事件の経過とは? わかりやすく解説

事件の経過

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/01 16:08 UTC 版)

嘉禄の法難」の記事における「事件の経過」の解説

そして、延暦寺僧兵動き出した朝廷許可など出ていない状態で法然廟所襲って破壊したのである。 これに驚いた浄土宗の僧たちは、天台宗僧兵たちが更に法然遺骸鴨川に流すつもりでいるのを聞き信空覚阿中心となって機先を制し22日法然遺骸掘りおこし、嵯峨二尊院に運ぶことにした。事は秘密裏行われるはずだったが、これを聞いた浄土宗信者である蓮生宇都宮頼綱)、信生(塩谷朝業)、法阿(東胤頼)、道弁渋谷七郎)などの出家者や、六波羅探題武士団1000名も集まって遺骸移送護衛についた。そのため、二尊院着いた頃には延暦寺側に動きがばれてしまい、今度証空中心となって28日円空がいた太秦広隆寺境内にある来迎院(現、西光寺)に移し、一旦改葬行った7月に入ると、隆寛陸奥に、幸西壱岐に、空阿薩摩配流され、10月には延暦寺の僧達が入手した選択本願念仏集』の版木延暦寺大講堂の前で焼き捨て依然として天台宗浄土宗圧力をかけ続けていた。 翌安貞2年1228年1月、更に法然遺骸西山粟生にいる幸阿の念仏三昧院(現、光明寺)に運び込んだ。すると、そこで幸阿と円空そろって奇瑞見たというので、丁度法然十七回忌でもある25日信空証空覚阿、幸阿、円空らが見守る中で火葬し荼毘付したこの後遺骨念仏三昧院や知恩院など各地分骨された。

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ロブ小学校銃乱射事件」の記事における「事件の経過」の解説

日時はすべて現地時間2022年5月24日午前1128分、容疑者自宅祖母銃撃後、車でロブ小学校近く側溝突っ込みそのまま車を乗り捨て学校向かったこの際容疑者は車が突っ込む音を聞いて確認に来た近く斎場職員2名に向かって発砲した負傷なし)。 午前1130分、最初911通報午前1131分容疑者が外から教室向けて銃撃開始同時パトロール警官現場到着午前1133分、容疑者学校侵入111及び112教室立て篭もり銃を乱射111112教室内部繋がっている構造)。なお、生存者の証言によれば容疑者教室押し入った際に最初に目が合った教師に対してGood nightおやすみ)」と一言発して教師頭部撃ち生徒達乱射する直前には「You're all gonna dieお前達はみんな死ぬ)」と発したとされる午前1135分、7名の警官現場到着。内3名が容疑者立て篭もる教室近づくが2名の警官銃撃負傷午前1143分、学校側Facebook銃撃事件発生のため学校封鎖したことを発表。この時点では学校内生徒職員は無事であるとしていた。 午後12時3分、19名の警官隊教室へと続く廊下集結。しかし現場指揮官はこの時点において救出必要な者は既にいない判断し突入向けた装備確保するため教室外で待機。だが後述通り教室内にはまだ複数生存者がいた。この対応について警察側事件後「間違った判断であった」と誤り認めた午後12時10分、112教室生存者生徒911通報し複数の死者出ていることを伝える。 午後12時15分、国境警備隊戦術部隊現場到着午後12時16分、先ほど生存者から再び911通報があり、教室内にまだ8〜9人の生存者残されていることを伝える。 午後12時19分、別の生存者から911通報。しかし他の生徒電話を切るように伝えたため通話が切れる。 午後12時21分、別の911通報内にて3発の銃声確認される午後12時36分、先ほど112教室生存者から911に再び通報容疑者ドア撃ったことを伝える。 午後12時50分、国境警備隊員がマスターキー使い教室の鍵を開けて突入容疑者射殺

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政治家の年金未納問題」の記事における「事件の経過」の解説

2004年4月23日小泉内閣閣僚のうち、中川昭一経済産業大臣)・麻生太郎総務大臣)・石破茂防衛庁長官)の後の麻生内閣首相閣僚となる3名が国民年金納付をしていなかったことが判明民主党代表菅直人ヒット曲の「だんご3兄弟にちなんで「未納三兄弟」と揶揄し強く批判2004年4月28日小泉内閣閣僚年金未納問題追及していた菅直人1996年1月から同年10月までの10か月間、当時所管大臣(厚相)であったにも関わらず年金に未加入だったことが判明する(後に行政過失判明社会保険庁の未加入加入期間と訂正した未払い解消せず)。小泉内閣では福田康夫官房長官)、竹中平蔵経済財政金融担当大臣)、谷垣禎一財務大臣)、茂木敏充沖縄・北方対策担当大臣)の4名に年金未納期間があったことが判明する2004年5月7日福田康夫内閣官房長官引責辞任2004年5月10日菅直人民主党代表辞任2004年5月11日年金制度改革関連法案が、自・公・民三党合意衆議院通過2004年5月12日公明党、代表の神崎武法幹部を含む13人の未納議員公表2004年5月13日民主党33人の未納議員公表厚生労働副大臣森英介谷畑孝未納判明2004年5月14日小泉首相任意加入期間の年金加入発覚衛藤晟一衆議院厚生労働委員長未納判明2004年5月17日小沢一郎年金加入時期があったとして、民主党次期代表を辞退する旨を発表した2004年5月26日自民公明両党は、検討進めていた保険料未納者が保険料追納可能にする特例法案の成立断念2004年5月27日坂口力厚生労働大臣国民年金加入任意期)を公表2004年5月27日1986年4月以降年金未納議員氏名公表することを義務つける法案民主党議員提出2004年6月5日年金改革関連法案参議院可決成立2004年7月30日社会保険庁職員300人ほどが私用目的年金未納情報閲覧していたことが発覚し一斉処分が行われた。一部職員マスコミ情報リークしていたことも明らかになった。

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栄丸遭難事件」の記事における「事件の経過」の解説

1945年11月1日午後6時頃、台湾北部基隆港碇泊中の「栄丸」へ、密航警戒中の中国国民党軍目を盗んで乗客乗船始まった。「栄丸」は、戦時中から基隆ドックにあった廃船船体老朽機材寄せ集めて整備した焼玉機関搭載小型船であった乗船には切符必要だった乗船者名簿作成されておらず、直前乗船止めたり逆に飛び乗りをする者もあって正確な乗船者数は不明である。最終的に宮古列島からの疎開者を中心に100人以上が乗り込んだのは確実で、八重山列島関係者も9人以含まれていた。 1日午後7時頃、「栄丸」は、夜陰まぎれて基隆から宮古島出航した45分ほどで港外出たが、波が荒いため渡航断念して引き返すことを決めた。しかし、反転同時にエンジン故障し台湾沿岸400m東シナ海上を漂流する状態に陥った救助求めるために衣類燃やして陸上合図したが、反応無かった故障から4時間半ほど経過した頃に約20戸の万里集落の沖に差し掛かると、海岸から100mほどの地点岩礁乗り上げ繰り返し打ち付ける波を受けて翌朝までに船体崩壊した乗船者次々と波にさらわれて海に投げ出され付近一帯岩礁叩きつけられるなどして多く死亡した万里集落台湾人住民と、同地にまだ駐屯していた日本軍通信部隊が海岸救助活動あたったが、助かったのは海岸泳ぎ着くか打ち寄せられた一部の者だけであった多数遺体海岸打ち上げられたが、遅く漂着した遺体には手足欠損するなど損傷激しい例が多かった遺体は、同じく漂着した船材に油をかけて燃やして火葬された。生存者は、廃屋仮住まいしたり、基隆病院入院するなどし、一部12月にかけて帰国した乗船者数が不明のため正確な犠牲者数不明であるが、ある生存者証言によると全乗船者183人・生存者32人、別の証言によると乗客数172人・生存者32人である。乗客数127人・生存者23人とする証言もあるが、前記2証言と照らすと乗客数172人・生存者32人に由来する誤り可能性がある。また、事件当時引き揚げ支援のため台北市にいて2日朝から遺体収容参加した下地町助役証言によると、死者数105程度であるという。沖縄県生活福祉部援護所蔵の『台湾引揚者調書』(1969年調整)には、本事件関係で89人の死者確認できる

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ヴィネンデン銃乱射事件」の記事における「事件の経過」の解説

犯人2009年3月11日9時30分 (CET) 、ヴィネンデン(Winnenden)にある実業中等学校徒歩向かい学校で銃の乱射行った。この乱射で9人の生徒男性1人女性8人)と3人の教師殺害された。犯人逃走中近く精神科病院職員1人射殺した12時4分、犯人ヴィネンデン自動車ジャックし、運転手南へ向かうよう指示し40 km 離れたヴェンドリンゲンWendlingen)へ向かった自動車警察検問避けようとして衝突事故起こした犯人自動車から出て自動車ショールーム入って銃撃し、セールスマンと客の合わせて2人射殺したその後駆けつけ警察隊と銃撃戦となった警官銃撃犯人の足に1発の銃弾命中したまた、警官2人負傷している。その後犯人遺体見つかった警察によれば自殺とみられている。

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栃木兄弟誘拐殺人事件」の記事における「事件の経過」の解説

2004年9月11日 - 兄弟誘拐事件発生2004年9月13日 - 男(40歳)が未成年者誘拐容疑逮捕される。男は被害者家族同居しており、家主はこの男である。男は2人連れまわしたことを1度認めるが、「わからない」と供述一変する2004年9月14日 - 容疑者2人殺害認めた。その供述通り思川で弟の遺体発見される2004年9月16日 - 兄の遺体も同じ川で発見される2004年9月17日 - 容疑者殺人容疑再逮捕した。 2005年9月8日 - 被告人1審宇都宮地方裁判所死刑判決2006年6月4日 - 被告人東京拘置所病死

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赤報隊事件」の記事における「事件の経過」の解説

朝日新聞東京本社銃撃事件 1987年1月24日土曜日午後8時過ぎ朝日新聞東京本社発生した事件である。当初は、事件発生痕跡が見つからなかったため報道されなかった。朝日新聞阪神支局襲撃事件後になって実際に事件発生していたことが確認された。 後になって行われた実況見分1987年10月1日実施)や朝日新聞社社員証言によると、1987年1月24日午後8時過ぎに、東京本社1階植え込みから建物2階向けて散弾銃を2発発したものと見られる実況見分により、植え込み付近で未燃焼火薬みつかったことから、銃身短く切った散弾銃使われたことが確認されている。 事件当時広告局で仕事をしていた社員数人が、窓ガラスに何かが当たったような音を2度聞いたので、窓の外のテラス出てしばらく外の様子見ていたが特におかしなこともなかったので、そのまま部屋戻った一方犯人は「日本民族独立義勇軍 別動 赤報隊 一同」を名乗って時事通信社共同通信社犯行声明送り付けた。文面どちらも同じもので、ワードプロセッサーによって書かれたものである時事通信社送られ声明書は、1月26日午前9時から10時頃に届き総務部経由社会部回された。社会部は、声明書実物オートバイ便で警視庁クラブ送り、同クラブ公安担当記者がそのコピー警視庁提出した犯行声明書の入っていた封筒の方は、社会部周辺捨てられてしまったので残っていない。一方共同通信社送られた方は、犯行声明入っていた封筒声明文捨てられてしまい、どのように処理されたのかの記録もとられていなかったため、どうなったのかは確認しようがなかった。 朝日新聞社犯行声明について、時事通信社公安担当経由知った。そこで1月28日午後に東京本社警備センター問い合わせて確認行ったが、その時には東京本社だけでなく、大阪名古屋西部福岡本社でも散弾銃発射形跡発見できなかったので、新聞報道をしなかった。また、時事通信共同通信同様に報道しなかった。そのような事情知らない犯人は、自分たちがこれらの報道機関無視されたと思い込み、それが次の朝日新聞阪神支局襲撃事件凶行に及ぶ原因になったとみられる(実際に朝日新聞阪神支局襲撃事件犯行声明文そのこと書かれている)。 犯行声明の中で、犯人自分たちを「日本国内外にうごめく反日分子処刑するために結成され実行部隊」とし、さらに「反日世論育成してきたマスコミには厳罰加えなければならない」「一月二十四日朝日新聞社への行動はその一歩である」「特に朝日悪質である」と朝日新聞激し敵意恨み示しマスコミ標的としたテロ継続示唆する内容だった 朝日新聞阪神支局襲撃事件 1987年5月3日夜に発生した事件で、朝日新聞小尻知博記者(享年29)が殺害され犬飼兵衛記者(当時42歳)が重傷負った現場にいたもう1人高山顕治記者(当時25歳)に対しては、犯人発砲しなかったため無事だった事件発生直前4月後半から5月初めにかけて、阪神支局には夜になると無言電話頻繁にかかって来ていた。 5月3日日曜日)は3連休初日で、当日当番勤務犬飼、小尻、高山の3人で、他にデスク役の大島支局長が出勤していた。襲撃事件起きたのは午後8時15分頃のことである。支局長は3人の書いた原稿本社送ったあと、支局近く寿司店での会合出席しており不在だったが、3人は午後7時ころから支局2階編集室で夕食ビール飲みがらすき焼き食べていた。夕食をほぼ食べ終えていた8時15分頃に、黒っぽいフレーム眼鏡をかけ、黒っぽい目出し帽かぶった全身黒装束の男散弾銃構えて編集室に押し入りソファー座って雑談していた犬飼記者の左胸めがけていきなり発砲した撃ち方腰だめではなく、むしろ射撃撃ち方に近いものだったという。ただ、犬飼記者は、銃床を肩に当ててはいなかったように思うと証言している。「銃声クリスマスの時などに使うクラッカーの音を大きくたような音」がしたという。犬飼記者腹部右手、左ひじなどに約80発の散弾粒が食い込み内出血起こしていたが、左胸のポケットに入れていた皮製の札入れボールペンおかげで心臓から約2ミリメートルまでの際どいところで散弾粒が心臓達すことはなく、一命取り留めた小指吹き飛び薬指は皮1枚つながっているだけでほぼ切断された状態、中指半分ちぎれかけていた。 うたたねをしていた小尻記者発砲音で目が覚めソファーから起き上がろうとした。これに驚いた犯人は、小尻記者脇腹めがけて2発目を発砲した発砲至近距離ら行われており、銃口接するほどだったため、プラスチック製のカップワッズ(直径約2センチメートル長さ約5.8センチメートル)がそのまま体内入り胃の後ろ側で散弾粒が飛散した。カップワッズには約400個の散弾詰まっており、内約200個がカップ内に残り残り飛散した高山記者は、銃声聞いてソファー後ろ隠れたが、犯人一瞬高山記者銃口向けた。しかし、犯人発砲せず、体を反転させ、銃を抱えたまま立ち去った銃身短く切った2連式の散弾銃犯行使われたと推定されており、この時には残り銃弾がなかったため発砲しなかったのだろうと推測されている。高山記者は数秒間呆然としてソファー座っていたが、すぐに110番電話し通報犬飼記者止血などをしている内に、警官2名が到着支局長も戻り、小尻記者担架救急車運ばれていった犯行時間1分足らずの短時間行われ犯人終始無言だった。顔が見えなかったので犯人年齢はよくわからないが、犬飼記者は、身のこなし柔らかさから割と若いのではないか証言している。高山記者は、体つき動作から、20歳から30歳くらいの若さではないか証言している。 小尻記者は、関西労災病院5月3日午後8時40分から翌4日午前1時10分まで治療を受け、手術により輸血、左腎臓摘出脾臓摘出心臓マッサージなどが行われたが手術中心停止起こし回復しなかった。同記者は翌5月4日死亡(殉職により記者のまま次長待遇昇格)、犬飼記者右手小指薬指失った勤務中の記者襲われ死亡するのは、日本言論史上初めであった5月6日には、時事通信社共同通信社両社に「赤報隊一同」の名で犯行声明届いた1月朝日新聞東京本社銃撃明らかにし、「われわれは本気である。すべての朝日社員死刑言いわたす」「反日分子には極刑あるのみである」「われわれは最後一人が死ぬまで処刑活動続ける」と殺意をむき出しにした犯行声明であった。 「小尻知博」および「en:Tomohiro Kojiri」も参照 朝日新聞名古屋本社社員寮襲撃事件 1987年9月24日午後6時45分ごろ、名古屋市東区新出来ある朝日新名古屋本社単身寮が銃撃された。無人居間食堂と西隣のマンション外壁に1発ずつ発砲したその後、「反日朝日五十年前にかえれ」と戦前回帰戦後民主主義全否定戦後朝日新聞への敵意を示す犯行声明文送りつけられた。 朝日新聞静岡支局爆破未遂事件 1988年3月11日静岡市追手町(現:静岡市葵区追手町)の朝日新聞静岡支局(現:静岡総局)の駐車場に、何者かが時限発火装置付きピース爆弾仕掛けた翌日紙袋入った爆弾発見され、この事件未遂終わった犯行声明では、「日本愛す同志朝日 毎日 東京などの反日マスコミをできる方法処罰していこう」と朝日新聞社だけでなく毎日新聞社中日新聞東京本社東京新聞)も標的にする旨が記されていた。しかし、実際に毎日中日の2社を対象とした事件はなかった。 中曾根竹下元首相脅迫事件 静岡支局事件同じく1988年3月11日消印静岡市内で投函)で、群馬県中曽根康弘前首相事務所と、島根県竹下登首相実家脅迫状郵送された。中曾根には「靖国参拝教科書問題日本民族裏切った英霊はみんな貴殿をのろっている」「今日また朝日処罰した。つぎは貴殿のばんだ」と脅迫竹下には「貴殿八月靖国参拝をしなかったら わが隊の処刑リストに名前をのせる」と靖国神社参拝要求する内容だった。 江副元リクルート会長銃撃事件 1988年8月10日午後7時20分頃、リクルート事件世間騒がせていた江副浩正リクルート会長宅に向けて散弾銃1発が発砲された。犯行声明は、その動機を「赤い朝日何度も広告をだして金をわたした」からだとしている。また、反日朝日毎日広告をだす企業があれば 反日企業として処罰する」と企業標的にした内容犯行声明には記されていた。ただし、リクルート社他紙比べ朝日多く広告出していたわけではなかった。 愛知韓国人会館放火事件 1990年5月17日午後7時25分頃、名古屋愛知韓国人会館民団系)が放火される事件発生した犯行声明では、当時韓国盧泰愚大統領を「ロタイグ」と日本語読みした上でその来日反対し、「くれば反日的な在日韓国人を さいごの一人まで処刑」と脅した時効 警察全国的な捜査行ったが、2002年阪神支局襲撃事件2003年には静岡支局爆破未遂事件公訴時効となり、全事件未解決のままとなった兵庫県警察捜査一課西宮警察署連絡要員を置き、時効後も真相解明目指している。捜査資料は、事件関係する人物浮上した時の照合用として保管されている。 朝日新聞社は、時効越えて真相に迫る努力続けてまいります」としている。 法制審議会では、赤報隊事件について「社会重大な影響を及ぼす事件時効適用するのはおかしい」と議論されている。 兵庫県警刑事部長は「時効犯人処罰難しくなりましたが、真相究明の道が全てなくなったわけではなく今後あらゆる機会をとらえ、究明努力続け所存であります」と表明した兵庫県警西宮警察署長は「言論対す暴力許せない行為であります時効迎えていますが、引き続き情報提供呼びかけたい」とコメントした。 小尻記者遺族は「長い間お世話になりましたでも、私たちには時効はありません」、「殺人罪時効はなくていいと思います」、「何年たっても同じ気持ちです。犯人なおさら許すことはできません。この事件時効は関係ありません。早く解決して真相解明してほしいと思います」と話した

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事件の経過

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筑後リサイクル店事件」の記事における「事件の経過」の解説

2003年平成15年4月下旬ごろ、X ・Y夫妻福岡県筑後市リサイクル店を開業。XとYは、従業員商品磨き清掃をさせ、不徹底であった場合、嘘をついた場合、さぼっていた場合などには体罰加えていた。またXとYは、従業員仕事ぶり相互監視させ、問題があった場合には従業員同士体罰加えさせることもあった。XとYが店に顔を出すのは週に1回程度だったが、夫婦不在時は仕事進捗状況10分おきにYに携帯電話報告させていた。 8月、A(事件当時22歳)がリサイクル店で働き始める。その頃Bも従業員として勤務していた。AとBは勤務態度などからXとYによる体罰頻繁に受けていた。 12月、AとBがX・Yアパート住み始める。生活習慣などもXとYに指導され体罰を受けるようになった。Yの指示によりAとBは一方不始末起こす他方体罰を加える間柄させられ喧嘩発展することもあった。また、AとBは罰として食事抜かれることもあり、次第衰弱していった。 2004年平成16年4月ごろ、体罰によりあざが目立つようになったAとBは客の目につかないところで磨き作業させられるうになるこの頃、Aの母はAを訪ねてリサイクル店を訪れたが、XとYは会わせず、Aに貸し付けたという700万円返還をAの母に求め、Aの母はこれを分割して支払った支払い終えた時Aの母はAと会わせるよう求めたところ、XがAと通話状態になった電話渡し、Aは母親「大丈夫」とだけ告げた5月下旬6月上旬、Bが死亡。この知らせ受けて駆けつけたXに、YはAの暴行により死亡したことを告げ、Aも暴行認めた。Bの死を受けてXとYは、Aの体罰をやめ、Aを実家帰すことなどを話し合うが、Aの不始末に妥協できないYにより体罰続けられることになった。YはBが死亡したのはAの責任であることをAに言い聞かせ、A自身捕まりたくないと言っていたため、YはAがBの死を他言することはないと考えていた。 6月下旬、XがAにいつものように体罰加え、Bが浴室反省促したところ、Aはそのまま死亡した。AはX夫妻自宅住み込み始めてから一度自宅に戻ることはなかった。 7月行方が分からなくなっていたAの捜索願をAの親族筑後警察署提出その後3回わたって相談していた。。 2006年平成18年3月、Yの妹とその夫C(事件当時33歳)がリサイクルショップ働き始める。しばらくして、XとYは他の従業員にCが自分能力経歴から横柄な態度とっていると話し、そのためかCは他の従業員とは異なり事務所内の一室隔離された生活を強いられ靴べらゴルフクラブによる体罰受けた8月、Cの妻(Yの妹でもある)がCが事務所一室隔離された生活を強いられる中、息子D(事件当時4歳)を残してYの元を去る。XとYはDを自宅アパート引き取って生活を共にするようになった。Cの妻は1週間ほどでYの元に戻ったが、DはXとYのアパート引き取られたままだった。 9月上旬から10月下旬ごろまでの間、CはXとYによる暴行結果死亡したまた、9月下旬から10月上旬までの間、Dを養育する中でXとYは 2人の意に沿わない態度をとるようになったDに体罰加え始めその結果Dは死亡した2014年平成26年4月11日知人名義消費者金融カード不正に現金引き出したとして、X・Y2人を窃盗容疑逮捕6月16日、Xの「元従業員遺体実家の庭に埋め白骨化した骨を砕いて川に捨てた」の供述に基づき捜索した結果、Xの実家の庭から発見された骨の一部DNAが Aと一致。A殺人容疑でXとYは再逮捕された。 8月6日、C殺害容疑X・Y再逮捕9月7日、D殺害容疑X・Y再逮捕。Dの骨は確認されなかった。 11月14日、B傷害致死容疑X・Y書類送検時効送致)、Yについては1994年ごろの福岡市知人男性当時20歳)に対す傷害致死でも書類送検時効送致)。 検察A事件殺人事件、C、D親子事件傷害致死事件として起訴

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光州事件」の記事における「事件の経過」の解説

1979年 10月26日朴正煕大統領金載圭中央情報部長暗殺される朴正煕暗殺事件)。 10月27日崔圭夏国務総理大統領権限代行に就く。済州島を除く全国に非常戒厳令宣布12月12日全斗煥保安司令官が、戒厳司令官である鄭昇和陸軍参謀総長逮捕陸軍第3軍司令部と、陸軍本部及び国防部襲撃し国防長官をも拘束韓国軍全軍掌握する粛軍クーデター)。 1980年 4月14日全斗煥中央情報部長兼任4月中旬労働者学生民主化要求デモ激しさを増す。 5月14日ソウル5万学生戒厳令の解除早期改憲求めてデモ5月15日10万学生ソウル駅前に集結するが市民呼応少なく学生指導部当局学生意思伝わったとして大学に戻る決定を行う(ソウル駅回軍)。 5月16日光州市5万学生市民参加し民族民主化聖会のためのたいまつ大会」(民主大聖会)が行われる。 5月17日戒厳司令部が非常戒厳令済州島を含む全国拡大5・17非常戒厳令拡大措置)。 5月18日戒厳司令部金大中文益煥金鍾泌李厚洛など26人を騒擾背後操縦や不正蓄財嫌疑逮捕し金泳三自宅軟禁した。政治活動停止言論出版放送など事前検閲大学休校などを盛り込んだ戒厳布告発表同日未明光州市全南大学朝鮮大学陸軍第七空挺旅団三三大隊三五大隊配置される。朝、全南大学校門前でこの空挺部隊学生衝突排除され学生光州駅前で体勢立て直して錦南路をデモ行進し機動隊衝突午後空挺部隊市内各所投入され学生鎮圧400人以上の学生連行され80人が負傷5月19日陸軍第十空挺旅団急派される。デモ主体市民変わり角材鉄パイプ火炎瓶などを使用して対抗5月20日群集20万人以上に膨れ上がり対峙した軍・警察は3万人、(戒厳軍の声明伝えていた)MBC光州文化放送社屋デモ隊によって放火された。バスタクシー倒してバリケードを築くなど、陸軍部隊との市街戦様相呈した5月21日市民亜細亜自動車や、軍需関係工場予備軍武器庫襲撃して、装甲車などの車両銃器TNT爆薬なども奪取し全羅南道庁を占拠した光州での惨状知らせるため、市外に向かうデモ隊一部が、その途中にあった光州刑務所戒厳軍から刑務所奪取だと誤認され、銃撃をうけた。軍は一時撤退した後、光州市外部鉄道道路及び通信回線遮断した5月22日陸軍部隊光州市包囲完了。「市民収拾対策委員会」が組織され、軍との交渉開始したが、抗争指導部は軍との妥協反対し、光州市民側にも「事態収拾派」と「抗戦派」の意見の対立現れ始める。市民に、更なる抗争恐れた離脱者が出始める。 5月23日5万名の市民大会開催5月24日数万名の第2次市民大会の中で開催5月25日5万名の第三次市民大会開催。「光州民主民衆抗争指導部」が抗戦派を中心に結成され、「金大中釈放」「戒厳令撤廃」を要求し最後まで戦うことを決議5月26日陸軍部隊戦車市内侵入開始5月27日数千名の部隊戦車とともに市中心部進出して市内全域制圧抗争派を中心に市民多数死傷者が出る。 5月28日何人も市民逮捕拘留される9月17日、普通軍法会議にて金大中に、内乱予備罪陰謀罪反共法違反国家一級保安違反理由とする死刑判決言い渡された(後に無期懲役減刑)。

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事件の経過

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アマルガス号事件」の記事における「事件の経過」の解説

海洋汚染被害受けた龍坑生態保護区交通の便悪く、また珊瑚礁群生地であったことから珊瑚礁及び岩石重油入り込み、また東北季節風時期に当り海上時化模様であり、協力のため出港した中油公司船舶がアマルガス号に接近できないなど海上での行動大きな支障来たした。そのため環保署は軍の出動要請したが、軍船舶も時化のため出港できず、僅かに海岸人力による善後策講じられるに過ぎなかった。そうした中でも船主チャーターした救難船により2月3日までに217.6トン流出重油回収された。 2月6日、環保署は複数行政組織による対策チーム組織し内政部交通部国防部海巡署、農委会、屏東県政府中油公司などと協力し対策計画関連協議行なった海岸重油汚染2月16日まで合計1万人を投入し462トン除去した2月17日から3月24日までは2千人投入し礁岩の重油除去行い513トン除去、更に3月25日から5月18日にかけて35千人投入し高圧放水により549トン除去するなど、合計3500トン重油除去行なった船主による船舶残され燃料除去作業3月5月6月行なわれ合計148.8トン撤去し6月12日完了した燃料除去作業完了以前屏東県政府船会社対し1日当り150NT$罰金課し、それは98日にも及んだ重油除去及び燃料撤去作業完了後、交通部7月2日事故海域事故船撤去チーム組織した積荷鉄鉱石除去し10月16日にアマルガス号を水深1000メートル海域移動させた上で沈没させ作業完成させた。

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乙巳士禍」の記事における「事件の経過」の解説

1544年11月中宗死去すると、世子29歳即位し仁宗となった仁宗生母産褥生後直ぐに死去したため、継妃であった文定王后育てられた。文定王后実子で、仁宗異母弟慶源大君(後の明宗)はこのとき11歳であった中宗代の晩年政治実権めぐって仁宗伯父尹任朝鮮語版)の率いる大尹派と文定王后次弟尹元衡中心とする小尹派とが、ことごとく対立していたが、仁宗即位により大尹派が優位となった仁宗は、その短い在位期間中に己卯士禍被害にあった趙光祖士林派の名誉回復をはかり、自らも道学政治標榜して士林派登用推進したが、即位後わずか9か月足らずで、原因不明急病死去した仁宗急死については、当時から継母である文定王后による殺害説がひそかに囁かれてきたが、真相歴史の闇に葬られた。 仁宗死によって後ろ盾失った大尹派に対し、幼い国王明宗とその生母文定王后明宗成年達するまで、評判の悪い垂簾政治行った)に擁護された小尹派の中心人物尹元衡は、策略駆使しながら口実設けて尹任灌、仁淑らの大尹派の首領自決追い込み、彼らに追随した多く士林派官僚たち配流した。そのために乙巳士禍呼ばれる

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五霞町女子高生殺害事件」の記事における「事件の経過」の解説

7月6日 正午過ぎ、自宅にいた父親に「午後8時すぎぐらいには帰ってくるから」と言い残して外出バイト先同僚と、草加市内で買い物食事をする。 別れたあと、夏祭り会場となる瀬崎浅間神社に行く。 午後8時頃、露天会場内にいた氷売りのアルバイト店員意気投合し売り込みなどを手伝っていた。 午後9時10分頃、被害者携帯電話着信、何か会話があり、別れる。これ以後足取り途絶える午後10時頃、被害者携帯電話がつながらなくなる。 7月9日 午前9時45分頃、被害者遺体が、散歩中の近所の住人によって発見されるその後 テレビで遺体の発見報道報道見た家族警察問い合わせ身元判明する

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奈良長女薬殺未遂事件」の記事における「事件の経過」の解説

まず、加害者略歴と、事件経緯時系列順に示す。 1957年 奈良県天川村で、4人姉妹次女として生まれる。 父親アルコール依存症で、加害者はその父親から近親姦受けていた。また、複数男性からも性的虐待受けていた。 1981年 看護師男性結婚以後、3人の子供(長男長女次女)を儲けた1993年 夫と離婚その後両親子供3人とともに奈良市内団地住んでいた。 1997年 長男次女相次いで死亡。 その直後、彼女は自殺を図るが未遂に終わる。 2000年 父親不審死その後母親不審死長女の件で7月16日逮捕長女には3000万円の保険金かけられていた。硫酸サルブタモールとは気管支拡張剤であり、長女3月頃から連日服用させ続けられていたと考えられている。 加害者には解離性障害疑い持たれ責任能力有無問われた。 2002年3月15日精神鑑定では「代理ミュンヒハウゼン症候群疑いで、責任能力認められる」とされたが、家庭環境による情状酌量余地があるとして減刑された。長女殺人未遂のみで裁かれ懲役3年の実刑判決を受け、刑は確定したその他のに関して証拠不十分となった

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カティフの強姦事件」の記事における「事件の経過」の解説

2006年 18歳女性が7人のサウジアラビア人の男性輪姦され事件の4ヶ月後に裁判所訴え出た2007年11月16日 サウジアラビアカティフ裁判所強姦被害者女性対し親族以外の男性と車に同乗したことが姦通罪に当たるとして禁固6ヶ月鞭打ち200回の有罪判決言い渡した姦通罪法廷刑罰鞭打ち100回であるが、被害者女性報道機関利用して司法挑発した罪により法廷刑罰の2倍が宣告されている。 被害者女性弁護をしたアブドゥル・ラハマン・アル=ラヒム弁護士(ar:عبد الرحمن اللاحم)は、資格剥奪されそうになった2007年11月19日 米国務省報道官は、事件について直接的な批判をしなかった。 2007年11月25日 サウジ法務省は、レイプ被害者女性姦通罪有罪判決下された問題について、問題女性の服装事件誘発した主張する声明発表した2007年11月26日 サウジサウード外相は、事件についてオカーズ新聞不当判決であるとの意見表明した2007年11月27日 サウジサウード外相は、事件についてサウジ司法府本件見直べきであるとの意見表明した。 その一方でサウード外相は、この問題サウジ政府国民対す攻撃利用されていると表明した2007年12月4日 アメリカブッシュ大統領は、サウジ強姦被害者女性親族以外の男性と車に同乗した罪で有罪判決受けた問題について裁判所批判した2007年12月17日 サウジアブドッラー国王は、姦通罪有罪判決受けた問題について恩赦与え無罪放免した。

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埼玉県所沢市ガソリンスタンド店員放火殺害事件」の記事における「事件の経過」の解説

2010年8月 12日午前4時分頃、ガソリンスタンド事務所燃えているのを通行人発見し119番通報する同日午前4時30分、消防隊員事務所火事消し止めたその際所沢警察署員も駆けつけており、男性事務所の外で倒れているのを発見病院搬送17日重傷だった男性が、全身やけどにより死亡2013年 2月14日強盗殺人現住建造物等放火疑い元従業員逮捕3月6日元従業員強盗致死罪起訴2014年 3月17日さいたま地裁開かれた裁判員裁判で、元従業員求刑通り無期懲役判決9月17日東京高裁一審判決破棄懲役30年判決

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アッティカ刑務所暴動」の記事における「事件の経過」の解説

1971年9月9日の朝8時20分頃、囚人4つの班が点呼のため集合させられた。このとき囚人たち先日ほかの囚人揉め事起こした1人囚人独房戻されたことに気付き監禁の後拷問を受けるといううわさが広がった同様の拷問を受けることを懸念した一部囚人がこれに抗議し独房戻った。このとき囚人たち先に監禁され囚人解放し朝食に向かう囚人追いついた。この直後1人刑務官何が起こった気付き捜査開始しようとした矢先囚人襲われ暴動始まった囚人たち鉄パイプチェーン野球バット看守襲撃し42人の所員民間人人質取り、彼らの不平要求書いたリスト公表した

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二月騒動」の記事における「事件の経過」の解説

時宗執権就任から4年後の文永9年1272年2月7日鎌倉騒動があり、2月11日名越時章・教時兄弟得宗被官である四方田時綱御内人によって誅殺され、前将軍宗尊親王側近であった中御門実隆が召し禁じられた。4日後の2月15日、京において前年12月六波羅探題北方就任していた北条義宗が、鎌倉からの早馬を受け、同南方北条時輔討伐した。多く人々戦闘死に、また事件連座して六波羅探題にあった安達泰盛庶兄安達頼景所領没収され事件とのかかわり明確に分かっていないが、同年渋川義春世良田頼氏佐渡流罪前将軍宗尊親王出家した。なお、北条時輔逐電したとの説もある。 間もなく名越時章異心はなく誤殺であったとされ、その結果討手である御内人5人は責任問われ9月2日斬首された。時章の子公時所領安堵された。教時への討手には罰も賞もなく、人々笑いものになったという。 この事件に関して出され2月11日付の二通関東御教書によると、討伐主体執権時宗連署北条政村であり、名越兄弟幕命として前もって準備され上で、「謀反」として討伐されている。

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林健太郎監禁事件」の記事における「事件の経過」の解説

当時学園紛争によりバリケード封鎖されていた東大では、11月1日事態の収拾失敗した大河内一男総長下学部長全員辞任し加藤一郎総長代行中心とする新執行部誕生した文学部では五味智英教授経て文学部教授学部長就任した。 それに対し文学部全共闘は、学生との交渉拒否した大河内総長辞任認めず、従って林学部長の就任認めないという立場をとった。このとき全共闘は、学生大学側の「交渉」のことを、本来は労働組合雇用者側との間で行われる交渉である団体交渉因んで大衆団交」、略して団交」と呼んだが、この語は以後各地起った学園紛争学生側が使う常套句一つとなった11月4日全共闘学部長以下教授数名文学部第二号館に呼び半ば強制的な団交」を行った全共闘側は学部長就任撤回学部長選出時等に行われる教授会討議内容公開学生処罰禁止などを主張し受諾迫った。しかしらは教授会決定自分たちの一存では撤回できないし、学生処罰はしないなどという約束できない一貫してこれを拒否このため団交延々と続き、翌5日にはそのまま館内カンヅメにされた状態となった。 事態何の進展見せ気配もないまま数日間が過ぎると、三島由紀夫阿川弘之らの作家文化人救出訴えて全共闘糾弾、また警視庁機動隊による救出計画するなど事態深刻化した。 一方は、全共闘求めた度重なる団交には嫌な一つ見せず応じ、そこで彼らの要求屈するどころか逆に学生議論挑んで次々と論破。四回目団交では学生の中から自由を拘束した形での交渉とそれをかたくなに強要する全共闘批判する意見が出るまでになった結局8日後に解放され東京大学医学部附属病院搬送されたが、この間少しも妥協することなく全共闘との対話続けた。その姿勢当の全共闘後日雑誌などでこれを称賛する内容談話発表するほどのもので、は「全共闘負かした教授」として一躍世に知られることとなったは後に東大総長をへて参議院議員になっている

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烏坎事件」の記事における「事件の経過」の解説

改革開放後中国においては、集団農業組織としての人民公社廃止され土地村民委員会管理することになっているが、土地処分などの問題については、成人全村民が参加する村民会議承認することが必要である。しかし烏坎においては村民委員会村民会議に諮らず、役員だけで勝手に取り決めたとされる。しかもこれらの土地には7億元余り代金支払われたにもかかわらず村民には1人当たり500元(全村400余り)の補償金支給されたのみで、残り村民委員会役員など着服した推測された。これらの土地取引疑問抱いた烏坎青年20名余は2009年から2011年にかけて、陸豊市政府陳情局に10数回にわたり「信訪」(中華人民共和国においては個人または組織等が、国家機関対す文書提出または直接訪問により、請願陳情苦情申し立てることを「信訪」という)を繰り返していた。2011年夏ごろからデモ行進組織するなど、抗議行動エスカレートしていた。9月21日には3000名近い村民デモ行い開発業者村民委員会市政府の事務所などに請願訪れ一部道路封鎖するなどした。その日はそれ以上騒動は起こらなかったが、翌日武装警察特別部隊100名余が村内進駐し、集会参加していた村民女性子供を含む)を威嚇して解散させようしたため激し衝突発生した村民警察とも10数名負傷者発生し警察は4名を拘束した。この事態を受け、陸豊市東海鎮の政府村民代表で話し合いが行われ、陸豊市副市長調査班を派遣して調査する約束し村民もこれを受け入れひとまず自体収拾した。村民たちはこの調査進行状況監視するため、烏坎村民臨時代表理事会を立上げ13名の理事選出した。しかし、烏坎派遣され調査班の責任者大量土地購入した開発業者親戚であったためもあり、調査はなかなか進まなかった。11月21日から三日連続市庁舎の前で座り込みが行われた。12月9日になって、ようやく汕尾市政府記者会見開き調査結果報告したが、そこには以下のような事実含まれていた。 烏坎支部書記および副書記に党紀違反があったことを認め両名解任した。 陸豊市政府11月17日村民から要求のあった土地問題全て処理し終え問題解決した同日公安機関上述理事会非合法組織認定し、薛錦波副会長ら5名の関係者逮捕した12月10日、この報告内容激怒した村民たちは、調査責任者親戚経営する牧場押しかけ警備にあたっていた武装警官隊激しく衝突した警察包囲し村民側もバリケードを築くなどして自衛して実質孤立した12月11日拘束され取り調べ受けていた薛錦波副会長様子急変し病院搬送されたが死亡したとの発表がされると、双方対立抜き差しならないものとなった警察への水道電気食料供給断ち兵糧攻めを行うとともにメディアに入ることを禁じた村民側は、インターネット携帯電話ミニブログ中国版ツイッター)などを利用して村民主張全国および全世界訴えた村民側は逮捕され理事会メンバー釈放ならびに薛錦波の遺体引き渡し求めて青年600名で組織する部隊によるデモ敢行する発表した12月20日汕尾市政府関係者が烏坎入り村民要求受け入れ代わりデモ中止するように求め村民もこれを受け入れ、3か月におよぶ烏坎混乱はようやく収束した2012年2月には村民代表の選挙3月3日には新し村民委員会選任するための村民全員による直接選挙それぞれ実施された。

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朝木明代市議転落死事件」の記事における「事件の経過」の解説

特に出典記載がないものは下記文献出典としている。 東京地裁判決救急隊判決)(『創価新報事件判決)[要出典] 宇留嶋瑞郎 『民主主義汚染-東村山市転落日本暗黒ユニコン企画1998年ISBN 978-4930695802。 乙骨正生怪死-東村山女性市議転落死事件教育史料出版会1996年ISBN 978-4876522927。 矢野穂積朝木直子東村山の闇』 第三書館2003年ISBN 978-4807403332。

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事件の経過

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政党本部推参事件」の記事における「事件の経過」の解説

中溝らは「全国民告ぐ」に呼応し第1段階として政党解消のために動き出した中溝らは東京の2箇所屯所設けそこに団員常駐させ、そこから各政党代議士元へ団員派遣し政友会民政党解党勧告を説かせた。 しかし効果がなかったことから、中溝らは実力行使出て1938年(昭和13年)2月17日午後団員六百人を動員して政友会本部民政党本部押しかけ挙国一党実現のための解党とそのための新党樹立要求し政友会本部一時占拠した民政党本部襲撃組は途中で阻止されたため未遂である。占拠から10時間後に警視庁全員検挙中溝逃走した3月18日自首し事件収束した一方政治の側にもこの事件関係したと見られる人物何人かいる。事件計画には久原房之助関与したではないか指摘されており、実際に久原配下だった政友会衆議院議員津雲国利西方利馬の2名が事件除名されている。

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事件の経過 (1692)

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ジョン・ウィラード」の記事における「事件の経過 (1692)」の解説

5月10日逮捕令状発行され逃亡する逮捕5月18日ジョン・ウィラードによる審査6月3日大陪審正式に魔術使用容疑による起訴承認8月5日有罪として死刑宣告8月19日絞首刑執行

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事件の経過

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対馬丸」の記事における「事件の経過」の解説

ボーフィン (潜水艦)#第6の哨戒 1944年7月 - 9月・対馬丸」も参照 8月21日1835分、対馬丸暁空丸和浦丸構成されナモ103船団台風接近による激し風雨の中、宇治護衛受けて長崎向けて那覇出港する対馬丸には民間人および那覇国学校児童介添者を合わせた1,661名(1,667名、1,788名の説もある)、上海から転送中の乾繭1,775ゴマ1,000乗せていた。また、当時乗組員86であった。他の2隻も疎開者を乗せており、船団最優秀船の和浦丸には学童疎開者だけ1,514名、鹵獲船の暁空丸には一般疎開者だけ約1,400名が乗船した対馬丸乗客多くは、軍隊輸送船として兵員収容区画改装されていた船倉居住することになったが、階段一つと緊急用縄梯子があるだけの出入り困難な状態であった児童たちの対馬丸船内での様子はさまざまで、「まるで修学旅行でも行くかのように」、甲板出て和浦丸眺めたり、「先生ヤマトに行くと見られるでしょう」とまだ見ぬ思いをはせる者、船酔いになるも一晩回復した者、一晩中寝ず騒いだ者などもいた。手空き対馬丸乗組員児童たちとつきあい、「戦争の話や、前に遭難して助かった話などをした」。 一方アメリカ潜水艦ボーフィン (USS Bowfin, SS-287) は7月16日6回目哨戒真珠湾出撃して東シナ海行動しており、8月10日朝には南大東島停泊中の機帆船2隻を雷撃破壊していた。その後奄美大島徳之島伊平屋島与論島近海哨戒行った8月19日朝には沖縄本島北西海域前述の609船団発見しており、浮上攻撃試みるも逃げられている。8月20日漁船見たのみで、8月21日久米島北西海域哨戒行ったアメリカ海軍暗号解読などによって、ナモ103船団予定航路おおよそ把握していた。8月22日4時10分頃、ボーフィンレーダーナモ103船団探知するボーフィン潜航状態で観測行ったが、哨戒機2機が「機械的な旋回飛行」しかしなかったとはいえ常時張り付いていたことと、強烈なジャミング発していたことから「重大任務の船団」と識別して夜間攻撃を行うことに決めた8月22日迎えたばかりの対馬丸船長室では、西沢武雄船長陸軍少尉輸送指揮官との間で激論交わされていた。西沢船長はこの航路の危険を熟知していたので、ジクザグコースを取る事を主張していた。しかし輸送指揮官は、船団から離れる危険や、到着遅延への懸念の方を重く見て直線での航行主張し結局「軍の命令ということ直線コースをとった。その頃10時34分に浮上したボーフィンナモ103船団見失っており、全速予想針路へと急行することとなったボーフィンが再びナモ103船団レーダー捕捉したのは12時54分頃で、彼我の距離はおよそ42,000ヤード(約38キロメートル)から45,000ヤード(約41キロメートルであったボーフィン速力調節しながらナモ103船団との距離を十分に保ちつつ触接続けた1958分、ボーフィンナモ103船団への攻撃地点平島諏訪之瀬島間の海峡の手前と決め2130分に攻撃予定時刻設定の上全速力攻撃予定海域へと向かった。夜を迎えた対馬丸船内では、引率教師児童たちに救命胴衣着用指示し児童のうち3分の1上甲板上のいかだに寝場所をこしらえて寝ることとなった前日の夜とは違いがぱらついてきたので船倉移ったり、疲れ前日ほどの元気のない者がいた。 一方ボーフィン2053分頃には平島後方6マイルに、諏訪之瀬島左舷前方8マイルに、悪石島右舷前方6マイルに臨む海域到達したボーフィンからは対馬丸暁空丸がしばし重なるように見え2122分にはついにナモ103船団全貌視界内にとらえることとなったボーフィン攻撃方法水上攻撃とし、まず艦首発射管からの魚雷対馬丸暁空丸およびに対して発射し面舵方向転換した後、艦尾発射管からの魚雷和浦丸宇治に対して発射するという攻撃プラン組み立てた22時9分、ボーフィンは距離2,800ヤード(約2.6キロメートル)で艦首発射管から魚雷6本を発射し予定通り面舵方向転換した後、艦尾発射管からの攻撃備えたボーフィン観測によれば約1分後、魚雷は「対馬丸暁空丸双方に2本ずつ、に1本命中して対馬丸早くも沈み始め粉砕された」というが、実際に被雷したのは対馬丸だけであった攻撃され対馬丸見張員が魚雷発射確認し、ただちに反撃砲撃とりかかろうとした。船橋では西沢船長が「取舵一杯、両舷全速前進」を下令した。しかし、いずれの効果もほとんど示さぬまま魚雷接近し1本は対馬丸船首前方をかすめ去ったが、続く3本魚雷対馬丸第一第二第七船倉左舷命中した間を置いて別の魚雷1本が対馬丸第五船倉右舷命中魚雷命中による夥しい海水流入縄梯子はほとんど流され階段もすぐに海水つかって使えなくなった階段いち早く登った者は、暑さに耐えかねて既に甲板上がっていた者とともに船倉から脱出できた。 西沢船長は「総員退船」を令し引率教師はなかなか起きない児童を蹴っ飛ばしてまで起こし、何名かの対馬丸乗組員とともに梯子を登らせようとした上手くいかず、何人かは梯子踏みはずして下に転落する有様であった脱出した者の中にも舷側が高すぎたため、恐怖から海に飛び降りることができなかった者が大勢おり、対馬丸乗組員何人かの児童ブルワークから引き離して海に放り投げた一方配られ救命胴衣大きすぎたことでうまく使いこなせ溺れた児童もいた。煙突の方を見れば児童背負った女性が4名から5名ばかり登っていたが、煙突崩落とともに海中転落した魚雷命中から11分後の2223分頃、対馬丸は大爆発起こして沈没した。船の爆風救命ボート転覆し生存者台風襲来の中、筏で漂流しながら救出を待つことになった漂流は、風雨三角波眠気真水への渇望錯覚等との戦いでもあった。ボーフィン船尾発射管から2本の魚雷発射して1本の命中対馬丸確認をした後、横当島方向へと移動していった。 暁空丸和浦丸護衛宇治全速力危険海域から姿を消していった。他船が救助活動を行わなかった理由として、9ヵ月前の1943年昭和18年12月21日未明に、対馬丸沈没した海域程近い北緯3026東経12956分 / 北緯30.433度 東経129.933度 / 30.433; 129.933の地点発生した、沖903船団事件挙げられる。沖903船団は、奄美大島名瀬港出航した後、アメリカ潜水艦グレイバック (USS Grayback, SS-208) の魚雷攻撃によって貨客船湖南丸大阪商船、2,627トン)が轟沈。そして湖南丸生存者救助にあたるため、停止していた特設捕獲網艇丸(宇和島運輸515トン)も、またグレイバック魚雷撃沈され、湖南丸船客683名のうち、丸に一旦救助された者も含めて576名と、その他乗員死亡した。そのためナモ103船団の他船は、漂流者救出断念してその場去り数日後目的地長崎港着いている。 また、当時アメリカ潜水艦は3隻程度ウルフパック組んで行動していることが多く護衛不足の船団では二次災害防止のため残存船を逃がすのが最善の策であった海域を去る際に爆雷攻撃行ったが、浮上攻撃ボーフィン対す攻撃としては意味がなかった。北上していた台風は、大東諸島方面逸れた犠牲者遺体多く奄美大島大島郡宇検村などに流れ着いたため、現地には慰霊碑建立されている。生存者多くは、トカラ列島無人島漂着したり、嵐がやんでから軍から連絡受けた鹿児島県奄美大島揖宿郡山川町(現:指宿市山川町)などの漁船救出された。最も長い人は10日間の漂流強いられた漂流中、対馬丸小関一等運転士10名ぐらいの児童乗ったいかだにつかまり漂流している児童を見つけてはいかだに乗せていた。小関運転士児童に対して、腰まで浸かりながらもあえて座ることとかたまることを指示する小関運転士一団台風翻弄されながらも必死に耐え、8月23日15時ごろに漁船2隻に救助された。この2隻の漁船救助されたのは児童民間人83名、兵7名、乗組員21であった他方対馬丸高射砲受け持ちであった吉田薫砲手児童3名といかだで漂流し軍歌歌ってしばし気を紛らしたがやがて体力衰微とともに児童2名が相次いで死亡するという「忘れられ悲痛」を体験した後、生き残った児童とともに8月24日救助された。8月24日救助されたのは児童民間人90名、兵13名、乗組員33であった最終的に乗員乗客合わせて1,484名が死亡しこのうち対馬丸乗組員西沢船長以下24名が対馬丸運命をともにした。一方で生き残った児童わずかに59名だった。関連資料によっては60とされることもある。対馬丸生存率学童7%、一般疎開者)14%、軍人48%、船員72%とする資料もある。

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事件の経過

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尖閣諸島戦時遭難事件」の記事における「事件の経過」の解説

1945年昭和20年6月24日石垣島住民対し24回目となる台湾疎開希望者の募集がされた。台湾へ物資受け取りに行く独立混成45旅団水軍隊」所属船往路使った輸送であった6月30日夕刻石垣港乗船始まり、友福丸(軍呼称:「第一千早丸」)と一心丸(軍呼称第五千早丸)の焼玉エンジン搭載小型船2隻に約180人が乗り込んだ乗船者のほとんどは女性子供で、男性高齢者少数朝鮮人台湾人少数いた。乗船者数を各120程度の約240人とする回想もある。 船団空襲避けためになるべく夜間航行選び6月30日7時頃に石垣港から台湾基隆港目指し出航7月1日午前2時頃に経由地である同じ八重山諸島西表島船浮入った昼間碇泊して7月1日夜に航行再開する予定であったが、友福丸エンジン故障のため出港延期し7月2日午後7時船浮出た船団台湾直進ではなく尖閣諸島付近まで迂回した欺騙針路進んだ船団数時間基隆入港予定という7月3日午後2時頃、定期哨戒中のアメリカ軍機(日本側ではB-24爆撃機判断)1機によって発見されてしまった。アメリカ軍機は船団側方から3回爆弾投下機銃掃射行い、さらに船尾方向から航過しながらも機銃掃射1回加えた日本側は機関銃応戦したが、効果無かった船上では一心丸の宮城三郎船長以下死傷者続出し銃弾割れた瓶から味噌流れて血と混じる惨状となった一心丸は船体中央部爆弾命中して炎上沈没、友福丸機銃弾でエンジン破損して航行不能となったアメリカ軍機は、友福丸沈没するものと判定しつつ立ち去った。友福丸から伝馬船降ろされ救助作業が行われたが、乗船者には体力劣り泳げない者も多かったため相当数溺死した。 友福丸浸水しながらもかろうじて沈没免れ有り合わせの布をつなぎ合わせて帆を張り、翌7月4日朝にはエンジン再始動できた。乗船者中に尖閣諸島古賀商店鰹節製造事業携わった経験者がいたため、尖閣諸島へと向かうこととなり、4日午前9時半頃に魚釣島到着した。このとき尖閣諸島には、本船団とは別に遭難して漂着した日本兵6人がおり、合流している。 上陸当初は米や鰹節など乏し食糧出し合って野草入り雑炊にする協同炊事が行われたが、1週間から2週間ほどで打ち切りとなり、以後各自食糧集めた魚釣島には淡水が湧くため飲料水には困らず、石垣島民に別名で「クバ島」と呼ばれるほど食用樹木ビロウ地方名クバ)も豊富だったものの、100人以上の食糧としては不十分だったネズミヘビ生息していたが、動き素早くて捕まえられなかった。サクナ長命)などの野草や、磯辺獲った小魚ヤドカリなどで命をつないだ体力低下激しく数人餓死者が出た毒草食べて苦しむ者もあった。B-24爆撃機も島に連日飛来したが、幸いに死傷者は出なかった。 救援を呼ぶために一部の者が友福丸出発したが、すぐに機関故障起こして航行不能となり、やむなく船体放棄して伝馬船島へ戻ったその後、手漕ぎサバニ作って救助を呼ぶことが計画された。遭難者中にいた船大工1人陸軍工兵中心に海岸にあった難破船残骸資材として建造進められ10日ほどで全長5メートルサバニ完成した陸軍兵と船員経験者ら8人の決死隊編成され出発直前強く希望する主計准尉1人加えて8月12日午後5時頃に石垣島目指し出発した帆走と漕走で進んだ途中で3度敵機遭ったが、攻撃は受けなかった。8月14日午後7時頃に石垣島川平湾へと到着川平駐屯日本軍部隊経由して独混第45旅団司令部連絡がされた。 8月15日事態知った独混第45旅団要請を受け、台湾所在日本軍機が魚釣島飛行乾パンと金平糖パラシュート投下した石垣島からも独混第45旅団水軍隊の長谷川少尉指揮する2-3隻の救助船軍医乗せて出発し終戦の日後である8月18日到着した救助船魚釣島所在生存者収容し19日午後に石垣島へと帰還した救出されたにもかかわらず急に多量食物摂取したことによる消化器疾患や、助かったと言う安堵感により死亡した者もあったという。 また、救助船到着時に南小島(別名:トリ島)へ食料採取に出かけたまま帰島不能消息不明になっていた者が6人あり、取り残されてしまった。6人が魚釣島戻ったときには救助船去った後で、うち2人その後病死した。残る4人は、11月家族雇った台湾漁船によって救助された。 犠牲者数について諸説あるが、『沖縄県史』の統計表では乗船者180人余のうち死亡75人、『琉球新報によれば救出までの死者70人・救出後衰弱死20人近くとされている。このほか、少な数値では戦死者45人・餓死者8人、多い数値では約240乗船半数死亡とする回想もある。また、沖縄県史』では、八重山諸島住民戦闘死者総数179人のうち、船の沈没による死者総数37となっている。

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イースタン航空シャトル1320便ハイジャック事件」の記事における「事件の経過」の解説

1970年3月17日午後7時30分ごろ、ニュージャージー州ニューアークからマサチューセッツ州ボストン旅客乗せて飛行していた1320便で、.38口径リボルバー携えた犯人の J. Divivo がハイジャック実行移したアメリカ空軍パイロット出身35歳機長Robert Wilbur Jr.は6か月前に機長昇格したばかりだった。彼は腕を撃たれたが、銃撃発生救急車要請管制塔伝えて着陸向けて操縦続けた副操縦士James Hartley30歳)は犯人からいきなり撃たれるになった。彼は重傷負い一度倒れたものの、犯人から銃を奪い取り3発の銃弾撃ち返した。その後副操縦士は再び意識失い最終的に回復することなく亡くなった犯人座席の間に倒れた後、墜落追い込むべく起き上がって機長這い寄り始めた機長センターコンソールから取り出した銃で犯人の頭を殴打した。1320便はローガン国際空港安全に着陸しハイジャック犯は直ち逮捕された。1970年10月31日裁判控えていた犯人ボストンにあるチャールズストリート拘置所で首を吊り自殺した

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民生団事件」の記事における「事件の経過」の解説

1930年 10月10日中共満州委員会指示により、現在の間島省延吉県(現・延吉市)で「中共東満特別委員会」が組織される延吉琿春和龍汪清敦化安図撫松樺甸、額穆、長白など10県の党組織指揮1932年 3月13日延吉県小母鹿溝の民生団員の家が共産党員20余りにより襲撃される3月24日、局子街(現・延吉市街)近郊民生団員7名が共産党員により殺害される5月以降民生団に反対するビラ間島各地でばら撒かれる8月、宋おじいさん老頭溝の日本軍憲兵隊に捕まるも一週間後に「逃亡」してきた。これを疑わしく思った中共老頭区委員会は宋おじいさん延吉県農民協会創刊した「農民闘争報」の印刷作業をさせ、その様子を観察10月16日延吉県細鱗附近活動していた延吉県抗日遊撃隊日本軍憲兵通訳ら3人を発見しその場憲兵射殺捕えるは宋おじいさん日本スパイであると自白逮捕された宋おじいさんは自らを民生団員認め組織朝鮮人幹部らをスパイ自白中共東満特別委員会は宋おじいさんがあげた20余り逮捕し処刑した。(宋おじいさん事件1933年 3月中共東満特別委員会組織部長の金聖道和龍漁浪抗日遊撃隊派遣し、反民生闘争展開させる清算委員会は平崗区農民協会責任者化春を逮捕し査問経ず処刑。これ以後和龍抗日遊撃隊内で反民生闘争全面的に展開され2、3ヶ月の間に数十人が粛清される。 5月中共東満特別委員会機関紙『両条戦線』で反民生闘争理論化体系化する。 5月民生団員とされた李龍国・汪清県委員会書記が、ほか10とともに銃殺される。 6月中共満州委員会吉東局常任委員の潘慶由(朝鮮族 ?-1933年7月)と楊波が汪清県汪清根拠地で、中共東満特委書記の童長栄(1907-1934)と会見中共中央の「1・26指示伝達その後に潘慶由らの主催開かれた汪清県第1次拡大会議で、汪清県委員会書記用国と県委軍事部長の金明均を民生団員として査問9月中共東満特別委員会第1次拡大会議開催以後、反民生闘争がさらに過熱する。「民生団の親玉」とされた金聖道は「誤り犯した民生団員ではない」と手を噛み切り、「民生団ではない」と血書を残すが処刑される10月汪清県委員書記金権一が民生団員として逮捕銃殺される。 1935年 1月民生団員疑われた韓英浩が拷問に耐えきれず、東北人民革命軍第2軍独立師第1団3連連長の春和と独立師長鎮らを民生団員自白民生団との嫌疑をうけた東満特別委員会組織部長の相黙が脱走する。(韓英浩事件2月17日鎮が逃走その後鎮の部下40余り民生団員とされる2月24日~、大荒会議開かれ民生問題討議3月民生団員疑われ宋一・汪清県書記中共東満特別委員会粛反委員会主席宣伝部長が殺害される4月1日脱走した相黙・元中共東満特別委員会組織部長が「敬愛する琿春県鮮人党員諸君」と題した文章で漢族幹部批判。 「我等過去に於いて革命戦線に立ち、中共工農のため死力尽して理想実現努めた然し乍ら中共党は呉々何を与へたか。反動分子といふ貧弱なる名称を与へたのみに非ずや。現今中共党は過去に於ける朝鮮人光輝ある奮闘努力史を奪ひ、中国人歴史移転しやうとしている」 8月1日中共が「抗日救国のために全同胞告げる書」(8・1宣言)を出す。各民族協力して抗日闘争することを呼びかける1936年 2月寧安県東北人民革命軍第2軍第5軍中共東満特別委員会の連席会議を開く。反民生闘争誤り認める。 3月3年半にわたる民生闘争終了

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ヒンデミット事件」の記事における「事件の経過」の解説

1934年当時ドイツ国家社会主義ドイツ労働者党ナチス)の一党支配下にあり、強制的同一化政策推し進められつつあった。その頃世界に冠たる名門オーケストラベルリン・フィルハーモニー管弦楽団ベルリン国立歌劇場音楽監督地位にあったヴィルヘルム・フルトヴェングラーは、当時ドイツ新進作曲家であったパウル・ヒンデミット新作オペラ画家マティアス・グリューネヴァルト題材にした『画家マティス』の初演準備進めとともに、そのオペラ音楽素材用いて作曲され交響曲画家マティス』を同年3月12日ベルリンのフィルハーモニーホールで初演した。 演奏会大成功で、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団団員多くも、次のシーズンにこの曲をプログラミングすることに大賛成だった。しかし、ヒンデミット当時帝国音楽院顧問であり、シャルロッテンブルク音楽大学教授であったが、ユダヤ人音楽家弦楽三重奏組んでレコーディングしたりするなど、ナチスにとっては目の上のたんこぶとも言うべき人物だった。アドルフ・ヒトラーヒンデミット歌劇今日のニュース』において女声歌手ヌードシーンがあることを快く思っておらず、ヒンデミットに対して厳し措置を取ることにし、フルトヴェングラーベルリン国立歌劇場初演ようとしていた歌劇画家マティス』は上演禁止通達された。 フルトヴェングラーはこれに怒りヒンデミット擁護するために辞任辞さない構えをとり、さらに11月25日、『ドイツ一般新聞』に「ヒンデミット事件」と題する論評載せた。 その論評全文フルトヴェングラー著書音と言葉』に収録されている)の中でフルトヴェングラーは、ヒンデミット排斥しようとする動き根拠のない言いがかり断じヒンデミット現代ドイツ音楽において必要不可欠人物であり、これを容易に切り捨てることは、いかなる理由があろうとも許されるべきではない、と強力にヒンデミット擁護した。 この論評ドイツ国内外でセンセーション起こしベルリンのフィルハーモニーホールや国立歌劇場ではフルトヴェングラー支持デモンストレーション起こっていた。 ナチス政府宣伝であったヨーゼフ・ゲッベルスはこの事態対し断固たる対抗措置を取ることにした。フルトヴェングラーは(以前から彼自身望んでいたことでもあったが)帝国枢密顧問官辞任させられ、さらにベルリン・フィル及びベルリン国立歌劇場監督をも辞任させられた。ベルリン・スポーツ宮殿では、名指しではないにせよ、「無調騒音製造者に対して攻撃的な講演会が行われ、ナチス寄り新聞一斉にヒンデミットフルトヴェングラー批判したヒンデミット帝国音楽院顧問辞し音楽大学教授職休職し上でトルコ渡った。この事態受けてベルリン国立歌劇場第一楽長地位にあった指揮者エーリヒ・クライバー亡命したフルトヴェングラー辞任後ベルリン・フィルハーモニー技量落ち込み、また世界的な指揮者フルトヴェングラードイツ楽壇表舞台から去ったことによるイメージダウン恐れたナチスフルトヴェングラー歩み寄り見せ1935年3月両者和解しフルトヴェングラー指揮台復帰することになる。 しかし、これでフルトヴェングラーナチス忠誠誓ったわけではなく(もっとも、国際社会フルトヴェングラーナチス屈服したみなした)、内外ナチスに対して反抗的な態度をとり、ユダヤ人亡命をも手助けしたりしたので、戦争末期には彼に個人的恨みを抱くハインリヒ・ヒムラー率いゲシュタポに命を狙われ結局はスイス亡命することになる。

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アエロメヒコ航空576便ハイジャック事件」の記事における「事件の経過」の解説

記録によると、アエロメヒコ航空576便はメキシコキンタナ・ロー州にあるカンクン国際空港現地時間1138分に離陸したメキシコ・シティ国際空港への到着予定時刻1350分であり、フランス人アメリカ人を含む107人が搭乗していた。 メキシコシティ国際空港着陸後機体滑走路23Lの端にある緊急エプロン入り乗客はそこですぐに解放された。この乗客たちがバス乗り込み機体離れ武装したメキシコ公安当局乗員犯人が残る航空機包囲する姿は多くレポーター達によって目撃されている。当初犯人カルデロン大統領との対話求めている3人のボリビア人であり、ケーブルなどを組み合わせた即席爆発装置所有していると伝えられており、メキシコ政府は緊急会合開き非常事態宣言発令した。そして14時37分大半の人質降機してバスにより避難した同日14時56分、連邦警察航空機突入し容疑者として武器持たない5人の男性拘束した。これに対しメキシコシティボリビア大使館この中ボリビア人含まれているとの情報否定した。また乗客目撃していた爆発装置に関して爆発物処理班機内捜索したものの発見することが出来なかった。

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威化島回軍」の記事における「事件の経過」の解説

1388年2月、元を倒して政権確立した明の洪武帝は、高麗に対して元代得た旧領返還するように要求してきた。これに対し親元派が主流であった高麗朝廷議論の末、崔瑩総司令官とする攻伐軍の遼東派遣決定し曹敏修李成桂左右都統使に任命した。この派兵に対して李成桂は「四不可論」を掲げて反対表明していた。 『高麗史によれば、「四不可論」の内容は「今者、師(軍のこと)を出すに、四つ不可あり。小(高麗を以て大(明)に逆うは、一の不可なり。夏月に兵を発するは、二の不可なり。国を挙げて遠征せば、倭(日本)はその虚に乗ぜん、三の不可なり。時方に暑し、弓弩の膠は解け大軍疾疫せん、四の不可なり」というものであった同年4月18日西京現在の平壌)を発した軍は、5月7日鴨緑江中洲である威化島到着したが、折から長い梅雨鴨緑江増水し渡河できずに難渋していた。李成桂曹敏修撤兵もちかけ賛同を得ると5月22日に回軍を決定し開京目指した。反乱軍率いた李成桂6月1日には開京近郊帰還し布陣すると、2日後宮中突入し崔瑩捕捉し配流後処刑した。また禑王廃して江華島追放した後に賜死した。後継者には曹敏修意見入れて昌王即位したその後クーデタ成功した李成桂曹敏修主導権争った結果李成桂勝利し、翌1389年李成桂推す恭譲王高麗最後の王)が即位した。こうして李成桂実権を完全に掌握して朝鮮王朝開国基礎築いた威化島回軍計画されクーデタであったかどうかについては見解分かれるところだが、李成桂曹敏修との共同行動のとり方、また曹敏修主導の新王の推戴経緯からみて、出兵当初からの計画的行動というよりは、従軍現場で実利的な状況判断からの行動とみるのが妥当である。

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ベイコンの反乱」の記事における「事件の経過」の解説

17世紀終りまでにチェサピーク湾一帯では大西洋岸特権的農園主は「海岸地域地主」と呼ばれ、その地域でも最良農園所有し、その数には比例しない政治的権力行使していたので、その他の大多数である小農夫、年季奉公者および奴隷の不満を買っていた。小農夫は良い土地得られず、先住民族攻撃恐れが強い後背地土地求めていた。1660年以降バージニア経済停滞していたので、奥地に住む農夫生産した商品市場運び出すだけでも難渋していた。低品質タバコは常に生産過剰になり、航海条例規制によっても追い討ち掛けられて、タバコ価格下落していた。経済多様化する実験的な試みに費用掛かりオランダ人インディアンから防衛する必要性もあって、それらの費用捻出するために税金高くなっていた。1674年植民地住人は、ロンドンにいるバージニア領主であるアーリントン卿とカルペッパー卿に対して政治的働きかけを行う代理人を送るために更なる課税要求された。この状況入植者悲惨さをさらに悪化させるものであり、バージニア総督ウィリアム・バークリー卿の指導のまずさもあって、政府対す憤懣広がったベイコン植民地住人の間で広い支持得ていた者であり、インディアンに対して民兵組織し戦うことを要求したベイコン様々な政治的駆け引き後で辺境インディアン種族対す作戦行動率い任務認められた。1675年7月バージニアのノーザンネック地区ポトマック川近くにあったトマス・マシューズプランテーションドーグインディアン襲撃し闘争引き起こされた。このことで、植民地住人報復のために間違ってサスケハノック族を攻撃し、これが更にインディアンによる大規模な襲撃呼んで大変な事態になったバークリー更なる攻撃避け事態沈静化させるために事情調査命じたその結果関係者間の会合開いた時に数人インディアン酋長殺害してしまうという悲惨なことになった 。この危機の間、バークリー植民地住人自制を常に要求していた。しかし、ベイコン含め数人が言うことを聞かなかった。ベイコン友好的なアポマトックスインディアン数人トウモロコシ盗んだという廉で捕まえることで、総督直接命令無視することになったバークリー妥協生むために、インディアン弾薬供給し1676年3月には「長い会談」を召集した。しかし、ジェームズタウン戻った後でベイコンバークリー支持者の間に紛争起こったベイコン一党バークリー派に打ち勝ち総督バージニア東海岸逃走したベイコン一党首都を3ヶ月占領し貴族政府の象徴である町を破壊した。 この時16年前終わっていたイングランド共和国倣って人民宣言が発せられた。ベイコン1676年10月26日赤痢死んだ反乱は、ロンドン母港とする数隻の武装商船バージニア到着しバークリーに従う時まで続いた。これらの船は貿易船であり、その船長達は到着するまで反乱のことを知らなかった反乱の噂を聞いたイギリス海軍艦隊バージニア向かったが、その到着商船隊到着から数ヶ月遅れたバークリーはこれらの商船大砲船員使って反乱抑えることができた。その後イギリス艦隊到着する前にバークリー多く反乱者を裁判掛けて絞首刑処し恐怖政治似たものになったイギリス艦隊とともにイギリス調査委員到着しバークリー報復行動止められ多く恩赦実行された。反乱者の中でもかなり多くの者がノースカロライナアルベマール開拓地逃げた

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事件の経過

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土竜山事件」の記事における「事件の経過」の解説

このような土地銃器強制的な買収に対して不満を募らせ農民たちは、土竜山の東方八虎力屯の大地主であり自衛団団長でもあった謝文東中国語版)を総司令として、武装蜂起した。謝は、日本人移民団の放逐江東自治権確立標榜して東北民衆軍を編成した。この情報が、依蘭県内外伝わり各地農民手に手に武器をもって集まり総数6,700名もの大群となった3月9日東北民衆軍の農民たちは日本人移民団を包囲し警察武装解除させた。 翌3月10日依蘭県駐屯歩兵第63連隊駆け付けたが、飯塚朝吉連隊長以下19名が戦死する結果終わった3月末、土竜山区から撤兵した関東軍は、政治的に威嚇利益誘導軍事的に大群包囲攻撃をするという二面作戦採用し民衆軍を孤立分化瓦解させていった7月下旬には、民衆軍は800名ばかりとなり、10月初め樺木崗にて関東軍襲撃にあった民衆軍は大きな損害を受け、謝は、依蘭県吉興河の深山密林地帯逃げ込んだ

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たちかぜ自衛官いじめ自殺事件」の記事における「事件の経過」の解説

2004年10月27日、「たちかぜ」の一等海士当時21歳)が立会川駅飛び込み自殺した。 遺書には、家族へ感謝言葉とともに上職二等海曹名指しして批判し虐待受けた事を示唆する内容書かれていた。 このことからたちかぜ艦内問題発覚した横浜地方裁判所横須賀支部刑事部は、「いじめは艦内では日常茶飯事常習的で、本件氷山の一角」「暴行を苦にしたとみられる隊員自殺したのをどう償うのか」と、海自二曹の「行為」を認定した。これについて自衛隊は、社会遺族対し一切沈黙通した2005年平成17年1月二曹別の自衛官達に対す暴行罪恐喝罪有罪判決を受け、海上自衛隊懲戒免職処分判決では、「艦内暴行日常的」「事件氷山の一角」と指摘された。二曹たちかぜ艦内にエアガン・ガスガンなどを不法に持ち込みレーダーコンピューター機器など重要な精密機械があり立ち入り制限地区の「CIC室」(戦闘指揮所)でサバイバルゲーム興じていたことが後の裁判発覚する詳細は「護衛艦たちかぜ暴行恐喝事件」を参照 このため遺族両親2006年平成18年4月5日、「自殺したのは先輩隊員のいじめが原因で、上官艦長分隊長)らも黙認していた」と主張し、国(国家賠償請求)と二曹相手計約1億3,000万円求め訴訟起こす2011年平成23年1月26日横浜地裁裁判長水野邦夫)は判決において、以下の点を認定した。 「元二海曹から受けた暴行などの仕打ち自殺重要な原因となった」 「当時分隊長上官規律違反行為認識しながら、何ら措置講じず、指導監督義務怠った」 「元二海曹分隊長らが、自殺することまで予見することができたとは認められない」 以上の理由により、国と二曹に計440万円支払い命じた死亡対す賠償認めず)。 地裁判決を受け、遺族母親弁護団は「国と個人両方責任認めたのは評価するが、予見可能性ハードルが高すぎて不当」として、即日控訴表明2月4日東京高裁控訴した控訴審では2014年4月23日遺族主張認め賠償許容額も7700万円一審から大幅に増額する判決言い渡された。小野寺五典防衛相25日閣議後記会見で「重く受け止める」と述べ上告断念する意向示した遺族側も上告しない意向で、判決確定する見通しとなった

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三重大医学部集団レイプ事件」の記事における「事件の経過」の解説

1999年3月5月新歓コンパシーズンに、参加女性に酒を飲ませ野球拳で服を脱がすことを強要した上で、胸を揉んだり裸の女子学生逆さ吊りにしたりといったわいせつ行為をしていた。[要出典]被害者は4人である。この件で5人が退学、4人が無期停学、厳重注意が4人という処分が出る。13人は全員医学部生。しかし、大学側刑事事件要素認めつつもセクハラ位置付け被害者プライバシーを盾にわいせつ行為強姦行為あったかどうかさえ明かす事は無かったその後退学処分受けた1人が「野球拳時には自分は既に帰宅していた」として、大学退学処分取消求めて訴訟起こす。[要出典]野球拳事とテニス部合宿先で女子学生ベッド入り込んだとされて退学処分となっていたが、2003年8月津地方裁判所事実誤認認定大学裁量権乱用理由取消命じた2004年6月名古屋高等裁判所は、野球拳煽った認め途中で帰って責任生じるとして[要出典]一審判決取り消した

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大輝丸事件」の記事における「事件の経過」の解説

首謀者・江連(えづれ)力一郎1887年12月31日 - 1954年10月15日当時34歳)は茨城県結城町(現・結城市出身海城中学卒・明治大学中退のちに入隊した陸軍軍曹である。彼は柔道剣道合気道など各武術きわめた猛者で、段位合計30段に達していたという。そんな彼は尼港での惨劇悲憤慷慨し、復讐決意軍部実業家から潤沢な資金回収し決行機会うかがっていた。 神戸西之宮相沢汽船会社所有の船・大輝740トン用意した彼は、「オホーツク海砂金採取に行く」と称して乗組員募集。その呼びかけ人夫失業者学生など60人が集まった9月26日北海道小樽出航した一行は、10月1日樺太北部アレクサンドロフスク・サハリンスキー入港。ここで江連は乗組員全員を船の甲板整列させ、ピストル誇示しつつ檄を飛ばす。 「オホーツクでの砂金回収60貫は流氷による航海不能により見送ることにする。そこで我ら進路変えアムール川河口ニコラエフスクに向かう。諸君らもよく知るはずの尼港だ!」 10月9日ニコラエフスク入港沖合ロシアランチ1隻、発動機船1隻を略奪し、さらに北樺太ポコピー、デスカストリー付近帆船1隻および多量海産物油類略奪し、それと同時にロシア人船長以下12人および先の発動機船の乗組員4人を大輝丸の船員室に監禁した10月22日23日捕虜17全員甲板引き出すや命乞い聞き入れるともなくピストル日本刀使い分けて殺害小樽帰港したのちは略奪品荷揚げし、各乗組員150円ずつの分配をしたうえ、厳重な口止め約束させて解散した

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宝塚市役所放火事件」の記事における「事件の経過」の解説

2013年7月12日午前9時20分頃、市役所本庁舎1階市税収納課へ男が納税相談のため訪れた当初職員1名で対応したが、男が声を荒らげていたためさらに1名が対応に加わった。この時、男の持ち物相談窓口カウンター遮られ職員からは確認できなかった。9時35分頃、男は激高して「おれの人生めちゃめちゃや。おれの答えはこれや」と述べ火炎瓶をかばんから取り出してカウンター越し職員座席投げ入れた火炎瓶ワインボトルガソリン入れたもので、1本目は火の付いていない状態で職員頭部へ当たり、2本目ライター火を付けた状態だった。前後してポリタンク入ったガソリンカウンター内にぶちまけた。 これにより発生した火炎はすぐに天井達し職員消火器使用して初期消火当たったものの一部しか消火できず、屋内消火栓使用試みた有効な放水至らないまま、火勢猛烈なため消火活動中止して避難開始した被災した部署では黒煙天井伝って視界遮り避難阻害された。市税収納課を始めとして、カウンター前が火災となったために避難経路ベランダ限られた部署もあった。初期消火の際に気道熱傷負った職員1名がベランダ倒れたが、周囲職員により救出された。9時50分頃までに庁舎内にいた市民52名、職員642名は全員避難完了した。 男は追いかけ市税収納課などの職員により庁舎G階(グラウンドフロアー地上階)で取り囲まれた。お茶飲んでいた男は発見した職員に「何をしよんや」と尋ねられると「何が悪いんや」と居直った。たばこに火を付けようとして止められおまえら税金で飯食っとんやろ。市民をもっと大事にせんかい」などと大声上げて職員もみ合いになった職員1名へ暴行加えたため取り押さえられ、その後臨場した警察官引き渡された。 火災迅速な消火活動により早期鎮火したものの、職員4名と来庁していた市民2名の計6名が負傷中等症から軽症)。男の投げた火炎瓶頭部当たった職員1名が全治7日間打撲皮下血腫消火当たった職員1名が全治15日間の気道熱傷などを負った

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大阪地裁所長襲撃事件」の記事における「事件の経過」の解説

2004年2月16日の夜、大阪市住吉区住宅街で、徒歩帰宅中の大阪地方裁判所所長鳥越健治4人組若者襲われ現金63千円強奪された上に骨盤骨折などで全治2ヶ月重傷負った大阪府警察捜査難航したが、補導歴や不登校など問題行動ある少年しらみつぶし調べた結果、A(当時16歳)・B(当時14歳)・C(当時13歳)の3人を犯行関与した断定して強盗致傷容疑でA・Bを逮捕、Cを補導した。 6月14日朝から事情聴取始まりその日のうちに「西成区二十代の男ら二人おやじ狩り指示された」「顔見知りD・Eから指示され二人見張り役などで加わっていた。相手裁判所所長知らなかった」などとあっさり口を割っている(読売新聞より引用)が、この自白事実であったであれば以降報道矛盾するその後Cが「初めはやっていないと言ったけど、言っても言っても聞いてくれなくて、脅されたりして…」と後に語るように(外部リンク参照)、刑事2人により3ヶ月間、本来は違法である推定有罪的な取り調べやり方長時間取り調べを受け、「早く自宅へと帰りたい」との一心顔見知りD・Eの名前を出し自分たちが犯行をやったと一旦は自供する(ただし、読売新聞記事通りであれば6月14日時点最初から自供していることとなり、矛盾生じている)。 警察少年らの供述からD・E逮捕、A・Bを大阪家庭裁判所に、Cを児童自立支援施設送致したD・E逮捕から4ヵ月後、大阪府警担当刑事本部長表彰。だが、D・E警察署でも拘置所でも一貫して無罪主張する拘置所では重要人物襲撃による重大事件被疑者として独居房置かれた)。 やがてD・E弁護団は、犯人写っている防犯カメラ映像警察押収していたが、科学鑑定行っていなかった事実突き止める専門家分析依頼した結果警察D・E片方だと判断した映像内の男性と、本人身長差が15センチ以上もあることが判明。そして、鳥越体当たりした警察犯行自供したCが、犯行時刻現場から遠く離れた自宅付近メールやりとりをしていたことが判明警察防犯カメラ分析も、少年携帯電話チェックもしておらず、見込み捜査のみで供述の裏付けアリバイつぶしを行っていなかったことが発覚した2005年2月大阪地裁強盗致傷の罪に問われているD・E全面否認のまま保釈するという異例決定を行う。 その後真犯人特定できず2019年公訴時効となった

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ボグダノフ事件」の記事における「事件の経過」の解説

ボグダノフ兄弟応用数学パリ学んだ1980年代初めにテレビでのキャリア積み初め、Temps X (『X時間』)という番組プロデュースする。この番組一般向けの科学サイエンス・フィクション扱い、彼らを有名人にした。Temps X は10年渡って続き、同じジャンル別の番組引き継がれた。 1993年兄弟博士課程入り初めブルゴーニュ大学数理物理学者 Moshé Flato師事したFlato1998年亡くなり、その同僚Daniel Sternheimer (フランス国立科学研究センター在籍)がボグダノフ兄弟指導引き継いだ。Sternheimer によると、双子ボグダノフは自らを「アインシュタイン兄弟」と見なし曖昧で「印象派的」な発言をする傾向があった。兄弟指導するのは「マイ・フェア・レディオックスフォードアクセントで喋るのを教えているかのよう」だったと彼は後に述べている。The Chronicle of Higher Education 紙の記事述べているように、Sternheimer は自分がグリシュカの学位論文含まれる話題全てについての専門家だとは考えていなかった。しかし、彼はそれらグリシュカの専門内のものについては、博士号値する判断したRichard Monastersky は The Chronicle of Higher Education 紙上で、1991年出版された『神と科学—超実在論向かって』(ボグダノフ兄弟哲学者ジャン・ギトンによる共著の裏表紙では未取得のはずの博士号冠されている、と記している。この本自体バージニア大学天文学教授 Trinh X. Thuan が自著 The Secret Melody: And Man Created the Universe剽窃したとしてボグダノフ兄弟1992年告訴するという争い引き起こしている。フランスで法廷論争の後、Thuan とボグダノフ兄弟和解し兄弟はのちに不正行為全否定した。Thuan は剽窃行為可能な限り早い博士号取得へと兄弟推し進めたのだろうと示唆した。 グリシュカは数学イゴール理論物理学学位論文拠ってブルゴーニュ大学 (en) の博士号それぞれ1999年2002年取得した1999年にグリシュカは学位論文 Quantum fluctuations of the signature of the metric at the Planck scale(『プランクスケールにおける計量符号量子ゆらぎ』)に対して大幅に書き直して物理学内容数学的側面強調する事を条件に、珍しい低評価合格グレードである "honorable" を与えられている。同じ日に、イゴール学位論文 Topological Origin of Inertia (『慣性位相幾何学起源』)の口頭試問落ちている指導教官その後査読のある専門誌3本論文掲載できればイゴールへの博士号授与認める、とした。要件である論文出版された後、イゴール3年後別の話題において指導教官2人指導の下で学位論文を無事審査通過させることができた。新し学位論文である Topological State of Spacetime at the Planck Scale(『プランクスケールにおける時空位相幾何学的状態』)も同じく低評価合格グレードの "honorable" を与えられた。Daniel Sternheimer が『ニューヨーク・タイムズ』紙の科学部記者 Dennis Overbye に述べたところによると、このグレードは滅多に与えられる事がない。ボグダノフ兄弟への博士号授与は正当であるとして、Sternheimer は『タイムズ』紙に対し「彼らは10年無給働いた学位として自身仕事認められる権利が彼らにはある。もっとも、その学位今日では大したものではないが。」と述べた兄弟合計6本の論文物理学と数学専門誌上で出版した。それら掲載誌中には査読官(レフェリー)による査読審査のある Annals of PhysicsClassical and Quantum Gravity含まれていた。学位論文両方概要読んだ後、ドイツ人物理学者 Max Niedermaier は論文疑似科学であり、中身の無い内容科学的に見せかけるため大量専門用語構成したものだ、と結論付けた。Niedermaier の視点では、ボグダノフ兄弟査読制度脆弱性があることを証明しようとして、ソーカル事件物理学者アラン・ソーカルが偽論文人文科学Social Text 2002年10月22日号へ掲載させる事に成功した事件)と同様の手法使ったものだと考えられた。Niedermaier はこの影響についての電子メール書き、後にそのメール広く配信された。最終的な受信者のひとりであるアメリカ人数理物理学者 John C. Baez はユーズネットニュースグループ sci.physics.research に "Physics bitten by reverse Alan Sokal hoax?"(『逆・ソーカル悪戯物理学噛みつかれた?』)と題した議論スレッド作り、そのスレッド投稿数にして数百件の長さへと急成長した。 この口論はすぐに、物理学業界国際的な一般紙両方から世界的な注目浴びた。Niedermaier に続いて、Baez が作った議論スレッド参加者大部分論文は手の混んだ悪戯だという意見表明した。しかし、ボグダノフ兄弟一貫してその意見否定している。その事聞いた後 Niedermaier は、初めからあまりに憶測含んでいた事について公的に私的にボグダノフ兄弟謝罪する声明2002年10月24日出している。しかし、これはこの事件への Niedermaier による最後の公式コメントであることが分かっている。問題論文について彼は正当性長所是認していない

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熊谷男女4人殺傷事件」の記事における「事件の経過」の解説

大里郡寄居町に住む無職少女当時16歳)は、2003年平成15年6月下旬ごろから本庄市飲食店店員Aと交際始め間もなく熊谷市箱田7丁目のAの自宅アパート身を寄せるようになった。しかし、薬物手を出すことを心配したAが自室少女を住まわせようとしたことから、関係が悪化しAと少女口論絶えなくなる。 他方少女7月10日ごろに熊谷市広瀬、元稲川会暴力団員のOと知り合い交際関係になる。Oは少女好意利用して風俗関係で働かせようと考えていた。少女はAとOと二股交際をしていた。 少女外出中にAが頻繁に連絡取ろうとすることなどを疎ましく感じ始め、Oにも Aへの不満を話していた。7月末ごろ、Oと共にいた少女元にAから呼び出し電話があり、これにOも同行した少女はAに対し交際相手がいること、頻繁な電話が「うざい」ことを告げ、Oは少女が「俺の女」であることを告げて怒鳴りつけたところ、怯えたAは引き下がり少女はA宅の鍵を返却した。 しかし、親と喧嘩をして再び家出した少女はAの部屋出入りするうになる8月18日午前、Oは乗用車熊谷市内の無職少年自宅アパート身を寄せていた少女迎え行き2人連れ出した。同市筑波1丁目のファミリーレストラン入りビール焼酎飲んだ。その席で少女から「Aに姦淫されそうになった」ことを聞いたOは激昂し、「あの野郎、俺をなめやがって。Aが俺の女だって知ってるのに手を出してくるんだから、俺にけんか売ってるのと同じだよな。今から乗り込んじゃうか。野郎やっちゃうか」とAを襲うことを示唆すると、少女は「そうだよやっちゃって。やっちゃえ、やっちゃえ」、少年は「人の女に手ぇ出すなんて、絶対に許せないっすよ。そんなヤツやっちゃうしかねえっすよ」と同調したファミリーレストランを後にしたOは、ボーガン入手しよう考え少女少年連れて市内ホビーショップに向かうが店が閉まっていたため、「拳銃自宅所持しているが音がうるさいから」と、自分経営するゲーム喫茶から包丁持ち出し少女に「本当にやっちゃって大丈夫なん」と確認し少年対し帰ってもいいぞ」と言った2人同行して午後1時ころ、Aのアパート向かった。 Aは同じアパートに住む同僚女性B部屋にいたため、少女言葉巧み誘い出しAの部屋に連れ込んだ。そこでAが少女手を出そうとしたことを認めようとしなかったため、OはAに激し暴行加えた。OはBをもAの部屋無理やり連れ込み、Bの見る前で「俺の女に手を出しやがって」と言いながらAに暴行加え続け、「早く死ねくたばれと言いながら背中包丁刺したあと腰、大腿部など数カ所も刺して殺害した午後1時20分ごろ、Aの勤務先マネージャーが、「遅刻しないように」と伝えるためAの携帯電話連絡をしたが通じなかったため、同じアパートに住むAの同僚女性Cが様子を見に行くよう依頼され携帯電話繋いだままAの部屋訪れる。Oは恐怖震えるBに対応させ「(Aは)携帯電話出られない」と答えさせた。動揺隠せないBの応対見たOはCを室内に連れ込み、「見ろ」と命じてAの遺体見せつけた。 BとCをAの部屋監禁したまま、少女部屋残した荷物集めAの財布入っていた現金窃盗した。Oは尿意訴えたCにトイレに行くことを許可せず室内放尿させた。OはCの失踪を装わせようと、少年にCの部屋行き携帯電話等を回収に行かせたところCの友人であるDに少年の顔を見られたため、OはDをAの部屋に連れ込みAの遺体見せつけ、「見ちゃったもんはしょうがねぇよなやっちゃしかないよな」と言って午後1時40分ごろ、車で3人を拉致した。 少年助手席乗せ少女加え拉致したBとDを後部座席乗せてCをトランク閉じ込めたOは、車を秩父市方面へと走らせた。 Oは秩父市黒谷の美の山公駐車場でDを降ろし女子トイレに連れ込んで乳房陰部触りタオルで首を絞めたあと、殴る蹴るの暴行加えた。OはDの背部包丁振りおろした便器に当たり刺すには至らず踏みつけたところ動かなかったことなどからすでにDは死亡したものと考え、美の山公園に放置した。 Oが駐車場へ戻ると少女が「携帯電話着信音聞こえたと言ったため、Oがトランク開けた猛暑日トランク閉じ込められ暑さ汗を流しつつ「全部私のせいにしていいから許してチーフ(A)をやったのも私のせいにしていいから」と必死に訴えるCに対しOは「うるせえ」などと言い放ち、歯が折れるほど強く殴った。Oは、「後ろの奴うるさいから、後ろの奴から始末するか」といい、美の山公園の観光道路脇でCをトランクから車外降ろし、首を絞めたうえ右背部3回刺して殺害遺体道路脇の崖に投げ落とした。 Oは1人残されたBに「手足縛って口にアロンアルフアをつけてマンホール入れて次の日の朝迎え行って生きていたら、見逃してやる」と言い放った熊谷市内へ戻ったOは、Bを同市大麻生国道140号線沿いの建築解体会社資材置場降ろした。Oは両手足をビニール紐で縛ったBの唇と鼻腔アロンアルファ塗り窒息させることができないこと分かると、ビニール紐で首を締め湾曲した包丁で胸などを刺した。OはBの上衣に血の染み広がっていくのを見てこのまま放置すれば確実に死亡するだろうと考え、Bを放置して現場立ち去った。。 午後4時45分、美の山公園に倒れていたDを通行人発見し110番通報した。Dは秩父郡皆野町病院搬送された。病院訪ねてきた秩父警察署員にDは「熊谷のGハイツ死体がある。調べて」と告げた。 同6時25分ごろ、熊谷警察署員がアパート急行しAの部屋布団かけられたAの遺体発見。 同8時50分ごろ、Bが放置された場所の敷地内で、そこを借りて車を置いていた男性発見される助け出される間もなく意識不明重体陥った胸部からの出血多く搬送先では輸血処置取られた。その結果意識回復した。 翌8月19日午前6時5分、散歩中の男性がCの遺体発見した

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河内長野市家族殺傷事件」の記事における「事件の経過」の解説

2003年11月1日午前2時頃、大阪府河内長野市会社員から 「息子がいきなり切りつけてきた」との119番通報があり救急隊駆けつけると、1階会社員の妻が首などを切られ倒れており(搬送先の病院死亡)、2階寝ていた次男や、長男取り押さえようとした会社員刺され重傷負っていた。大学生長男(18)会社員車で逃走したが、午前3時過ぎ、緊急配備中のパトカー発見され緊急逮捕された。凶器包丁は、犯行2、3日前ホームセンター購入した供述同日、車に同乗していた高校1年少女(16)が、自分家族殺そう思い包丁買った供述したため、殺人予備容疑逮捕された。少年犯行後少女電話をかけ一緒に逃げようと車に乗せていた。2人幼馴染交際中であり、少女は「互い両親殺害して一緒に暮らそう話し合っていた」「最後2人死のう思っていた」と供述2人にはゴシックロリータ趣味自傷癖という共通点があった。 少年猟奇殺人に関する本を好み自分なら完全犯罪出来ると友人話していた。 少女ホームページで、詩やBL小説日記自身撮影した画像などを公開していた。 事件当日には、ホームページに「いってきます」「探さない下さい」という主旨記述をしていた。

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日蓮正宗住職交通事故死事件」の記事における「事件の経過」の解説

事件の経過を時系列紹介する 7月21日 交通事故発生 7月22日 新聞各紙が「日蓮正宗住職トラック衝突し死亡」と報道。また同日保険会社が「100対0で日蓮正宗住職側の損失」と認定8月22日 事故被害者創価学会員が週刊新潮記者取材答え8月25日 週刊新潮9月1日号)において「大石寺僧侶衝突死させた創価学会幹部」の記事掲載9月27日 創価学会顧問弁護士山崎正友自民党白川勝彦都内ホテル会談 10月5日 事故にあった創価学会員が『週刊新潮』を名誉毀損提訴 10月11日 衆議院予算委員会自民党川崎二郎交通事故死事件追及事故後、現場検証が行われ、タイヤ痕等から住職乗った乗用車猛スピードセンターラインオーバーし対向する学会員運転するトラック正面衝突した判断された。また、事故の原因は(死亡した住職の)スピード出しすぎによるハンドル操作誤りよるもの判断過失割合は「100対0」で、学会員側の過失を「ゼロ」と認定住職側の保険会社学会員所有していた業務用トラック廃車になったため、費用全額負担したその後週刊新潮記者事故にあった学会員取材取材後に発売され週刊新潮では「大石寺僧侶衝突死させた創価学会幹部」というタイトルの下、あたかも学会員住職交通事故死させたような内容掲載された。また同記事では事故当日創価学会札幌市内で『遂に日蓮正宗天罰下る!室蘭住職交通事故死ガードレール衝突し10:20死亡』というビラ配布した記している。 10月11日自由民主党川崎二郎衆議院予算委員会においてこの事件取り上げた

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事件の経過

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阿波丸事件」の記事における「事件の経過」の解説

1944年昭和19年10月赤十字社仲介により、日本アメリカの間で捕虜および拘束民間人への救援物資交換する協定成立した(日本側は、日本軍人の捕虜居ないという建前があるので抑留されている民間人への物資ということにしていた)。両国物資中立国ソビエト連邦領のナホトカ交換されアメリカ側救援物資2,025トン貨客船白山丸」により持ち帰られた。 アメリカ側物資のうち、800トン日本軍占領下ジャワ島マレー半島にある連合軍捕虜収容所向けであり、その輸送担当選ばれたのが、当時日本に残る数少ない高性能貨客船となっていた阿波丸であった日本東南アジアを結ぶ航路は、アメリカ軍潜水艦通商破壊により、極めて危険な状況だったが、阿波丸病院船準じた保護安導権安導券Safe-Conduct)が約束された軍隊輸送船状態だった阿波丸からは武装撤去され識別のため船体緑色迷彩塗装から灰白色塗り替え舷側煙突甲板2か所に緑十字識別マーク描かれ夜間には煙突照明も灯された。アメリカ軍阿波丸航路情報各部隊通知し攻撃しないよう命令した阿波丸往路では、800トン救援物資積み込まれたほか、航空機自動車予備部品弾薬など600トン軍需物資積み込まれた。軍事利用協定違反だったが、日本軍により軍需物資積み込み決定された。事前協議の際、アメリカ側は船をどのように利用しようとも構わない了解していたが、それがどの程度範囲までかは曖昧であり、阻止しないとまでも明言していない。ただ、市民官吏輸送については黙認する構えであった1945年2月17日門司出港した阿波丸は、高雄港22トン香港41トンシンガポールで562トン救援物資降ろし最終目的地ジャワ島救援物資175トン)へ無事に到着した3月28日当初任務終えた阿波丸シンガポール発って日本への帰途就いた協定では帰路でも安全が保障されていたため、日本軍は再び軍事輸送への利用計画した。これに船長反対したものの、軍の要求押し切られた。阿波丸には、船が撃沈されて滞留していた商船480人、三井物産支店長以下の商社員、技術者大東亜省次官以下の公務員など非戦闘員600人、軍人および軍属820人が便乗することになり、乗員合わせて2,004-2,130人が乗り込んだまた、スズ・タングステン・アルミニウムなどの地金5,000トン以上、生ゴム2,000トン以上、重油及びガソリン2,500トンという大量軍需資源船倉収められた。アメリカ軍暗号解読日本側の工作知り航空偵察阿波丸物資大量に積んで喫水深くなった状態であることも把握していた。アメリカ太平洋潜水艦隊司令官チャールズ・A・ロックウッド中将は、チェスター・ニミッツ大将攻撃許可要請したが、返答は届かなかった。 1945年4月1日午後10時頃、阿波丸沖縄戦勃発影響で、予定針路変更して台湾海峡進入平潭県牛山島(中国語版付近航行していたところ、クイーンフィッシュレーダー探知された。クイーンフィッシュ潜望鏡による目視確認行わないまま、レーダー照準攻撃開始。およそ50秒後に阿波丸魚雷3本(4本との説もあり)が命中し、ほとんど一瞬沈没した。約10分後に戦果確認のため浮上したクイーンフィッシュは無数の人が漂流物混じって泳いでいるのを発見し、うち船員1人収容したクイーンフィッシュ報告によれば、他の漂流者はいずれ救助されるのを拒んだという。クイーンフィッシュ収容され1人を除く、2,003-2,129全員死亡した

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事件の経過

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宇都宮毒入りジュース事件」の記事における「事件の経過」の解説

昭和37年4月6日早朝宇都宮市農業を営むA(35歳)は、自宅近くあぜ道新聞紙包み発見した中にはポリエチレン袋入りジュースが4袋あり、捨てておくのはもったいないと考えた彼は家に持ち帰った朝食の席でA、Aの子供3人(9歳7歳4歳)、Aの母親の計5人がそのジュース飲んだところ、一同はまもなく苦しみ始めた。飲まなかった祖父と妻が慌てて救急車呼んだものの、到着した頃には3人の子供は絶命していた。Aと母親飲んだ量が少量だったため、一命をとり止めた被害者嘔吐物残りジュースからは、有機リン系統の毒物検出され、さらにジュースの袋には注射針差し込んだような穴が発見された。その毒入りジュース拾い物だという証言得た警察は、聞き込みの末に近隣農家B家の娘も同日同時刻に、同じようジュースを2袋拾っていたとの情報を得る。そのジュース袋にも注射器の穴があり、中には毒物混入されていた。しかし、B家ではそのジュース放置していたため被害免れていた。捜査陣不特定多数殺害狙った凶悪犯推理したが、農業組合要職に就いていたB家一家皆殺し図った怨恨による犯行可能性もあった。 一方ジュース入手経路探って聞き込み重ね捜査員は、現場近く菓子屋で「若い男が、同じジュースを6袋買っていた。しかもその男は、事件後に再度やってきて『俺がジュース買ったことをしゃべるな』と、口止め頼んでいった」との証言を得る。菓子屋の主人その男の顔を覚えていたことから、犯人逮捕される犯人B家長男・C(20歳)だった。

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撚糸工連事件」の記事における「事件の経過」の解説

1985年9月11日 - 撚糸工連が元経理課兼業課長詐欺罪等で東京地検特捜部告訴10月下旬 - 撚糸連理事長らが工連の資金私的口座移し株取引をしている事実発覚12月3日 - 東京地検特捜部、元課長を2億7000万円分の業務上横領容疑逮捕12月25日 - 元課長を2億7000万円分の業務上横領起訴1986年2月13日 - 撚糸連理事長、前専務理事石川県撚糸工業組合事務局長、仮より糸の賃加工あっせん業者の4人を4億2000万円分の融資に絡む詐欺容疑で逮捕。元課長再逮捕3月6日 - 約7億6000万円資金撚糸工連の口座から私的に引き落とし利付商工債を購入し転売益をあげた業務上横領容疑撚糸連理事長を再逮捕理事長実質的に経営する小田興産」(石川県小松市役員共犯逮捕3月26日 - 通商産業省工業再配置課長中小企業庁組合調整係長収賄容疑で逮捕加えて撚糸工連常務理事贈賄証拠隠滅容疑逮捕撚糸連理事長、前専務理事贈賄容疑再々逮捕通産省課長東京六本木での飲食代を撚糸工連に支払わせていたこと、中小企業庁係長新宿区内の料亭接待受けていたことで逮捕となった4月16日 - 民社党横手文雄衆議院議員受託収賄容疑任意事情聴取開始4月24日 - 民社党横手離党届正式に受理し横手離党4月25日 - 自民党中曽根派稲村佐近四郎衆議院議員収賄容疑任意事情聴取開始4月26日 - 稲村私設秘書証拠隠滅容疑逮捕4月28日 - 稲村別の私設秘書証拠隠滅容疑逮捕5月1日 - 東京地検特捜部横手受託収賄罪で、稲村収賄罪それぞれ在宅起訴稲村自民党を離党5月23日 - 撚糸連元課長を2億円分の撚糸工連利付商工債権横領容疑追起訴(2億7000万円分については起訴済。合計4億7000万円業務上横領にて起訴)し捜査終結稲村秘書2名を含む4人を処分保留のまま起訴猶予処分6月1日 - 稲村次回衆院選立候補しない意向表明横手潔白主張し立候補)。 7月6日 - 横手第38回衆議院議員総選挙福井県全県区から無所属立候補するも、落選7月16日 - 東京地裁通産省課長保釈金500万円保釈認め決定7月11日 - 東京地裁小田興産元役員公判開始その後他の被告公判も始まる。 7月30日 - 東京地裁撚糸工連前専務理事保釈金2500万円保釈認め決定8月15日 - 通産省中小企業庁係長懲戒免職。元課長については起訴事実否認していることを理由処分見送り9月29日 - 東京地裁収賄中小企業庁係長懲役10月執行猶予2年追徴金104万円余の有罪判決12月25日 - 東京地裁通産省課長らへの贈賄詐欺撚糸連理事長に懲役4年実刑判決その後理事長控訴12月25日 - 東京地裁詐欺業務上横領撚糸連元課長懲役4年実刑判決12月25日 - 東京地裁贈賄詐欺撚糸工連前専務理事懲役3年執行猶予5年有罪判決12月25日 - 東京地裁詐欺で仮より糸の賃加工あっせん業者懲役2年執行猶予3年有罪判決12月25日 - 東京地裁業務上横領小田興産役員懲役1年6月執行猶予2年有罪判決1988年3月15日 - 東京地裁通産省課長懲役1年6月執行猶予3年追徴金246万余有罪判決同課長、その後控訴飲食代金58回、256万円余を業者側に支払わせていたと認定1989年9月7日 - 東京高裁通産省課長懲役1年6月執行猶予3年追徴金244万円余の有罪判決同課長、その後上告高裁事実認定誤りがあるとし1審判決破棄追徴金金額変更された。 11月6日 - 東京地裁稲村懲役2年6月執行猶予3年有罪判決稲村控訴したが後に取下げ1審判決確定11月27日 - 稲村地元石川県羽咋市開かれた後援会席上政界引退正式に表明1990年7月29日 - 執行猶予中の稲村佐近四郎元衆議院議員脳梗塞死去1992年10月27日 - 最高裁通産省課長の上告を棄却する決定収賄罪にて懲役1年6月執行猶予3年追徴金244万円余が確定10月28日 - 最高裁撚糸連理長の上告棄却する決定3年6か月実刑確定収監詐欺業務上横領通産官僚への贈賄容疑衆議院議員2人への贈賄については公訴時効成立していた。 2021年4月28日横手文雄元衆議院議員死去

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フェザーストン事件」の記事における「事件の経過」の解説

2月25日朝、安達少尉先頭280名の捕虜全員広場集まって座り込んだ。この座り込みの際に、安達少尉は「いかなる場合軽挙妄動することなく一糸乱れぬ行動をとれ」と厳命している。 この状況見たニュージーランド軍は、中尉指揮官とした完全武装50名を派遣した指揮官はただちに50名の作業員を出すよう要求したが、安達少尉断乎として拒否したため、ニュージーランド軍指揮官安達少尉連行命じた。しかし、「古鷹グループ」のメンバー体を張って阻止したため、ニュージーランド兵は安達少尉連行諦めざるをえなかった。 安達少尉連行失敗したニュージーランド兵たちは、捕虜たちの前方で横一列となり、銃を構えつつ捕虜たちに向かってきた。この時、ニュージーランド軍指揮官威嚇のためにピストル取り出し、それに対して安達少尉自分の胸を叩きながら「撃つなら、おれを撃て」と叫んだ。その直後捕虜たちは持っていた石をニュージーランド兵に向かって投げると同時に素手突進始めニュージーランド兵も捕虜たちに対して小銃軽機関銃応戦したその結果48人の捕虜死亡31人が即死)、68人が負傷した負傷者中には安達少尉含まれていて、頭、左腕脇腹、腕の4ヶ所を撃たれ一時意識不明重体陥ったニュージーランド側ではウォルター・ペルビン二等兵跳弾により死亡したほか、18人が負傷した

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長沙大火」の記事における「事件の経過」の解説

11月12日には長沙飛行場破壊開始された。長沙火災強風により城内一帯燃え広がったこの際郭沫若放火をしている兵から張治中命令によって放火していることを確認している。地方政府役人逃げ去り住民の不安はさらに増した英国揚子江艦隊所属する砲艦サンドパイパー(Sandpiper, 排水量185トン)は避難する外国人保護のために外国人施設附近に留まった。

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葛根廟事件」の記事における「事件の経過」の解説

1945年8月8日ソ連日ソ中立条約破棄して日本宣戦布告し、さらに8月9日未明満洲国朝鮮半島樺太などに侵攻開始した8月10日11日両日興安別称興安街ないし王爺廟。後の内モンゴル自治区ヒンガン盟ウランホト)が爆撃を受け、興安都市機能はほぼ破壊された。11日午後4時興安街在住日本人約千数百人が近郊のウラハタに集結興安総省参事官浅野良三指揮の下、行動隊組織された。 行動隊当初の目的地は北東へ約100キロメートル離れたジャライド旗扎賚特旗)だったが、12日からの降雨興安軍による馬車略奪などにより計画変更興安街南東40キロメートル位置する葛根廟を経由し列車(白阿線(中国語版))で白城子(後の吉林省白城)へ避難同地関東軍保護を受けつつ列車でさらに南下するという計画立て徒歩移動開始した8月14日午前1140分頃、行動隊葛根丘陵付近まで到達したところで、ソ連軍中型戦車14両とトラック20台に搭乗した歩兵部隊遭遇したため、浅野参事官白旗掲げたが、機関銃射殺された。ソ連軍丘の上から行動隊対し攻撃開始し戦車機関銃攻撃加えながら、避難民轢き殺していった。戦車後方からは、ひき殺され人々キャタピラ巻き込まれ宙に舞いだしたという。ソ連軍戦車攻撃ある程度続けると、丘に引き返し何度も避難民めがけて突入しながら攻撃繰り返した戦車による襲撃が止むとトラックから降りたソ連兵生存者を見つけ次第次々と射殺し銃剣止め刺していった。2時間余りの間に非武装女性子供主体とした1,000人以上が殺害され生存者は百数十にすぎないとされている。殺害免れた者も戦車轢かれたり、被弾して負傷したものや、家族殺害されたものがほとんどであり、大勢自決した犠牲者のうちの200近く児童は、興安街在満国民学校児童であった護衛反撃に回るはずの肝心関東軍部隊は既に南転済みであった生存者対す襲撃執拗極めた生存者は、中国人暴民によって、身につけている下着にいたるまで身ぐるみ全てを剥がされるなどした。また、暴民から逃れようとして川で溺死した者もいた。ある女性ソ連兵子供殺され続いて襲ってきた暴民衣服全てはぎ取られた上に鎌で乳房切り落とされている。暴民たちは、生き残った母子を見つけると母親を棒で殴りつけ、子供奪っていった。親を殺され子供達は、生き残った大人のもとに集まっていたが、暴民たちはその子供たちをも同様に奪っていった。当時日本人男児300円、女児500円売買されるのが一般的であった8月15日終戦後も、避難民対す襲撃続いた事件後に10余り婦女子一団加わった12歳の少女証言によると、少女加わった女性たち一団は、暴民襲われ衣服奪い取られ暴行を受けるなどしながら一週間余りをかけて葛根廟駅(中国語版)から10キロところにある鎮西駅(中国語版にたどりついた。女性たちは駅から少し離れたところにある畑の空き家身を寄せることにしたが、夜になるとソ連兵発見され深夜まで暴行が行われた。暴行が終わるとソ連軍兵士たち屋外積まれてあった枯れ草家の中投げ入れて火を付け女性たち焼き殺そうとした。少女と妹は窓のそばにいたために難を逃れることができたが、他の女性たちは火の回り早く脱出できなかったようであると証言している。助かった少女その後残留孤児として生きること余儀なくされた。 一方中国人モンゴル人朝鮮人なかには生存者食事提供する者もおり、中国人なかには子供手厚く育てる者もいた。行動隊生き残った親を殺され子供たちは、さまざまな経緯から中国残留孤児となっていた。約30人残留孤児となったまた、多く女性中国残留婦人となることを余儀なくされた。 国民学校校長夫婦以下児童270人うち200人が殺害された。 藤原作弥は、この事件暴民ではなく一国軍隊攻撃によって無差別的に大量虐殺されたジェノサイドであり、その点では終戦時満洲日本人難民遭遇した悲劇なかでも最大のものである評している。

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東京教育大学生リンチ殺人事件」の記事における「事件の経過」の解説

1970年昭和45年8月4日早朝東京都新宿区東京厚生年金病院(現、東京新宿メディカルセンター)の警備員から「玄関前に死体がある」との110番通報があり、上半身裸の若い男性遺体遺棄されているのが発見された。 警視庁捜査によると、被害者当時東京教育大学理学部化学科3年生で、革マル派活動家のEと判明した前日8月3日午後3時頃、池袋駅東口街宣活動行っていた中核派活動家偶々通りかかったEを発見その場殴る蹴るの暴行加えたその後、Eに猿ぐつわ目隠しをして、デモのようにしながら飯田橋法政大学拉致した。 中核派活動家らはEを法政大学第二校舎通称六角校舎地下室連行し椅子縛り付け、“自己批判”を要求したり、「反革命死ね」「ここから生きて帰れると思うな」と罵声浴びせながら、集団リンチ加えたリンチは Eが気絶する水を掛けるなどして意識回復させ、更に暴力加え凄惨なものとなった。やがて幹部達は「このまま帰す報復が怖い。とどめをさせ。」とする結論達して Eを殺害。翌4日遺体東京厚生年金病院車寄せ遺棄した。リンチが行われた地下室は、幹部命令無関係5-6人の学生により徹底的に掃除が行われたほか、凶器角材モップ、Eの教科書などの所持品学校焼却炉焼かれ証拠隠滅が行われた。

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湧別機雷事故」の記事における「事件の経過」の解説

事件の舞台となった下湧別村は、北海道北部オホーツク海面した漁村である。昭和17年初頭当時太平洋戦争開戦から半年ほど、日本軍がまだ快進撃続けていた時期であり、北辺のこの地には平穏な空気流れていた。流氷南風受けて去り根雪融けて畑土が顔を覗かせる中、住民らは鰊漁作付け準備追われていた。 そんな折の4月ころから、漁民たちの間で「浮遊機雷らしいものが見える」との噂が立ち始めたオホーツク海沿岸という立地条件故、日本海軍、あるいはソビエト連邦アメリカ合衆国敷設した機雷流れたものと想像された。その機雷が、5月下旬至って村内ポント浜(ポン・トは、アイヌ語小さな沼の意)と、サロマ湖東岸ワッカ海岸ワッカは、アイヌ語水の意。砂州の中ながら淡水湧き出す立地)に相次いで漂着した機雷漂着知らせ村内駐在所から内陸遠軽警察署即座に伝えられた。警察署側では一挙に2個の機雷漂着驚きながらも、これを安全な場所(陸上)に移した上で公開爆破処理する計画立案一般に通達した。一般へ通達は危険防止への配慮もあったが、時節がら「戦意高揚」(プロパガンダ)の目的でもあった。陸上での爆破処理は、機雷威力広く衆人知らしめるとともに、仮に水中爆破され場合周辺海域魚介全滅することを嫌がった漁民意見受けてのことである。こうして、5月26日正午ポント浜での爆破作業実施決定した通達受けた湧別警防団では、爆心予定地から半径1,000 mを危険区域として赤旗表示し、2個の機雷並べて配置する作業着手前日25日までに滞りなく終了した

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井口村刃傷事件」の記事における「事件の経過」の解説

文久元年3月4日の夜、小姓組山田新六の長男山田広衛と茶道方・益永繁斎が、節句祝い宴会帰り井口村現・高知県高知市井口町)の永福寺という寺の門前郷士中平忠次郎と肩がぶつかる。当初忠次郎は非を認め謝罪し立ち去ろうとしたが、相手郷士見た山田は酒の勢いもあり忠次郎を罵倒し口論到る口論の末に逆上した山田抜刀し、忠次郎もこれに応戦するが敵わず殺害されてしまう。 忠次郎に同行していた宇賀喜久馬忠次郎の兄・池田寅之進にこの事態知らせ2人急いで現場駆けつけるが、時既に遅く忠次郎は殺害された後だった。近く小川で刀を洗い喉の渇き潤している山田発見した寅之進は背後から袈裟懸けに斬り掛かり山田殺害近くから提灯借用して現場戻ってきた繁斎も殺害した。 寅之進は当初、弟の亡骸運ぼうとするが、現場駆けつけ上士諏訪左衛門上士長屋孫四郎2人が「死体みだりに移動させることは禁じられている」と彼の行動咎めた。その為、寅之進も一旦、弟の亡骸を寺の門前へと戻し改め上士たちの亡骸山田家に、忠次郎の遺体池田家へと引き取られる翌朝には事件人々の知るところとなり、山田の家には上士達が、寅之進の家には郷士達が集まる。両者互いに対決せんと息巻いており、一触即発危機迎えていた。この時、郷士側に当時25歳坂本龍馬参加した伝えられる。『維新土佐勤王史』には、「坂本等、一時池田の宅に集合し、敢て上士対抗する気勢示したり」とだけ記されている。 事態は寅之進と喜久馬の切腹をもって終結した宇賀喜久馬切腹親族立会いの下、介錯をしたのが喜久馬の実兄である寺田知己之助(寺田利正宇賀良平次男18歳の時、同じく郷士寺田右衛門養子となる。寺田寅彦父親であった実弟介錯した当時25歳知己之助はその後精神病んだとも伝わっている。

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ニシキファイナンス」の記事における「事件の経過」の解説

1995年7月 倒産 1995年8月 大阪地方裁判所から破産宣告を受ける。破産管財人米田実弁護士1996年9月 社長らが詐欺容疑で逮捕される。

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美麗島事件」の記事における「事件の経過」の解説

1979年11月30日台湾人委員会高雄市第一分局対し世界人権デー当る12月10日午後デモ申請した不許可との決定伝えられた。その後数度申請試みられたが、結局許可得られず、党外活動家元来計画従い高雄市にて無許可デモ決定した12月9日国民党政府軍事演習理由12月10日全てのデモ活動禁止宣言したデモ当日、『美麗島』のボランティアである姚国建と邱勝雄は活動日時知らせビラ配布により逮捕官憲暴行受けた。『美麗島活動家逮捕事実を知ると警察対し即時釈放要求両名翌日未明釈放された(鼓山事件)。この事件が党外活動家怒りを買い、元来デモへの参加計画していなかった多く活動家高雄向かいデモ参加準備開始した12月10日午後6時デモ隊デモ開始当局治安部隊出動させこれを阻止しようとした。集会地として計画された「扶輪公園」は既に封鎖されていたため、デモ隊急遽現在の新興分局前のロータリー集会地を変更した集会黄信介演説開始される治安部隊によりデモ隊は完全に包囲された。施明徳姚嘉文警察側との協議行い午後11時までの集会許可と、治安部隊撤収要求したが、警察側治安維持名目にこれらの要求全て拒否した午後8時半治安部隊デモ隊対し催涙弾使用開始する集会現場混乱双方間での衝突発生し午後10時前後には警察応援部隊到着し大混乱となった事件発生後12月13日午前6時政府台湾全島での党外活動家逮捕決定治安部隊全島に展開させた。1980年2月20日憲兵軍法会議叛乱罪で黄信介施明徳張俊宏、姚嘉文林義雄陳菊呂秀蓮弘宣らを起訴、その他三十数人一般法廷で起訴された。張徳銘、陳継盛などの支援の下、党外活動家側は弁護人選定着手し最終的に15人の弁護団結成された。被告1名に弁護士2人対応して裁判が行われたが、軍法会議起訴された8人全員有罪施明徳無期懲役黄信介には懲役14年、その他6人には懲役12年言い渡された。

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2007年ターリバーン韓国人拉致事件」の記事における「事件の経過」の解説

7月19日 - ターリバーンアフガニスタン短期宣教参加していた大韓イエス教長老会高神)に属す韓国人福音派キリスト教徒23名を拉致し、アフガニスタン政府対し人質の解放引き換えターリバーン兵士釈放要求7月21日 - ターリバーン交渉期限24時間延長22日23日にも交渉期限24時間延長する7月25日 - 人質のうちの一人であり、リーダー格の42歳牧師殺害7月26日 - ターリバーン報道官は、アフガニスタン政府要求応じ新し期限27日の朝まで遅らせる語った7月31日 - 更に人質男性一人29歳)を殺害8月1日 - ターリバーン韓国政府直接交渉開始同日夜、ロイター通信が「救出作戦開始」の誤報配信8月11日 - ターリバーン代表と韓国政府代表が対面交渉開始8月13日 - 人質女性2人解放8月28日 - 残り人質19全員解放合意8月29日 - 人質の内、女性10人と男性2人解放8月30日 - 最後まで残っていた人質7人が全員解放される

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事件の経過

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熊本主婦殺人事件」の記事における「事件の経過」の解説

1979年9月11日午後2時頃、熊本県免田町(現:あさぎり町)の道路歩いていた主婦当時21歳)が近くの畑に連れ込まれ暴行目的で首を締められた末に刃物メッタ刺しにされ殺害される。後に男が殺人罪逮捕、起訴される。

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制服警官女子大生殺人事件」の記事における「事件の経過」の解説

1978年昭和53年1月10日午後東京都世田谷区経堂二丁目アパート一室で、この部屋に住む被害者である清泉女子大学4年生女子大生当時22歳)が死んでいると家主から110番通報があった。 女子大生窓際ベッドの下にうずくまるように倒れていて、ストッキング絞殺されており、暴行され形跡もあった。部屋には物色した形跡もあった。北沢警察署殺人事件として特別捜査本部設置し捜査開始したその後第一発見者家主ではなく若い警察官であり、通報家主彼に頼まれしたものという事分かった。その警察官北沢警察署経堂駅派出所勤務する男性巡査当時20歳であった(彼はこの事件の捜査にも加わっていた)。巡査事情聴取対し、この日の午後4時半頃、現場アパート近くパトロール中、ガラス割れる音を聞いたので駆けつけたところ、女子大生遺体発見したのだと話した。 しかし、時間合わないその場署活系無線使って署に至急知らせればいいのにそれをせずわざわざ110番通報させた、などのあやふやな部分があり、その度巡査は話を二転三転させた事から、不審思った刑事たち巡査追及し始めた巡査犯行否定し続けたが、顔にひっかき傷があるのを指摘される犯行認め逮捕即日懲戒免職となった)。更に、家主巡査見た時には服装が随分と乱れており、制服ボタンちぎれており、更に調べると制服内のパンツから女子大生血液検出された。またその後調べで、巡査パトロール中に住人不在部屋を見つけると、侵入して現金などを盗む空き巣も数件行なっていた事が発覚した

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陶山の薪争い」の記事における「事件の経過」の解説

焼き物を窯で焼くには大量燃料)が必要であり、その確保のためには豊かな山林不可欠である。当訴訟は、須恵器陶工たちを束ねる河内・和泉両国が、を採る山(陶山)の帰属ないし採取めぐって争ったもので、その経過は『日本三代実録』にわずか2箇所程度記述ながら、以下の通り見える。 天安3年3月4日ユリウス暦859年4月10日)、遣左衛門少尉正六位下朝臣今影・右衛門大志従六位上桜井田部雄麻呂、於河内・和泉両国弁決陶山之争。 貞観元年4月21日859年5月26日)、河内・和泉両国、相争焼陶伐之山、依朝使左衛門少尉紀今影等勘定、為和泉国之地。 陶山をめぐる2国間の係争について、3月4日朝廷から紀今影・桜井田部貞雄麻呂の2名が派遣され審議結果4月21日陶山和泉国属すると裁定されたことがわかる。なお、両記述の間の4月15日859年5月20日)には貞観改元している。

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能崎事件」の記事における「事件の経過」の解説

1944年後半から日本本土空襲が行われるようになった硫黄島占領され1945年3月以降関東地方各地都市毎日のように米軍機による襲撃を受けるようになっていた。 1945年6月23日千葉県八日市場町上空にP51の編隊襲来機銃掃射などを加えた。やがて編隊九十九里方面離脱していったが、うち一機が迎撃上がった日本軍戦闘機交戦し被弾久賀村墜落した撃墜され搭乗機操縦士だったジョン・スキャンラン・ジュニア(John V.Scanlan Jr.) アメリカ陸軍中尉当時24歳)は落下傘脱出した降下中に日本軍戦闘機から銃撃浴び降下した久賀村では村人軍人から竹槍銃剣刺され重傷負い捕らえられた。 スキャンラン中尉は第152師団司令部置かれていた佐原町立国学校一部校舎トラック連行され簡易治療受けた後に捕虜尋問受けたその後、スキャンラン中尉両手縛られ一部校舎裏手にある校庭出された。町では「アメリカ兵捕まった小学校連れて行かれた」などという噂が流れ次第一部校舎見物人集まってきた。軍人戸惑い憎悪入り混じった目でスキャンラン中尉を見つめる町民の前で「お前らの敵だぞ」と言い放って一部校舎生えていたを2本折ると、2、3中尉の体を叩いて見せた。それを見て一挙に興奮した町民達はその奪い合うようにして次々とスキャンラン中尉叩いた激し憎悪駆られ叩きつけたためはすぐに折れてしまった。そして身動きできないほどの町民集まったため、4、5人の軍人たち倒れ込んでいたスキャンラン中尉起こし学校対岸にある広い校庭へ引きずって行った対岸の広い校庭には、さらに多く町民集まりはじめた町民達の中には米軍機による度重なる空襲さらされ身内失ったり、戦地身内亡くした者も既に多く、「息子のかたき」、「父ちゃん返せ」などと叫びながら、女性子供老人中心とした数千人の群集取り囲んだ。やがて町民誰かが持ってきた竹槍や棒で代わるがわるスキャンラン中尉叩きはじめた校庭にあった朝礼台の上では拡声器持って「もっと叩け、もっと叩け」と煽動する町民もいた。叩かれる合間衛生兵カンフル注射2、3打ったが、最後注射には反応はなく息絶えた。それでも気の収まることのない町民はスキャンラン中尉叩き続け数時間余り暴行のすえスキャンラン中尉死亡した中尉亡骸浄国寺隣接する無縁仏埋葬するための共同墓地荒縄縛られた状態で逆さま埋められ其の上には彼が履いていた靴が供えられた。

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人民戦線事件」の記事における「事件の経過」の解説

反ファシズム統一戦線内部社会民主主義自由主義反戦運動と言った多様な側面を持つ運動で、司法省内部には社会民主主義自由主義共産主義温床だとみなす意見があり、内務省警保局はこの意見追従し検挙踏み切った1937年12月15日午前6時警察全国18府県466名(加藤勘十委員長務めていた日本無産党(日無党)、その支持団体ある日労働組合全国評議会(全評)、全国農民組合などの中央地方幹部学者評論家ら)を検挙した(第1次人民戦線事件)。更に、第1次人民戦線事件のあとの12月22日には、日無党全評結社禁止処分となり解散したその後、翌1938年2月1日、9府県38名を検挙した(第2次人民戦線事件教授グループ事件)。教授グループ事件に関しては、当時東京帝大経済学部内の対立からんでたらしい土方成美田辺忠男本位田祥男橋爪明男ら、特に内務省警保局嘱託だった橋爪検挙1枚噛んでいたと言われている。 検挙され484名の内訳は、日無党関係265名、全評関係174名(うち、日無党とも関係のある者は42名)、労農派グループ34名、教授グループ11名である。検挙された中で有名な人物としては、第一次人民戦線事件では、代議士加藤勘十黒田寿男運動家山川均荒畑寒村鈴木茂三郎岡田宗司向坂逸郎大森義太郎など、第二次人民戦線事件では、大内兵衛有沢広巳脇村義太郎宇野弘蔵美濃部亮吉佐々木更三江田三郎などが挙げられる

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二林事件」の記事における「事件の経過」の解説

らは、まず農民講座通して農民権益自衛すべく啓蒙活動行った1925年10月6日には、らは会社対し、以下のことを要求した台湾総督府機関による買付期日決定 刈り取り前の買付価格公示すること 肥料甘蔗農民自由に購入できるようにるすこと 双方協議による買付価格の決定 刈り取った甘蔗重量検査する時は双方一緒に監視すること である。しかしこの要求林本源製糖会社拒絶され同社日本の警察事件へ介入依頼した10月22日林本源製糖会社刈り取り強制買付け実行しようとすると、二林地区甘蔗農家がこれに反発し警察との衝突発展した農民警官サーベル奪い警官9名が負傷する事態となると警察甘蔗農家及びこの運動支持していた台湾文化協会構成員逮捕踏み切った逮捕者には、事件当時現場にいなかった蔗農組合幹部含まれ逮捕者総数400名にも及んだ事件後日労農党布施辰治麻生久の2名の弁護士台中駆けつけ応援した。また台湾文化協会の蔡式穀等も出廷して弁護した逮捕者400名中25名が有罪となった事件中心人物となった李応章1927年昭和2年4月懲役8ヶ月有罪判決言い渡されている。

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漢江人道橋爆破事件」の記事における「事件の経過」の解説

1950年6月25日朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)が大韓民国韓国)を攻撃し韓国軍後退続けていた。6月27日深夜1時、中央庁において招集された非常国会議で、政府水原移転決定された。ソウル市民については当初より移動計画はなく、この席でも何ら対策講じられなかった。この後深夜国会において、「国会議員百万ソウル市とともに首都死守する」との決議なされた午前5時ごろより招集され国防首脳会議において、参謀総長蔡秉徳少将は「政府は南に移動しても、軍はソウル固守する」との決意披瀝したが、散会直後前線から「今晩持ちこたえることは難しい」という悲観的な状況報告受けた27日午前3時ごろ、大統領李承晩はついに周囲説得されソウルより退避した午前6時政府水原への遷都発表したことで、それまで楽観的な報道のみを聞かされていたソウル市民は、初め首都危機知った避難路求め市民漢江人道橋付近ソウル駅殺到する一方増援部隊車両北上続けており、市内大混乱陥った6月28日午前1時、彌阿里城北区)において韓国軍防御線が突破され、ソウル最終防衛線は崩壊した。1時45分北朝鮮軍戦車市内突入したとの報を受け、蔡はただちに漢江爆破命令して漢江渡って始興向かった一方参謀総長出発直後陸軍本部到着した第2師団長の李亨根准将第5師団長の李應俊少将第7師団長の劉載興准将はこの命令の件を聞き第一線部隊後退命令受けないままで戦闘継続中であることから、部隊後退させたのちに爆破するように進言した。参謀副長金白一大佐もこれに同意し作戦局長張昌国大佐橋梁爆破中止するよう命じた。張は南漢江派出所爆破指揮所に急行したものの、ソウル市内、特に漢江北岸避難民将兵によって大混乱に陥っており、道路通行極めて困難であった爆破指揮においては参謀総長爆破命令を受け、28日午前2時20分ごろ、陸軍本部工兵監の崔昌植大佐爆破命令下達した。この時、橋梁においては陸軍憲兵警察が、命令なしに後退する車両阻止しようとしていたが、ほとんど統制できなかった。午前2時30分(韓国時間)には、約4000名の避難民漢江人道橋渡っていた。 点火信号同時に人道橋続いて3本鉄道橋漢江鉄橋)が爆破された。爆破中止命令下達するため急進であった張は、爆破指揮所まであとわずかのところで大爆音聞いた統制が不十分であったことから、爆破時に橋梁上には4000人の避難民車両があった。この漢江人道橋爆破事件によって約500-800名と推定される避難民犠牲となったまた、北漢江派出所付近では破片によって40余両の車両大破し多く人員負傷した。そして、韓国軍主力部隊退路遮断され、これらを支援していた1,318両の車両装備品補給品漢江北岸取り残され北朝鮮軍の手中に落ちた。しかし装薬不発により、京釜線複線鉄橋京仁線単線鉄橋が完全に破壊されず、のちに北朝鮮軍戦車漢江渡河を許すことになり、作戦大きな影響及ぼした朝鮮人民軍漢江人道橋到着したのは、爆破から6時後のことであったこのように混乱状態のなかで橋梁爆破したことは、民間人多数犠牲出しただけでなく、爆破行なった韓国軍自身にとっても大きな損失となった。この時点で、韓国軍主力である第2、第3、第5、第7師団首都防衛司令部部隊依然としてソウル外郭防衛線において戦闘継続中であり、また、第1師団坡州南側陣地固守し小規模な反撃繰り返すことで北朝鮮軍攻勢阻止し続けていた。しかし、橋梁爆破され、また北朝鮮軍市内突入したことで、背後遮断されたことを知った各部隊は、雪崩打ったように後退開始したその様相について、日本陸上自衛隊幹部学校旧軍陸軍大学校に相当)の戦史教官たちによる陸戦研究普及会は、 韓国軍主力は、北朝鮮軍強圧さることながら、自ら過早退路遮断したことが決定的な要因となって信じられ速度崩壊していった と評している。 このことから、本事件責任が誰にあるのかが大きな問題となった。蔡は「軍事常識のあるものがそんな命令を下すずがない」、国防次官であった張暻根は「私は命じていない」と主張し結局は現場責任者であった崔が責任をとらされて、 9月21日釜山郊外銃殺された。しかし1962年再審結果無罪となり、崔の名誉は回復された。爆破時の消息を知る米軍顧問は、命令は蔡より発せられており、崔はそれを忠実に実行したに過ぎない信じており、また、当時作戦局にいた匿名高官や、参謀副長であった金は、張次官による命令であった考えているとのことである(陸戦研究普及1970: 68)。 事件から60年経た2010年6月28日韓国では事件以来、初となる慰霊祭民間団体によって行われた現在に至るまで事件犠牲者慰霊碑すら建立されていないため、建設要求する動きもある。

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南海本田ストライキ事件」の記事における「事件の経過」の解説

譚をはじめとする従業員側は、当初月額800元の賃上げ求めた当時同社賃金正社員でも1500であった同年5月20日21日行われた労使間の交渉では、会社側が50元から100元の賃上げ回答示したが、従業員側の要求額と差がありすぎたので、労働者側が反発しスト再開された。5月24日27日28日連続して行われた交渉で、会社側は賃上げ額を小刻みに上積みしていくが、従業員側の要求額とは、なお隔たり大きかった6月1日ホンダ自動車中国法人のパートナー企業である、広州自動車集団会社の曾慶洪総経理が突然工場訪れ紛争調停乗り出す宣言した同日午後に400人の従業員集めて自分調停人になることを受け入れるよう訴えたその結果500元の賃上げをもって交渉妥結した従業員側からすれば800元という当初要求額からは下回っているものの、30パーセント超える賃上げとなっており、十分満足のいくものであった会社側にとっては、受け入れがたい水準ではあるものの、曾総経理立場考慮すれば、受け入れざるを得ないものであった

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山口県下関市6歳女児殺害事件」の記事における「事件の経過」の解説

11月28日午前5時前頃 - ニット帽不審な男がアパート敷地内歩いているのを住人目撃する。それから少し後に「助けて」などと叫ぶ女の子のものと思われる声が聞こえて泣き声がした後、静かになる午前5時20分頃 - ニット帽不審な男がアパート前に駐めていた車に乗って走り去るのを住人目撃する午前5時30分頃 - 女性長男長女が隣に住む夫婦火事発生伝え助け求める。長男長女隣人夫婦ベランダ伝い救助される午前5時40分頃 - 男性の妻が119番通報をする。その後火事消し止められたものの、長男長女次女の姿が見えないことに気づくその後アパート近く側溝倒れている次女発見され病院運ばれたものの、1時間半後に死亡確認される

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アルミン・マイヴェス」の記事における「事件の経過」の解説

2001年3月、マイヴェスと被害者男性落ち合った二人はマイヴェスの家まで移動。マイヴェスは男性陰茎切断し男性と共にそれを食している。男性自分陰茎をマイヴェスによって噛み千切られる事を要望したが、それは行われなかった。代替方法として、マイヴェスはナイフ男性陰茎切断しようとした切れ味悪かったことから、より切れ味のいい物に持ち替え切断達成するその後、彼らはその陰茎二人で分け食べようとしたが、火が通っていない状態では噛み切りづらく、結局塩コショウにんにく味付けしソテーにしている。このビデオ見たジャーナリスト見解一致していて、失血により男性自分陰茎食べている頃には男性は既に衰弱している様に見えたという。マイヴェスは大量アルコール鎮痛剤男性与えた。それから、この殺害為に彼の家に増設し部屋その男性の同意の下、殺害した。急速冷凍冷蔵庫男性遺体一部保管し、マイヴェスは数ヶ月にわたりそれを食べた2002年12月新たに食人させてくれる人を求め書き込みインターネット上掲示したことから、マイヴェスは逮捕された。捜査官家宅捜索により、殺害様子収められビデオテープ遺体一部見つかったビデオのあまりの内容に、それを見た人の多く心理カウンセリング求めるほどだった。 2004年カッセル地方裁判所おこなわれた裁判でマイヴェスは故殺罪により8年6ヶ月禁錮刑言い渡された。この事件では、被害男性自発的にこの行為参加している為、マイヴェスを断罪できるのか注目集め、また議論された。2005年4月判決不服とした検察上告した事から、ドイツ連邦裁判所再審命令下し2006年5月9日フランクフルト地方裁判所はマイヴェスに謀殺および死体損壊の罪により前審より重い終身刑言い渡した。これに対し、マイヴェス側は控訴したものの、2008年10月7日終身刑確定した

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キャロライン事件」の記事における「事件の経過」の解説

1837年12月アッパー・カナダトロント近郊において、ウィリアム・マッケンジー(英語版)を指導者とするアッパー・カナダ反乱英語版)が発生した。これは家族盟約として知られる寡頭支配対す住民の不満が原因であった。この反乱イギリス当局によりすばやく鎮圧されマッケンジーアメリカ逃亡する。 彼自身イギリスからの独立求めて蜂起したわけではないが、アメリカ人間違って蜂起イギリス対する自らの革命同一視し反乱軍同情したためアメリカ人民衆によるマッケンジー対す支援が行なわれた。国際法学者島田征夫アメリカ人意図同情の他に、カナダ併合もあったとしている。 ニューヨーク州バッファロー逃亡したマッケンジーらはカナダ国境接すニューヨークミシガンヴァーモントの諸州に住むアメリカ人民衆から援助受けた反乱加わった者は戦況悪化すればカナダから米国領内逃げ込み武器等を補充していた。一方米国政府この内乱に不介入政策堅持し、政府としては反徒いかなる援助与えなかっただけでなく、アメリカ市民個人的援助をも取り締る方針をとった。そして、米国国民反乱に加わることおよび反乱加わった者に対し援助を行うことについて取締まるよう、前記3州知事および地方検事指令していた。 マッケンジーは、アメリカ人義勇兵募集しナイアガラ川の米側の川岸カナダ反乱軍合流し共闘呼びかけた。反乱軍ネイビー島立て篭もった。ネイビー島カナダ米国ニューヨーク州境界流れナイアガラ川中州にあり、カナダ領内にある無人島である。そのネイビー島米国本土連絡するために用いられた軽汽船キャロラインであった1837年12月28日連邦保安官現地から、反乱軍主として米国から参加したもの)がネイビー島に立籠ってその数は千名に及び、彼らは十分に武装され、彼らに対して出され逮捕令状執行不能の状態にあることを報告してきた。 その翌日12月29日キャロライン号はバッファロー出帆して若干の「乗客」(恐らく反乱軍身を投ずるもの)をネイビー島降ろして後フォート・シュロッサー(英語版)(ニューヨーク州)に向いその日のうちにこの港とネイビー島との間を2回往復して午後6時にフォート・シュロッサーに帰港仮泊した。 英国司令官はあまり事情正確に把握していなかったのか、英国海軍に対してキャロライン号を捕捉し破壊せよと命令した英国海軍が川に出てみたところキャロライン号はカナダ領のネイビー島ではなく米国領内停泊しているのがわかった。しかし、ともかくも英国キャロライン破壊作戦実行された。キャロライン号は、その真夜中キャロライン号は武装した英国海軍襲撃を受け、33名の船員及び「乗客」のうち十数名は殺害され又は行方不明となった船体放火されて河上放たれたため、流れてナイアガラ瀑布落下したこのような事態対し米国フォーサイス国務長官は、英国公使ヘンリー・ステファン・フォックス(英語版)に通牒送り米国領土内において米国国民殺害され財産破壊が行われたことに対して深い憂慮の念を禁じ得ない述べ、この事件対す償い要求なされるであろう述べた。これに対しイギリスフォックス公使は、キャロライン号の襲撃者英国正規軍隊であることを認めたが、キャロライン号が海賊的な性格持っていることは十分証明されていると主張した。さらに、国境付近では、米国法令実行されていなかったことを考えると、キャロライン破壊自衛及び自己保存の必要(necessity of self-defense and self-preservation)に基づく行為であると主張した米国政府は、この見解納得せず、1838年5月ロンドン駐在米国公使通じて英国政府賠償要求行った。しかし、英国政府は、考慮を払うことを約束したが、その後4年間、ほとんど何の進展もなかった。 「:en:William Lyon Mackenzie」も参照 「:en:Upper Canada Rebellion」も参照 「:en:Henry Stephen Fox」も参照

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己卯士禍」の記事における「事件の経過」の解説

趙光祖中宗信任をもとに、1517年中宗12)の「昭格署(道教祭祀行なう部署)の廃止」や「郷約の普及」をはじめ、保守勢力対す本格的な改革断行し1519年中宗14)には「賢良科(科挙によらない人材推薦制度)」を実施して勲旧派の強い抵抗を招くことになった事件直接の原因となったのは、「偽勲削除事件」と呼ばれるもので、この年の秋、趙光祖らは「反正功臣人数が多すぎるので、そのうち76名の資格剥奪すべきだ」と国王訴え出た。偽勲問題通して改革対象勲旧派核心部分に及ぶようになると、危機感覚えた南袞・沈貞・洪景舟らの勲旧派は、中宗心理読み取りながら、趙光祖一派朋党政治の害をくり返し上疏し、また後宮利用して宮中桑の葉に「走肖為王」(趙光祖が王になろうとしている)といった工作をして、中宗の心を趙光祖から引きはなすことに努めた実際中宗自身も経筵の席で趙光祖長々と「道学政治」の理想語り中宗君主として聖人統治実践求めるなど、その妥協のない政治姿勢を疎ましく思うようになっていた。 1519年11月国王直訴するため趙光祖らが座り込み始めると、勲臣派の讒言により中宗趙光祖一派断罪する決意固めて趙光祖・金浄・金湜・金絿らの投獄命じた事件発覚すると、成均館儒生ら1千人光化門前に集まって趙光祖らの無実訴えたが、かえって事件のっぴきならない状況にして、士林派への処分早めることになった主導権掌握した勲旧派は、趙光祖綾城(のちの綾州)に流刑処した後、穏健派反対押し切って1ヵ月後に趙光祖賜死した。死に臨んだ趙光祖は、いささか疑念もなく王への忠誠心憂国の情辞世の詩残した38歳であった事件連座して、多く士林派流刑免職となり、中宗時代通じて、その政治行動厳しく規制された。

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事件の経過

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芸大事件」の記事における「事件の経過」の解説

1981年12月1日楽器輸入販売業「カンダ・アンド・カンパニー」の社長神田侑晃が有印私文書偽造および同行使の容疑東京地方検察庁特別捜査部逮捕された。神田は、世界有数楽器鑑定者レンバート・ウーリッツァー社(Rembert Wurlitzer Co.米国)の鑑定用紙偽造しイタリアから輸入した楽器塗装し直した上、自らが作った贋の鑑定書付してニコロ・アマティ作品偽り総額1億1000万円の利益得ていた。 やがて、神田侑晃に対す取り調べ過程海野義雄対す贈賄明らかになった。その一つは、海野神田保有のガダニーニ(イタリア語版英語版)製作のヴァイオリン1丁(価格1600万円相当)を教育研究弦楽器として同大学に購入させ、その見返りとして、神田からビネロン(英語版)製作にかかるヴァイオリン用弓1丁(価格80万円相当)を受け取った件。もう一つは、神田保有のプレッセンダ(イタリア語版英語版)製作のヴァイオリン1丁(価格880万円相当)を自らの指導する学生購入させ、その謝礼として神田から現金100万円を受け取ったであった海野国内外オーケストラ共演し史上最年少東京藝術大学教授就任数多く国際コンクール審査員務める等高名なヴァイオリニストとして知られる人物であった海野新聞社インタビューで「私の出演料1回50万円もする。民音コンサートだって45万円も出す一流演奏家だ。3日出演すれば150万円にもなる。芸大教授として年収500600万円含めれば年収は約2000万円。私が楽器業者からワイロをもらう必要はない。こんなことを言われるのだったら、芸大教授をやめて、演奏活動一筋生きたい」と答えたが、1981年12月8日東京地検特捜部海野受託収賄ならびに有印私文書偽造容疑逮捕同年12月28日受託収賄罪東京地裁起訴した特捜部1976年初めから3年のあいだに神田から海野2000万円近い金品贈られていることをつかんだ法廷では、 ガダニーニ購入リベートとして神田侑晃から弓を受け取った芸大生に神田侑晃の店の楽器斡旋し現金100万円を受け取った件 の2点問題となった。 この問題当時日本社会党参議院議員であった粕谷照美国会で追及し当時東京芸術大学学長であった山本正男が参考人として招致されるなど、著名な演奏家・教育者が関わった前代未聞事件として波紋呼んだ海野逮捕後に芸大綱紀粛正図り教員学外でする個人レッスン当面禁止する申し合わせたため、吉田秀和からは「レッスンをやめてどうするのか。それは日本音楽教育何十年の後退損失意味する恐れがある」「芸大入らず学外にいるものにも才能豊かなあなた方授業を必要とする人間少なくない。それを全部やめるのですか?」と批判された。 1985年4月8日海野東京地方裁判所刑事第10部懲役1年6月執行猶予3年有罪判決言い渡された。これに対して海野は、東京高等裁判所控訴したものの、「裁判これ以上続けることは、精神的に時間的に演奏両立しない」との理由により1985年10月29日控訴取り下げ有罪判決確定したこの後海野家族と共にフランス移住して音楽活動続けたまた、楽器商・神田侑晃については1審実刑判決くだされたが、控訴審執行猶予となった

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事件の経過

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中核派書記長内ゲバ殺人事件」の記事における「事件の経過」の解説

1975年昭和50年3月14日午前6時過ぎ、埼玉県川口市戸塚(現東川口)の男性から「午前3時30分頃、アパート2階いざこざあったようで、気になって午前6時ごろ行ってみたら、ガラス戸破壊され部屋には血が飛び散り男の人死んでいる」との110番通報があった。 埼玉県警察捜査によると、アパートは3畳と4畳半の二間で、男は入口に近い3畳間で丸首シャツパンツ姿のまま死んでいた。一方同日早朝警視庁記者クラブ若い男から「中核派書記長本多延嘉東川口アパート襲った。これは革マル派政治局員襲われたことに対するわれわれの回答だ」と電話があり、指紋本多の弟が身元確認したことなどから、アジト就寝中の中核派書記長本多延嘉革マル派襲撃を受け、鉄パイプハンマー、斧等で全身滅多打ちにされ、頭蓋骨骨折脳内出血により死亡したことが判明した通報した男性県警事情聴取対し、「午前3時30分頃、アパートで騒ぐ音がしたので2階行ってみたところ1516人くらいの男がいて、その中の2~3人はストッキングかぶっていた。男の一人から、『お前は関係ない引っ込んでいろ』と言われたので、そのまま自分の部屋帰った」と話したアパートの住民らは警察知らせようとしたが、電話通じなかったという。鳩ヶ谷電話局調べたところ、現場近く電話線が3か所切断されており、不通になっていた。また、襲撃され部屋本多とは別の第三者名義賃借されていた。 同日夕方革マル派解放社公然拠点)で記者会見開き革マル派全学連委員長土門肇が次の声明読み上げた今朝、わが全学連戦士たちは、反革命頭目本多延嘉に対して階級的怒り鉄槌振りおろしました。これは、産別戦争称して無差別無制限テロ労働者加えるという、世界革命史上前古未曽有反革命集団に対して振りおろした怒り鉄槌であります。わが全学連戦士たちは、午前0時40分に本多東川口戸塚荘というアパートに、防衛隊車で帰ってくるところから捕捉しいました。そして、わが戦士たち本多が面と向かったときに、彼が発した唯一のことばは、“人殺し人殺し”と叫ぶことでしかないという、革命家として未熟な態度示したのです。“完全せん滅”のことばのもとに、殺人賞揚していた男が、本質的に小心者で、自分では殺人なんかできない男であることを、わが戦士対する対応の中でバクロしたのです。 我々は血を血であがなう戦いよしとするものではありません。本多に対して鉄槌加えたのも、殺害目的ではありませんでした。彼が死に至ったのは、全学連戦士燃えたぎる階級的怒りが、鉄槌一ふり一ふりにおいて表現されたことの結果であるということです。 東京教育大学生リンチ殺人事件以降革マル派内ゲバ専門部隊全学連別行動隊 (JAC) 」を創設し内ゲバ強化した一方中核派は「二重対峙・対カクマル戦」の方針策定し革マル派に「宣戦布告」をし、双方による内ゲバ抗争繰り返していた。 革マル派1972年昭和47年)の「内ゲバ勝利宣言」に続き1975年昭和50年3月28日、「中核派解体闘争における勝利を最終的に確認」したとして、「内ゲバ停止宣言」を発表したが、これより前の3月17日中核派は「革マル派対す無差別報復」を宣言し1975年昭和50年)だけで14人の革マル派活動家殺害した

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オイコス大学銃乱射事件」の記事における「事件の経過」の解説

2012年4月2日10時半、看護学科棟にある教室韓国系アメリカ人コ・スナムが侵入する事務員人質取り大学職員後述)を探すよう命じた不在であったため、持っていた.45口径拳銃使いその場事務員射殺し授業中教室侵入学生たちに壁の前に一列になって並ぶように命じた一部応じなかったため、全員殺すと言い放ち銃を約30乱射したその場で5人が死亡し搬送先の病院2人死亡。また3人が負傷した犠牲者韓国20代2人)のほかフィリピンネパールナイジェリアなどの出身者であった10時33分頃に銃乱射事件発生したとの通報受けた警察現地SWAT派遣犯行後、コは死傷者所有していた車で逃走したが、事件発生後1時間半後に約8キロメートル離れたアラメダスーパーマーケット警察投降し身柄拘束された。4日殺人罪など7つ容疑起訴された。 事件翌日には犠牲者追悼する祈り付近教会捧げられオイコス大学前に追悼の花やろうそく手向けられた。

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浅沼稲次郎暗殺事件」の記事における「事件の経過」の解説

近く解散・総選挙が行われる情勢の中で、日比谷公会堂ではこの日、自民党社会党民社党3党党首立会演説会総選挙に臨む我が党態度」(主催東京都選挙管理委員会公明選挙連盟日本放送協会が行われていた。会場2500人の聴衆埋まり民社党委員長西尾末広日本社会党委員長浅沼稲次郎自由民主党総裁池田勇人の順で登壇し演説することになっていた。 浅沼午後3時演壇に立ち「議会主義擁護」を訴え演説始めたが、直後右翼団体野次激しくなり、「中ソの手先、容共社会党打倒せよ」などと書かれたビラ撒く者も出始めた。司会務め小林利光NHKアナウンサー)は「会場が大変騒々しゅうございまして、お話聞きたい方の耳に届かない思います。だいたいこの会場最前列には新聞社関係の方が取材おいでになっている訳ですけれども、取材余地がないほど騒々しゅうございますので、この際静粛にお話伺いまして、この後進めたい思います」と自制求めると、場内拍手沸き上がり一瞬野次収まった。それを見計らって浅沼自民党選挙政策について批判演説続けた浅沼が「選挙の際は、国民評判の悪い政策は、全部伏せておいて、選挙多数占むると……」と言いかけた午後3時5分頃、山口壇上駆け昇り持っていた刃渡り33センチメートル脇差様の刃物浅沼の左脇腹深く、左胸を浅く突き刺した浅沼よろめきながら数歩歩いたのち倒れ駆けつけ側近抱きかかえられてただちに病院直行した秘書官浅沼の体を見回し出血がなかったことから安心したが、それは巨漢ゆえに傷口脂肪塞がれたために外出血見られなかっただけのことであり、実際に一撃目の左脇腹受けた深さ30センチメートル上の刺し傷によって背骨前の大動脈切断されていた。内出血による出血多量によりほぼ即死状態で、近く日比谷病院収容され午後3時40分にはすでに死亡していた。山口現行犯逮捕された。 事件発生直後大日本愛国党総裁赤尾敏らが壇上駆け上がり、三党の党首のみに演説させることについて司会者向かい抗議始めた。また壇上マイクで「共産党にもやらせろ」と主張する男も現れ主催側は休憩にするとして幕を下ろした会場では「浅沼病院担ぎ込まれたが傷は大したことはない」という噂が飛び込み主催者と各陣営の間で「西尾浅沼演説したのに池田できないのは不公平」「浅沼演説中断させられたのに池田演説するのは不公平」といった議論となった。しかし浅沼死亡したという新聞社からの未確認情報首相秘書官伝えられたこともあり、中止決まったその後日本共産党機関紙であるアカハタ記者池田録音機差し出して感想求めたが、池田ノーコメントのまま官邸戻った

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本庄事件 (1923年)」の記事における「事件の経過」の解説

9月4日埼玉県本庄町(現・本庄市)では、住民によって朝鮮人殺害される事件起きた本庄町内でも鉈や棍棒などで武装した自警団中山道などの主要道即席検問所設け通行する人や車への検問行った本庄駅では3日午後東京方面から避難者などを満載した列車に乗っていた朝鮮人青年団らに降ろされ警察連行され本庄警察署内に収容されるなどの動きがあった。県警では混乱を防ぐため、自警団により警察連行され朝鮮人群馬県などの県外移送しようと試み警察官自警団によって県北部に向けて徒歩トラック移送した。県の北部位置する本庄町熊谷町(現・熊谷市)、寄居町妻沼町などには、県南部から移送されて来た朝鮮人滞留する状況があった。本庄署内にも移送されてきた朝鮮人収容保護されており、その人数は証言記録によって異なるが、20 - 40程度であったと見られる本庄署では、興奮した自警団などによる危害遭うことを恐れて朝鮮人労働者らを保護していたが、収容しきれなくなったため、一部トラック分乗させたうえで群馬県方面移送しようとした4日午後1時過ぎ、2台のトラック15人の朝鮮人分乗させて本庄署を出発し群馬県との県境である神流川河原到着した対岸群馬県側では新町自警団検問行っており、朝鮮人引き継ぎ通過拒否した同行警官群馬県警藤岡警察署電話連絡して引き継ぎ依頼したがこれも拒否されたため、とりあえ移送してきた朝鮮人河原残してトラック本庄署へ戻った。この時、降車された朝鮮人らは賀美村自警団暴行を受けるなどしたが、後に賀美村役場収容された。 その後も本庄署では数回分けて数台のトラック朝鮮人分乗させ、群馬県方面への移送試みた夜に入って朝鮮人移送開始したトラック3台が再び賀美村差しかかったが、自警団投石するなどして通行妨害したため、先に賀美村役場収容されていた朝鮮人一行同乗させて本庄署へ向けて引き返した。しかし、トラック神保原村通過した際に群衆トラック取り囲み朝鮮人棍棒殴打するなどの暴行加えて殺傷する神保原事件発生した本庄署ではこれ以上移送は困難と判断し移送中止したトラック本庄署に戻ったところ、署の周辺蝟集していた群衆がこれを見つけて暴徒化し、朝鮮人および警察官襲いかかった暴徒化した群衆署内にも乱入し署内で匿われていた朝鮮人らに日本刀竹槍木刀棍棒丸太などで暴行加え殺傷する至った裁判記録によると、4日午後8時頃、数十人の朝鮮人分乗させた3台のトラック到着し警察署取り囲んだ群衆4000人がこれに襲いかかり、そのうち1台は逃走したが、逃げ遅れた2台に乗っていた朝鮮人虐殺されたという。この時、本庄警察署殺され人数については、殺害加わった当事者らの証言によると85とされるが、東京日日新聞では79名と報じられており、浦和地方裁判所検事正30余名発表している。当時本庄町会議員証言では署内87名、町内で1名の計88名としており、元本庄署巡査証言では署内86名、町内1516名としている。また、戦後建立され慰霊碑には86名と記載されており、関東大震災六十周年朝鮮人犠牲者調査追悼事業実行委員会調査では88プラス不確定14程度となっている。 翌5日にかけて死体署内から荷馬車などで運び出され一部町内火葬場運ばれた。しかし、そこでは処理しきれなかったため、付近野原に穴を掘って石油をかけて焼却され遺骨共同墓地葬られた。 町内では無秩序状態が続き9月6日には300人(目撃者証言)とも3000人(新聞報道)とも記録される暴徒本庄署を取り囲み、「署長殺せ」などと叫んで警察署包囲した。これに畏怖し署長逃亡し乱入した群衆署内破壊したうえ、炭俵石油運び込むなど焼き討ちする勢いであった。署長着任以来遊廓への取り締まり厳しく行うなど、町内有力者などから目の敵にされていたという事情に加え最初に連行され朝鮮人をすぐに釈放したことへの批難発端となり、震災混乱乗じた暴徒このような行動出た考えられるこのような状況危惧した大沢村村長在郷軍人会児玉連合会会長岡本保次らは、本庄駅停車中の列車第9師団歩兵第7連隊乗車しているのを知り指揮官事態告げて出動要請した結果一個小隊本庄署に派遣され同署での事態鎮静化した。本庄署では応援要請し周辺警察署から応援警察官到着したうえ、戒厳令によって県内展開していた陸軍部隊続々本庄町内に入った9月7日深夜には第2師団歩兵第32連隊一個小隊同日早朝第14師団歩兵第15連隊一個小隊到着し町内治安回復図ったその後憲兵隊などからも応援派遣されるなど、陸軍部隊入れ替わり町内派遣され10月26日まで軍隊駐屯続いた

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ピル治験女性バラバラ殺人事件」の記事における「事件の経過」の解説

1986年10月31日デンマークコペンハーゲン港で昼食取っていたタクシーの運転手が、海面漂っていた黒いプラスティック製バッグ発見した中身調べると人間下半身や脚の一部詰められていた。デンマーク警察フロッグマン投入し、港とその周辺海中徹底して捜索11月7日までに約1.5km離れた海底から同じくバッグ詰められていた頭部や腕の部分発見したことで全体揃ったデンマーク警察アジア系と見られる遺体歯形血液型などの特徴ICPO通じて各国手配すると、翌年6月日本の警察庁が遺体とよく似た特徴持った女性見出した現地から取り寄せた指紋その女性のものと照合した結果一致したために、急遽日本警察捜査協力することになったのである女性当時東京都葛飾区東新小岩居住していた22歳無職女性で、海外ピル治験ツアー参加して事件巻き込まれた。 被害者の参加したピル治験ツアーとは、西ドイツ当時)のフライブルク本社を置く、製薬会社による治験の代行業務とする臨床薬理試験受託会社が、東京設立した子会社通じて大阪旅行会社提携国内ピル販売するための治験データ集めるために募集したものであった参加者被害者含めた22歳から30歳までの女性5名で、内容同社開発したピル新薬服用し血中ホルモン分泌状態を検査するなどしてデータ収集することにあった事前説明会では治験に関する詳しい説明施して治験によって何らかの問題起きた際の同意書取り付けていたという。拘束期間は約4ヶ月にも及ぶが、その間渡航費会社受け持ち、さらに手当として1日1万円支給されなおかつ現地ドイツ語学校で学習機会を得る特典伴っていた。 一行1986年5月20日成田空港出発して6月9日から9月12日までフライブルク市内にあるホテル滞在しながら治験要員として過ごした治験終了後、他の4名の女性被害者別れてヨーロッパ各地旅して回り10月帰国している。一方被害者9月17日イタリアへ入国してローマヴェネツィア26日アムステルダム27日コペンハーゲン29日ストックホルム30日オスロ10月3日に再びストックホルムヨーロッパ各地旅して回った10月4日ヘルシンキ入り、そこで「これからコペンハーゲン経由南ヨーロッパ旅行する」と実家手紙送ったのを最後に足取り途絶えた現地警察当局によれば10月8日から15日の間に何者かによって窒息死させられたと見られている。暴行受けた形跡はなく、血液中から毒物薬物反応も出なかった。 なお、被害者都立高校卒業後に千葉市内の短大入学するも、1983年6月中退したその後家族とともに生活しながら、人材派遣会社斡旋セールスアルバイトなどに携わっていた。また、このピル治験ツアー参加する前の1985年12月から1986年1月まで、単独韓国旅行していた。帰国後も家出同然関西方面周遊しており、このツアー参加することも西ドイツへの出発直前成田空港へ向かうバスの中で、実家手紙書いて知らせたけだった

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人肉カプセル」の記事における「事件の経過」の解説

韓国での騒ぎ受けて2011年8月9日中華人民共和国衛生部中国衛生省)の報道官記者会見にて、吉林省衛生当局調査指示したことを明らかにし、「中国法令医療機関遺体売買することを禁じている。人体組織遺体を売る行為断固として取り締まる」と強調した2011年9月22日韓国初めブローカー摘発されたことを複数メディア報じた摘発されブローカー韓国在住中国朝鮮族であり、国際郵便直接持込の2つルートにより韓国持ち込まれていたことが明らかになった。また韓国では関税法234条により輸出入禁止品目指定済であり、8月時点で7件の摘発有ったと言う韓国当局は、2011年8月から2012年3月まで1万7451錠を摘発した発表した。しかし、既に大量に出回っており、摘発されたものも氷山の一角との指摘があり、撲滅容易ではない国内外問題となった後も、人肉カプセル需要無くなっておらず、2012年において、1錠3000前後取引されているという。

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PlayStation Network個人情報流出事件」の記事における「事件の経過」の解説

2011年4月14日より断続的にPlayStation Networkへの接続途切れるようになり、米国時間4月19日(日本20日)、米国にあるサーバー異常な動き確認。そして、米国時間4月20日(日本21日)、PSN大規模なアクセスエラーが生じサインインできない態となった。4月23日外部要因とみられる影響発表されたが、実際4月17日から4月19日にかけて受けたシステムへの不正侵入により、PSN利用者、約7700分の個人情報流出した可能性出たためにサービス停止したことが原因であった。 不正侵入受けたことについては日本時間4月27日公表され各個人にEメールにて呼びかけ行ったが、1週間空けて情報公開に、欧米ユーザーからは訴訟および政治家からの質問状飛び交わされ続けている。ソニー側発表によれば流出したのは「住所」や「氏名」といった個人情報、「PSNIDパスワード」、「クレジットカード番号各種購入履歴」などで、個人情報のうち、名前や住所生年月日などの情報暗号化していなかったが、クレジットカード番号暗号化していたとしている。サービス停止に伴いゲーム配信相次いで延期されたほか、ユーザー離れ指摘するアナリスト現れた。 なお、PSNと共通のネットワーク利用しているQriocity同様にサービス停止追い込まれたほか、Qriocity利用者情報流出したことが明らかにされている。 ソニー日本時間5月1日緊急記者会見行い、「段階的にPSNサービス再開していき、完全復旧5月中を予定している」と会見公表した。またサーバー脆弱性対処していなかったことが不正侵入原因であると発表し一部コンテンツ無料配信などを「お詫び」として提供するが、現段階金銭的な被害認められないとしてユーザーへの一律補償について否定的な考え示したクレジットカード情報流出に関しては、「(クレジットカード情報の)項目を読み行った形跡がない」こと、そして、FBI捜査依頼したことを明らかにした。 5月4日米下院エネルギー商業委員会小委員会が行なった公聴会に(招致されていた)ソニー幹部欠席し非難浴びた公表され回答書によると、すべての利用者7,700万人個人情報不正利用者から盗まれたことが明らかになった(同月3日時点ではクレジットカード情報不正利用はないと報告している)。また、侵入受けたサーバーからは「Anonymousアノニマス)」というファイル発見され、「We Are Legion(我々は軍団だ)」という文字列構成されていた。このことや数週間前のサーバー攻撃から、ソニー以前からPSN攻撃ターゲットにしていた米国ハッカー集団アノニマス関与可能性示唆したが、アノニマス側はブログ上で否定した。しかしNHKの取材で、ソニーグループコンピュータ侵入したことが明らかになった。 5月6日ハワード・ストリンガー会長は同問題対す謝罪文ブログ上に掲載したほか、北米ユーザーに対して1人あたり最大100万ドル補償制度導入した発表5月7日5月1日時点1週間程度としていた一部コンテンツサービス再開当面延期することを決定した5月12日ソニー再開向けて安全性の高いサーバー情報移設完了した」と発表引き続き暗号化強化新たなファイアウォール設置作業などを行っている事も明らかにした。また、サイバー攻撃早期発見促す警告システム導入なども行うという。 5月15日、PS3のアップデート行ない米国および欧州地域においてPSNおよびQriocityサービス段階的に再開する発表した5月16日ストリンガーメディアに対して取材応じ「対応は迅速であった」と答えているが、英語版CNETにてこの記事見たユーザーの評価合計して83%がたちの悪いジョークだという評価下している。 5月17日米下院エネルギー商業委員会小委員会再度ソニー質問状送付した欧米での一部サービス再開にあたり、PS3のアップデートパスワード変更必須とするしていたが、Webサイト上でパスワードの再申請手続きにおいて、漏えいしたメールアドレス生年月日入力する本人でなくても再申請が可能となる欠陥発覚5月18日Webサイトでの再申請サービス中止した(PS3からの再申請は可能)。 日本およびアジア地域再開近日中行われるアナウンスされているが、日本では経済産業省から「5月1日対策として挙げられていた事項遂行されていない」と再開許可下りていない。理由内訳としては、ソニーカード不正使用への監視対策講じていないことや、日本には欧米のような補償サービス存在しないことなどが挙げられる6月4日、ソニー・ヨーロッパは、外部流出したのは一部公開情報だけで、サイト利用者個人情報盗まれていないとしている。AP通信によると、不正侵入したのはレバノン出身ハッカーで、外部流出したのは放送用などの業務用機器購入した顧客機器使い方教え契約社員氏名顔写真メールアドレスだけだという。ただし、これらの情報はすべてウェブサイト公開していた。 6月6日5月下旬からSPE等へクラッキング行っていた集団LulzSec」がPSNクラッキング試みた際に入手したPSN開発者ネットワークソースコードtorrentにて公開した6月10日スペイン国警察アノニマスの3人を逮捕した発表。しかし、DDoS攻撃証拠はあったもののPSNサーバクラッキング関わる証拠が見つからなかったため翌11日釈放された。 6月15日共同通信情報公開請求対し経済産業省公開した資料により、相当量データ漏洩したことをことが明らかとなった。なお、5月1日会見では「一部情報漏えいしていた可能性がある」と説明していた。これに対しSCE広報は「ユーザIDパスワード個人情報ではない」と釈明している。 6月20日新しく提訴され訴状より、個人情報漏洩事件から2週間ほど前にソニーセキュリティ担当部門従業員多数解雇していたことが明らかとなった9月15日アメリカにおいて規約改正行い、「PSN使用し続け場合クラスアクション参加して申し立てできないソニーに対して成立する可能性がある法制サインすることもできない。」といった旨の規約発表された。

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事件の経過

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麗水・順天事件」の記事における「事件の経過」の解説

10月19日夜、隊内の南労党細胞組織、約40名が兵器庫占拠ラッパ吹いて全隊員約2000名を整列させて反乱決起促すと、隊内にいた北朝鮮シンパ多数歓呼してこれに応じ反対したものその場射殺したため全部隊(以下、反乱軍)が反乱同意反乱軍直ち車輌分乗麗水邑の麗水警察署麗水郡庁などを占拠収監されていた政治犯解放し、彼らの案内で町から警察官のほか、李承晩派の韓民党員、右翼団員などを次々捜し出して射殺した報道 では数日間のうちに、警察官100名、李承晩派の市民500人が反乱軍殺害されたという。 10月20日麗水邑内をほぼ掌握した反乱軍は、順天郡駐留する14連隊2個中隊と合流その日午後に順天をほぼ制圧した光州より第四連隊一個中隊鎮圧急派されたが、この部隊指揮官射殺して反乱合流する10月21日李承晩政権麗水順天地域戒厳令敷き鎮圧部隊10大隊(以下、正規軍)に出動命令を出す。反乱軍は更に周辺地域にも掌握の手広げ光陽谷城宝城求礼へと展開。22日周辺集落展開し徐々に求礼から智異山移動続けた10月23日早朝正規軍による順天攻撃開始される。この時すでに反乱軍主力麗水及び北部山岳地帯退いており、市内には守備についていた学生市民残っていただけであったこの為、ほとんど抵抗も無いまま午前11時に市内鎮圧正規軍は更に反乱軍追って麗水邑に移動開始する10月24日麗水へ向かう正規軍反乱軍待ち伏せ遭い正規軍270名余が戦死。この時に鎮圧部隊総司令官重傷を負う。この間反乱軍主力北部智異山移動10月25日麗水邑内へ正規軍侵攻市内反乱軍兵士200名余と学生市民1000名余によって防御されていたが、正規軍との圧倒的な兵力差により僅かな抵抗とどまった。それでも市街戦2日続いたが、10月27日未明には完全に鎮圧された。ただちに市内各所大規模な同調者摘発李承晩派による報復が行われ、反乱共謀者として市民数千人が殺害され市内血の海化した容疑者下着一枚市内小学校連行され処刑され校庭には死体の山ができたが、その中には全く無関係市民多数含まれていたといわれ、軍による大量虐殺疑い持たれている。 複雑な地形智異山逃げ込んだ反乱軍山中潜伏しゲリラ闘争を展開。正規軍は度々掃討行った頑強な抵抗遭い、完全な終結見たのは10年後の1957年であった市街地における戦闘10月27日中に沈静化したが、韓国軍による同調者摘発周辺村落へも波及、軍に連行され住民多く処刑された。この時殺害免れた者も、後の朝戦争混乱乗じて殺害されたという。

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事件の経過

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アクリフーズ農薬混入事件」の記事における「事件の経過」の解説

アクリフーズ群馬工場製造され冷凍ピザ購入した客から、「石油臭い異臭がする」と苦情2013年11月13日寄せられ問題商品受け取ったが、この時点では全品回収はされなかった。その後12月29日までに、日本各地から苦情20寄せられたため調査した結果返品され商品から高濃度有機リン系農薬マラチオン殺虫剤一種)が検出された。 12月29日アクリフーズ群馬工場操業出荷停止し市場出回った全ての生産商品88品目自主回収リコール)すると発表した回収対象商品中にはイオンイオントップバリュ」、西友みなさまお墨付き」、セブン&アイ・ホールディングス「セブンプレミアム」、生活協同組合ブランドプライベートブランド商品含まれており、それらは工場名の表記がなかった。 翌12月30日群馬県館林保健福祉事務所食品衛生法に基づく群馬工場への立ち入り検査実施した検査結果通常の製造工程上で汚染され可能性は低い」と結論付けられ群馬県警察意図的に混入され可能性があるとして捜査開始したアクリフーズ事件発覚当初、「マラチオン急性症状無く体重20キログラム一度コロッケ60個を食べないと、健康に影響ない」と説明していたが、12月31日未明には、アクリフーズ親会社マルハニチロ食品親会社であるマルハニチロホールディングス(以下マルハニチロHD)は、記者会見で「体重20キログラム場合冷凍コロッケを)8分の1個食べただけで、吐き気などの症状起き可能性がある」と説明前述した健康影響説明は、前日厚生労働省から指摘を受け、誤っていたと謝罪撤回した2014年1月アクリフーズ群馬工場勤務する従業員への聞き取り調査実施同月25日アクリフーズ群馬工場働いていた契約社員の男(当時49歳)が農薬混入に関わっていたとして、2013年10月に4回にわたって工場製造され冷凍食品に、農薬混入して工場操業停止をさせた偽計業務妨害罪容疑逮捕された。 被疑者逮捕され2014年1月25日夜にマルハニチロHD側が記者会見開きマルハニチロHD社長及び同社品質保証担当常務アクリフーズ社長が、今般事件と対応が後手回ったことを受け、2014年3月31日付にて引責辞任することを発表した2014年2月16日には契約社員の男が、2013年10月に計9回にわたり、工場製造していた冷凍食品12製品に、農薬吹きつけ食べられない状態にした器物損壊罪容疑再逮捕され、同年3月7日起訴された。流通食品毒物混入防止法違反傷害罪適用検討されたが、前者については、毒性の低いマラチオン法律規制毒物該当することが困難なこと、後者については、健康被害訴えた人の食べ残しからマラチオン検出されたことが無く混入健康被害因果関係立証が困難であると指摘され最終的に見送られた。 2014年7月25日に、前橋地方検察庁は元契約社員懲役4年6ヶ月求刑し8月8日前橋地方裁判所は、懲役3年6ヶ月実刑判決言い渡した2014年9月25日東京地方裁判所は、マルハニチロ商品回収知らせ社告出して約5億9,700万円かかったうち、一部1億円の損害賠償求めた民事訴訟で、元契約社員全額支払い命じ判決言い渡した。 なおアクリフーズ群馬工場は、元々は雪印集団食中毒事件不祥事で、経営悪化した雪印乳業から分社化された雪印冷凍食品群馬工場を、雪印食品雪印牛肉偽装事件による雪印グループ経営悪化により、ニチロ(現:マルハニチロ)へ売却され社名変更再発足した工場である。

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事件の経過

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朝霞自衛官殺害事件」の記事における「事件の経過」の解説

事件の経過月日時間事柄8月21日 20時30分 一場士長動哨任務開始 20401回目定時報告 21102回目定時報告なし 21403回目定時報告なし 2200分過ぎ 警衛司令次の歩哨交代場所に派遣 22104回目定時報告なし 2230分 一士長任務終了時2230分過ぎ 交代場所待機歩哨一場士長交代場所に現れずと報告ラッパ手1名を交代場所に派遣し一場士長捜索開始 23時30捜索発見できず。控え歩哨4名を応援派遣 8月22日 0000分過ぎ 仮眠中の警衛所員7名全員捜索捜索隊員計130030倒れている一場士長発見

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つまようじ少年事件」の記事における「事件の経過」の解説

2013年平成25年6月5日少年はnarukami 793とは別のチャンネル博多駅での通り魔予告動画投稿逮捕される2014年平成26年12月中旬頃、この少年新たにnarukami 793というチャンネル名でYouTube動画投稿し始める。 2015年平成27年1月11日頃、少年YouTube事件発端となる動画投稿投稿内容概要の項を参照。)その直前にも似たような趣旨動画何度投稿していたとされている。 1月13日、この動画メディア各社報道され注目される。これを受けて店側が該当商品の販売中止しメーカー側回収走った為、威力業務妨害として警察捜査開始。それを意図したかのように被疑者少年逃走開始した1月15日警察少年被疑者として逮捕状取り、この少年全国指名手配した。少年自身への逮捕状発布を受け、「リアル逃走中”の完成です」と逃亡開始宣言逃避行先々で「有名人になっちゃったからさ。(リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件手配され2年7ケ月逃亡した市橋達也になった気分」「無能警察はまだ私を捕まえられないんですよ」などと警察挑発した。 1月18日午前7時頃、JR東海道線の列車乗車し京都方面へと向かっていた所、滋賀県米原駅停車した際に滋賀県警被疑者少年逮捕した。。警察少年全国指名手配して以降行方を捜していたが、逮捕の少し前に匿名目撃情報寄せられたという。逮捕直前少年最後動画投稿していた事が後に判明している。 4月1日東京家庭裁判所での少年審判(非公開)により、少年中等少年院への送致決定した

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事件の経過

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JR東日本連続放火事件」の記事における「事件の経過」の解説

8月16日 北区東北本線旅客案内上は宇都宮線東北線)、高崎線上野東京ライン)の第二王子踏切近くにあるケーブル焼けているのが見つかり、現場付近にペットボトル燃えカス落ちていた。また、23日火災起きた品川区変電所後述)から北西に約50mの場所にある線路高架脇でも火災があった。さらに10時頃、品川区変電所近く小火があり、燃えた新聞紙軍手見つかった8月18日 1940分頃、中央本線立川駅国立駅間の高架下配線から出火し信号機駅の設備電力供給するケーブル5m燃えて22時に鎮火したが、信号機などが停電し列車停電していない)中央線快速東京駅高尾駅間が2010分まで、東日本旅客鉄道から電源供給受けている西武拝島線玉川上水駅拝島駅間で23時35分まで運転を見合わせ青梅線立川駅奥多摩駅間、南武線立川駅稲城長沼駅間、五日市線拝島駅武蔵五日市駅間、および八高線八王子駅・高麗川駅間終日運休した青梅線では2本の列車立ち往生し立川駅西立川駅間では約860人の乗客らが西立川駅まで約600m線路上を歩き東中神駅中神駅間でも約660人が中神駅徒歩向かったまた、中神駅では上り列車先頭車両だけしかホーム届かず後方7 - 10両目乗客がはしごを使って線路降りて歩いた立川駅北口タクシー乗り場は約150人の行列ができた。タクシー費用は、タクシー会社東日本旅客鉄道請求することとなったまた、遮断機下りたままの踏切があり、周辺道路渋滞発生した立川警察署によると、高架下は高さ約1.8mのフェンス囲まれ空き地で人が立ち入った形跡はなく、放火可能性は低いという。ケーブルから微量白煙出た後に火が出たのを目撃した人がいた。 8月22日 15時40分頃、中央本線中野駅東中野駅間で線路敷地内設置され通信用ケーブルカバー付近から出火しカバー長さ70 - 80cmほど焼け、約15分後に鎮火したが、快速列車東京駅高尾駅間で約1時間半運転を見合わせた8月23日 20時過ぎ品川区広町変電所敷地内一部焦げているのが見つかった現場からは焼けたペットボトル焦げたティッシュペーパー見つかったほか、火災起きた時間帯には、帽子かぶった30代くらいの男がペットボトルぶら下げて自転車走っている様子が、変電所付近防犯カメラ写っていた。火災直前には、男が変電所敷地内向かってフェンスごしにものを投げ入れたうえ、自転車走り去る姿が住民目撃されていた。 8月27日 13時過ぎ山手線目黒駅恵比寿駅間で線路脇の信号用ケーブル燃え山手線全線埼京線全線湘南新宿ライン大崎駅大宮駅間が一時運転を見合わせ14時15分に全線で運転を再開した。火は約40分後に消し止められたほか、山手線埼京線一部列車一時立ち往生し恵比寿駅まで動いて乗客ホーム上に降ろしたウィキニュース関連記事ありますJR山手線線路脇のケーブル燃える 山手線他で一時運転見合わせ 8月30日 2時過ぎ目黒区三田1丁目の山手線目黒駅恵比寿駅間で架線支えるための滑車溶けているのを点検中の東日本旅客鉄道職員が見つけ、警視庁通報した目黒警察署東日本旅客鉄道によると、架線を吊るすための約10cmの樹脂製の滑車4個のうち、1個が溶けていた。その上に跨線橋があり、防護用の金網直径8 cmの穴が開いており、針金使ってペットボトルつるしたような跡があることから、目黒署は何者かが可燃物入れたペットボトル使い滑車に火をつけた疑いがあるとみて捜査している。 9月5日 1335分過ぎ、東京都国分寺市にある中央線線路脇にて、電柱支え為に取り付けているワイヤ樹脂製のカバー通称・「つる返しの上部が焼かれているのを、線路周辺にて除草作業をしていたJR東日本関連会社作業員発見して警察110番通報行ったウィキニュース関連記事あります一連の不審火関連性JR中央線敷地不審火

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オーロラ銃乱射事件」の記事における「事件の経過」の解説

2012年7月20日0時38分(MDT)、コロラド州オーロラにあるショッピングモール内の映画館において、新作映画プレミア上映会最中事件勃発した実行犯当初館内座席座っていたが後部非常口から一旦退出ガスマスクをつけ、防弾チョッキヘルメットズボン着用し、黒の戦闘用の手袋をはめ、拳銃2丁にライフル1丁、ショットガン1丁で武装した上で開けたままにしておいたドアから再び館内戻り上映中だった館内前方に立ち、催涙ガスを2本投げつけた。ガス立ちこめる中、映画内の銃撃シーン併せて持っていた銃で逃げ惑う観客に対して1020発の銃乱射行ったほか、爆発音もあったとされる持っていた武器はいずれ合法的に入手したものであった警察当時24歳青年ジェームズ・ホームズを、映画館裏の駐車場停めてあった車の中にいたところを逮捕ホームズ警察に対して自宅アパート3階爆発物があると供述したため、室内捜索実施した結果爆発物発見されたため近隣住民避難させた上で遠隔操作で処理を行った発見され爆発物化学物質などが含まれており、解体作業数日要する思われるほど非常に精巧なものであった事件当日地元警察により犠牲者12名、負傷者59名が確認されたことを発表後述のとおり、負傷者数は後に58人に訂正)。なお容疑者逮捕された際、バットマン悪役前作ダークナイト」に登場していたジョーカー名乗ったとされていたが、警察確認できないとしている。 ホームズ7月23日コロラド州アラパホ郡地方裁判所初出廷した。コロラド州検察局は、死刑求刑した2015年8月7日ホームズ被告は、12名の殺人対し仮釈放なしの終身刑12回、さらに刑期最大48年第1級殺人未遂67件、32年第2級殺人未遂が3件、爆発物所持1件で6年加算され傷害致死自宅武器による艤装について加算含めて、計3,318年拘禁刑判決受けた

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重慶トンネル虐殺事件」の記事における「事件の経過」の解説

重慶には、当時重慶国民政府によって日本の航空機攻撃避けるための防空洞が多く掘られた。防空洞は通常の防空壕違い砂岩をくり抜いて作った洞、及び防空洞と同目的使われ地下トンネルなどである。現場となったトンネル(十八トンネル)もその一つ市の中心部の少し西の十八位置していた。 1941年6月5日21時、日本軍重慶大規模な爆撃開始した日本軍24機の爆撃機3回にかけて砲撃空爆3時間ほど続いた。この空爆は5時間ともいわれている[誰によって?]。 この際に、市民1万人が4000から5000人しか入れない十八トンネル突入し空爆中にトンネル上部火災起きたトンネル入り口中国憲兵爆撃終わっていないことを理由防空洞の外に出ることを阻止したため酸素不足、及び混雑による押し踏みつけにより窒息死する者が出た公式調査によると死者992人とされていたが、複数重慶地元年代記では2000人から3000人が死亡した記されている。 この被害者数第二次世界大戦一回爆撃による間接被害者数の総数としては最も多いとされる戦死には含まれない

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富士銀行行員顧客殺人事件」の記事における「事件の経過」の解説

事件10年前となる1988年夫妻東京都区部土地売却して宮代町移住その際富士銀行との取引開始した折からバブル景気都内地価上昇しており、土地売却益1億円のうち5,000万円老後資金として同行貯金した。翌1989年にOが同行入行春日部支店赴任して夫妻担当となり、以来10年付き合いで、夫妻はOを信頼して定期預金運用任せていた。夫妻はともに身体障害持っており、マッサージ師の夫A(当時74歳)は全盲で、妻B(当時67歳)は背骨障害があった。 事件前年の1997年バブル崩壊により銀行貸し渋りが強まる中、Oは春日部市内の運送業者から融資求められたが、業者同行融資基準満たしておらず、板挟みとなっていた。そこでOは「半年ものの特別に有利な定期預金出ましたと言って老夫婦騙し預金通帳印鑑預かって夫妻定期預金5,700万円引き出し銀行通さず運送業者など2社に融資する浮貸し」を行った。 しかしその後運送業者倒産して融資回収不能となり、Oは2,500万円債務を負うことになる。Oは名刺の裏に、夫妻から預かった金を「1998年7月2日持参します」と自分名刺の裏書いて渡したものの、返済当てはなかった。そして返済期日前日1998年7月1日、Oは富士銀行から本店融資部への栄転内示を受ける。異動により「浮貸し」が発覚することを恐れて、Oは夫妻殺害を決意するに至った1998年7月2日午前11時頃、Oは夫妻宅を訪れて転勤決まりました」と挨拶した後、妻Bに「最後親孝行思って肩をもませて下さい」と声をかけ、肩をもむふりをして絞殺。そして妻の異変に気付きうろたえる全盲の夫を口封じのため絞殺夫妻にあった返済日を裏書きして渡した自分名刺奪って去った。Oは逃走の際に、証拠隠滅のためガス元栓開けて放火しようとしたが、ガス栓安全装置作動して失敗したため、強盗犯行見せかけるため室内荒らして行った

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全日空857便ハイジャック事件」の記事における「事件の経過」の解説

1995年6月21日東京国際空港羽田空港)発函館空港行き当該機が、午前1145分ごろ山形県上空1人中年の男にハイジャックされた。犯人365人を人質に取って機内立てこもった犯人当時強制捜査受けていたオウム真理教(現・Aleph)の信者名乗っており、サリン所持しているとして客室乗務員脅した。これに対しテレビ番組出演していたオウム真理教幹部の上史浩は、「これはオウム信者のやったことではない」「事実であれば直ち除名する」と声明出したその後当該機予定通り函館空港着陸した函館空港には当該機見守る一般市民数多く見られた。犯人当初麻原彰晃当時被告人)の釈放と、燃料補給して羽田空港に引き返すよう要求していたが、その後の交渉過程では、とにかく機体羽田空港へ戻すことを執拗に主張した犯人機外とのやり取り直接することはなく、客室乗務員通じてやらせていた。また乗客一部解放機内への飲料食料等の補給などは一切拒否した警察庁全国警察動員して搭乗名簿記載され全員身元調べた結果身元不明者として残った者が2人いた。乗客容疑者目を盗んで犯人服装状況連絡してきたこともあり、捜査当局強行突入準備進めた事件発生から約12時間後の6月22日午前0時25分、道警函館方面本部庁舎3階公安委員会室にて最高作会議開催され北海道警察から伊達興治本部長当時)、函館方面本部長、警備部長、捜査一課長函館方面本部捜査課長、機動隊長鑑識課長警察庁から交通局審議官外事課長、警視庁から第六機動隊特科中隊(SAP、後のSAT長等参加した。この席において道警本部長より「強行突入したい」旨の意思示され具体的な突入方法について議論された。会議後道警本部長突入方法警察庁連絡し了承得た同日3時37分、当時内閣総理大臣村山富市指示により、突入班から外れ機内盗聴するなどバックアップ回った警視庁警備部第六機動隊特科中隊が特殊梯子機体L1、L2、L3ドア接続し燃料満載した機体接続することを想定して作られ梯子最上部と機体1階の床には60cm以上の段差があった。)、同39分に警視庁警備部特科中隊員および道警機動隊員らが梯子登り始めた突入先頭をきる道警機動隊員特殊警棒把持し、2番目となる同機隊員実弾装填した拳銃携行した道警機動隊員突入準備完了合図受けた警視庁警備部特科中隊は同42分、3箇所機体ドア解錠した。この段階で函館方面本部長室にて待機していた道警本部長最終意思確認がされ、正式な突入命令の元3箇所機体ドアから道警機動隊員突入した機体1階最前部L1ドア付近にいた犯人は、警察突入気付き機体後方へと走りだした。L2ドアからも突入していた道警機動隊員気付き反転した犯人は再び機体前方走りだし、L1ドアから突入した道警機動隊員向けてドライバー振り上げたが、特殊警棒で額付近一撃され、同45分機内客室18番Gシート付近制圧され逮捕された。 犯人精神疾患休職中の東洋信託銀行(後のUFJ信託銀行、現・三菱UFJ信託銀行行員当時53歳)であり、オウムとは無関係であったまた、所持していると主張したプラスチック爆弾粘土作った偽物であり、サリン思われていたビニール袋中身もただのであった事が判明犯人逮捕翌日1995年6月23日)付で東洋信託銀行懲戒解雇され、1995年7月12日函館地方検察庁に「責任能力あり」と判断され起訴された。 1997年3月21日函館地方裁判所犯人対し懲役8年判決言い渡した検察側・弁護双方札幌高等裁判所控訴し1999年9月30日控訴審札幌高裁1審判決懲役8年)を破棄し犯人懲役10年判決言い渡したその後最高裁判所の上告は行われず判決確定した。なお、犯人全日空から民事訴訟起こされ請求額通り5300万円損害賠償命じられた。 また、この事件当該機2003年7月退役した。なお、「NH857便」は2019年現在全日空便名として使用されているが、羽田空港発ノイバイ国際空港(ベトナム・ハノイ)行きの便となっている。

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カンカラ誘拐事件」の記事における「事件の経過」の解説

12月11日 800人の男子生徒のうち多数拉致された。 12月12日 ブハリ大統領が、陸軍英語版)が中にある武装勢力アジト発見し武装集団銃撃戦繰り広げた発表した12月13日 300人以上の男子生徒が依然として行方不明である。

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宝塚ボーガン殺傷事件」の記事における「事件の経過」の解説

2020年6月4日午前10時15分頃、宝塚市にある住宅男女4人がボーガンのようなもので撃たれ家族3人が死亡した警察殺人未遂容疑現場の家に住む大学4年生と自称した男性現行犯逮捕した。 現場住宅では殺傷能力が高いとされるボーガンの矢が残されており、この矢は命中したあと引き抜きにくくする『返し』が付いていた。 容疑者は「ボーガンで4人を撃った」「祖母、弟、母の順番撃った伯母電話呼び出して撃った」などと供述した。弟は風呂場のあたりで倒れており、2本の矢が頭に刺さっていた。病院搬送された時はまだ息があったが、回復せず亡くなった。 弟は頭部2カ所を撃たれており、同月6日司法解剖死因は「出血性ショックであった。また他の2人死因頭部撃たれことによる外傷性くも膜下出血であった6月6日午前被疑者神戸地方検察庁送検した10月20日神戸地方検察庁被疑者鑑定留置について、当初予定されていた7月6日から11月5日までの鑑定留置12月10日まで延長する許可出た発表した2021年1月22日神戸地方検察庁鑑定留置結果踏まえ刑事責任能力問えると判断し被疑者起訴した

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新城事件」の記事における「事件の経過」の解説

1896年明治29年12月23日漢族李阿隆の協力の下でブスリン、コロ、フフス、カウワン(いずれも現在の花蓮県秀林郷立霧渓河口から景美付近村落)などの集落男子結託して新城分遣隊監視哨急襲し将兵多数殺害した。これを「新城事件」という。 事件発生時の状況詳しく伝え資料はないが、新城花蓮港で警察行政長く携わっていた江口貞吉警視遺稿並びに前述金子乙彦の祖父証言によれば日本兵による不埒な行い漢人タロコ族らの間に不穏な空気流れる中、新城から8キロ離れたシラガン社のタロコ族が猟の帰り砂金採集をしていた日本兵トラブル起こした。これが直接発端となり、タロコ族青年300名は総頭目のヤカオ・バヤシに率いられ兵舎急襲、まず入り口付近で銃の手入れをしていた1名を射殺した当時日本兵らは昼寝最中機敏な反撃行動に移ることができず、結城少尉思しき1人指揮刀を執って奮戦するものの全滅、兵らはすべて頭部切断され兵舎焼き払われ、さらに外出中の日本兵発見される殺害された。こうして日本兵23全員殺害された。 この折、花蓮郊外十六在住漢人・許阿園が焼き払われ兵舎見て驚き夜陰乗じて花蓮逃れ現地在住日本軍知らせることで事件発覚した事件当時新城台湾人漢民族人口100人、日本人警官5、6程度寒村で、台湾東部中心都市である花蓮港も漢民族人口230程度だった。そして新城から花蓮まで20程度の距離はコワチン(鬼)が生い茂り毒蛇マラリア巣窟として隔絶されていた。 そのような状態で情報収集、そして遺体の収容は困難を極めた花蓮守備隊歩兵第三隊長井上少佐2度渡って偵察差し向けたが、途中の三渓(現在の景美駅付近流れる川)で「馘首」され生還しなかった。軍は李阿隆を呼び事情聴取試みるも応じず、再度差し向けた偵察兵も5人全員が行不明になった。 ここで第三大隊第一中隊篠原特務曹長15名の部下率いて渓に至り偵察隊の首無し遺体発見する一方花蓮大隊では基隆第一連隊本部事件報告し歩兵中佐湯地春吉第一連隊長みずからが出動することとなったものの、年内遺体収容並びに制圧ことごとく失敗した

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普天堡の戦い」の記事における「事件の経過」の解説

1937年6月4日午後10時頃、満州国境沿いに有る朝鮮咸鏡南道(現在は両江道甲山郡普天保田里(旧名普天堡)を、東北抗日聯軍第1路軍第2軍第6師(金日成率いたとされる部隊)を名乗る共産主義者武装集団襲撃した。 第6師90名の兵匪は6隊に分かれ普天近くまで侵入した後、朝鮮甲山郡内で達らによって組織されていた「祖国光復会所属甲山工作委員会呼応工作員80名と合流16隊に分かれて午後10時に面(保田駐在所襲撃開始した別働隊は面事務所試験場営林署森林保護事務所消防署襲撃した駐在所には7名の警察官配置されていたが、在勤者は5名(うち2名が朝鮮人)で、さらに襲撃当夜当直勤務見張り所内勤務の2名であった午後10時警備電話線切断、のち数十名が軽機関銃2挺で銃撃加え事務室宿舎殺到警察官応戦の暇もなく全員退避し死亡者は出なかった。しかし、柳井巡査幼子1名が母親と共に避難中、銃弾に当たり死亡したほか、朝鮮人警官1名が負傷。第6師は駐在所から銃器弾薬奪った。1名の警官が佳駐在所逃げ込み恵山警察署電話をかけた。 次に、第6師は面事務所郵便局建物書類等に放火普通学校にも延焼した続けて商店及び住宅襲撃し地元民から現金4000円(現在の物価換算すると約6000万円前後)及び木綿などの衣料品物資奪った被害遭った地元民の殆どが朝鮮人であったが、料理店経営者であった日本人1名が居室殺害された。 この後襲撃隊は4種類ビラ撒き撤退した襲撃による被害総額当初35万円と報じられたが、警察庁警務局資料によると1万5692円(現在の物価換算すると約2億4000万円前後)と結論付けられている。

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江戸川漁業被害」の記事における「事件の経過」の解説

1922年11月 - 本州製紙江戸川工場操業開始1957年6月 - 建築基準法確認申請東京都公害防止条例による許可申請1958年3月下旬 - ケミカルパルプの製造装置新規設置4月1日 - 工場から江戸川黒い排水流れ始める。江戸川下流八ケ漁業協同組合の代表が7、8回も工場出向き汚水被害訴え対応を求めた。これに対し工場は一課長のみしか応接せず、黒い排水放流続けた5月7日 - 東京都陳情5月13日 - 東京都水質試験及び生物試験5月19日 - 千葉県現地調査1回目)。工場排水の採水調査5月22日 - 工場長人事異動5月24日午前9時半頃 - 第1回交渉八ケ漁業協同組合役員1000名が漁船及び自動車工場参集して、東門から工場乗り込んだ汚水の出るマンホールに瓦や石等を投げ込んで水の流れ止めたその際工場労働組合事務所にも入り、戸や障子壊れた小松川署長以下約50名が到着して警備あたった午前10時40分 - 工場内会議室で、工場長他7名と浦安町長、助役漁協組合長8名が5項目を話し合う。現在運転中新規装置から排出される黒い排水直ち止める操業中の古い装置から排出される白い排水は、一刻も早く無害化する設備をする。 被害補償は、会社重役とよく相談して解決を図る。 次の会議日は、5月27日午後3時会議場所は、同じ工場会議室午後1時50分 - 会終了後会議室取り囲んでいた約400名が退場した最後の約30名が退場したのは午後2時10分ごろ。 午後3時 - 旧設備の再稼動後日 - 工場長人事異動 5月27日午後3時40分 - 第2回交渉浦安町長が会議進行役となる。新工場長のあいさつ 新規装置を再稼動したいとする工場側と、無害化施設完備しなければ了解できない漁協側。 白い排水については、ろ過設備設置期限設けること。 今まで被害について、いつごろどのように補償するのか誠意をもって返事すること。 次回会議は、5月29日午前10時5月28日 - 工場役員千葉県水産課に出頭5月29日午前11時 - 第3回交渉物別れに。新工場長から、排水路から沈殿槽切り替え工事をするには8月中までかかるが、その前に新規装置明日からでも再稼動させてほしい。 第三者調査結果により、何らかの方法納得する話で円満に解決したい午後 - 都内5漁業協同組合組合長らが東京都庁新規装置操業停止陳情5月30日 - 東京都水産課長調停で、東京都側の各漁協長が運転再開受諾同日本州製紙専務らが千葉県庁訪れ東京都側被害者解決したので、千葉県側も同じよう調停することを依頼したが、浦安漁協出頭要請拒否浦安町長も調停について態度保留一時間千葉県内3漁業協同組合の代表が、千葉県庁副知事水産課に陳情6月2日 - 午後2時ごろ、工場一方的に黒い排水を流す。 6月3日 - 葛西漁協浦安町漁協の代表が工場長交渉したが、「私たち許可取ってやっていることで、これは会社命令なので、工場長としては方法がない」という答えであった6月4日 - 都庁指導部水産課、県庁水産課に、海の現状見てほしいと陳情6月5日 - 千葉県現地調査2回目)。 6月6日 - 千葉県浦安町初め関係者都庁交渉した結果東京都都庁会社専務口答漁協との話し合いがつくまで操業止めるように指導した6月7日 - 京葉開発綜合研究所による調停案。 6月9日浦安町汚水対策委員会設置。その会議中工場から「本日午後から再稼動する」との電話連絡が入る。町議会議員手分けをして、江戸川工場千葉県庁東京都庁衆議院川島代議士ところに行った午後から12時間 - 黒い廃液放流午後 - 緊急町議会町内15組合主催する町民大会に町と議会協賛することを決めた6月10日千葉県現地調査3回目午後0時 - 町民大会開き汚水直ち止めること、補償支給すること」という決議をした。 午後 - 10台のバス国会対す集団陳情参議院常任委員会ガラス割れる。 午後 - 東京都庁対す集団陳情午後 - 東京都建設局現地指導午後4時半 - 工場管轄する小松川警察署に、第二機動隊三個中隊派遣午後6時前 - 機動隊218名が工場内食堂に待機午後6時8分 - 浦安漁協12台のバス工場正門到着。門を乗越え工場乱入機動隊乱闘になる。漁民側が4名検束される。 その後 - 約600名に増員され機動隊退去命令発し漁民らを工場外へ排除漁民側から更に4名検束される。 漁民側:重傷35名、軽傷108名、検束者8名。警察側:1名入院。 6月11日 - 東京都文書で、除害設備完備するまでその使用停止するように指示6月13日 - 参議院決算委員会参考人質問6月16日 - 会社社長より東京都に、6月11日停止指示に従う旨の文書回答

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事件の経過

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氷見事件」の記事における「事件の経過」の解説

2002年1月14日20時30分ごろ、被害者女性A事件当時18歳)が、自宅侵入してきた男によってナイフ突きつけられて脅され強姦される事件A事件)が発生同年3月13日14時40分ごろには、被害者女性B(当時16歳)が自宅果物ナイフ突きつけられて脅され強姦されそうになる事件B事件)が発生した。以上2事件は、いずれも富山県氷見市発生したのである2002年4月15日B事件被疑者として、タクシー運転手男性甲(以下甲)が強姦未遂容疑富山県警察氷見警察署逮捕され5月5日には別の事件再逮捕された。逮捕のきっかけは甲が少女らの証言する犯人似ていたこととされる。 取調べ任意行われたにも関わらず4月8日以降断続的に3日間、朝から晩まで長時間わたった4月15日3回目取り調べで、既に何が何だか分からなくなり疲れ切っていた甲に対し取調官は「お前の家族も『お前がやったに違いない。どうにでもしてくれ』と言ってるぞ」などという噓で自白誤導した。絶望した甲は容疑認め自白したとして逮捕された。逮捕状は既に準備されていた。 甲の逮捕を受け、自白の裏付け捜査が行われた。その際捜査員氷見署に提出した事件報告書には、逮捕前段階で、被害者目撃証言にあった星のマーク運動靴被疑者自動車後部座席付近にあったと記されている。 甲は、取調官に「はい」か「うん」しか言うなと言われ怖くて「おかしい」などとは言えなかったという。自宅捜索では星のマーク運動靴発見されず、取調官が「捨てたんだろ」と言うので甲は「はい」と答えた警察は彼が捨てた供述した所を捜索したが、やはり運動靴発見されなかった。取調官が「燃やしたんだろ」と言うので甲は「はい」と答え運動靴自宅燃やしたことにされた。被害者目撃証言では犯行サバイバルナイフ突きつけられ、チェーンで手を縛られたとされたが、取調官は甲の記憶違いとして甲の自宅捜索出た果物ナイフビニールひもを証拠とした。被害者自宅見取り図も、取調官が甲の後ろから手をとり書かせた。また、科学捜査研究所担当者は、現場残っていた体液が甲の血液型一致しない可能性認めながら、氷見署長から依頼がなかったという理由で再鑑定しなかった。 この逮捕には、自白に「秘密の暴露全くない」こと、犯行当時明白なアリバイ犯行時刻とされた時間帯自宅から知人電話をかけたというNTT通話記録など)が存在したこと、現場証拠である足跡28 - 28.5 cmだった一方、甲の足はそれより小さい24.5 cmであることなどから、立件は無理ではないかとの声が氷見署内にさえもあった。しかし、甲は2002年5月24日A事件で、同年6月13日B事件それぞれ富山地方裁判所高岡支部起訴された。その後、甲は公判中も一貫して罪を認め同年11月27日富山地裁高岡支部で両事件の犯人認定され懲役3年未決拘置日数130算入)の有罪判決宣告された。被告人の甲が控訴しなかったため、判決同年12月12日確定し、甲は2005年平成17年1月13日仮出所するまで、福井刑務所服役した当番弁護士として同年4月17日に甲と接見した弁護士山口敏彦)は、甲の「やっていない」という訴え聞いたが、その後同年7月2日まで接見行かず起訴後に甲の国選弁護人として就任して以降も、(執行猶予狙い被害者に計250万円支払うことを提案するなど)有罪であることを前提とする弁護活動行った一方、甲の逮捕後も強姦事件起きていた。被害者証言共通していたのは、強姦後「100数えるまで動くな」と逃げ時間稼ぎがされていたことであったこのように手口類似する事件発生していたにもかかわらず富山県警捜査を行わなかった。後に真犯人として逮捕され人物は、服役中報道機関寄せた手紙の中で「富山県警は甲が犯人ではないと分かっていたが、それを隠蔽した」と記している。

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事件の経過

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パリ同時多発テロ事件」の記事における「事件の経過」の解説

時刻現地時間()内は日本時間(分は一致)。 2015年11月13日21時(14日5時)20分 - パリ郊外スタッド・ド・フランス爆発市民1名、自爆テロ犯1名が死亡21時(14日5時)25分 - パリ10区にあるカンボジア料理店「ル・プティ・カンボージュ」とバー「ル・カリオン・バー」の付近で、武装グループ発砲15名が死亡し10名が重傷最初にカリオンの外から客に向かって発砲後、歩いてカンボジア料理店へ向かい11人を射殺した(カンボージュは市内本店長く経営する移民一家4年前に開店した支店で、カリオンとともに同地区人気店)。 21時(14日5時)30分 - スタッド・ド・フランス2度目爆発テロ犯が死亡21時(14日5時)32分 - 11区10区との境目を走るフォーブール=デュ=タンプル通りとフォンテーヌ・オー・ロワ通り交差地点界隈)のピザ店「ラ・カーザ・ノストラ」付近で、武装グループ発砲。5名が死亡、8名が重傷最初に「カフェ・ボン・ビエール」の外で発砲しピザ店との間で5名を射殺した(2店とも近隣人気店)。 21時(14日5時)36分 - 11区シャロンヌ通りカフェ「ラ・ベル・エキップ La Belle Équipe」付近で、武装グループ発砲19名が死亡、9名が重傷。隣の「スシ・マキ」でも被害出た(同店は香港出身中華アメリカ人経営日本料理店)。 21時(14日5時)40分ごろ - 11区ヴォルテール大通りレストラン「ル・コントワール・ヴォルテール」付近自爆テロ。同店テラス席に座り自爆し自爆テロ犯1名が死亡、客15人が負傷した21時(14日5時)40分 - バタクラン劇場武装グループ発砲し押し入り立てこもり21時(14日5時)53分 - スタッド・ド・フランス付近3度目爆発起こりテロ犯1名が死亡した22時(14日6時15分 - パリ警視庁コマンド対策部隊(BRI-BAC)の先遣隊がバタクラン劇場到着11月14日0時(8時)20分 - BRI-BACおよび特別介入部隊RAID)がバタクラン劇場突入しテロ犯3名が死亡。うち2名は自爆少なくとも89人が死亡し負傷者多数出る。 11月18日4時12時30分ごろ - サン=ドニで、容疑者関係先家宅捜索中に警察官数人の男の間で、90分間にわたり銃撃戦発生警察官2人負傷した医療関係者の対応 通報後 - パリ公立病院支援機構(フランス語版)が厳戒態勢に入る。 2234分 - パリ公立病院支援機構は、緊急事態起きた場合想定した病院行動計画書「Orsan計画フランス語版)」にある Plan blanc(白の計画)を発令した20年前に作られ計画であるが、その効果存分に発揮した対応した多く救急隊員医療担当者事前に訓練が行われていたことから、余裕をもって対応がされた(皮肉なことに当日朝に銃撃多発テロ想定した訓練消防隊緊急医療救助サービスフランス)(フランス語版に対して行われていた)。予備部隊を2ユニット後方待機させたことで、事件現場でのリソース飽和起きず柔軟にスムーズに対応がなされた

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2017年ラスベガス・ストリップ銃乱射事件」の記事における「事件の経過」の解説

日時はすべて現地時間 2017年10月1日当時銃撃現場ではライブ・ネイション主催するカントリー・ミュージック音楽祭Route 91 Harvest festival」が開かれており、約2万2千人上の観客スタッフ警備中の警察官などがいた。 午後10時前、「マンダレイ・ベイ・ホテル」32階の警報鳴りホテル警備員1名が調査へ向かう(パドック銃撃用か監視用の穴をドリル開けていた所、セキュリティシステム感知され警報鳴ったものと思われる)。 午後9時58分、パドック部屋前に警備員がいるのに気づき室内から廊下側へ銃弾、約200発を発砲した警備員は足を負傷する自力脱出して警備員室に無線連絡午後10時5分、パドック音楽祭会場へ向け発砲開始銃撃11分間渡って行われた多数撮影され映像後日解析したところ、銃撃断続的に12行われていたことが判明したこの間に1049発の弾丸群衆に向け発射された。 当初観客銃声聞こえても、何が起きたかわからない様子だったが、演奏止まり異変に気づいた人々悲鳴を上げたり、「頭を下げろ」と叫んだしながらその場しゃがみこんでいた。 午後10時8分頃、現場にいた警察官が「銃撃されている」「自動火器のようだ」と無線連絡午後10時15分頃、射撃終了避難誘導警察官民間人による人命救助活動が始まる。 武装した警察官付近ホテル派遣され避難誘導が始まる。 午後10時25分頃、「ラスベガス大通りトロピカーナ避けるように。マンダレイ・ベイから銃撃発生容疑者3人の可能性」と運行中タクシー警察活動知らせ通知現れた。 午後10時15分から30分の間、犯人回転式拳銃自身口腔内に向け発射し自殺した思われる午後10時26分から30分の間、警察官8人がホテル32階に到着負傷者や一般人などの捜索開始午後10時38分、ラスベガス警察Twitter公式アカウントにて「マンダレー ベイ カジノ周辺にて銃撃事件発生。このエリアに近づかないように」と発表午後10時55分、警察32付近宿泊客などの避難完了午後1120分、特殊部隊ドア爆破し1部屋目へ突入パドック遺体確認午後1127分、特殊部隊2部屋目へ突入し安全を確認午後1144分、銃撃現場会場隣接するマッカラン国際空港テロ対策としてすべての航空機発着停止また、後の調査射撃位置から約600メートル離れた空港内ジェット燃料タンク銃弾2発が着弾していた。内1発はタンク貫通しているのが確認されたほか、付近から焼夷弾回収された。パドックタンク燃料爆発引き起こす狙い撃ったものとした。 午後1158分、ラスベガス警察Twitter公式アカウントにて「容疑者1人死亡確認」と発表2017年10月2日午前0時31分ラスベガス警察Twitter公式アカウントにて「事件終結した思われる」と発表

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竹永事件」の記事における「事件の経過」の解説

1945年昭和20年3月から4月頃、日本陸軍41師団歩兵239連隊は、東部ニューギニア北岸アイタペ(en南東内陸のトリセリー山脈en南側山南地区)で、追撃してくるオーストラリア軍交戦であった。竹永正中佐率いる同連隊第2大隊50名は、『第四十一師団ニューギニヤ作戦史』によれば3月24日から、東方後退しつつある連隊主力とは離れて独断西方移動始めた。ただし、竹永隊の小隊長一人だった曹長の手記によると、逆に連隊主力の方が連絡もなく移動してしまったため、見捨てられたと判断して自行動に移ったという。 4月中頃村民によれば12日)、約45人の竹永隊は、家屋数戸のタウ食糧求めて侵入した投げ槍手榴弾などで武装した村人食糧探し始めた日本兵攻撃し戦闘となった。まもなく村人逃げ去った双方2人ずつの死者出た。竹永隊は翌朝タウ出たが、その後付近にとどまった警察隊や住民からの通報で竹永隊の存在知ったオーストラリア陸軍は、4月16日、第2/5大隊からC・Hマイルズ中尉率いる1個小隊選び掃討派遣した4月24日マイルズ小隊は竹永隊と接触して銃撃戦となり、日本2人戦死したひとまず追跡振り切った竹永隊であったが、それ以上戦闘続けずに投降することに決めた。兵が以前から所持していた降伏勧告ビラに、英文降伏条件など書き加え、棒に結びつけて後へ残したマイルズ小隊斥候ビラ発見して持ち帰った5月2日オーストラリア軍西方のウォムグラー集落南緯3度36東経14235分 / 南緯3.600度 東経142.583度 / -3.600; 142.583 (ウォムグラー集落))付近で竹永隊を発見し現地人案内立てて接触図った日本側から2人軍使として訪れて交渉し、翌5月3日、竹永隊はウォムグラー集落降伏して武装解除された。このときの兵力は竹永中佐以下42人(士官5人、准士官4人、下士官・兵33人)で、軽機関銃5丁と小銃17丁、拳銃5丁、弾薬750発を装備していた。捕虜たちは、マイルズ小隊護送されてマプリック飛行場まで3日間の行軍整然と行い、そこからアイタペへと空輸された。 日本側の他の部隊は、竹永隊が道に迷うなどして行方不明になった考えて捜索していたが、オーストラリア軍撒布したプロパガンダビラによって、竹永隊の降伏知った

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新潟市タクシー運転手強盗殺人事件」の記事における「事件の経過」の解説

2009年11月1日午後10時40分頃 - 犯人思わしき若い男JR東日本新潟駅南口から乗せる午後1100分頃 - 発見現場となる新潟市東区空港西一丁目向けて走行しているところを目撃されている。 午後1130分頃 - 新潟市東区空港西一丁目路上ハザードランプ点滅した状態でタクシー停車しているのを近く住人目撃している。 2009年11月2日 午前1時30分頃 - 探していた同僚車両運転手男性発見し110番通報した2011年7月29日警察庁当事件を捜査特別報奨金対象事件指定犯人逮捕に繋がる情報300万円懸賞金懸けられた。

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事件の経過

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言論出版妨害事件」の記事における「事件の経過」の解説

1965年昭和40年ジャーナリスト梶山季之婦人生活に『小説創価学会』を連載すると、梶山抗議投書殺到する雑誌編集長が嫌がらせを苦に失踪し連載途中で打ち切られる。 1967年昭和42年大正大学教授竹中信常宗教学)が『創価学会』(労働法出版)を出版する前の校正段階時期に、創価学会渉外局長山崎尚見からゲラ見せるように要求され提出する。約1ヶ月後に山崎は「創価学会正しく書いていない」として、「こちらが朱を入れ校正した通り直して出版すれば、名誉毀損訴えることはしない」と圧力加える。これにより出版が2ヶ月遅れる。 10月1日公明党書記長東京都議会議員当時)の龍年光が、元創価学会会員植村左内(ペンネーム)が「新日本宗教団体連合会」(新宗連)の機関紙新宗教新聞紙上連載していた内部告発記事単行本(『これが創価学会だ』しなの出版社)として出版することを知り公明党委員長当時)で参議院議員辻武寿二人で自民党本部出向き自民党組織委員長の辻寛一面談する辻寛一は「福田赳夫幹事長とも相談して自民党員誰がやっているかを調査し回答する」と述べる。 10月3日 池田大作竹入義勝連名で『これが創価学会だ』に対す出版禁止仮処分東京地方裁判所申請する10月13日東京地裁は「本もできていないのに、禁止できない」として「仮処分申請には理由がない」として却下池田大作竹入義勝両名は『これが創価学会だ』が名誉毀損に当たるとして民事訴訟提訴。『これが創価学会だ』が「新宗連」の機関紙上で連載されていたことから、同書出版仕掛けたとして「新宗連理事長当時)で 立正佼成会会長当時)の庭野日敬警視庁告訴警視庁庭野出頭求める。 立正佼成会が、出版された『これが創価学会だ』を約10万購入し新宗連初め関係先配布庭野は「社団法人宗教センター理事長日本大学会頭古田重二良からの、立正佼成会が、自らの手で『これが創価学会だ』の本を破棄することで、創価学会立正佼成会の『布教戦争』を一時停戦したらどうかとの提案受け入れ古田会頭仲介で、北條浩副委員長面談し双方の間で示談成立。 『これが創価学会だ』のほとんどを回収し日本大学校庭創価学会・公明党立会いのもと、著者植村所持したものを含めて10万5千38冊が廃棄される公明党矢野書記長は『これが創価学会だ』という本を日本大学焼いたということについて、「公明党は全く関知していない」と語ったが、裁判所提出され訴え取り下げ理由中には「この本の発行済み全部回収努力した結果、各被告ら(植村左内)の所持したものを含めて十万五千三十八冊の廃棄処分原告らの確認のもとに完了した。」と書かれている。。「しなの出版社」が東京地方裁判所出し答弁書によれば自民党幹事長当時)の福田赳夫賀屋興宣古田日大会頭と共に参与したとされるが、福田国会で直接にも間接にも関係していない」と関与否定した。「しなの出版」は古田会頭を介して著者植村左内に無断同書印刷紙型や未製本分を含むすべてを創価学会公明党引き渡し同書出版権放棄する1968年昭和43年1月 脅迫電話頻繁にかかっていた植村左内は、古田会頭要求で、「今後創価学会批判本書かない」という誓約書を書く。当時内閣法制局長官は、「自己の自由意思により第3者との間に将来一定の内容著作物出版しない旨を約束することは国法上、一概に違法とは言えず、民法の規定にある『公序良俗反す契約』、『法律行為の無効』に当たるかどうか約束契約)の内容次第による」旨の答弁をした。 『これが創価学会だ』が無償廃棄されたこと、植村左内が創価学会批判本書かない一筆書いたことを理由池田、竹入は植村対す訴訟取り下げる。後に植村別の出版社から『これが創価学会だ』を出版する2月 西日本新聞東京支社論説委員の隈部大蔵が「隅田洋」のペンネームで『日蓮正宗創価学会・公明党破滅』(東北出版)の出版計画する。普通の印刷をすれば創価学会側に知られるので、個人宅写真植字行ない北九州市の「日進印刷」で印刷に入る段階創価学会側に知られ版元選挙区とする文部大臣剱木亨弘から出版中止要求されるなど、様々な圧力加えられる出版元社長古田会頭強硬な要請屈し出版前本の内容見せる。社長出版社正体不明の者から、「暴力団を向けるぞ」と脅迫され暴力団風の男が身辺つきまとううになるなど、周囲からの圧力ノイローゼ状態に陥った ことなどから初版出版され絶版となる。後に出版社印刷所倒産した(この本の出版契約書には市販できない場合についての異例記載があった)。 9月11日 隈部大蔵連日面会求められていた公明党副委員長当時)の北條浩東京赤坂プリンスホテル面会北條は、ペンネーム隅田洋が隈部であることを突き止めたこと、第2の出版用意していることを調査突きとめたこと、創価学会への批判ゆるさないこと、などを述べた。後に隈部大蔵北條浩が「創価学会公明党批判するものに対しては、創価学会という象は、アリ一匹といえども全力をもって踏みつぶすと言ったとされるが、創価学会はそれを否定している。隈部は身辺家族へ危害会社での地位変化などを恐れ出版社との最終的な契約もできなかったこともあり、密かに進めていた『現代さまよえる魂――釈尊邪教対話』の出版断念1969年昭和44年1月 東京都庁担当毎日新聞記者内藤国夫が「三一書房」からの執筆依頼引き受け、『公明党素顔』の執筆始める。 東京都庁毎日新聞社からも異議唱えられる当時毎日新聞社会部長も原稿読み内容異を唱える内藤は意を汲んで書き直したが、「三一書房」は出版見合わせてしまう。社内承認得て創業し間もないエール出版社」を出版元選び極秘裏に出版準備進めるが、印刷工程ゲラ創価学会側に渡る。 3月 内藤が竹入委員長呼び出され30箇所書き換え削除要求される。 『公明党素顔』の小さ広告が『毎日新聞』などに掲載されると、新聞社編集首脳部が、北條浩 公明党副委員長当時)から「あれだけお願いしたにもかかわらず内藤出版押え切れなかったばかりか、こうやって広告載せるとはわが党敵対するつもりなのか」などと電話抗議を受ける。 日本船舶振興会会長で、「国際勝共連合名誉会長笹川良一が「公明党前に一度恩を受けている」、「本を全部買い取りたい」と買収持ちかける5月エール出版社」に創価学会・公明党幹部らが働きかけるが、『公明党素顔』は出版されるものの取次店から委託扱い拒否され広告掲載断られるようになり、小売店宣伝して注文をとるという方法で、僅かな部数だけが出版される。また『公明党素顔』を出版したエール出版社」が事務所追い立て食らう8月 民社党塚本三郎自身著作公明党折伏しよう』(名南経済振興会)の原稿名古屋市印刷会社手渡すが、工場内に創価学会員が3名ほどいたことから、内容漏れ数日後公明党責任者から民社党責任者出版中止するよう要請なされる取り扱い依頼したある出版社は、創価学会批判書を扱うと、今まで年間数千万円利益得ている創価学会系の書籍扱えなくなるとし取り扱いを断る。

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事件の経過

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関西青酸連続死事件」の記事における「事件の経過」の解説

1994年平成6年)、Kの最初の夫が死亡。夫と共にTシャツプリント加工会社営んでいたKは、夫の死によって得た2000万円生命保険金を会社借金返済充てた。 1998年平成10年)ごろ、Kは結婚相談所登録した 2005年平成17年)年、兵庫県南あわじ市交際男性Gが死亡書類送検されるが証拠不十分のため不起訴2006年平成18年5月、Kは兵庫県西宮市男性2度目の結婚をするが男性8月死亡2007年平成19年)、Kはこの頃先物取引手を出し、Kは約3億円の損失を出す。 同年12月18日兵庫県神戸市北区交際男性C(当時78歳)が倒れ緊急搬送され、2009年平成21年5月死亡起訴案件)。事件直後事件性疑われ検査行われなかったが、体内酸素機能しなくなる青酸中毒特有の症状記録されていた。Kはこの日、Cに投資目的受け取った4000万円返す約束をしていた。2008年平成20年6月にKはCの長女投資配当金を含むとして4800万円返済した同年5月にFを殺害して得られ遺産をこの返済充てたと見られ、Cへの返済回避するためにCを殺害したと見られる中Cの長女返済したのは多額金銭やり取りがあったことがCの親族発覚したことを受けて怪しまれることを避けるためと考えられている。 2008年3月奈良県奈良市交際男性E死亡書類送検後証拠不十分のため不起訴)。Eは死亡の約2ヶ月前にKに全財産遺贈するとする公正証書遺言作成していた。 同年4月、Kは大阪府松原市男性Fと3度目の結婚をするが5月17日にFは死亡した書類送検後証拠不十分のため不起訴)。KはFが死亡5日前に作った「全財産をKに相続させる」という公正証書遺言根拠に約5800万円遺産相続した2012年平成24年3月9日大阪府貝塚市交際男性B(当時71歳)が死亡起訴案件)。Bは喫茶店でKと会っていたが店を出た直後転倒しその後死亡確認された。当初病死見られていたBだったが、A事件発覚後に大阪府警が偶然保存されていたBの血液鑑定したところ青酸化合物検出された。Bの死亡保険金受取人半年前にKに変更されていた他、3ヶ月前の2011年平成23年12月26日には「死亡した場合には全財産をKに遺贈する」とした公正証書遺言作成されていた。Kは事件翌日にBの自宅金庫解錠業者開けさせ、預貯金死亡保険金、Bのマンション売却するなどして合計1943万円遺産取得した2013年平成25年5月大阪府堺市交際男性H死亡書類送検後証拠不十分のため不起訴同年9月20日兵庫県伊丹市交際男性D当時75歳死亡起訴案件)。当時死因肺がんとされ、司法解剖行われていない。Kは搬送先の病院付き添い医師人工呼吸器をつけるか尋ねたところこれを断り、約1時間後Dは死亡した事件18日前にDが全財産をKに遺贈するとの公正証書遺言作成され事件4日後にKは解錠業者にKの自宅金庫開けさせて1538万円遺産取得した。Kは事件4日前に万が一のとき」のためとして、自宅の鍵を渡しておくことと公正証書通帳などを金庫に鍵をかけてしまっておくことを頼むメール送っている。 同年11月、Kは京都府向日市男性A当時75歳)と4度目結婚するが、Aは12月28日死亡した起訴案件)。血液からは致死量上回る青酸成分検出された。Kは2日後には解錠業者頼んでAの金庫開けさせ遺産取得しようとしたが、不審思った親族口座凍結させたため実際にKが得た遺産270万円に留まった。事件当日午前中、KはAの主治医にAが「1週間ほど前に突然下あごと首に激痛走り七転八倒した」と虚偽症状訴え事件の「事前準備」をした疑い持たれた。Kは後の裁判殺害動機としてAが以前交際した女性には「1000万2000万円渡していた」のに自分にはくれなかったことから差別されたと感じたことを挙げた2014年平成26年)夏、Kが処分したプランター内で発見され名刺サイズビニール袋から高濃度青酸化合物検出される同様の袋がKのマンションからも発見される2014年平成26年11月19日京都府警察本部はKをA殺人容疑逮捕。KはAの殺害について当初否認していたが、後に「結婚した後、金が自由にならなかったので殺した」と供述同年12月10日京都地方検察庁はKを同罪起訴2015年平成27年1月28日大阪府警察本部はB殺人容疑でKを再逮捕同年2月18日大阪地検はKを同罪追起訴再逮捕後の取り調べの中でKがA、B以外の男性殺害認めたため、3月大阪府警京都府警兵庫県警奈良県警による合同捜査本部設置される6月11日大阪府警察本部などの合同捜査本部は、兵庫県神戸市のC(死亡79歳)に対す殺人未遂容疑でKを再逮捕7月2日大阪地方検察庁同罪でKを追起訴9月9日大阪府などの合同捜査本部2013年9月20日死亡した兵庫県伊丹市のD(死亡75歳)に対す殺人容疑でKを再逮捕同月30日大阪地検は同容疑でKを追起訴10月27日大阪府警などの合同捜査本部2008年3月死亡した奈良県奈良市のE(死亡75歳)と2008年死亡した大阪府松原市のF(死亡75歳)に対す殺人容疑でKを追送検。2人とも死亡時に司法解剖されず、病死とされていた。Kは2人に関して青酸化合物飲ませた」と容疑認めたが、有力な物証がなかった。 11月6日大阪府警察本部などの合同捜査本部2005年3月死亡した兵庫県南あわじ市男性G(死亡68歳)に対す殺人容疑2013年5月死亡した大阪府堺市男性H(死亡68歳)に対す強盗殺人容疑でKを追送検。2人とも死亡時に司法解剖されず、病死とされていた。 11月20日大阪地方検察庁被害者E・F・G・Hに対す容疑について嫌疑不十分として不起訴とした。

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事件の経過

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松山刑務所大井造船作業場脱獄事件 (2018年)」の記事における「事件の経過」の解説

2018年4月8日午後7時ごろ、松山刑務所大井造船作業場から「受刑者脱走した」と職員からの通報があった。 同8時半ごろ、広島県尾道市向島で、逃走使ったとみら盗難車難車が発見される2018年4月9愛媛県警県警逃走の疑指名手配手配した2018年4月10日車上荒らし遭った車から、容疑指紋指DNANA型を検出される2018年4月13日までに、向島北部現金などの窃盗被害が計7件あった。 2018年4月17日愛媛県警が、脱走後今治市住宅車で車を盗んだとして窃盗容疑指名手配2018年4月24日向島防犯カメラメラ容疑者疑者に似た不審者の姿があった。同日深夜海、海を泳いで逃走している。 2018年4月30日広島市内で逃走容疑逮捕された。

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