事実上の金銀複本位制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/23 16:49 UTC 版)
伊藤の建議どおり当時欧米では金本位制が主流になりつつあったとはいえ、清をはじめアジア諸国は依然として銀主体の経済圏であり、また対外交易でも墨銀(メキシコドル銀貨)等の洋銀が通用していた。このため新貨条例では、明治政府は本位貨幣である一円金貨と貿易用に限定した一円銀貨を鋳造し、開港場での無制限使用を認めたことで金本位制をうたっていながら、実質的には金銀複本位制を採ったことになる。実際、明治6年(1873年)頃から銀価格の下落が進むにつれ、金貨の国外流出はいっそう激しくなり、明治8年(1875年)には、これまで墨銀に一致させてきた一円銀貨の品目(銀含有量)を米ドルの米国銀と一致させることとし、正式に「貿易銀」と呼称し、事実上の本位貨幣として扱われることとなった(なお、新貨条例は「貨幣条例」と改称された)。 明治10年頃には市場では銀貨の流通量が金貨を上回るようになり、大蔵卿・大隈は金銀複本位制の導入を建議するにいたる。明治11年には開港場だけでなく、国内での無制限通用も認められることとなった。これにより名目上も完全に金銀複本位制に移行した。 しかしすでに明治9年の国立銀行条例改正により事実上不換紙幣の発行が認められるようになっており、西南戦争の戦費支出増大などに伴い不換紙幣の増発が続いたため、インフレが急速に進行。金銀の流出、および退蔵化がさらに進んだため、松方デフレ政策の登場となった。明治十四年の政変により大隈が失脚した後、大蔵卿(明治17年より大蔵大臣)となった松方正義が主導した超緊縮財政、および明治15年(1882年)の日本銀行設立による紙幣発行独占により銀準備が回復し、明治18年(1885年)に事実上銀本位制に移行した。 その後も金本位制は松方主導の下に研究が進められ、紆余曲折を経て日清戦争の賠償金を正価準備として充足するなどして、明治30年(1897年)に貨幣法が制定され、ようやく導入されることになる(ただし、金平価を0.75グラム=1円という旧来の2分の1の平価とした)。
※この「事実上の金銀複本位制」の解説は、「新貨条例」の解説の一部です。
「事実上の金銀複本位制」を含む「新貨条例」の記事については、「新貨条例」の概要を参照ください。
- 事実上の金銀複本位制のページへのリンク