事実上の白紙化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/22 04:17 UTC 版)
ところがその直後の1939年8月23日には独ソ間で独ソ不可侵条約が締結された。リッベントロップはこの際に、防共協定は反ソビエト連邦と言うよりも、反西欧民主主義国という性格を持つものだとヨシフ・スターリンに説明している。これを防共協定の秘密議定書違反として日本は猛抗議し、平沼内閣は総辞職したことによって、協定は事実上消滅し、日独の提携交渉はいったん白紙となった。日本外務省内では協定が事実上白紙になったという認識は示されたものの、実際には協定解消などの声も起こらず、手続きは行われなかった。 しかしリッベントロップは翌月9月から再び日本に対する接近を開始した。リッベントロップは持論であるユーラシア同盟がイギリスに対抗できる手段だと説いたが、日本政府の反応は良好ではなかった。しかし1940年にドイツがフランスおよびオランダを打倒してヨーロッパにおける勝利をつかみつつあると認識した日本政府は、ドイツが南アジアおよび東南アジアの植民地に進出するのではないかという危惧を抱いた。リッベントロップはその危惧を払拭し、日本が南方進出に出るように働きかけ、イギリス・アメリカとの対立を深くすることで、ドイツ側の陣営に日本を巻き込もうとした。日本でもこの動きに追随する方向性が強くなり、1940年9月27日の日独伊三国同盟の結成に至った。また日本の松岡洋右外相もユーラシア同盟構想を抱き、1941年の欧州歴訪においてこの構想を実現しようとした。しかしヒトラーは三国同盟結成の時点で独ソ戦を決断しており、ユーラシア同盟構想はすでに崩壊していた。すでに独ソ関係が変化しているというリッベントロップや大島の言葉には耳を貸さず、1941年4月13日日ソ中立条約の締結が実現した。
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