ほうげん‐の‐らん【保元の乱】
保元の乱
保元の乱
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詳細は「保元の乱」を参照 保元元年(1156年)5月、鳥羽法皇が病に倒れ、7月2日申の刻(午後4時頃)に崩御した。崇徳院は臨終の直前に見舞いに訪れたが、対面はできなかった。『古事談』によれば、法皇は側近の葉室惟方に自身の遺体を崇徳院に見せないよう言い残したという。崇徳院は憤慨して鳥羽田中殿に引き返した。法皇が崩御して程なく事態は急変する。7月5日、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という噂が流され、法皇の初七日の7月8日には、藤原忠実・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止する後白河天皇の御教書(綸旨)が諸国に下されると同時に、蔵人・高階俊成と源義朝の随兵が摂関家の正邸・東三条殿に乱入して邸宅を没官するに至った。これらの措置は、法皇の権威を盾に崇徳院・藤原頼長を抑圧していた美福門院・藤原忠通・院近臣らによる先制攻撃と考えられる。 7月9日の夜中、崇徳院は少数の側近とともに鳥羽田中殿を脱出して、洛東白河にある統子内親王の御所に押し入った。『兵範記』同日条には「上下奇と成す、親疎知らず」とあり、子の重仁親王も同行しないなど、その行動は突発的で予想外のものだった。崇徳院に対する直接的な攻撃はなかったが、すでに世間には「上皇左府同心」の噂が流れており、鳥羽にそのまま留まっていれば拘束される危険もあったため脱出を決行したと思われる。 翌10日には、藤原頼長が宇治から上洛して白河北殿に入り、崇徳院の側近である藤原教長や平家弘・源為義・平忠正などの武士が集結する。崇徳上皇方に参じた兵力は甚だ弱小であり、崇徳院は今は亡き平忠盛が重仁親王の後見だったことから、忠盛の子・清盛が味方になることに一縷の望みをかけた。重仁親王の乳母・池禅尼は上皇方の敗北を予測して、子の平頼盛に清盛と協力することを命じた(『愚管抄』)。後白河天皇方は、崇徳院の動きを「これ日来の風聞、すでに露顕する所なり」(『兵範記』7月10日条)として武士を動員し、11日未明、白河北殿へ夜襲をかける。白河北殿は炎上し、崇徳院は御所を脱出して行方をくらました。
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保元の乱
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詳細は「保元の乱」を参照 保元元年(1156年)7月2日、鳥羽法皇が崩御すると事態は急変する。7月5日、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という風聞に対応するため、京中の武士の動きを停止する措置が取られ(『兵範記』7月5日条)、法皇の初七日の7月8日には、忠実・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止する後白河天皇の御教書(綸旨)が諸国に下されると同時に、蔵人・高階俊成と源義朝の随兵が東三条殿に乱入して邸宅を没官するに至った。没官は謀反人に対する財産没収の刑であり、頼長に謀反の罪がかけられたことを意味する。氏長者が謀反人とされるのは前代未聞で、摂関家の家司・平信範はその日記『兵範記』に「子細筆端に尽くし難し」と慨嘆の念を記している(『兵範記』7月8日条)。この前後に忠実・頼長が何らかの行動を起こした様子はなく、武士の動員に成功して圧倒的優位に立った後白河・守仁陣営があからさまに挑発を開始したと考えられる。忠実・頼長は追い詰められ、もはや兵を挙げて局面を打開する以外に道はなくなった。 謀反人の烙印を押された頼長は挙兵の正当性を得るため、崇徳上皇を担ぐことを決意する。上皇方の拠点となった白河北殿には貴族では上皇の側近・藤原教長や頼長の母方の縁者である藤原盛憲・経憲の兄弟、武士では平家弘・源為義・平忠正などが集結するが、その戦力は摂関家の私兵集団に限定され、甚だ弱小で劣勢は明白だった。軍議で源為朝は高松殿への夜襲を献策したが、頼長はこれを斥けて、信実率いる興福寺の悪僧集団など大和からの援軍を待つことに決した。 天皇方は「これ日来の風聞、すでに露顕する所なり」(『兵範記』7月10日条)として武士を動員し、11日未明白河北殿へ夜襲をかける。白河北殿は炎上し、戦いは数に勝る天皇方の勝利に終わった。上皇方が総崩れとなる中、頼長は家司の藤原成隆に抱えられ騎馬で御所から脱出するが、源重貞の放った矢が頸部に刺さり重傷を負った。出血による衰弱に苦しみながら、12日嵐山方面、13日には舟で大井川(現桂川)を渡り巨椋池を経て木津へと逃亡を続け、最後の望みとして奈良に逃れていた忠実に対面を望むが拒まれ、14日に、失意の内に頸部の傷が原因で、絶命した(「保元物語」によれば頼長は舌を噛み切り自害したという)。享年37。遺骸は奈良の般若野に埋葬されたが、信西の命によって暴かれ、検視されるという恥辱を受ける羽目になった。なお、頼長の所有名義となっていた京極殿領は忠実によって再び忠通の所有として朝廷による没官は免れたが、頼長個人の所領は没官されて後白河天皇の後院領にあてがわれ、後の大荘園群である長講堂領の基軸となった。 頼長の死後、長男の師長・次男の兼長・三男の隆長・四男の範長はみな配流となり、師長を除く3名はそれぞれの配所にて死去した。唯一生き残って都に戻ることができた師長は、後に太政大臣にまで昇進するものの、今度は平清盛によって再び配流される波乱の生涯を送っている。 保元の乱が終結してしばらくの間は、頼長は罪人として扱われた。頼長を罪人とする朝廷の認識は、頼長の子の師長が帰京を許され後白河院の側近になっても変わることはなかった。しかし21年を経た安元3年(1177年)、延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀といった大事件が都で連発するに及んで、朝廷は保元の乱の怨霊による祟りと恐怖するようになる。同年8月3日、怨霊鎮魂のため、崇徳上皇の当初の追号「讃岐院」を「崇徳院」に改め、頼長には正一位・太政大臣が追贈された(『百錬抄』)。
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保元の乱
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保元元年(1156年)保元の乱が勃発し、義朝は後白河天皇側に立って参戦し、戦後は左馬頭に任じられているが、義平の動向は定かではない。
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保元の乱
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久安6年(1150年)、宗子は崇徳上皇の第一皇子・重仁親王の乳母となり、忠盛は乳父(めのと)になった。重仁親王は次期皇位の最有力候補であり即位が実現すれば、忠盛は大きな権力を手にできるはずだった。しかし仁平3年(1153年)、忠盛は公卿昇進を目前に病死した。 久寿2年(1155年)、近衛天皇が崩御した。後継天皇は信西の画策により、重仁親王ではなく雅仁親王(後白河天皇)が指名され、政情は大きく変化する。保元元年(1156年)、鳥羽法皇崩御により保元の乱が勃発すると、忠盛・宗子が重仁親王を後見する立場にあったことから平氏一門は難しい立場に立たされた。宗子は「コノ事ハ一定新院ノ御方ハマケナンズ。勝ツベキヤウモナキ次第ナリ」と崇徳上皇方の敗北を予測して、頼盛に「ヒシト兄ノ清盛ニツキテアレ」と協力することを命じた。この決断により平氏は一族の分裂を回避し、今まで築き上げてきた勢力を保持することに成功した。 保元の乱の後、頼盛は兄・教盛とともに昇殿を果たす。清盛が乱の功績により播磨守になったことで、頼盛は清盛の知行国・安芸国の受領となった。頼盛自身の知行国・常陸国の受領には代わりに兄・経盛が任じられる。教盛は淡路守であり、平氏は兄弟で4つの知行国を確保した。 保元2年(1157年)になると信西は大内裏の再建を行い、頼盛は貞観殿の造営を担当したことで従四位下に叙せられる。翌保元3年(1158年)8月には2回目の常陸介となり、10月には藤原顕長と知行国を交換して三河守となった。この年には清盛の長子・重盛も遠江守となっている。頼盛と重盛は叔父と甥だったが5歳の年齢差で、ほぼ同年代といってよかった。平氏は清盛が棟梁として全体を取りまとめ、頼盛・重盛が屋台骨を支える形となった。
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保元の乱
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詳細は「保元の乱」を参照 保元元年(1156年)7月の保元の乱の際に崇徳上皇方の父・為義、弟の頼賢・為朝らと袂を分かち、後白河天皇方として東国武士団を率いて参陣した。平清盛と共に作戦の場に召された義朝は先制攻撃・夜襲を主張し、頭をかきむしりながら信西と共に躊躇する関白・藤原忠通に対して決断を迫った。攻撃の命が下ると、義朝は「(坂東での)私合戦では朝家の咎めを恐れ、思うようにならなかったが、今度の戦は追討の宣旨を受け、心置きなく戦う事が出来る」と官軍として赴く事に喜び勇んで出陣し、戦況を逐一報告するなど後白河方の中核となって戦った。 乱は後白河天皇方が勝利し、敗者となった為義は義朝の元に出頭した。『保元物語』には、義朝が自身の戦功に替えて父の助命を訴えたが、信西によって却下され、父や幼い弟達を斬る事になる悲劇的な場面が詳しく描かれている。7月30日、船岡山村の辺りで為義とその子らは義朝の手により処刑された。父を殺した義朝は「ヲヤノクビ切ツ」と世の誹りを受けたという。 乱後、恩賞として右馬権頭に任じられるが、不足を申し立てたため左馬頭となる。義朝の助命嘆願にもかかわらず為義・頼賢ら親兄弟の多くが処刑され、また左馬頭任官ですらも清盛と平家一門への待遇と比べて相当見劣りすることから大いに不満を持ったとも言われていた。 しかし清盛は少年の頃より親王にも等しい待遇を受け、11歳で元服と同時に叙爵されて従五位下、17歳にして既に従四位下にまで官位を上げ保元の乱の10年も前に正四位下となり公卿の地位の一歩手前にまで達しており、対して保元の乱の直前に叙爵されて従五位下・下野守となりようやく受領レベルとなった義朝の地位にはもともと大きな開きがあり、恩賞の差に不満を抱いたという説明はあまり妥当とはいえない。また左馬頭はその位階以上に武門にとってはそれこそ武士の棟梁にも比されるほどの重要な官位であるから、それへの任官は妥当、むしろ破格な恩賞であるという意見も近年では提示されている。また為義の処刑はあくまでも彼らを謀反人と断じた朝廷の裁決であり、清盛もまた敵側についた同族を朝命により処刑しており、このことへの義朝の不満が平治の乱につながったという見方にも疑問が呈されている。その一方で、平将門の乱における藤原秀郷や前九年の役の源頼義などの例から、謀反の鎮圧に対する武家への恩賞は現在の本人の官位に関わらず「越階」「希望する国の受領への任命」「子弟・郎党に対する官位の授与」とするのが先例として成立しており、義朝もその先例に倣って四位への越階や豊かな国の受領への任命、長男の義平らに対する任官は期待していた筈で、それらを何も得られなかった以上、むしろ冷遇された恩賞であったとする反論も出されている。
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保元の乱
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詳細は「保元の乱」を参照 そのような中で久寿2年(1155年)に近衛天皇が崩御し、後継天皇を決める王者議定が開かれる。候補としては重仁親王が最有力だったが、美福門院のもう一人の養子である守仁親王(後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁親王が立太子しないまま29歳で即位することになった(後白河天皇)。守仁親王はまだ年少であり、存命中である実父の雅仁親王を飛び越えての即位は如何なものかとの声が上がったためだった。 突然の雅仁親王擁立の背景には、雅仁親王を養育していた信西の策動があったと推測される。保元元年(1156年)7月、鳥羽法皇が崩御すると信西はその葬儀を取り仕切り、直後の保元の乱では対立勢力である崇徳上皇・藤原頼長を挙兵に追い込み、源義朝の夜襲の献策を積極採用して後白河天皇方に勝利をもたらした。 乱後、信西は薬子の変を最後に公的には行われていなかった死刑を復活させて、源為義らの武士を処断した。また、摂関家の弱体化と天皇親政を進め、保元新制を定め、記録荘園券契所を再興して荘園の整理を行うなど、絶大な権力を振るう。また、大内裏の再建や相撲節会の復活なども信西の手腕によるところが大きかった。 この政策を行なう上で、信西は自分の息子たちを要職に就けた。そのことが旧来の院近臣や貴族の反感を買った。また、強引な政治の刷新は反発を招いた。一方、保元3年(1158年)8月には鳥羽法皇が本来の皇位継承者であるとした二条天皇が即位する。この皇位継承は「仏と仏との評定」、すなわち美福門院と信西の協議で行われた。この二条天皇の即位に伴い、信西も天皇の側近に自分の子を送り込むが、今度はそのことが天皇側近の反感を招き、院近臣、天皇側近双方に「反信西」の動きが生じるようになった。
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保元の乱
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翌保元元年(1156年)、鳥羽法皇が崩御すると、治天の君の座を巡って対立していた崇徳上皇と後白河天皇の衝突は避けられない情勢になっていた。双方が名だたる武士をそれぞれの陣営に招くなか、為朝の父・為義は上皇方の大将として招かれる。老齢を理由に再三これを辞したものの、遂には承諾させられ、為朝ら6人の子を引連れて崇徳上皇の御所白河北殿に参上した。一方、為義の嫡男で坂東を地盤としていた義朝は多くの東国武士とともに天皇方へ参じた。 為朝は三尺五寸の太刀を差し、五人張りの強弓を持って西河原面の門を守った。7月11日、軍議が開かれ、為朝は「九州で多くの合戦をしましたが夜討に勝るものはありません。ただちに高松殿(天皇方の本営)へ攻め寄せ、火を放てば容易に勝てましょう。兄の義朝が出てくれば私が射落としますし、清盛なぞは敵にもなりません。逃げ出してくる主上の駕車の人夫を射散らして、主上をお連れすればよろしい」と夜討を献策するが、左大臣・藤原頼長は「乱暴なことを言うな。夜討などは武士同士の私戦ですることだ。主上と上皇の国を巡る戦いである。興福寺の僧兵の到着を待って決戦するべし」と退けてしまった。為朝は兄の義朝は必ず夜討をしかけてくるだろうと予見して口惜しがった。 その夜、為朝の予見通りに天皇方が白河北殿に夜討をかけてきた。為朝を宥めるために急ぎ除目を行い蔵人に任じるが、為朝は「もとの鎮西八郎でけっこう」と跳ね付けた。なお、『愚管抄』では夜襲を献策した人物を為朝ではなく父の為義としている。 平清盛の軍勢が為朝の守る西門に攻めてきた。清盛の郎党伊藤景綱とその子忠景(忠清)・忠直が名乗りをあげると為朝は「清盛ですら物足りないのに、お前らなぞ相手にならん、退け」と言う。景綱が「下郎の矢を受けてみよ」と矢を放つ。為朝はものともせず「物足りない敵だが、今生の面目にせよ」と先が七寸五分(22センチ)もある、鑿に矢軸をつけたような太矢を射かけ、矢は忠直の体を貫き、後ろの忠清の鎧の袖に突き刺さった。忠清は矢を清盛のもとに持ち帰って報告し、清盛たちは驚愕して怖気づいてしまう。清盛は部署を変えて北門へ向かうが、嫡男の平重盛が口惜しいことだと挑もうとして清盛があわてて止めさせた。 剛の者の伊賀国の住人山田伊行は矢一本で引き退くのは口惜しいと思い、進み出て名乗りをあげて射かけるが、一の矢を損じ、二の矢をつがえるところを為朝に射落とされてしまった。 清盛に代わって兄の義朝の手勢が攻め寄せ、郎党の鎌田政清が進み出で名乗りを上げた。為朝は「主人の前から立ち去れ」と言い返すが、政清は「主人ではあったが、今は違勅の凶徒」と言うや矢を放ち、為朝の兜に当たる。これに為朝は激怒して「お前なぞ矢の無駄だ、手打ちにしてくれる」と鎮西の強者28騎を率いて斬り込みをかけ、政清は敵わずと逃げ出し、「これほどの敵には遭ったことがございません」と義朝に報告した。義朝は「馬上の技は坂東武者の方が上である」と坂東武者200騎を率いて攻めかかり乱戦となった。 義朝は「勅命である、退散せよ」と大声をあげるが、為朝は「こちらは院宣をお受けしている」と言い返した。義朝は「兄に弓を引けば神仏の加護を失うぞ」と言うと、為朝は「では、父(為義)に弓を引くことはどうなのか」と言い返し、義朝は言葉に窮してしまった。再び乱戦になり、無勢の為朝はいったん門内に兵を引くが、義朝勢は追撃にかかる。義朝の姿を確認した為朝は射ようとするが、よもや父と兄とに密契があるかもしれんと思いとどまった。 接戦となると無勢の為朝は不利であり、大将の義朝を威嚇して退かせようと考えた。狙い誤らず、為朝の矢は義朝の兜の星を射削る。義朝は「聞き及んでいたが、やはり乱暴な奴だ」と言うや、為朝は「お許しいただければ二の矢をお見舞いしましょう。どこぞなりと当てて見せます」と言って矢をつがえる。とっさに、深巣清国が間に割って入り、為朝はこれを射殺した。 大庭景義・景親の兄弟が挑みかかるが、為朝は試にと鏑矢を放ち、景義の左の膝を砕き、景親は落馬した兄を助け上げて逃げ帰った。後に源頼朝に仕えて御家人になった景義は酒宴でこの合戦について、為朝は無双の弓矢の達者だが、身の丈よりも大きい弓を使い馬上での扱いに慣れずに狙いを誤ったのだろうと語っている。 義朝の坂東武者と為朝の鎮西武者との間で火が出るほどの戦いが繰り返されたが、為朝の28騎のうち23騎が討ち死にしてしまった。一方、坂東武者も53騎が討たれている。 他の門でも激戦が続き、勝敗は容易に決しなかった。義朝は内裏へ使者を送り火攻めの勅許を求め、後白河天皇はこれを許した。火がかけられ風にあおられて、白河北殿はたちまち炎上。崇徳上皇方は大混乱に陥り、上皇と藤原頼長は脱出。為義、頼賢、為朝ら武士たちも各々落ちた。 為義は息子たちと共に東国での再挙を図るが、老体であり気弱になり、出家して降伏することに決めた。「義朝が勲功に代えても父や弟たちを助けるだろう」と為義は希望を持つが、為朝は反対してあくまでの東国へ落ちることを主張する。結局、為義は出頭して降伏する。しかし、為義は許されず、息子たちも捕えられ、勅命により義朝によって斬首されてしまった。 為朝は逃亡を続け近江国坂田(滋賀県坂田郡)の地に隠れた。病に罹り、湯治をしていたところ、密告があり湯屋で佐渡重貞の手勢に囲まれ、真っ裸であり抵抗もできず捕えられた。京へ護送された時には、名高い勇者を一目見ようと群衆が集まり、天皇までが見物に行幸した。 既に戦後処理も一段落しており、為朝は武勇を惜しまれて助命され、8月26日に肘を外し自慢の弓を射ることができないようにされてから伊豆大島に流刑となった。だが元木泰雄は、強弓を惜しまれて減刑されたという話はにわかには信じがたく、合戦直後の混乱と興奮の中で多くの死刑が執行されてから一月が経ち、朝廷も冷静な空気が高まり死刑に対する非難が強まったことが関係したのだろうと推測している。
※この「保元の乱」の解説は、「源為朝」の解説の一部です。
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