伝説と略歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/12 07:18 UTC 版)
「北山世主」および「北山王国」も参照 現地の伝説によれば、今帰仁世の主が築いたと伝わるが、伝説上の王統・舜天王統が始まるよりも遥か前の事だと言う。さらに利勇の反乱により世主は尽く滅亡したと伝わる。なお、現在まで発見された城郭跡は12 - 13世紀頃の築城である。 『中山世鑑』や『中山世譜』によれば、伝説王・舜天の兄(異母弟とも)、大舜とその子が城主となり、のち舜天二世・舜馬順煕の子、今帰仁世の主(義本王とは兄弟)が城主となる。なお、この代の今帰仁世の主の二世(不詳)の養子となり今帰仁城主を継いだのが英祖王の次男、湧川王子と伝わる。 湧川王子と子孫は代々城主を継ぐが、係累の怕尼芝に討たれ、それまでの城主係累は滅亡、離散する(その子孫に護佐丸がいる)。北山王国の始まりである。怕尼芝より前代は伝記と系譜だけで年代は分かっていないため伝説に近い。 明の洪武帝『明太祖実録』に北山王国の朝貢と今帰仁城の事が記述されている(現存する文献上、最も古い記録)。 1416年、北山王国は中山王尚巴志に滅ぼされるが、以後は北山監守が置かれた。1609年の琉球侵攻後、1665年(康熙4年)には廃止されている。以降は具志川御殿十世今帰仁朝義と係累が琉球処分まで監守跡を管理した。
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