌年6月に日本の警察庁が遺体とよく似た特徴を持った女性を見出した。現地から取り寄せた指紋をその女性のものと照合した結果一致したために、急遽日本警察も捜査に協力することになったのである。女性は当時、東京都葛飾区東新小岩に居住していた22歳の無職女性で、海外のピル治験ツアーに参加して事件に巻き込まれた。 被害者の参加したピル治験ツアーとは、西ドイツ(当時)のフライブルクに本社を置く、製薬会社による治験の代行を業務とする臨床薬理試験の受託会社が、東京に設立した子会社を通じて大阪の旅行会社と提携、国内でピルを販売するための治験データを集めるために募集したものであった。参加者は被害者を含めた22歳から30歳までの女性5名で、内容は同社が開発したピルの新薬を服用し、血中のホルモン分泌状態を検査するなどしてデータを収集することにあった。事前の説明会では治験に関する詳しい説明を施して、治験によって何らかの問題が起きた際の同意書も取り付けていたという。拘束期間は約4ヶ月にも及ぶが、その間の渡航費は会社が受け持ち、さらに手当として1日約1万円が支給され、なおかつ現地のドイツ語学校で学習の機会を得る特典も伴っていた。 一行は1986年5月20日に成田空港を出発して、6月9日から9月12日までフライブルク市内にあるホテルに滞在しながら治験要員として過ごした。治験終了後、他の4名の女性は被害者と別れてヨーロッパ各地を旅して回り、10月に帰国している。一方、被害者は9月17日にイタリアへ入国してローマやヴェネツィア、26日にアムステルダム、27日にコペンハーゲン、29日にストックホルム、30日にオスロ、10月3日に再びストックホルムとヨーロッパ各地を旅して回った。10月4日にヘルシンキに入り、そこで「これからコペンハーゲン経由で南ヨーロッパに旅行する」と実家に手紙を送ったのを最後に足取りが途絶えた。現地の警察当局によれば、10月8日から15日の間に何者かによって窒息死させられたと見られている。暴行を受けた形跡はなく、血液中から毒物や薬物の反応も出なかった。 なお、被害者は都立高校を卒業後に千葉市内の短大に入学するも、1983年6月に中退した。その後は家族とともに生活しながら、人材派遣会社の斡旋でセールスのアルバイトなどに携わっていた。また、このピル治験ツアーに参加する前の1985年12月から1986年1月まで、単独で韓国を旅行していた。帰国後も家出同然で関西方面を周遊しており、このツアーに参加することも西ドイツへの出発直前、成田空港へ向かうバスの中で、実家に手紙を書いて知らせただけだった。
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事件の経過
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韓国での騒ぎを受けて2011年8月9日、中華人民共和国衛生部(中国衛生省)の報道官は記者会見にて、吉林省の衛生当局に調査を指示したことを明らかにし、「中国は法令で医療機関が遺体を売買することを禁じている。人体の組織や遺体を売る行為は断固として取り締まる」と強調した。 2011年9月22日、韓国で初めてブローカーが摘発されたことを複数メディアが報じた。摘発されたブローカーは韓国在住の中国籍朝鮮族であり、国際郵便と直接持込の2つのルートにより韓国に持ち込まれていたことが明らかになった。また韓国では関税法第234条により輸出入禁止品目に指定済であり、8月の時点で7件の摘発が有ったと言う。 韓国の当局は、2011年8月から2012年3月まで、1万7451錠を摘発したと発表した。しかし、既に大量に出回っており、摘発されたものも氷山の一角との指摘があり、撲滅は容易ではない。国内外で問題となった後も、人肉カプセルの需要は無くなっておらず、2012年において、1錠3000円前後で取引されているという。
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事件の経過
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「PlayStation Network個人情報流出事件」の記事における「事件の経過」の解説
2011年4月14日より断続的にPlayStation Networkへの接続が途切れるようになり、米国時間4月19日(日本20日)、米国にあるサーバーで異常な動きを確認。そして、米国時間4月20日(日本21日)、PSNに大規模なアクセスエラーが生じ、サインインできない状態となった。4月23日に外部要因とみられる影響と発表されたが、実際は4月17日から4月19日にかけて受けたシステムへの不正侵入により、PSN利用者、約7700万件分の個人情報が流出した可能性が出たためにサービスを停止したことが原因であった。 不正侵入を受けたことについては日本時間4月27日に公表され、各個人にEメールにて呼びかけを行ったが、1週間を空けての情報公開に、欧米ユーザーからは訴訟および政治家からの質問状が飛び交わされ続けている。ソニー側の発表によれば、流出したのは「住所」や「氏名」といった個人情報、「PSNのID、パスワード」、「クレジットカード番号、各種購入履歴」などで、個人情報のうち、名前や住所、生年月日などの情報は暗号化していなかったが、クレジットカード番号は暗号化していたとしている。サービス停止に伴いゲーム配信が相次いで延期されたほか、ユーザー離れを指摘するアナリストも現れた。 なお、PSNと共通のネットワークを利用しているQriocityも同様にサービス停止に追い込まれたほか、Qriocityの利用者情報も流出したことが明らかにされている。 ソニーは日本時間5月1日に緊急記者会見を行い、「段階的にPSNのサービスを再開していき、完全復旧は5月中を予定している」と会見で公表した。またサーバーの脆弱性に対処していなかったことが不正侵入の原因であると発表し、一部コンテンツの無料配信などを「お詫び」として提供するが、現段階で金銭的な被害が認められないとしてユーザーへの一律補償については否定的な考えを示した。クレジットカード情報の流出に関しては、「(クレジットカードの情報の)項目を読みに行った形跡がない」こと、そして、FBIに捜査を依頼したことを明らかにした。 5月4日、米下院エネルギー・商業委員会小委員会が行なった公聴会に(招致されていた)ソニー幹部が欠席し、非難を浴びた。公表された回答書によると、すべての利用者7,700万人の個人情報が不正利用者から盗まれたことが明らかになった(同月3日時点ではクレジットカード情報の不正利用はないと報告している)。また、侵入を受けたサーバーからは「Anonymous(アノニマス)」というファイルが発見され、「We Are Legion(我々は軍団だ)」という文字列で構成されていた。このことや数週間前のサーバー攻撃から、ソニーは以前からPSNを攻撃のターゲットにしていた米国ハッカー集団「アノニマス」関与の可能性を示唆したが、アノニマス側はブログ上で否定した。しかしNHKの取材で、ソニーグループのコンピュータに侵入したことが明らかになった。 5月6日、ハワード・ストリンガー会長は同問題に対する謝罪文をブログ上に掲載したほか、北米のユーザーに対しては1人あたり最大100万ドルの補償制度を導入したと発表。 5月7日、5月1日時点で1週間程度としていた一部のコンテンツサービスの再開を当面延期することを決定した。 5月12日、ソニーは再開に向けて「安全性の高いサーバーへ情報を移設完了した」と発表。引き続き、暗号化の強化や新たなファイアウォールの設置作業などを行っている事も明らかにした。また、サイバー攻撃の早期発見を促す警告システムの導入なども行うという。 5月15日、PS3のアップデートを行ない、米国および欧州地域においてPSNおよびQriocityのサービスを段階的に再開すると発表した。 5月16日、ストリンガーがメディアに対しての取材に応じ「対応は迅速であった」と答えているが、英語版CNETにてこの記事を見たユーザーの評価は合計して83%がたちの悪いジョークだという評価を下している。 5月17日、米下院エネルギー・商業委員会小委員会は再度ソニーに質問状を送付した。 欧米での一部サービス再開にあたり、PS3のアップデートとパスワードの変更を必須とするしていたが、Webサイト上でのパスワードの再申請手続きにおいて、漏えいしたメールアドレスと生年月日を入力すると本人でなくても再申請が可能となる欠陥が発覚、5月18日にWebサイトでの再申請サービスを中止した(PS3からの再申請は可能)。 日本およびアジア地域の再開は近日中に行われるとアナウンスされているが、日本では経済産業省から「5月1日に対策として挙げられていた事項が遂行されていない」と再開の許可が下りていない。理由の内訳としては、ソニーがカード不正使用への監視対策を講じていないことや、日本には欧米のような補償サービスが存在しないことなどが挙げられる。 6月4日、ソニー・ヨーロッパは、外部に流出したのは一部の公開情報だけで、サイト利用者の個人情報は盗まれていないとしている。AP通信によると、不正侵入したのはレバノン出身のハッカーで、外部に流出したのは放送用などの業務用機器を購入した顧客に機器の使い方を教える契約社員の氏名や顔写真、メールアドレスだけだという。ただし、これらの情報はすべてウェブサイトに公開していた。 6月6日、5月下旬からSPE等へクラッキングを行っていた集団「LulzSec」がPSNにクラッキングを試みた際に入手したPSN開発者用ネットワークのソースコードをtorrentにて公開した。 6月10日、スペイン国家警察がアノニマスの3人を逮捕したと発表。しかし、DDoS攻撃の証拠はあったもののPSNサーバのクラッキングに関わる証拠が見つからなかったため翌11日に釈放された。 6月15日、共同通信の情報公開請求に対し経済産業省が公開した資料により、相当量のデータが漏洩したことをことが明らかとなった。なお、5月1日の会見では「一部の情報が漏えいしていた可能性がある」と説明していた。これに対しSCEの広報は「ユーザIDとパスワードは個人情報ではない」と釈明している。 6月20日、新しく提訴された訴状より、個人情報漏洩事件から2週間ほど前にソニーがセキュリティ担当部門の従業員を多数解雇していたことが明らかとなった。 9月15日、アメリカにおいて規約改正を行い、「PSNを使用し続ける場合、クラスアクションに参加しての申し立てはできない。ソニーに対して成立する可能性がある法制にサインすることもできない。」といった旨の規約が発表された。
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事件の経過
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10月19日夜、隊内の南労党細胞組織、約40名が兵器庫を占拠。ラッパを吹いて全隊員約2000名を整列させて反乱決起を促すと、隊内にいた北朝鮮シンパ多数が歓呼してこれに応じ、反対したものをその場で射殺したため全部隊(以下、反乱軍)が反乱に同意。反乱軍は直ちに車輌に分乗、麗水邑の麗水警察署、麗水郡庁などを占拠、収監されていた政治犯を解放し、彼らの案内で町から警察官のほか、李承晩派の韓民党員、右翼団員などを次々に捜し出して射殺した。報道 では数日間のうちに、警察官約100名、李承晩派の市民約500人が反乱軍に殺害されたという。 10月20日、麗水邑内をほぼ掌握した反乱軍は、順天郡に駐留する第14連隊2個中隊と合流。その日の午後には順天をほぼ制圧した。光州より第四連隊の一個中隊が鎮圧に急派されたが、この部隊も指揮官を射殺して反乱に合流する。 10月21日、李承晩政権は麗水・順天地域に戒厳令を敷き、鎮圧部隊10個大隊(以下、正規軍)に出動命令を出す。反乱軍は更に周辺地域にも掌握の手を広げ、光陽、谷城、宝城、求礼へと展開。22日も周辺集落へ展開し、徐々に求礼から智異山へ移動を続けた。 10月23日、早朝、正規軍による順天攻撃が開始される。この時すでに反乱軍の主力は麗水及び北部山岳地帯に退いており、市内には守備についていた学生や市民が残っていただけであった。この為、ほとんど抵抗も無いまま午前11時に市内は鎮圧。正規軍は更に反乱軍を追って麗水邑に移動を開始する。 10月24日、麗水へ向かう正規軍が反乱軍の待ち伏せに遭い、正規軍270名余が戦死。この時に鎮圧部隊総司令官も重傷を負う。この間に反乱軍の主力は北部の智異山へ移動。 10月25日、麗水邑内へ正規軍侵攻。市内は反乱軍兵士200名余と学生、市民1000名余によって防御されていたが、正規軍との圧倒的な兵力差により僅かな抵抗にとどまった。それでも市街戦は2日間続いたが、10月27日未明には完全に鎮圧された。ただちに市内各所で大規模な同調者の摘発と李承晩派による報復が行われ、反乱共謀者として市民数千人が殺害されて市内は血の海と化した。容疑者は下着一枚で市内の小学校に連行されて処刑され、校庭には死体の山ができたが、その中には全く無関係の市民も多数含まれていたといわれ、軍による大量虐殺の疑いが持たれている。 複雑な地形の智異山に逃げ込んだ反乱軍は山中に潜伏し、ゲリラ闘争を展開。正規軍は度々掃討を行ったが頑強な抵抗に遭い、完全な終結を見たのは10年後の1957年であった。 市街地における戦闘は10月27日中に沈静化したが、韓国軍による同調者摘発は周辺村落へも波及、軍に連行された住民の多くが処刑された。この時殺害を免れた者も、後の朝鮮戦争の混乱に乗じて殺害されたという。
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事件の経過
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「アクリフーズ農薬混入事件」の記事における「事件の経過」の解説
アクリフーズ群馬工場で製造された冷凍ピザを購入した客から、「石油臭い異臭がする」と苦情が2013年11月13日に寄せられ、問題の商品を受け取ったが、この時点では全品回収はされなかった。その後12月29日までに、日本各地から苦情が20件寄せられたため調査した結果、返品された商品から高濃度の有機リン系農薬、マラチオン(殺虫剤の一種)が検出された。 12月29日、アクリフーズは群馬工場の操業・出荷を停止し、市場に出回った全ての生産商品計88品目を自主回収(リコール)すると発表した。回収対象商品の中には、イオン「イオントップバリュ」、西友「みなさまのお墨付き」、セブン&アイ・ホールディングス「セブンプレミアム」、生活協同組合ブランドのプライベートブランド商品も含まれており、それらは工場名の表記がなかった。 翌12月30日、群馬県館林保健福祉事務所は食品衛生法に基づく群馬工場への立ち入り検査を実施した。検査の結果「通常の製造工程上で汚染された可能性は低い」と結論付けられ、群馬県警察は意図的に混入された可能性があるとして捜査を開始した。 アクリフーズは事件発覚当初、「マラチオンに急性症状は無く、体重20キログラムで一度にコロッケ60個を食べないと、健康には影響ない」と説明していたが、12月31日未明には、アクリフーズの親会社マルハニチロ食品の親会社であるマルハニチロホールディングス(以下マルハニチロHD)は、記者会見で「体重20キログラムの場合(冷凍コロッケを)8分の1個食べただけで、吐き気などの症状が起きる可能性がある」と説明、前述した健康影響の説明は、前日に厚生労働省から指摘を受け、誤っていたと謝罪・撤回した。 2014年1月、アクリフーズは群馬工場に勤務する全従業員への聞き取り調査を実施。同月25日、アクリフーズ群馬工場で働いていた契約社員の男(当時49歳)が農薬の混入に関わっていたとして、2013年10月に4回にわたって工場で製造された冷凍食品に、農薬を混入して工場の操業停止をさせた偽計業務妨害罪容疑で逮捕された。 被疑者が逮捕された2014年1月25日夜に、マルハニチロHD側が記者会見を開き、マルハニチロHD社長及び同社品質保証担当常務とアクリフーズ社長が、今般の事件と対応が後手に回ったことを受け、2014年3月31日付にて引責辞任することを発表した。 2014年2月16日には契約社員の男が、2013年10月に計9回にわたり、工場で製造していた冷凍食品12製品に、農薬を吹きつけて食べられない状態にした器物損壊罪容疑で再逮捕され、同年3月7日に起訴された。流通食品毒物混入防止法違反や傷害罪の適用も検討されたが、前者については、毒性の低いマラチオンが法律の規制毒物に該当することが困難なこと、後者については、健康被害を訴えた人の食べ残しからマラチオンが検出されたことが無く、混入と健康被害の因果関係の立証が困難であると指摘され、最終的に見送られた。 2014年7月25日に、前橋地方検察庁は元契約社員に懲役4年6ヶ月を求刑し、8月8日に前橋地方裁判所は、懲役3年6ヶ月の実刑判決を言い渡した。 2014年9月25日に東京地方裁判所は、マルハニチロが商品回収を知らせる社告を出して約5億9,700万円かかったうち、一部の1億円の損害賠償を求めた民事訴訟で、元契約社員に全額の支払いを命じる判決を言い渡した。 なおアクリフーズ群馬工場は、元々は雪印集団食中毒事件の不祥事で、経営が悪化した雪印乳業から分社化された雪印冷凍食品群馬工場を、雪印食品の雪印牛肉偽装事件による雪印グループの経営悪化により、ニチロ(現:マルハニチロ)へ売却され、社名変更し再発足した工場である。
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事件の経過
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事件の経過月日時間事柄8月21日 20時30分 一場士長、動哨任務開始 20時40分 1回目の定時報告 21時10分 2回目の定時報告なし 21時40分 3回目の定時報告なし 22時00分過ぎ 警衛司令、次の歩哨を交代場所に派遣 22時10分 4回目の定時報告なし 22時30分 一場士長の任務終了時刻 22時30分過ぎ 交代場所待機の歩哨、一場士長交代場所に現れずと報告。ラッパ手1名を交代場所に派遣し、一場士長の捜索開始 23時30分 捜索で発見できず。控え歩哨4名を応援派遣 8月22日 00時00分過ぎ 仮眠中の警衛所員7名全員で捜索。捜索隊員計13名 00時30分 倒れている一場士長を発見
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事件の経過
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2013年(平成25年)6月5日、少年はnarukami 793とは別のチャンネルに博多駅での通り魔の予告動画を投稿、逮捕される。 2014年(平成26年)12月中旬頃、この少年が新たにnarukami 793というチャンネル名でYouTubeに動画を投稿し始める。 2015年(平成27年)1月11日頃、少年がYouTubeに事件の発端となる動画を投稿(投稿内容は概要の項を参照。)その直前にも似たような趣旨の動画を何度が投稿していたとされている。 1月13日、この動画がメディア各社で報道され注目される。これを受けて店側が該当商品の販売を中止し、メーカー側も回収に走った為、威力業務妨害として警察が捜査を開始。それを意図したかのように被疑者少年が逃走を開始した。 1月15日、警察は少年を被疑者として逮捕状を取り、この少年を全国指名手配した。少年は自身への逮捕状発布を受け、「リアル“逃走中”の完成です」と逃亡開始を宣言。逃避行の先々で「有名人になっちゃったからさ。(リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件で手配され2年7ケ月逃亡した)市橋達也になった気分」「無能警察はまだ私を捕まえられないんですよ」などと警察を挑発した。 1月18日、午前7時頃、JR東海道線の列車に乗車し京都方面へと向かっていた所、滋賀県米原駅に停車した際に滋賀県警が被疑者少年を逮捕した。。警察は少年を全国指名手配して以降行方を捜していたが、逮捕の少し前に匿名の目撃情報が寄せられたという。逮捕の直前、少年は最後の動画を投稿していた事が後に判明している。 4月1日、東京家庭裁判所での少年審判(非公開)により、少年の中等少年院への送致が決定した。
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事件の経過
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「JR東日本連続放火事件」の記事における「事件の経過」の解説
8月16日 北区の東北本線(旅客案内上は宇都宮線(東北線)、高崎線、上野東京ライン)の第二王子踏切近くにあるケーブルが焼けているのが見つかり、現場付近にはペットボトルの燃えカスが落ちていた。また、23日に火災が起きた品川区の変電所(後述)から北西に約50mの場所にある線路の高架脇でも火災があった。さらに10時頃、品川区の変電所近くで小火があり、燃えた新聞紙と軍手が見つかった。 8月18日 19時40分頃、中央本線立川駅・国立駅間の高架下の配線から出火し、信号機や駅の設備に電力を供給するケーブルが5m燃えて22時に鎮火したが、信号機などが停電し(列車は停電していない)中央線快速東京駅・高尾駅間が20時10分まで、東日本旅客鉄道から電源供給を受けている西武拝島線が玉川上水駅・拝島駅間で23時35分まで運転を見合わせ、青梅線立川駅・奥多摩駅間、南武線立川駅・稲城長沼駅間、五日市線拝島駅・武蔵五日市駅間、および八高線八王子駅・高麗川駅間が終日運休した。 青梅線では2本の列車が立ち往生し、立川駅・西立川駅間では約860人の乗客らが西立川駅まで約600m線路上を歩き、東中神駅・中神駅間でも約660人が中神駅に徒歩で向かった。また、中神駅では上り列車の先頭車両だけしかホームに届かず、後方の7 - 10両目の乗客がはしごを使って線路に降りて歩いた。 立川駅北口のタクシー乗り場は約150人の行列ができた。タクシーの費用は、タクシー会社が東日本旅客鉄道に請求することとなった。また、遮断機が下りたままの踏切があり、周辺道路で渋滞が発生した。立川警察署によると、高架下は高さ約1.8mのフェンスに囲まれた空き地で人が立ち入った形跡はなく、放火の可能性は低いという。ケーブルから微量の白煙が出た後に火が出たのを目撃した人がいた。 8月22日 15時40分頃、中央本線中野駅・東中野駅間で線路敷地内に設置された通信用ケーブルのカバー付近から出火し、カバーが長さ70 - 80cmほど焼け、約15分後に鎮火したが、快速列車が東京駅・高尾駅間で約1時間半運転を見合わせた。 8月23日 20時過ぎ、品川区広町の変電所で敷地内の一部が焦げているのが見つかった。現場からは焼けたペットボトルや焦げたティッシュペーパーが見つかったほか、火災が起きた時間帯には、帽子をかぶった30代くらいの男がペットボトルをぶら下げて自転車で走っている様子が、変電所付近の防犯カメラに写っていた。火災の直前には、男が変電所の敷地内に向かってフェンスごしにものを投げ入れたうえ、自転車で走り去る姿が住民に目撃されていた。 8月27日 13時過ぎ、山手線目黒駅・恵比寿駅間で線路脇の信号用ケーブルが燃え、山手線全線、埼京線全線、湘南新宿ラインの大崎駅・大宮駅間が一時運転を見合わせ、14時15分に全線で運転を再開した。火は約40分後に消し止められたほか、山手線と埼京線の一部の列車が一時立ち往生し、恵比寿駅まで動いて乗客をホーム上に降ろした。 ウィキニュースに関連記事があります。JR山手線の線路脇のケーブルが燃える 山手線他で一時運転見合わせ 8月30日 2時過ぎ、目黒区三田1丁目の山手線目黒駅・恵比寿駅間で架線を支えるための滑車が溶けているのを点検中の東日本旅客鉄道職員が見つけ、警視庁に通報した。目黒警察署や東日本旅客鉄道によると、架線を吊るすための約10cmの樹脂製の滑車4個のうち、1個が溶けていた。その上に跨線橋があり、防護用の金網に直径約8 cmの穴が開いており、針金を使ってペットボトルをつるしたような跡があることから、目黒署は何者かが可燃物を入れたペットボトルを使い、滑車に火をつけた疑いがあるとみて捜査している。 9月5日 13時35分過ぎ、東京都国分寺市にある中央線の線路脇にて、電柱を支える為に取り付けているワイヤの樹脂製のカバー、通称・「つる返し」の上部が焼かれているのを、線路脇周辺にて除草作業をしていたJR東日本の関連会社の作業員が発見して、警察に110番通報を行った。 ウィキニュースに関連記事があります。一連の不審火の関連性は JR中央線の敷地で不審火
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事件の経過
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2012年7月20日0時38分(MDT)、コロラド州オーロラにあるショッピングモール内の映画館において、新作映画のプレミア上映会の最中に事件は勃発した。 実行犯は当初、館内の座席に座っていたが後部の非常口から一旦退出。ガスマスクをつけ、防弾チョッキとヘルメット、ズボンを着用し、黒の戦闘用の手袋をはめ、拳銃2丁にライフル1丁、ショットガン1丁で武装した上で、開けたままにしておいたドアから再び館内に戻り、上映中だった館内の前方に立ち、催涙ガスを2本投げつけた。ガスが立ちこめる中、映画内の銃撃シーンに併せて持っていた銃で逃げ惑う観客に対して10〜20発の銃乱射を行ったほか、爆発音もあったとされる。持っていた武器はいずれも合法的に入手したものであった。 警察は当時24歳の青年ジェームズ・ホームズを、映画館裏の駐車場に停めてあった車の中にいたところを逮捕。ホームズが警察に対して自宅アパート3階に爆発物があると供述したため、室内の捜索を実施した結果、爆発物が発見されたため近隣住民を避難させた上で遠隔操作で処理を行った。発見された爆発物は化学物質などが含まれており、解体作業に数日を要すると思われるほど非常に精巧なものであった。 事件当日に地元警察により犠牲者は12名、負傷者は59名が確認されたことを発表(後述のとおり、負傷者数は後に58人に訂正)。なお容疑者は逮捕された際、バットマンの悪役で前作「ダークナイト」に登場していたジョーカーを名乗ったとされていたが、警察は確認できないとしている。 ホームズは7月23日、コロラド州アラパホ郡地方裁判所に初出廷した。コロラド州検察局は、死刑を求刑した。 2015年8月7日、ホームズ被告は、12名の殺人に対し仮釈放なしの終身刑12回、さらに刑期最大48年の第1級殺人未遂が67件、32年の第2級殺人未遂が3件、爆発物所持1件で6年が加算され、傷害致死と自宅の武器による艤装についての加算も含めて、計3,318年の拘禁刑の判決を受けた。
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事件の経過
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「重慶トンネル虐殺事件」の記事における「事件の経過」の解説
重慶には、当時の重慶国民政府によって日本の航空機の攻撃を避けるための防空洞が多く掘られた。防空洞は通常の防空壕と違い、砂岩をくり抜いて作った洞、及び防空洞と同目的で使われた地下トンネルなどである。現場となった大トンネル(十八坡トンネル)もその一つで市の中心部の少し西の十八梯に位置していた。 1941年6月5日21時、日本軍は重慶で大規模な爆撃を開始した。日本軍は24機の爆撃機で3回にかけて砲撃、空爆は3時間ほど続いた。この空爆は5時間ともいわれている[誰によって?]。 この際に、市民1万人が4000から5000人しか入れない十八坡トンネルに突入し、空爆中にトンネル上部で火災が起きた。トンネル入り口の中国憲兵が爆撃が終わっていないことを理由に防空洞の外に出ることを阻止したため酸素不足、及び混雑による押し、踏みつけにより窒息死する者が出た。 公式調査によると死者は992人とされていたが、複数の重慶の地元の年代記では2000人から3000人が死亡したと記されている。 この被害者数は第二次世界大戦の一回の爆撃による間接被害者数の総数としては最も多いとされるが戦死には含まれない。
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事件の経過
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「富士銀行行員顧客殺人事件」の記事における「事件の経過」の解説
事件の10年前となる1988年、夫妻は東京都区部の土地を売却して宮代町へ移住。その際に富士銀行との取引を開始した。折からのバブル景気で都内の地価は上昇しており、土地の売却益1億円のうち5,000万円を老後資金として同行へ貯金した。翌1989年にOが同行へ入行。春日部支店へ赴任して夫妻の担当となり、以来10年の付き合いで、夫妻はOを信頼して定期預金の運用を任せていた。夫妻はともに身体障害を持っており、マッサージ師の夫A(当時74歳)は全盲で、妻B(当時67歳)は背骨に障害があった。 事件前年の1997年、バブル崩壊により銀行の貸し渋りが強まる中、Oは春日部市内の運送業者から融資を求められたが、業者は同行の融資基準を満たしておらず、板挟みとなっていた。そこでOは「半年ものの特別に有利な定期預金が出ました」と言って老夫婦を騙し、預金通帳と印鑑を預かって夫妻の定期預金5,700万円を引き出し、銀行を通さずに運送業者など2社に融資する「浮貸し」を行った。 しかしその後、運送業者は倒産して融資は回収不能となり、Oは2,500万円の債務を負うことになる。Oは名刺の裏に、夫妻から預かった金を「1998年7月2日に持参します」と自分の名刺の裏に書いて渡したものの、返済の当てはなかった。そして返済期日前日の1998年7月1日、Oは富士銀行から本店融資部への栄転の内示を受ける。異動により「浮貸し」が発覚することを恐れて、Oは夫妻の殺害を決意するに至った。 1998年7月2日の午前11時頃、Oは夫妻宅を訪れて「転勤が決まりました」と挨拶した後、妻Bに「最後の親孝行と思って肩をもませて下さい」と声をかけ、肩をもむふりをして絞殺。そして妻の異変に気付きうろたえる全盲の夫を口封じのため絞殺。夫妻宅にあった返済日を裏書きして渡した自分の名刺を奪って去った。Oは逃走の際に、証拠隠滅のためガスの元栓を開けて放火しようとしたが、ガス栓の安全装置が作動して失敗したため、強盗の犯行に見せかけるため室内を荒らして行った。
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事件の経過
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「全日空857便ハイジャック事件」の記事における「事件の経過」の解説
1995年6月21日、東京国際空港(羽田空港)発函館空港行きの当該機が、午前11時45分ごろ山形県上空で1人の中年の男にハイジャックされた。犯人は365人を人質に取って機内に立てこもった。犯人は当時強制捜査を受けていたオウム真理教(現・Aleph)の信者を名乗っており、サリンを所持しているとして客室乗務員を脅した。これに対し、テレビ番組に出演していたオウム真理教幹部の上祐史浩は、「これはオウム信者のやったことではない」「事実であれば直ちに除名する」と声明を出した。 その後、当該機は予定通り函館空港に着陸した。函館空港には当該機を見守る一般市民が数多く見られた。犯人は当初、麻原彰晃(当時は被告人)の釈放と、燃料を補給して羽田空港に引き返すよう要求していたが、その後の交渉の過程では、とにかく機体を羽田空港へ戻すことを執拗に主張した。犯人は機外とのやり取りを直接することはなく、客室乗務員を通じてやらせていた。また乗客の一部解放、機内への飲料・食料等の補給などは一切拒否した。 警察庁が全国の警察を動員して、搭乗名簿に記載された全員の身元を調べた結果、身元不明者として残った者が2人いた。乗客が容疑者の目を盗んで犯人の服装や状況を連絡してきたこともあり、捜査当局は強行突入の準備を進めた。事件発生から約12時間後の6月22日午前0時25分、道警函館方面本部庁舎3階の公安委員会室にて最高作戦会議が開催され、北海道警察から伊達興治本部長(当時)、函館方面本部長、警備部長、捜査一課長、函館方面本部捜査課長、機動隊長、鑑識課長、警察庁から交通局審議官、外事課長、警視庁から第六機動隊特科中隊(SAP、後のSAT)長等が参加した。この席において道警本部長より「強行突入したい」旨の意思が示され、具体的な突入方法について議論された。会議後、道警本部長は突入方法を警察庁に連絡し了承を得た。同日3時37分、当時の内閣総理大臣村山富市の指示により、突入班から外れ、機内を盗聴するなどバックアップに回った警視庁警備部第六機動隊特科中隊が特殊梯子を機体L1、L2、L3ドアに接続し(燃料を満載した機体に接続することを想定して作られた梯子の最上部と機体1階の床には60cm以上の段差があった。)、同39分に警視庁警備部特科中隊員および道警機動隊員らが梯子を登り始めた。突入で先頭をきる道警機動隊員は特殊警棒を把持し、2番目となる同機動隊員は実弾を装填した拳銃を携行した。道警機動隊員の突入準備完了の合図を受けた警視庁警備部特科中隊は同42分、3箇所の機体ドアを解錠した。この段階で函館方面本部長室にて待機していた道警本部長に最終の意思確認がされ、正式な突入命令の元3箇所の機体ドアから道警機動隊員が突入した。機体1階の最前部L1ドア付近にいた犯人は、警察の突入に気付き機体後方へと走りだした。L2ドアからも突入していた道警機動隊員に気付き反転した犯人は再び機体前方へ走りだし、L1ドアから突入した道警機動隊員に向けてドライバーを振り上げたが、特殊警棒で額付近を一撃され、同45分機内客室18番Gシート付近で制圧され逮捕された。 犯人は精神疾患で休職中の東洋信託銀行(後のUFJ信託銀行、現・三菱UFJ信託銀行)行員(当時53歳)であり、オウムとは無関係であった。また、所持していると主張したプラスチック爆弾が粘土で作った偽物であり、サリンと思われていたビニール袋の中身もただの水であった事が判明。 犯人は逮捕の翌日(1995年6月23日)付で東洋信託銀行を懲戒解雇され、1995年7月12日に函館地方検察庁に「責任能力あり」と判断され起訴された。 1997年3月21日、函館地方裁判所は犯人に対し、懲役8年の判決を言い渡した。検察側・弁護側双方が札幌高等裁判所へ控訴し1999年9月30日の控訴審で札幌高裁は1審判決(懲役8年)を破棄し、犯人に懲役10年の判決を言い渡した。その後、最高裁判所への上告は行われず、判決が確定した。なお、犯人は全日空から民事訴訟を起こされ、請求額通り5300万円の損害賠償が命じられた。 また、この事件の当該機は2003年7月に退役した。なお、「NH857便」は2019年現在も全日空の便名として使用されているが、羽田空港発ノイバイ国際空港(ベトナム・ハノイ)行きの便となっている。
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事件の経過
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12月11日 800人の男子生徒のうち多数が拉致された。 12月12日 ブハリ大統領が、陸軍(英語版)が森の中にある武装勢力のアジトを発見し、武装集団と銃撃戦を繰り広げたと発表した。 12月13日 300人以上の男子生徒が依然として行方不明である。
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事件の経過
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「宝塚ボーガン殺傷事件」の記事における「事件の経過」の解説
2020年6月4日午前10時15分頃、宝塚市にある住宅で男女4人がボーガンのようなもので撃たれ、家族3人が死亡した。警察は殺人未遂の容疑で現場の家に住む大学4年生と自称した男性を現行犯逮捕した。 現場の住宅では殺傷能力が高いとされるボーガンの矢が残されており、この矢は命中したあと引き抜きにくくする『返し』が付いていた。 容疑者は「ボーガンで4人を撃った」「祖母、弟、母の順番で撃った。伯母も電話で呼び出して撃った」などと供述した。弟は風呂場のあたりで倒れており、2本の矢が頭に刺さっていた。病院に搬送された時はまだ息があったが、回復せず亡くなった。 弟は頭部2カ所を撃たれており、同月6日の司法解剖で死因は「出血性ショック」であった。また他の2人の死因は頭部を撃たれたことによる「外傷性くも膜下出血」であった。 6月6日午前、被疑者を神戸地方検察庁に送検した。 10月20日、神戸地方検察庁は被疑者の鑑定留置について、当初予定されていた7月6日から11月5日までの鑑定留置を12月10日まで延長する許可が出たと発表した。 2021年1月22日、神戸地方検察庁は鑑定留置の結果を踏まえ、刑事責任能力を問えると判断し被疑者を起訴した。
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事件の経過
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1896年(明治29年)12月23日、漢族の李阿隆の協力の下でブスリン、コロ、フフス、カウワン(いずれも現在の花蓮県秀林郷、立霧渓河口から景美村付近の村落)などの集落の男子が結託して新城分遣隊監視哨を急襲し、将兵多数を殺害した。これを「新城事件」という。 事件発生時の状況を詳しく伝える資料はないが、新城と花蓮港で警察行政に長く携わっていた江口貞吉警視の遺稿、並びに前述の金子乙彦の祖父の証言によれば、日本兵による不埒な行いで漢人やタロコ族らの間に不穏な空気が流れる中、新城から8キロ離れたシラガン社のタロコ族が猟の帰り、砂金採集をしていた日本兵とトラブルを起こした。これが直接の発端となり、タロコ族の青年300名は総頭目のヤカオ・バヤシに率いられ兵舎を急襲、まず入り口付近で銃の手入れをしていた1名を射殺した。当時、日本兵らは昼寝の最中で機敏な反撃行動に移ることができず、結城享少尉と思しき1人が指揮刀を執って奮戦するものの全滅、兵らはすべて頭部を切断され、兵舎は焼き払われ、さらに外出中の日本兵も発見されるや殺害された。こうして日本兵23人全員が殺害された。 この折、花蓮港郊外、十六股在住の漢人・許阿園が焼き払われた兵舎を見て驚き、夜陰に乗じて花蓮に逃れ、現地在住の日本軍に知らせることで事件が発覚した。 事件当時、新城は台湾人(漢民族)人口100人、日本人警官5、6人程度の寒村で、台湾東部の中心都市である花蓮港も漢民族人口230人程度だった。そして新城から花蓮まで20㎞程度の距離はコワチン(鬼茅)が生い茂り、毒蛇やマラリアの巣窟として隔絶されていた。 そのような状態で情報収集、そして遺体の収容は困難を極めた。花蓮港守備隊歩兵第三隊長・井上少佐は2度に渡って偵察を差し向けたが、途中の三桟渓(現在の景美駅付近を流れる川)で「馘首」され生還しなかった。軍は李阿隆を呼び事情聴取を試みるも応じず、再度差し向けた偵察兵も5人全員が行方不明になった。 ここで第三大隊第一二中隊の篠原特務曹長が15名の部下を率いて三桟渓に至り、偵察隊の首無し遺体を発見する。一方、花蓮港大隊では基隆の第一連隊本部に事件を報告し、歩兵中佐、湯地春吉第一連隊長みずからが出動することとなったものの、年内の遺体収容、並びに制圧はことごとく失敗した。
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事件の経過
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1937年6月4日午後10時頃、満州国境沿いに有る朝鮮の咸鏡南道(現在は両江道)甲山郡普天面保田里(旧名、普天堡)を、東北抗日聯軍第1路軍第2軍第6師(金日成が率いたとされる部隊)を名乗る共産主義者武装集団が襲撃した。 第6師90名の兵匪は6隊に分かれ普天堡近くまで侵入した後、朝鮮領甲山郡内で朴達らによって組織されていた「祖国光復会」所属の甲山工作委員会の呼応工作員80名と合流。16隊に分かれて午後10時に面(村)保田駐在所の襲撃を開始した。別働隊は面事務所、試験場、営林署、森林保護区事務所、消防署を襲撃した。 駐在所には7名の警察官が配置されていたが、在勤者は5名(うち2名が朝鮮人)で、さらに襲撃当夜の当直勤務は見張りと所内勤務の2名であった。午後10時、警備電話線を切断、のち数十名が軽機関銃2挺で銃撃を加え事務室宿舎に殺到。警察官は応戦の暇もなく全員が退避し死亡者は出なかった。しかし、柳井巡査の幼子1名が母親と共に避難中、銃弾に当たり死亡したほか、朝鮮人警官1名が負傷。第6師は駐在所から銃器と弾薬を奪った。1名の警官が佳林駐在所に逃げ込み、恵山警察署に電話をかけた。 次に、第6師は面事務所、郵便局の建物、書類等に放火。普通学校にも延焼した。続けて商店及び住宅も襲撃し、地元民から現金4000円(現在の物価に換算すると約6000万円前後)及び木綿などの衣料品物資を奪った。被害に遭った地元民の殆どが朝鮮人であったが、料理店経営者であった日本人1名が居室で殺害された。 この後、襲撃隊は4種類のビラを撒き撤退した。襲撃による被害総額は当初3万~5万円と報じられたが、警察庁警務局の資料によると1万5692円(現在の物価に換算すると約2億4000万円前後)と結論付けられている。
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事件の経過
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1922年11月 - 本州製紙江戸川工場の操業開始。 1957年6月 - 建築基準法の確認申請と東京都公害防止条例による許可申請。 1958年3月下旬 - ケミカルパルプの製造装置の新規設置。 4月1日 - 工場から江戸川に黒い排水が流れ始める。江戸川下流の八ケ浦漁業協同組合の代表が7、8回も工場に出向き、汚水の被害を訴え対応を求めた。これに対し、工場は一課長のみしか応接せず、黒い排水の放流を続けた。 5月7日 - 東京都に陳情。 5月13日 - 東京都の水質試験及び生物試験。 5月19日 - 千葉県の現地調査(1回目)。工場排水の採水調査。 5月22日 - 工場長の人事異動。 5月24日午前9時半頃 - 第1回交渉。八ケ浦漁業協同組合の役員約1000名が漁船及び自動車で工場へ参集して、東門から工場に乗り込んだ。汚水の出るマンホールに瓦や石等を投げ込んで水の流れを止めた。その際、工場の労働組合事務所にも入り、戸や障子が壊れた。小松川署長以下約50名が到着して警備にあたった。 午前10時40分 - 工場内会議室で、工場長他7名と浦安町長、助役、漁協組合長8名が5項目を話し合う。現在運転中の新規装置から排出される黒い排水を直ちに止める。 操業中の古い装置から排出される白い排水は、一刻も早く無害化する設備をする。 被害補償は、会社重役とよく相談して解決を図る。 次の会議日は、5月27日午後3時。 会議場所は、同じ工場の会議室。 午後1時50分 - 会議終了後、会議室を取り囲んでいた約400名が退場した。最後の約30名が退場したのは午後2時10分ごろ。 午後3時 - 旧設備の再稼動。 後日 - 工場長の人事異動 5月27日午後3時40分 - 第2回交渉。浦安町長が会議進行役となる。新工場長のあいさつ 新規装置を再稼動したいとする工場側と、無害化施設を完備しなければ了解できない漁協側。 白い排水については、ろ過設備の設置期限を設けること。 今までの被害について、いつごろどのように補償するのか誠意をもって返事すること。 次回会議は、5月29日午前10時。 5月28日 - 工場の役員が千葉県水産課に出頭。 5月29日午前11時 - 第3回交渉。物別れに。新工場長から、排水路から沈殿槽へ切り替え工事をするには8月中までかかるが、その前に新規装置を明日からでも再稼動させてほしい。 第三者の調査結果により、何らかの方法で納得する話で円満に解決したい。 午後 - 都内5漁業協同組合の組合長らが東京都庁に新規装置の操業停止の陳情。 5月30日 - 東京都水産課長の調停で、東京都側の各漁協長が運転再開を受諾。同日、本州製紙専務らが千葉県庁を訪れ、東京都側の被害者と解決したので、千葉県側も同じように調停することを依頼したが、浦安漁協は出頭要請を拒否、浦安町長も調停について態度を保留。一時間後 千葉県内3漁業協同組合の代表が、千葉県庁で副知事と水産課に陳情。 6月2日 - 午後2時ごろ、工場は一方的に黒い排水を流す。 6月3日 - 葛西漁協と浦安町漁協の代表が工場長と交渉したが、「私たちは許可を取ってやっていることで、これは会社の命令なので、工場長としては方法がない」という答えであった。 6月4日 - 都庁の指導部と水産課、県庁の水産課に、海の現状を見てほしいと陳情。 6月5日 - 千葉県の現地調査(2回目)。 6月6日 - 千葉県や浦安町を初め関係者が都庁に交渉した結果、東京都は都庁で会社専務に口答で漁協との話し合いがつくまで操業を止めるように指導した。 6月7日 - 京葉開発綜合研究所による調停案。 6月9日浦安町は汚水対策委員会を設置。その会議中に工場から「本日午後から再稼動する」との電話連絡が入る。町議会議員で手分けをして、江戸川工場、千葉県庁、東京都庁、衆議院、川島代議士のところに行った。 午後から12時間 - 黒い廃液を放流。 午後 - 緊急町議会で町内15組合が主催する町民大会に町と議会が協賛することを決めた。 6月10日千葉県の現地調査(3回目) 午後0時 - 町民大会を開き「汚水を直ちに止めること、補償を支給すること」という決議をした。 午後 - 10台のバスで国会に対する集団陳情。参議院常任委員会のガラスが割れる。 午後 - 東京都庁に対する集団陳情。 午後 - 東京都建設局の現地指導。 午後4時半 - 工場を管轄する小松川警察署に、第二機動隊の三個中隊を派遣。 午後6時前 - 機動隊218名が工場内食堂に待機。 午後6時8分 - 浦安漁協が12台のバスで工場正門に到着。門を乗越えて工場へ乱入。機動隊と乱闘になる。漁民側が4名検束される。 その後 - 約600名に増員された機動隊が退去命令を発し、漁民らを工場外へ排除。漁民側から更に4名検束される。 漁民側:重傷者35名、軽傷者108名、検束者8名。警察側:1名入院。 6月11日 - 東京都が文書で、除害設備が完備するまでその使用を停止するように指示。 6月13日 - 参議院決算委員会で参考人質問。 6月16日 - 会社社長より東京都に、6月11日の停止指示に従う旨の文書回答。
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事件の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 15:29 UTC 版)
2002年1月14日20時30分ごろ、被害者女性A(事件当時18歳)が、自宅に侵入してきた男によってナイフを突きつけられて脅され、強姦される事件(A事件)が発生。同年3月13日14時40分ごろには、被害者女性B(当時16歳)が自宅で果物ナイフを突きつけられて脅され、強姦されそうになる事件(B事件)が発生した。以上2事件は、いずれも富山県氷見市で発生したものである。 2002年4月15日、B事件の被疑者として、タクシー運転手の男性甲(以下甲)が強姦未遂容疑で富山県警察氷見警察署に逮捕され、5月5日には別の事件で再逮捕された。逮捕のきっかけは甲が少女らの証言する犯人と似ていたこととされる。 取調べは任意で行われたにも関わらず、4月8日以降断続的に3日間、朝から晩まで長時間にわたった。4月15日の3回目の取り調べで、既に何が何だか分からなくなり疲れ切っていた甲に対し、取調官は「お前の家族も『お前がやったに違いない。どうにでもしてくれ』と言ってるぞ」などという噓で自白を誤導した。絶望した甲は容疑を認め、自白したとして逮捕された。逮捕状は既に準備されていた。 甲の逮捕を受け、自白の裏付け捜査が行われた。その際に捜査員が氷見署に提出した事件報告書には、逮捕前の段階で、被害者の目撃証言にあった星のマークの運動靴が被疑者の自動車の後部座席付近にあったと記されている。 甲は、取調官に「はい」か「うん」しか言うなと言われ、怖くて「おかしい」などとは言えなかったという。自宅の捜索では星のマークの運動靴は発見されず、取調官が「捨てたんだろ」と言うので甲は「はい」と答えた。警察は彼が捨てたと供述した場所を捜索したが、やはり運動靴は発見されなかった。取調官が「燃やしたんだろ」と言うので甲は「はい」と答え、運動靴は自宅で燃やしたことにされた。被害者目撃証言では犯行時サバイバルナイフを突きつけられ、チェーンで手を縛られたとされたが、取調官は甲の記憶違いとして甲の自宅の捜索で出た果物ナイフとビニールひもを証拠とした。被害者自宅の見取り図も、取調官が甲の後ろから手をとり書かせた。また、科学捜査研究所の担当者は、現場に残っていた体液が甲の血液型と一致しない可能性を認めながら、氷見署長から依頼がなかったという理由で再鑑定しなかった。 この逮捕には、自白に「秘密の暴露が全くない」こと、犯行当時の明白なアリバイ(犯行時刻とされた時間帯に自宅から知人に電話をかけたというNTTの通話記録など)が存在したこと、現場証拠である足跡が28 - 28.5 cmだった一方、甲の足はそれより小さい24.5 cmであることなどから、立件は無理ではないかとの声が氷見署内にさえもあった。しかし、甲は2002年5月24日にA事件で、同年6月13日にB事件でそれぞれ、富山地方裁判所高岡支部へ起訴された。その後、甲は公判中も一貫して罪を認め、同年11月27日に富山地裁高岡支部で両事件の犯人と認定され、懲役3年(未決拘置日数中130日算入)の有罪判決を宣告された。被告人の甲が控訴しなかったため、判決は同年12月12日に確定し、甲は2005年(平成17年)1月13日に仮出所するまで、福井刑務所に服役した。 当番弁護士として同年4月17日に甲と接見した弁護士(山口敏彦)は、甲の「やっていない」という訴えを聞いたが、その後は同年7月2日まで接見に行かず、起訴後に甲の国選弁護人として就任して以降も、(執行猶予を狙い、被害者に計250万円を支払うことを提案するなど)有罪であることを前提とする弁護活動を行った。 一方、甲の逮捕後も強姦事件が起きていた。被害者の証言で共通していたのは、強姦後「100を数えるまで動くな」と逃げる時間稼ぎがされていたことであった。 このように手口が類似する事件が発生していたにもかかわらず、富山県警は捜査を行わなかった。後に真犯人として逮捕された人物は、服役中に報道機関に寄せた手紙の中で「富山県警は甲が犯人ではないと分かっていたが、それを隠蔽した」と記している。
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事件の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 08:52 UTC 版)
「パリ同時多発テロ事件」の記事における「事件の経過」の解説
時刻は現地時間。()内は日本時間(分は一致)。 2015年11月13日21時(14日5時)20分 - パリ郊外のスタッド・ド・フランスで爆発。市民1名、自爆テロ犯1名が死亡。 21時(14日5時)25分 - パリ10区にあるカンボジア料理店「ル・プティ・カンボージュ」とバー「ル・カリオン・バー」の付近で、武装グループが発砲。15名が死亡し、10名が重傷。最初にカリオンの外から客に向かって発砲後、歩いてカンボジア料理店へ向かい11人を射殺した(カンボージュは市内で本店を長く経営する移民一家が4年前に開店した支店で、カリオンとともに同地区の人気店)。 21時(14日5時)30分 - スタッド・ド・フランスで2度目の爆発。テロ犯が死亡。 21時(14日5時)32分 - 11区(10区との境目を走るフォーブール=デュ=タンプル通りとフォンテーヌ・オー・ロワ通りの交差地点界隈)のピザ店「ラ・カーザ・ノストラ」付近で、武装グループが発砲。5名が死亡、8名が重傷。最初に「カフェ・ボン・ビエール」の外で発砲し、ピザ店との間で5名を射殺した(2店とも近隣の人気店)。 21時(14日5時)36分 - 11区シャロンヌ通りのカフェ「ラ・ベル・エキップ La Belle Équipe」付近で、武装グループが発砲。19名が死亡、9名が重傷。隣の「スシ・マキ」でも被害が出た(同店は香港出身の中華系アメリカ人経営の日本料理店)。 21時(14日5時)40分ごろ - 11区ヴォルテール大通りのレストラン「ル・コントワール・ヴォルテール」付近で自爆テロ。同店テラス席に座り自爆し、自爆テロ犯1名が死亡、客15人が負傷した。 21時(14日5時)40分 - バタクラン劇場へ武装グループが発砲し押し入り、立てこもり。 21時(14日5時)53分 - スタッド・ド・フランス付近で3度目の爆発が起こり、テロ犯1名が死亡した。 22時(14日6時)15分 - パリ警視庁コマンド対策部隊(BRI-BAC)の先遣隊がバタクラン劇場に到着。 11月14日0時(8時)20分 - BRI-BACおよび特別介入部隊(RAID)がバタクラン劇場に突入し、テロ犯3名が死亡。うち2名は自爆。少なくとも89人が死亡し負傷者が多数出る。 11月18日4時(12時)30分ごろ - サン=ドニで、容疑者の関係先を家宅捜索中に、警察官と数人の男の間で、90分間にわたり銃撃戦が発生。警察官2人が負傷した。 医療関係者の対応 通報後 - パリ公立病院支援機構(フランス語版)が厳戒態勢に入る。 22時34分 - パリ公立病院支援機構は、緊急事態が起きた場合を想定した病院の行動計画書「Orsan計画(フランス語版)」にある Plan blanc(白の計画)を発令した。20年も前に作られた計画であるが、その効果を存分に発揮した。対応した多くの救急隊員と医療担当者は事前に訓練が行われていたことから、余裕をもって対応がされた(皮肉なことに、当日朝に銃撃多発テロを想定した訓練が消防隊と緊急医療救助サービス (フランス)(フランス語版)に対して行われていた)。予備部隊を2ユニット後方に待機させたことで、事件現場でのリソースの飽和も起きず柔軟にスムーズに対応がなされた。
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事件の経過
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「2017年ラスベガス・ストリップ銃乱射事件」の記事における「事件の経過」の解説
※日時はすべて現地時間 2017年10月1日当時、銃撃現場ではライブ・ネイションが主催するカントリー・ミュージックの音楽祭「Route 91 Harvest festival」が開かれており、約2万2千人以上の観客とスタッフ、警備中の警察官などがいた。 午後10時前、「マンダレイ・ベイ・ホテル」32階の警報が鳴りホテルの警備員1名が調査へ向かう(パドックが銃撃用か監視用の穴をドリルで開けていた所、セキュリティシステムに感知され警報が鳴ったものと思われる)。 午後9時58分、パドックが部屋の前に警備員がいるのに気づき、室内から廊下側へ銃弾、約200発を発砲した。警備員は足を負傷するも自力で脱出して警備員室に無線で連絡。 午後10時5分、パドックが音楽祭会場へ向け発砲を開始。銃撃は11分間に渡って行われた。多数撮影された映像を後日解析したところ、銃撃は断続的に12回行われていたことが判明した。この間に1049発の弾丸が群衆に向け発射された。 当初、観客は銃声が聞こえても、何が起きたのかわからない様子だったが、演奏が止まり、異変に気づいた人々は悲鳴を上げたり、「頭を下げろ」と叫んだりしながら、その場にしゃがみこんでいた。 午後10時8分頃、現場にいた警察官が「銃撃されている」「自動火器のようだ」と無線連絡。 午後10時15分頃、射撃が終了。避難誘導や警察官、民間人による人命救助活動が始まる。 武装した警察官が付近のホテルへ派遣され避難誘導が始まる。 午後10時25分頃、「ラスベガス大通りとトロピカーナを避けるように。マンダレイ・ベイから銃撃発生。容疑者3人の可能性」と運行中のタクシーに警察活動を知らせる通知が現れた。 午後10時15分から30分の間、犯人が回転式拳銃を自身の口腔内に向け発射し自殺したと思われる。 午後10時26分から30分の間、警察官8人がホテルの32階に到着。負傷者や一般人などの捜索を開始。 午後10時38分、ラスベガス警察がTwitterの公式アカウントにて「マンダレー ベイ カジノ周辺にて銃撃事件が発生。このエリアに近づかないように」と発表。 午後10時55分、警察が32階付近の宿泊客などの避難を完了。 午後11時20分、特殊部隊がドアを爆破し1部屋目へ突入。パドックの遺体を確認。 午後11時27分、特殊部隊が2部屋目へ突入し安全を確認。 午後11時44分、銃撃現場の会場に隣接するマッカラン国際空港がテロ対策としてすべての航空機の発着を停止。また、後の調査で射撃位置から約600メートル離れた空港内のジェット燃料のタンクに銃弾2発が着弾していた。内1発はタンクを貫通しているのが確認されたほか、付近から焼夷弾も回収された。パドックがタンク燃料の爆発を引き起こす狙いで撃ったものとした。 午後11時58分、ラスベガス警察がTwitterの公式アカウントにて「容疑者1人の死亡を確認」と発表。 2017年10月2日午前0時31分、ラスベガス警察がTwitterの公式アカウントにて「事件は終結したと思われる」と発表。
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事件の経過
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1945年(昭和20年)3月から4月頃、日本陸軍第41師団歩兵第239連隊は、東部ニューギニア北岸アイタペ(en)南東内陸のトリセリー山脈(en)南側(山南地区)で、追撃してくるオーストラリア軍と交戦中であった。竹永正治中佐率いる同連隊第2大隊約50名は、『第四十一師団ニューギニヤ作戦史』によれば3月24日から、東方へ後退しつつある連隊主力とは離れて、独断で西方へ移動を始めた。ただし、竹永隊の小隊長の一人だった曹長の手記によると、逆に連隊主力の方が連絡もなく移動してしまったため、見捨てられたと判断して独自行動に移ったという。 4月中頃(村民によれば12日)、約45人の竹永隊は、家屋数戸のタウ村に食糧を求めて侵入した。投げ槍や手榴弾などで武装した村人が食糧を探し始めた日本兵を攻撃し戦闘となった。まもなく村人は逃げ去ったが双方に2人ずつの死者が出た。竹永隊は翌朝にタウ村を出たが、その後も付近にとどまった。 警察隊や住民からの通報で竹永隊の存在を知ったオーストラリア陸軍は、4月16日、第2/5大隊からC・H・マイルズ中尉の率いる1個小隊を選び掃討に派遣した。4月24日、マイルズ小隊は竹永隊と接触して銃撃戦となり、日本側2人が戦死した。 ひとまず追跡を振り切った竹永隊であったが、それ以上は戦闘を続けずに投降することに決めた。兵が以前から所持していた降伏勧告ビラに、英文で降伏条件などを書き加え、棒に結びつけて後へ残した。マイルズ小隊の斥候がビラを発見して持ち帰った。5月2日、オーストラリア軍は西方のウォムグラー集落(南緯3度36分 東経142度35分 / 南緯3.600度 東経142.583度 / -3.600; 142.583 (ウォムグラー集落))付近で竹永隊を発見し、現地人を案内に立てて接触を図った。日本側から2人が軍使として訪れて交渉し、翌5月3日、竹永隊はウォムグラー集落で降伏して武装解除された。このときの兵力は竹永中佐以下42人(士官5人、准士官4人、下士官・兵33人)で、軽機関銃5丁と小銃17丁、拳銃5丁、弾薬750発を装備していた。捕虜たちは、マイルズ小隊に護送されてマプリック飛行場まで3日間の行軍を整然と行い、そこからアイタペへと空輸された。 日本側の他の部隊は、竹永隊が道に迷うなどして行方不明になったと考えて捜索していたが、オーストラリア軍が撒布したプロパガンダビラによって、竹永隊の降伏を知った。
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事件の経過
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「新潟市タクシー運転手強盗殺人事件」の記事における「事件の経過」の解説
2009年11月1日午後10時40分頃 - 犯人と思わしき若い男をJR東日本新潟駅南口から乗せる。 午後11時00分頃 - 発見現場となる新潟市東区空港西一丁目に向けて走行しているところを目撃されている。 午後11時30分頃 - 新潟市東区空港西一丁目の路上でハザードランプが点滅した状態でタクシーが停車しているのを近くの住人が目撃している。 2009年11月2日 午前1時30分頃 - 探していた同僚が車両と運転手男性を発見し、110番に通報した。 2011年7月29日警察庁は当事件を捜査特別報奨金対象事件に指定。犯人逮捕に繋がる情報に300万円の懸賞金が懸けられた。
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事件の経過
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1965年(昭和40年) ジャーナリストの梶山季之が婦人生活に『小説・創価学会』を連載すると、梶山に抗議の投書が殺到する。雑誌編集長が嫌がらせを苦に失踪し、連載は途中で打ち切られる。 1967年(昭和42年) 大正大学教授の竹中信常(宗教学)が『創価学会』(労働法学出版)を出版する前の校正段階の時期に、創価学会渉外局長の山崎尚見からゲラを見せるように要求され、提出する。約1ヶ月後に山崎は「創価学会を正しく書いていない」として、「こちらが朱を入れて校正した通りに直して出版すれば、名誉毀損で訴えることはしない」と圧力を加える。これにより出版が2ヶ月遅れる。 10月1日、公明党書記長で東京都議会議員(当時)の龍年光が、元創価学会会員、植村左内(ペンネーム)が「新日本宗教団体連合会」(新宗連)の機関紙『新宗教新聞』紙上に連載していた内部告発記事を単行本(『これが創価学会だ』しなの出版社)として出版することを知り、公明党の委員長(当時)で参議院議員の辻武寿と二人で自民党本部に出向き、自民党の組織委員長の辻寛一と面談する。辻寛一は「福田赳夫幹事長とも相談して、自民党員の誰がやっているかを調査し回答する」と述べる。 10月3日 池田大作、竹入義勝の連名で『これが創価学会だ』に対する出版禁止仮処分 を東京地方裁判所に申請する。 10月13日東京地裁は「本もできていないのに、禁止はできない」として「仮処分申請には理由がない」として却下。 池田大作、竹入義勝両名は『これが創価学会だ』が名誉毀損に当たるとして民事訴訟を提訴。『これが創価学会だ』が「新宗連」の機関紙上で連載されていたことから、同書の出版を仕掛けたとして「新宗連」理事長(当時)で 立正佼成会会長(当時)の庭野日敬を警視庁に告訴。警視庁は庭野に出頭を求める。 立正佼成会が、出版された『これが創価学会だ』を約10万冊購入し、新宗連を初め、関係先へ配布。 庭野は「社団法人宗教センター」理事長で日本大学会頭の古田重二良からの、立正佼成会が、自らの手で『これが創価学会だ』の本を破棄することで、創価学会と立正佼成会の『布教戦争』を一時停戦したらどうかとの提案を受け入れ、古田会頭の仲介で、北條浩副委員長と面談し、双方の間で示談が成立。 『これが創価学会だ』のほとんどを回収し、日本大学の校庭で創価学会・公明党の立会いのもと、著者植村の所持したものを含めて10万5千38冊が廃棄される。公明党の矢野元書記長は『これが創価学会だ』という本を日本大学で焼いたということについて、「公明党は全く関知していない」と語ったが、裁判所へ提出された訴えの取り下げの理由の中には「この本の発行済み全部の回収に努力した結果、各被告ら(植村左内)の所持したものを含めて十万五千三十八冊の廃棄処分を原告らの確認のもとに完了した。」と書かれている。。「しなの出版社」が東京地方裁判所に出し答弁書によれば、自民党幹事長(当時)の福田赳夫と賀屋興宣が古田日大会頭と共に参与したとされるが、福田は国会で「直接にも間接にも関係していない」と関与を否定した。「しなの出版」は古田会頭を介して、著者、植村左内に無断で同書の印刷紙型や未製本分を含むすべてを創価学会、公明党に引き渡し、同書の出版権を放棄する。 1968年(昭和43年) 1月 脅迫電話が頻繁にかかっていた植村左内は、古田会頭の要求で、「今後、創価学会の批判本は書かない」という誓約書を書く。当時の内閣法制局長官は、「自己の自由意思により第3者との間に将来一定の内容の著作物は出版しない旨を約束することは国法上、一概に違法とは言えず、民法の規定にある『公序良俗に反する契約』、『法律行為の無効』に当たるかどうか、約束(契約)の内容次第による」旨の答弁をした。 『これが創価学会だ』が無償で廃棄されたこと、植村左内が創価学会の批判本は書かないと一筆を書いたことを理由に池田、竹入は植村に対する訴訟を取り下げる。後に植村は別の出版社から『これが創価学会だ』を出版する。 2月 西日本新聞東京支社の論説委員の隈部大蔵が「隅田洋」のペンネームで『日蓮正宗・創価学会・公明党の破滅』(東北出版)の出版を計画する。普通の印刷をすれば創価学会側に知られるので、個人宅で写真植字を行ない、北九州市の「日進印刷」で印刷に入る段階で創価学会側に知られ、版元を選挙区とする文部大臣剱木亨弘から出版中止を要求されるなど、様々な圧力が加えられる。出版元の社長が古田会頭の強硬な要請に屈し、出版前に本の内容を見せる。社長は出版社に正体不明の者から、「暴力団を向けるぞ」と脅迫され、暴力団風の男が身辺につきまとうようになるなど、周囲からの圧力でノイローゼ状態に陥った ことなどから初版は出版されず絶版となる。後に出版社も印刷所も倒産した(この本の出版契約書には市販できない場合についての異例の記載があった)。 9月11日 隈部大蔵は連日面会を求められていた公明党副委員長(当時)の北條浩と東京赤坂のプリンスホテルで面会。北條は、ペンネーム隅田洋が隈部であることを突き止めたこと、第2の出版を用意していることを調査で突きとめたこと、創価学会への批判はゆるさないこと、などを述べた。後に隈部大蔵は北條浩が「創価学会、公明党を批判するものに対しては、創価学会という象は、アリの一匹といえども、全力をもって踏みつぶす」と言ったとされるが、創価学会はそれを否定している。隈部は身辺や家族への危害、会社での地位の変化などを恐れ、出版社との最終的な契約もできなかったこともあり、密かに進めていた『現代のさまよえる魂――釈尊と邪教の対話』の出版を断念。 1969年(昭和44年) 1月 東京都庁担当の毎日新聞記者の内藤国夫が「三一書房」からの執筆依頼を引き受け、『公明党の素顔』の執筆を始める。 東京都庁や毎日新聞社からも異議を唱えられる。当時の毎日新聞の社会部長も原稿を読み、内容に異を唱える。内藤は意を汲んで書き直したが、「三一書房」は出版を見合わせてしまう。社内の承認を得て、創業して間もない「エール出版社」を出版元に選び、極秘裏に出版準備を進めるが、印刷工程でゲラが創価学会側に渡る。 3月 内藤が竹入委員長に呼び出され、30数箇所の書き換えや削除を要求される。 『公明党の素顔』の小さい広告が『毎日新聞』などに掲載されると、新聞社の編集の首脳部が、北條浩 公明党副委員長(当時)から「あれだけお願いしたにもかかわらず、内藤の出版を押え切れなかったばかりか、こうやって広告を載せるとはわが党に敵対するつもりなのか」などと電話で抗議を受ける。 日本船舶振興会会長で、「国際勝共連合」名誉会長の笹川良一が「公明党に前に一度恩を受けている」、「本を全部買い取りたい」と買収を持ちかける。 5月「エール出版社」に創価学会・公明党の幹部らが働きかけるが、『公明党の素顔』は出版されるものの取次店から委託の扱いを拒否され、広告掲載も断られるようになり、小売店に宣伝して注文をとるという方法で、僅かな部数だけが出版される。また『公明党の素顔』を出版した「エール出版社」が事務所の追い立てを食らう。 8月 民社党の塚本三郎が自身の著作『公明党を折伏しよう』(名南経済振興会)の原稿を名古屋市の印刷会社に手渡すが、工場内に創価学会員が3名ほどいたことから、内容が漏れ、数日後、公明党の責任者から民社党の責任者に出版を中止するよう要請がなされる。取り扱いを依頼したある出版社は、創価学会の批判書を扱うと、今まで年間数千万円の利益を得ている創価学会系の書籍を扱えなくなるとして取り扱いを断る。
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事件の経過
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1994年(平成6年)、Kの最初の夫が死亡。夫と共にTシャツのプリント加工会社を営んでいたKは、夫の死によって得た約2000万円の生命保険金を会社の借金返済に充てた。 1998年(平成10年)ごろ、Kは結婚相談所に登録した 2005年(平成17年)年、兵庫県南あわじ市交際男性Gが死亡(書類送検されるが証拠不十分のため不起訴) 2006年(平成18年)5月、Kは兵庫県西宮市の男性と2度目の結婚をするが男性は8月に死亡。 2007年(平成19年)、Kはこの頃先物取引に手を出し、Kは約3億円の損失を出す。 同年12月18日、兵庫県神戸市北区の交際男性C(当時78歳)が倒れ、緊急搬送され、2009年(平成21年)5月に死亡(起訴案件)。事件直後は事件性は疑われず検査も行われなかったが、体内の酸素が機能しなくなる青酸中毒特有の症状が記録されていた。Kはこの日、Cに投資目的で受け取った4000万円を返す約束をしていた。2008年(平成20年)6月にKはCの長女に投資の配当金を含むとして4800万円を返済した。同年5月にFを殺害して得られた遺産をこの返済に充てたと見られ、Cへの返済を回避するためにCを殺害したと見られる中Cの長女に返済したのは多額の金銭のやり取りがあったことがCの親族に発覚したことを受けて怪しまれることを避けるためと考えられている。 2008年3月、奈良県奈良市の交際男性E死亡(書類送検後証拠不十分のため不起訴)。Eは死亡の約2ヶ月前にKに全財産を遺贈するとする公正証書遺言を作成していた。 同年4月、Kは大阪府松原市の男性Fと3度目の結婚をするが5月17日にFは死亡した(書類送検後証拠不十分のため不起訴)。KはFが死亡5日前に作った「全財産をKに相続させる」という公正証書遺言を根拠に約5800万円の遺産を相続した。 2012年(平成24年)3月9日、大阪府貝塚市の交際男性B(当時71歳)が死亡(起訴案件)。Bは喫茶店でKと会っていたが店を出た直後に転倒し、その後死亡が確認された。当初病死と見られていたBだったが、A事件発覚後に大阪府警が偶然保存されていたBの血液を鑑定したところ青酸化合物が検出された。Bの死亡保険金の受取人は半年前にKに変更されていた他、3ヶ月前の2011年(平成23年)12月26日には「死亡した場合には全財産をKに遺贈する」とした公正証書遺言が作成されていた。Kは事件翌日にBの自宅金庫を解錠業者に開けさせ、預貯金や死亡保険金、Bのマンションを売却するなどして合計1943万円の遺産を取得した。 2013年(平成25年)5月、大阪府堺市の交際男性H死亡(書類送検後証拠不十分のため不起訴) 同年9月20日、兵庫県伊丹市の交際男性D(当時75歳)死亡(起訴案件)。当時死因は肺がんとされ、司法解剖は行われていない。Kは搬送先の病院に付き添い、医師が人工呼吸器をつけるか尋ねたところこれを断り、約1時間後Dは死亡した。事件18日前にDが全財産をKに遺贈するとの公正証書遺言が作成され、事件4日後にKは解錠業者にKの自宅金庫を開けさせて1538万円の遺産を取得した。Kは事件の4日前に「万が一のとき」のためとして、自宅の鍵を渡しておくことと公正証書や通帳などを金庫に鍵をかけてしまっておくことを頼むメールを送っている。 同年11月、Kは京都府向日市の男性A(当時75歳)と4度目の結婚するが、Aは12月28日に死亡した(起訴案件)。血液からは致死量を上回る青酸成分が検出された。Kは2日後には解錠業者に頼んでAの金庫を開けさせ遺産を取得しようとしたが、不審に思った親族が口座を凍結させたため実際にKが得た遺産は270万円に留まった。事件当日の午前中、KはAの主治医にAが「1週間ほど前に突然下あごと首に激痛が走り七転八倒した」と虚偽の症状を訴え、事件の「事前準備」をした疑いも持たれた。Kは後の裁判で殺害の動機としてAが以前交際した女性には「1000万、2000万円を渡していた」のに自分にはくれなかったことから差別されたと感じたことを挙げた。 2014年(平成26年)夏、Kが処分したプランター内で発見された名刺サイズのビニール袋から高濃度の青酸化合物が検出される。同様の袋がKのマンションからも発見される。 2014年(平成26年)11月19日、京都府警察本部はKをA殺人容疑で逮捕。KはAの殺害について当初は否認していたが、後に「結婚した後、金が自由にならなかったので殺した」と供述。同年12月10日、京都地方検察庁はKを同罪で起訴。 2015年(平成27年)1月28日、大阪府警察本部はB殺人容疑でKを再逮捕。同年2月18日大阪地検はKを同罪で追起訴。再逮捕後の取り調べの中でKがA、B以外の男性の殺害を認めたため、3月に大阪府警、京都府警、兵庫県警、奈良県警による合同捜査本部が設置される。 6月11日、大阪府警察本部などの合同捜査本部は、兵庫県神戸市のC(死亡時79歳)に対する殺人未遂容疑でKを再逮捕。7月2日、大阪地方検察庁は同罪でKを追起訴。 9月9日、大阪府などの合同捜査本部は2013年9月20日に死亡した兵庫県伊丹市のD(死亡時75歳)に対する殺人容疑でKを再逮捕。同月30日、大阪地検は同容疑でKを追起訴。 10月27日、大阪府警などの合同捜査本部は2008年3月に死亡した奈良県奈良市のE(死亡時75歳)と2008年に死亡した大阪府松原市のF(死亡時75歳)に対する殺人容疑でKを追送検。2人とも死亡時に司法解剖されず、病死とされていた。Kは2人に関して「青酸化合物を飲ませた」と容疑を認めたが、有力な物証がなかった。 11月6日、大阪府警察本部などの合同捜査本部は2005年3月死亡した兵庫県南あわじ市の男性G(死亡時68歳)に対する殺人容疑と2013年5月死亡した大阪府堺市の男性H(死亡時68歳)に対する強盗殺人容疑でKを追送検。2人とも死亡時に司法解剖されず、病死とされていた。 11月20日、大阪地方検察庁は被害者E・F・G・Hに対する容疑について嫌疑不十分として不起訴とした。
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事件の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 10:13 UTC 版)
「松山刑務所大井造船作業場脱獄事件 (2018年)」の記事における「事件の経過」の解説
2018年4月8日午後7時ごろ、松山刑務所大井造船作業場から「受刑者が脱走した」と職員からの通報があった。 同8時半ごろ、広島県尾道市の向島で、逃走に使ったとみら盗難車難車が発見される。 2018年4月9愛媛県警県警が逃走の疑指名手配手配した。 2018年4月10日、車上荒らしに遭った車から、容疑指紋指DNANA型を検出される。 2018年4月13日までに、向島の北部で現金などの窃盗被害が計7件あった。 2018年4月17日、愛媛県警が、脱走後に今治市住宅住車で車を盗んだとして窃盗容疑で指名手配。 2018年4月24日、向島北防犯カメラメラ容疑者疑者に似た不審者の姿があった。同日深夜海、海を泳いで逃走している。 2018年4月30日、広島市内で逃走容疑で逮捕された。
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