仁明朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 14:24 UTC 版)
翌天長10年(833年)に仁明天皇が即位すると、皇太子・恒貞親王(淳和上皇の皇子)の東宮学士に任じられる。なお、恒貞親王は自己の不安定な政治的立場を幼くして自覚しており、承和5年(838年)に善縄は親王に代わって皇太子辞退の書である『辞譲之表』を執筆している。 承和9年(842年)正月に従五位上に昇叙される。同年7月に嵯峨上皇の崩御をきっかけに承和の変が発生し、恒貞親王が皇太子を廃され、東宮学士であった善縄もこれに連座して周防権守に左遷される。しかし、早くも翌承和10年(843年)には罪を赦され、文章博士に任じられて平安京に呼び戻された。 その後、皮肉にも承和の変の黒幕ともされる仁明天皇と大納言・藤原良房の信任を受けるようになる。天皇や良房に関連して、善縄は文章博士として以下活動を行っている。 承和11年(844年)物の怪の出現の原因について、亡者の祟りは関係ないとする嵯峨天皇の遺戒と、亡者の祟りとする卜筮の結果が矛盾して対応に苦慮する事象が発生。良房の指示を受けて、善縄と大内記・菅原是善は中国の故事を調査する。その結果、卜筮の告げる内容は信じ、君父の命令も適宜取捨すべきであり、遺戒を改めることは問題がないことを報告。朝廷はこれに従うことになった。 承和14年(847年)清涼殿において仁明天皇に対して『荘子』『漢書』の講義を行った。荘氏の講義に対しては天皇から束脩の礼を受けた。 また、文章博士として大学寮で『後漢書』を講読したが、淀みなく流れるように解釈し、諸学生による疑問をことごとく解決したという。承和15年(848年)正五位下に叙せられる。
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