作戦後
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4月15日、予定計画に基づき各飛行隊は翌日のブナ攻撃の準備に入った。4月16日早朝、東部ニューギニア北岸への偵察を実施したところ、ブナ方面に敵艦船は見られなかった。このため山本長官はブナ攻撃を中止し、これをもってい号作戦の終結を下令した。また同16日、連合艦隊は第二期作戦の戦果並びに被害を報告、「ガ島方面攻撃に相次ぎニューギニア方面航空作戦に敵の意表を衝き甚大なる打撃を与え敵の反撃企図を相当防遏し得たるものと認む」と所見を出し、概ね作戦目的を達しえたものと判断した。 作戦終了後の4月17日、連合艦隊はラバウルに各部隊司令部を集め、「い号作戦」研究会を行なった。ここでは連合軍の増勢遮断と前線航空基地の整備を主題として取り上げ、山本も航空戦の成否が勝敗を決するという趣旨の訓示を行なった。また、宇垣は航空作戦に関して、偵察を徹底すること、小目標であってもこまめに攻撃すること、大型機に対する対処法や、新たな攻撃法に対する研究の促進などを希望として述べた。 詳細は「海軍甲事件」を参照 「い号作戦」では、南東方面艦隊(草鹿任一中将、海兵37期)と第三艦隊(小沢治三郎中将、海兵37期)の指揮系統を調整するため、連合艦隊(司令長官山本五十六大将、参謀長宇垣纏中将、先任参謀黒島亀人大佐)が最前線のラバウルで指揮をとることになった。山本長官以下連合艦隊司令部は、トラック島の連合艦隊旗艦「武蔵」を離れ、ラバウルに進出して“い号作戦”を直接指揮する。本作戦終了後、山本は、ブーゲンビル島、ショートランド島の前線航空基地の将兵の労をねぎらうため、ラバウルからブーゲンビル島のブイン基地を経て、ショートランド島の近くにあるバラレ島基地に赴く予定を立てた。その前線視察計画は、南東方面艦隊(司令長官草鹿任一中将)と第八艦隊(司令長官鮫島具重中将)の連名で、関係方面に打電された。山本長官のブイン進出は前線視察を兼ねて現地将兵の士気高揚を狙ったものであったが、同時にソロモン諸島で苦闘を続ける日本陸軍(第17軍司令官百武晴吉陸軍中将)訪問の意味もあった。宇垣連合艦隊参謀長は第17軍司令部を訪問してガ島戦以来の戦功を労いたいと以前から考えており、山本もそれを望んでいたことも理由の一つであった。前線視察に関しては第三艦隊の小沢治三郎中将らから反対されたが、連合艦隊は予定通りの視察を決行した。 4月18日6時5分、連合艦隊司令部一行は2機の一式陸攻に分乗し、護衛の零戦6機をともなってラバウル東飛行場を発進した。小沢中将の第三艦隊司令部や二航戦司令部も、一式陸攻に分乗してラバウルを離陸、午前11時ころトラック泊地に到着してそれぞれの旗艦(瑞鶴、飛鷹)に帰艦している。一方の連合艦隊司令部一行(陸攻2、零戦6)は7時40分頃、米陸軍のP-38戦闘機16機と空戦になる。バラレ到着を目前にして一式陸攻は2機とも撃墜され、山本長官を含む陸攻1番機乗員は全員戦死した(海軍甲事件)。指揮権継承順位により第二艦隊司令長官近藤信竹中将が臨時に連合艦隊司令長官の職務を代行し、4月21日に古賀峯一大将が連合艦隊司令長官に任命された。4月25日、古賀長官はトラック泊地の戦艦武蔵に到着して将旗を掲げる。この時点で、宇垣参謀長以下連合艦隊司令部員も多くが戦死、負傷していた。その結果、3月に軍令部より打ち出された第三段帝国海軍作戦方針に基づき、直ちに発令されるべき連合艦隊第三段作戦命令の発令が8月になり、日本海軍の作戦指導に影響を与えた。
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作戦後
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7月17日の攻撃後、イギリス側はドイツの無線通信の傍受や秘密情報部の諜報員からの報告によって「ティルピッツ」に目立った損害は皆無であることを知った。ムーアは攻撃に参加した航空機の乗員の経験不足がマスコット作戦失敗の原因であるとし、また「ティルピッツ」に対して正確な爆撃ができないのに別の目標を選択しなかったことで攻撃隊の指揮官を非難した。加えて、ムーアはバラクーダによってさらにカーフィヨルドへの攻撃を行っても成果を得られないだろうとした。その理由は、急降下爆撃機が低速のため探知されてから目標上空に到達するまでの間にドイツ側は煙幕によって「ティルピッツ」を隠してしまえるからであった。海軍本部は48時間以上にわたってカーフィヨルドに対する攻撃を繰り返すという戦略で防衛力を低下さられると期待し、ムーアは次の攻撃を実施することに同意した。奇襲を可能とするため高速で航続距離の長いデ・ハビランド モスキート爆撃機を空母から発進させることも検討されたが、作戦に使える機体の余裕は無かった。 次のカーフィヨルドに対する攻撃はグッドウッド作戦として8月末に実行された。8月22日から29日の間に3隻の艦隊空母と2隻の護衛空母から4度の攻撃が行われた。どの時でも「ティルピッツ」は煙幕に覆われており、わずかな損害しか与えることは出来なかった。一方、この攻撃でイギリス側は航空機17機、人員40名を失った。また、ドイツ潜水艦「U354」の攻撃でフリゲート「ビッカートン」が沈み、護衛空母「ネイボブ」が大破した。 グッドウッド作戦の失敗により、海軍本部はカーフィヨルドに対する攻撃ではバラクーダは低速のため役に立たないことを認めた。そのため、「ティルピッツ」攻撃は空軍の爆撃機軍団の手にゆだねられることとなった。重爆撃機による最初のカーフィヨルド攻撃(パラヴェーン作戦)は1944年9月15日に行われた。ソ連領内から発進した爆撃機による攻撃で「ティルピッツ」は修理不可能な損害を受け、南のトロムソへ移されて防衛用の砲台とされた。その後、11月12日に行われた爆撃機軍団による攻撃(カテキズム作戦)で「ティルピッツ」は撃沈された。
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作戦後
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「第500SS降下猟兵大隊」の記事における「作戦後」の解説
残存兵は最初、ペトロヴァツ(Petrovac)後にリュブリャナへ送られ、6月末までそこに滞在していた。その後、プロシア西部のグディンゲンに移動し、フィンランド領のオーランド諸島を占領する作戦に従事する予定であったが、これは中止された。そのため、ナルヴァの第3装甲軍団に加わることになる予定であったが、7月9日、リトアニアのカウナスへ空輸された。 空輸後、ビリニュで包囲されたドイツ軍を支援するためにグロースドイッチュラント第1戦車連隊と共に戦闘団を編成した。 その後も彼らはバルト三国で防衛線において活躍し、第3装甲軍団の「火消し部隊」の働きを見せた。1944年8月20日の時点で、90名が大隊に所属しているのみとなったが、ドイツ軍がソビエト赤軍を阻止するためにはどのような部隊でも必要であったため、その後の数ヶ月間、戦線にとどまった。 10月下旬、第500SS降下猟兵大隊はようやく戦線から引き抜かれ、オーストリアのドイッチ=ヴァグラム(Deutsch-Wagram)へ送られ、一週間の休暇を与えられた後、第600SS降下猟兵大隊へ合流した。 第500SS降下猟兵大隊はフランスで戦うことはなかった。フランスレジスタンスの間では、1944年7月、フランス側アルプス山脈のベルコール台地でSS降下猟兵部隊がパルチザンへ空挺降下攻撃を行ったという話が広まっている。しかし、この攻撃はSS降下猟兵部隊が行ったのではなく、ドイツ空軍の秘密部隊である第200爆撃航空団の特殊部隊が行ったものであった。
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作戦後
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1947年、スコルツェニーと第150装甲旅団の将校らはグライフ作戦にて不当に米軍人の制服を着用して活動した事が戦時国際法に抵触するとしてダッハウ裁判の中で訴追を受けた。しかし結局は全員に無罪判決が下されている。軍事法廷では敵の制服を着用して戦闘に参加する事と欺瞞作戦等その他の活動を区別していたが、裁判の中ではスコルツェニーらがどのような命令の元で活動していたのかを証明することが出来なかった。さらに弁護側の証人としてイギリス特殊作戦執行部(SOE)のエージェントだったフォレスト・フレデリック・エドワード・ヨー=トーマス(英語版)が出席し、彼は自らもまたドイツ軍人の制服を着用して敵の前線後方に侵入して工作活動を行った旨を証言した。
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作戦後
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この作戦により、搭乗員133名中53名が死亡し、3名脱出して捕虜となる。6月22日、33名の搭乗員はバッキンガム宮殿勲章を授けられ、隊長ガイ・ギブソンはビクトリア十字勲章を授与された。ギブソンはアメリカの広報活動ツアーと、ロンドンの航空省での書籍 Enemy Coast Aheadの執筆業務の後で、作戦に復帰したが、1944年9月19日にモスキートで出撃し、帰還することはなかった。 第617飛行中隊は爆撃のスペシャリストとして維持されることとなった。5月27日、中隊にバッジが与えられ、これには決壊したダムの上に「Après moi le déluge (大洪水よ、我に続け。ルイ15世の言葉。)」と記されている。 同中隊はウォーリス技師の開発したトールボーイ、グランドスラムなどの大型爆弾を終戦まで落とし続けた。現在も中隊は活躍中である。
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作戦後
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その後、この3艦はブレストがキールに変わっただけで相変わらず空襲を受け続け、まずグナイゼナウが1942年2月26日に空襲を受けて大破、この損傷は完全に修復されたものの、1943年にバレンツ海海戦におけるドイツ海軍の敗北を聞いて激怒したヒトラーの大型艦廃艦命令によって結局廃艦となった。シャルンホルストはキールからさらにノルウェーに避退したが、1943年12月26日の北岬沖海戦で撃沈された。プリンツ・オイゲンは同じくノルウェーに避退したが潜水艦に雷撃されて中破。本国回航と修理に成功し以後バルト海にて対地支援に従事する。終戦を迎え、連合国軍に引き渡された後にビキニ原爆実験の標的艦となり、実験後曳航中に沈没した。
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