人気と禁止令
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/23 07:58 UTC 版)
早くからトーナメントは非常に人気があった。イングランドで最初にトゥルネイについて書かれたものは、ウォリックシャーの騎士オズベルト・アーデンの旅行許可書でノーサンプトンとロンドンを旅行し、さらにイギリス海峡を渡ってフランスの競技会に参加したことが示されている。この許可書は1120年代以前のものである。北フランスの大きなトーナメントにはドイツ、イングランド、スコットランド、オクシタニア、スペインから数百人の騎士が参加した。1179年11月にルイ7世が息子の戴冠を祝って開いたLagny-sur-Marneのトーナメントでは3000人の騎士が参加したとの記録がある。1279年にフィリップ3世がサンリスとコンピエーニュで開いたフランス王主催のトーナメントは、より盛大なものだった可能性がある。 トーナメントに貴族が熱狂したことは、1120年代以前に中心地である北フランスから開催地が拡大していることに現れている。イングランドとラインラントでの最初の開催は1120年代である。『ウィリアム・マーシャルの生涯』では1160年代にトーナメントが中央フランスとブルターニュで開かれたことが示されている。ベルトラン・デ・ボルンがトーナメントの世界に関して語った作品では、北スペイン、スコットランド、神聖ローマ帝国で開催されたとしている。ラウターベルク年代記では1175年までにトーナメントの熱狂はポーランドに至ったとしている。 このような大きな関心と広がりを考慮すると、すぐに国王や教会などの権威がトーナメント禁止令を出し始めたことは奇妙に思われる。1130年に教皇インノケンティウス2世はクレルモンの公会議でトーナメントを禁止して、競技で死亡した騎士のキリスト教による埋葬を禁じた。通常、教会が禁止する理由は、貴族たちがトーナメントに熱中するあまり、「キリスト教世界の防衛」という、より重要な戦争(十字軍、レコンキスタ等)をおろそかにすると考えたためである。しかし、イングランドでヘンリー2世が禁止した理由は公的な秩序への脅威が理由である。トーナメントへ向かう騎士は途中で強盗や一般人への乱暴を働いたりしがちであり、ヘンリー2世はスティーブン王時代の無秩序状態からの秩序の回復を非常に重要視していた。このため大陸領土においてはトーナメントを禁止しておらず、彼の3人の息子(若ヘンリー、リチャード、ジョフロワ)は非常にこの競技を好んでいた。但し、1186年にジョフロワがパリでの試合で亡くなると、盟友の死を悼んだフランス王フィリップ2世はその後、息子のルイ8世にいかなる試合への出場も禁止している。 1192年以降は、イングランドで再びトーナメントが許可された。リチャード1世は6箇所の開催許可地を選定し開催に対して認可料を徴収した。しかし、ジョンとヘンリー3世は気まぐれな禁止令を出したため、貴族たちは困惑し競技の人気は低下した。フランスにおいては、1260年にルイ9世(聖王)が王領におけるトーナメントを禁止し、彼の子孫は概ね禁令を継続した。
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