会の設立
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「実りを結ぶ会」は1617年夏のワイマールで結成された。この年の7月にワイマール公国の大后ドロテア・マリア(1574-1617)が没し、ワイマールで営まれた葬礼に各地の諸侯が参列した。ドロテア・マリア大后は、アンハルト=ツェルプスト侯国(ドイツ語版)の公女であり、アンハルト=ケーテン侯国(ドイツ語版)のルートヴィヒ1世(ドイツ語版)の実姉である。ワイマール側では、大后の息子であるヨハン・エルンスト1世(ドイツ語版)とヴィルヘルム(ドイツ語版)の兄弟がワイマールを共同統治していた。一般民衆も参加した葬礼が終わった後、会食の席上で、作法と「民衆語(ドイツ語)」の話題になり、ルートヴィヒ1世とワイマール公、そしてそれぞれの宮廷官らによって「実りを結ぶ会」の設立が決まったのだった。 設立を提案したのは、ワイマールの宮廷参事官カスパー・フォン・トイトレーベン(ドイツ語版)(1576–1629)だったという。トイトレーベンはイタリア、フランスなど各国を旅したことがあり、イタリアで民衆語の純化に取り組んでいるクルスカ学会のことを知っていて、これを紹介したのだった。トイトレーベンはドイツにフランス語が流入していることの危機を、ワイマールとアンハルトの諸侯に訴えた。 アンハルト=ケーテン侯ルートヴィヒ1世は、これに真っ先に賛成した。ルートヴィヒ1世も若い頃に3年間をかけてイタリアを旅したことがあり、1年を超すフィレンツェ滞在中に自らクルスカ学会の会員になっていたのである。また、ルートヴィヒ1世は1612年の選帝会議でのラトケの建白書を採用した諸侯の一人でもあった。その日のうちに「実りを結ぶ会」の発足が決まり、ルートヴィヒ1世を初代会頭とすることになった。 後年発行された会報に拠ると、この会合が行われて会が設立されたのは1617年8月24日ということになっている。ただしこの日付の正確性は疑わしいとの指摘もある。ドロテア・マリア大后は7月18日に亡くなっており、その葬礼は8月5日に終わっていて、8月24日は服喪期間中だったはずだ、というものである。この説に拠れば、8月24日は、1572年にフランスでカトリックによるプロテスタント虐殺事件(サン・バルテルミの虐殺)が起きた日で、プロテスタントにとっては重要な日付だった。だから後年になって、会の発足日をその日に結びつけたのだろうと推測している。
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会の設立
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佐藤徳昭は元々、地域活性化や事業家育成を目指すNPO法人「G-net」の理事を務めていた。そして「柳ケ瀬の活性化を仕事にしてくれないか」と当時の柳ケ瀬商店街振興組合連合会の理事長から声をかけられ、「人で人呼ぶ街づくり」という思いを込めた「ひとひとの会」を2008年1月に設立した。佐藤は「この人に会いたいと思わせる魅力的な人が(柳ケ瀬)商店街にたくさんいた」「長年まちを見守ってきた店主にはいろいろなエピソードがある。それこそが大型店にない最大の魅力」と述べており、「この人たちを知ってもらう努力が必要」と柳ケ瀬の情報の発信を始める。そして、店の名前を並べただけではなく商店主のエピソードも盛り込んだ柳ケ瀬商店街の無料地図「アイマップ」の発行を行なった。
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