人々の生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 15:25 UTC 版)
サハラ砂漠では、湖、川や泉の近くで野営を行い、アンテロープ、バッファロー、ゾウ、サイなどの狩猟や採集を行っていたようである。ヨーロッパのヴュルム氷期に起こったサハラ砂漠の超乾燥化により、アテル文化を営んでいた狩猟採集民は熱帯地域や大西洋沿岸に移動した可能性がある。具体的には、海洋酸素同位体ステージでいうMIS 5(71000年前以降)の乾燥化とMIS 4(13万年前以降)の地域的な気候変化の中で、サハラとサヘルにおいて、これらの人類が西アフリカに南下した可能性がある(主にモーリタニアのBaie du Levrier、セネガルのティエマサス(Tiemassas)、セネガル川下流域など)。 アテル文化は多くのモロッコの遺跡で初期の人類と関連づけられている。ジェベル・イルードの標本は当初、後期アテル文化やイベロマウルス文化の標本に類似していると指摘されていたが、さらなる検討の結果、ジェベル・イルードの標本はそれらと似ている点もあるものの、アテル文化やイベロマウルス文化のものとされる標本に見られる眼窩上隆起が不連続か、場合によっては全くない一方で、ジェベル・イルードの標本の方が眼窩上隆起が連続しているという点で異なることが判明した。このことから、ジェベル・イルードの標本は古いホモ・サピエンス、アテル文化やイベロマウルス文化のものとされる標本は解剖学的に現代のホモ・サピエンスであると結論付けられた。また、「アテル文化の」化石は、レバントのスクールとカフゼ(Skhul and Qafzeh hominins)で発見された初期のアフリカ由来の現代人と形態的に類似しており、彼らとほぼ同時代のものであることがわかる。これら初期の北アフリカの人々は、非常に弁別的で洗練された石器技術を生み出したのみならず、象徴的に構成された物質文化(象徴人類学(英語版)参照)にも携わっていたようで、アフリカで最も早い時期に個人装飾品を作り出した例の一つとなったという。このような貝の「ビーズ」の例は、はるか内陸で発見されており、長距離の社会的ネットワークの存在を示唆している。 アテル文化の変動と分布の研究がまた示唆することには、当該の集団は細かな集団に住んでおり、ひょっとしたら生活のほとんどを比較的孤立した状態で生活し、特定の時間に集まって社会的な結びつきを強めていたという。このように細分化された集団構造は、アフリカ初期のホモ・サピエンスの化石に見られる変異のパターンからも推測されている。 関連する動物相の調査からは、アテル文化が営んだ人々は狩猟と同様に、沿岸の資源の利用を行っていたことが示唆されている。また、尖頭器が小さくかつ軽量であることから、手渡しではなく、投擲された可能性が高い。投槍器(アトラトル)を使用した形跡はないが、尖頭器にはアトラトル用の投げ槍に似た特徴がある。現時点では、内陸部に住むアテリアンの集団が淡水資源も利用していたかどうかを推定することが困難であるものの、乾季が顕著な季節性の強い環境下で道具の対応性を保つためか、ハフティングが広く行われていたことが研究により示唆されている。スクレーパー、ナイフ、尖頭器などの道具にはすべて柄が付いていたようで、技術的な進歩によって広範囲な活動が可能になったことを示唆している。また、植物資源も利用されていた可能性が高いという。アテル文化における直接の証拠はまだないが、北アフリカでは18万2千年前から植物の加工が行われていたことが確認されている。2012年には、ダル・エス=ソルタンⅠ洞窟で9万年前に造られた骨製のナイフが発見されたが、これは基本的に牛ほどの大きさの動物の肋骨でできている。
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