人気凋落とスキャンダル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 07:10 UTC 版)
「島田清次郎」の記事における「人気凋落とスキャンダル」の解説
1922年(大正11年)に出版社の薦めで船でアメリカ、ヨーロッパをまわる旅に出発。 杉森久英の評伝小説『天才と狂人の間』ではアメリカにて大統領クーリッジとも面会したと伝えているが、当時クーリッジは副大統領であり、大統領ではない。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}おそらく事実ではないだろう。[独自研究?]ロンドンで開かれた第一回国際ペンクラブ大会に出席し、初の日本人会員に推され「ON EARTH(地上)」の翻訳出版も決定したという。ドイツでは、ベルリンの花街で娼婦と一夜をともにした際に900万マルクを女に盗まれ、「東京のプリンスが騙された」と当地の新聞に報じられた。 帰国後『地上』第五巻として長編小説『改元』を書き上げ、出版。このころ『地上』シリーズは実売部数、総計五十万部とも言われ、海外視察後の高揚・膨張した覇気のもと、「世界の現状及び将来」「革命の原理」「釈迦」と大著を誌し(いずれも未刊)、世界革命・宗教改革を標榜する一方で、「大言壮語」「誇大妄想」「宇宙以下の話はしないシマセイ」などと揶揄する周囲の無理解や嘲笑に苦しみ、焦燥はつのり、ますます驕傲・奇矯な振る舞いが狂的なまでにエスカレートする。生田ら数少ない文壇での支持者もこの頃には離れていった。 次第に熱を喪いつつある人気に島田は、しばしばファンレターを送る東京府立第三高等女学校(現・東京都立駒場高等学校)生徒、舟木芳江(石川県出身の海軍少将舟木錬太郎の娘で、文学者舟木重雄、舟木重信の妹、のちに中野要子の名でプロレタリア演劇女優)を半ば強引に誘いだし、徳富蘇峰に仲人を依頼するため泊まりで葉山に向かうが、帰途、逗子駅で、皇太子(昭和天皇)の葉山御用邸行啓を警備中の警官に怪しまれ尋問、検束される。この知らせを受け、婦女子誘拐、監禁・陵辱・強姦を行ったとして舟木家側が告訴。後日、恋文の存在や徳富蘇峰らの証言で無実だということになり告訴も取り下げられたものの、この事件は大きくマスコミに取り上げられ、裁判での多額の弁護料の支払も重なり、物心ともに一気に凋落することとなった。この舟木芳江事件の顛末を、徳田秋声は『解嘲』として発表した(1925年)。島田の作品は全く売れなくなり、出版社からも出入りを禁じられる。紙型工程にまで仕上がっていた新作「釈迦」も未刊のままになったという。1924年(大正13年)には金銭的にも逼迫し、文壇の知り合い宅に金の無心に現れる姿が、正宗白鳥「来訪者」(1924年)や中山啓(忠直)の回想(1927年)、『文藝春秋』のゴシップ記事ほかに描かれている。菊池寛は「随想 雨滴(あまだれ)の音を聴きつつ」を『文藝春秋』に掲載、これが清次郎の文壇的絶筆となった。
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