企画・脚本
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「女帝 (1983年の映画)」の記事における「企画・脚本」の解説
企画は岡田茂東映社長。1982年に三越事件が起きたとき、三越岡田茂社長と同姓同名の岡田茂東映社長が、内藤誠に「事件を題材にして脚本を書いてみろ」と指示し、内藤が桂千穂と共同で脚本を書いた。旬が大事な作品であるため、強行スケジュールでリサーチを行い、内藤はシェイクスピアの『マクベス』を、桂は1950年のアメリカ映画『イヴの総て』を下敷きに、脚本を書き上げた。出来上がった脚本を岡田に見せたが、「『岡田会』という集まりをやっているから、やはり東映では無理だ」といわれ、内藤と桂がにっかつに持って行き、にっかつで映画化された。これとは別に鹿水晶子が『虚飾の城』というタイトルでシナリオを執筆していたとする文献もある。
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企画・脚本
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「忍者武芸帖 百地三太夫」の記事における「企画・脚本」の解説
1979年末、企画、日下部五朗・本田達男、脚本、神波史男・大津一郎のメンバーでスタート。監督は未定。神波と大津がジャッキー・チェン主演の香港カラテ映画を参考にナンセンスアクションを目指し脚本を書いた。主演も未定でアクションの出来る新人を探す予定で、主演イメージは松田優作だった。スラップスティックもOKといわれ、神波と大津も大いにのって脚本第一稿を提出したが、岡田茂東映社長がクレームをつけ、マジメな時代劇に突如変更させられた。神波と大津とも落胆激しく、マジメ忍者時代劇に書き直し1980年4月初旬、第二稿が完成。
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企画・脚本
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「山口組外伝 九州進攻作戦」の記事における「企画・脚本」の解説
原作は飯干晃一となっているが、飯干の原作本を映画化したのではなく、飯干が夜桜銀次を週刊誌に取り上げた記事をプロデューサーの日下部五朗が読み「夜桜銀次を主人公にしたら面白い」と映画化したもの。ただ飯干には原作料を支払った。当時はまだ夜桜銀次の名前は極道社会でもあまり知られていなかったという。役名は微妙に書き換えられているが、内容はほぼ史実に基づく。 『山口組外伝 九州進攻作戦』というタイトルについて、田岡一雄山口組組長から「夜桜銀次の事件は山口組とは関係ない事件だから、組の名は使ってほしくない」とクレームを受けた。しかし、岡田茂東映社長は「映画の題名は、人間でいえば顔や。顔は変えられん。顔が悪いとお客は来てくれん。山口組という名が題名に入ってるから、みんな興味をそそられて来てくれるんやぜ」と話し、徹底した商売人の姿勢を見せてタイトル変更をしなかった。山口組という名をタイトルに入れるため、田岡満が社長を務めるジャパン・トレードに協力費500万円が支払われた。しかし映画内の山口組は兵頭組という名前に変えた。このような話は全部宣伝を狙った東映の戦略で、実は最初から田岡満が企画に参加していて、ネタを探しているとき、夜桜銀次が出て来て、映画化しようとなったという説もある。
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企画・脚本
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「ショーシャンクの空に」の記事における「企画・脚本」の解説
ダラボンとスティーヴン・キングの関係は、『312号室の女(英語版)』の短編映画化の権利を1ドルで購入して1983年に製作したことから始まる。これは、新人監督が履歴書を作成できるように、キングが自身の短編小説の映画化権を1ドルで与えるものであった(ダラーディール)。1987年に『エルム街の悪夢3 惨劇の館』で職業脚本家として認められた後、ダラボンはキングに掛け合い、5,000ドル で1982年に出版されたキングの作品集『恐怖の四季』に収録されている96ページの小説『刑務所のリタ・ヘイワース』の映画化権を購入した。『恐怖の四季』は、キングの代名詞であるホラー小説以外のジャンルを開拓するものであった。キングは囚人仲間のアンディに思いを馳せるレッドに焦点を当てた作品がどのような長編映画になるのか皆目見当もつかなかったが、ダラボンは「自明なこと」と考えていた。キングはダラボンからの5,000ドルの小切手を換金せず、後には額に入れて、次のようなメモを添えてダラボンに返した。「もし保釈金が必要になったときのために。愛をこめて、スティーブン」。 その5年後にダラボンは8週間かけて脚本を書き上げた。彼は原作の要素を膨らませた。原作では老人ホームで死んでしまう脇役のブルックスは、最終的に首を吊る悲劇の人物になった。アンディの容疑を晴らせるにも関わらず、所長との取引に応じてより良い刑務所へ移送されたトミーは、原作における複数の所長を主要な敵役として一人に統合したノートン所長の命令で射殺される形に翻案された。ダラボンはインスピレーションの源として、『スミス都へ行く』(1939年)や『素晴らしき哉、人生!』(1946年)などのフランク・キャプラ監督作品を挙げ、本作は刑務所映画というより、それらと同じほら話(tall tale)だと述べている。また、『グッドフェローズ』(1990年)を参考にして時間の経過を台詞で表現したり、ジョン・フランケンハイマー監督の刑務所映画『終身犯』(1962年)を参考にしたという。ロケ地を探していたダラボンは、同じく刑務所を舞台にした『ウォール・オブ・アッティカ/史上最大の刑務所暴動』のロケ地を探していたフランケンハイマーと偶然出会った。ダラボンは、彼が撮影の合間を縫って自分を励まし、助言してくれたと回顧している。 当時、刑務所が舞台の映画で高い興行成績は望めないと考えられていたが、脚本を読んだ当時のキャッスル・ロック・エンターテインメントのプロデューサー、リズ・グロッツァーは興味を持ち、キャッスル・ロックが『ショーシャンクの空に』の製作をしなければ辞職するとまで会社を脅した。キャッスル・ロックの共同設立者兼監督であるロブ・ライナーも脚本を気に入り、240万ドル から300万ドルを提示して自分が監督になろうとした。1982年のキングの短編小説『スタンド・バイ・ミー』を1986年に映画化していた経験を持つライナーは、アンディ役にトム・クルーズ、レッド役にハリソン・フォードを起用する計画を立てていた。 キャッスル・ロックは、ダラボンが構想を立てていた他の映画の資金調達をも申し出た。ロサンゼルスの貧しい出自であったダラボンは、このオファーを真剣に検討し、業界での自分の地位を高めることができると考えた。また、契約上は、キャッスル・ロックを辞めてライナーに映画を引き渡す可能性もあったが、後に2014年のバラエティ誌でのインタビューにおいて、「お金と引き換えに夢を先送りにし続けて、自分がやりたいことを一度もやらずに死ぬことはできない」と述べ、監督を続けることを選んだという。ライナーは、代わりにこのプロジェクトにおけるダラボンのメンターを務めた。キャッスルロックに脚本を見せてから2週間で、ダラボンは自分の映画を撮るための2500万ドルの予算を獲得し(また、75万ドルの脚本・監督料と純利益のパーセンテージを取る)、1993年1月にプリプロダクションが開始された。
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企画・脚本
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 05:40 UTC 版)
監督の柳町光男は、本作の舞台・鹿嶋市がある同じ茨城県出身で、鹿島臨海工業地帯の建設により、農村がどんどん壊され、ダンプカーが走る光景をずっと見ていた。そういうものが映画の舞台としては格好だなと感じプロットは練ってはいた。上手く構成できていないとき、新聞でダンプの運転手が覚せい剤をやって愛人を殺したという記事を見つけ、一気にホンが書けた。映画はその実話とは大分違うという。
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企画・脚本
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「ねらわれた学園 (1981年の映画)」の記事における「企画・脚本」の解説
角川春樹が薬師丸ひろ子の主演で「アイドル映画」を撮ろうと眉村卓の『ねらわれた学園』を原作として選び、脚本と実質的な映画製作を「オフィス・ヘンミ」に依頼した。脚本としてクレジットされている「葉村彰子」は、逸見稔を中心とした創作集団のもつ共同ペンネームで、本作公開の前年1980年に設立され、逸見は本作の製作プロダクション「オフィス・ヘンミ」の社長であった。脚本が完成した時点で、角川から大林宣彦に「うちに薬師丸ひろ子という子がいます。女優としてスタートしたのだけど、まだアイドルになっていない。大林さん、彼女をアイドルにしてやってくれませんか」と本作監督の依頼があった。この後、多くの「アイドル映画」を撮る大林であるが、全て女優として撮ったと述べており、戦略的に「アイドル映画」として撮ったのは本作一本のみと話している。1979年の『金田一耕助の冒険』で意気投合した角川と大林は、再び「誰もやらないような映画を作ってやろう」という目論見から、薬師丸ひろ子の「アイドル映画」を構想した。
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企画・脚本
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 09:02 UTC 版)
『Gladiator』のアイディアは製作を務めたデヴィッド・フランゾーニが提案したものであり、同時に脚本の初期案は彼の手で書き上げられた。フランゾーニは以前に製作・脚本として関わったスティーヴン・スピルバーグ監督による『アミスタッド』の商業的成功で、ドリームワークスから新たな映画の製作と立案を依頼されていた。フランゾーニは古代史に関する特別な興味を当初持たなかったが、ダニエル・マニックスの小説『Those About to Die』(1958年)に影響を受け、更に『ローマ皇帝群像』を読んだ経験からコモドゥス帝に関する映画製作を思い立った。草案では『ローマ皇帝群像』のコモドゥス伝には登場せず、ヘロディアヌスやカッシウス・ディオといった同時代人によって伝えられた剣闘士ナルソキッソス(コモドゥス帝を暗殺したとされる)がモチーフとされ、名前もそのままであった。しかしナルソキッソスに関する記述が乏しいためにさまざまな歴史人物がモチーフとして加えられ、独創的な主人公「マクシムス」を形作っていった。 監督については総製作のウォルター・F・パークス、ローリー・マクドナルドによってリドリー・スコットにオファーが出され、二人はアイディア源の一つであるジャン=レオン・ジェロームの絵画を見せて脚本を説明した。スコットは古代ローマ時代の映像化に強い興味を示したものの、脚本や草案については全面的に書き直すべきだと批判し、実際に脚本家のジョン・ローガンによって大幅に変更させた。ローガンにより書き直された部分としては主人公が剣闘士になるまでの展開に深みを持たせたことと、逆に家族描写については大幅に減らしたことが挙げられる。 製作の直前まで脚本についての議論は続けられており、三人目の脚本家として参加したウィリアム・ニコルソンは主人公マクシムスをより感傷的な人物として描写するべく、作品中に頻出する死生観についてのテーマを織り込んだ。その中でヌミディア人の奴隷ジュバが重要な役割を演じるよう、人物関係が調整された。途中でフランゾーニも製作から脚本に復帰して、ウィリアムとローガンの変更案を監修する立場についた。ウィリアムはフランゾーニの初期案を尊重しながら変更作業を行い、フランゾーニも脚本監修としては変更案を自由に行わせた。しかし製作としてはあくまで自分の初期案に近い物を採用するように主張していた。後にフランゾーニは『グラディエーター』については製作に関する貢献が認められ、アカデミー作品賞を共同受賞した。 また脚本は主演を務めたラッセル・クロウからの提案による修正も行われた。彼は常に脚本の内容について意見を提示し、納得する回答が製作陣から得られないと不満げにセットを練り歩いた。ドリームワークスの製作陣は口を揃えて「(ラッセルは)全ての脚本を書き直させようとした。特にトレーラーでも使用された『今生か、さもなくば来世で復讐を果たす』という台詞を断固として受け入れなかった」と証言している。ラッセルが追加された死生観についてのテーマを嫌っており、「ウィリアムの脚本はゴミだ。だが私は世界一の俳優だからどんなゴミみたいな台詞でも良く演じてみせる」とまで罵倒したという。ウィリアムは「多分、私の脚本がゴミみたいだから、そのままの台詞を喋ったんだろうね」と皮肉っている。
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企画・脚本
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一人になった長谷川は1977年春にアメリカに行って、レナード・シュレイダーと知り合い仲良くなった。お互いの生い立ちなどを話し、長谷川が広島の生まれで体内被曝児であることなどを話すと、「それでお前のあだ名は"ゴジ"なのか」「いや、それはまた別の話だ」などの話をし、「そのうち一緒に仕事をしよう」と言って別れたが、あまり期待はしていなかった。シュレイダーは長谷川の生い立ちからインスピレーションを受け、また雑誌『アサシン』で個人でも原爆を作れるという記事を読み、それらからプロットを着想した。『アサシン』は「カストロの殺し方」みたいな特集を載せるバカフリークな雑誌だった。 1977年6月にシュレイダーが日本に来て、長谷川に「被爆者のお前が撮るべきだ。その方が世界に与えるインパクトが大きい」と言った。シュレイダーは「何でもない普通の青年が原爆を作って9番を名乗り、時の政府を脅迫する。その第一の要求は“テレビのナイター中継を最後まで放送しろ”で、最後に金をさらって女とブラジルあたりに逃げる」というプロットを長谷川に提示した。長谷川は「そのラストではせっかくの原爆のプロットが生きないので、原爆を作る過程で被爆させること」と提案したら、シュレイダーは明るく楽しい痛快アクション喜劇を目指していたため、「映画がヒットしない方向に走っている」と大反対した。大喧嘩になったが、娯楽映画だけでは駄目だと長谷川が押し切った。 またシュレイダーは9番と敵対する刑事を三波伸介か伴淳三郎のようなコミカルな人物像をイメージしていたが、「むしろ『野良犬』の三船敏郎が30年後に生き返ったような刑事にしてくれ。そういう男と男の対決のドラマにしてホモセクシュアルな関係になってもいいから、ある種の父殺しの話にしようじゃないか」と注文を出した。シュレイダーはドストエフスキーを彷彿とさせる脚本を書き上げ、当初は中学教師城戸が、何故犯罪を犯すのかの理由が必要だろうと、校長と喧嘩するとか、同僚の女教師とファックするとか色々デッサンはあった。高倉健が新幹線大爆破するには、それだけの理由があるが、長谷川がそれが映画をつまらなくしていると考えていたから、主人公の少年と家族の関係を全てカットし、他人に触れ合うシーンは全部切り、都会で孤独に生きる人物像として中学校の教師とした。脚本は完成するまでにさらに2年を要した。後に助監督として参加する相米慎二と制作進行の黒沢清も執筆に協力し、脚本作成に1年かけた。
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